FB 2月1日(金)より  能登島

 
 
 
 
2月1日(金)

佐波の海岸。タブと寺島。

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然、水
 

途中でのとじま水族館へ寄った。ほぼ30年前、能登島町史の調査に入っていた頃、水族館に勤めている人たちと祭の呼ばれで一緒になり、のちにイルカショーを見た記憶はあるが、今日見たのは全く別世界で、たまげた。
帰ってTVニュースを見ていたら、11時~14時ダイオウイカリュウグウノツカイを見せる、が流れたいた。結構入場者がいるなァ-と見たのはそのせいだったのだ。この写真は11時6分。

画像に含まれている可能性があるもの:海、空、植物、雲、屋外、自然、水
 

引き続き。
箱名の入江。典型的な石垣田。
町史調査時はコンクリートが全て石垣だった。
向こう側に石垣の名残が見える。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、植物、屋外、自然、水
 
 
  • 西山 郷史 石垣です。能登島の入江は浅いので、石垣を積んで海水を汲んで外海に移すか干して、田にしたものです。藩政期収穫をあげるため各地で行われたようですが、その典型的な姿がここではみられます。30年前の写真を探せばあるはずですけど…。
    菊池進 はじめまして。
    懐かしい場所です。
    叔母夫婦が営むペンション(曲町)の近くなので、遊びに行ったとき、よく水族館側のぬかるみを抜けて崎の方まで行っていました。...
 
 

今日の本―『島田の帯まつり』吉川祐子氏、『宗教民俗研究』第29号ー五来重の学問を語る(特集)など

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『島田の帯まつり―寝る・舞う・奴振り・踊る』。吉川祐子さんより。見るなり吉川さんやったね、と思った。吉川さんの調査報告は的確で読みやすく、文の見本だと思っている。どういうテーマであれ、形にして次につなげていって欲しいと思っている。礼状、令メール。


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卑弥呼』。「能登」35号の「能登文学紀行」に芝雪さんが書いておられ、興味を持ったので古書店から購入。能登に触れた感動の文があるのにその本を持っていないのもどうかな・・・と買った。

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『宗教民俗研究』第29号。執筆者、豊島・根井・山田・吉川・西海、とんで加藤さんは少なくとも1度以上調査や研修を共にした方々。読まなくてはなるまい。そしたら次々に思い出に繋がっていくに違いない。

 

福井・吉崎 嫁おどし肉附き面―藤島秀隆氏―蓮如忌参考資料

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嫁おどしの段。教行社版蓮如上人絵伝。二幅目。


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ファイルを広げたら古い新聞記事が出てきた。裏はスポーツ面でダイエー単独首位などの記事が並んでいる、それらから日を特定した。藤島さんとは彼が加能民俗の会会長の時、私は副会長を務め、共に辞した。懐かしいし、また説話が専門なので詳しく取材し内容も要を得た素晴らしいものだ。こういう記事こそ残しておかなければならない。敢えてここに取り上げた。


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藤島秀隆 北陸伝説の旅 福井・吉崎伝説の旅 北國新聞


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蓮如上人と伝承』(西山著、1998年12月25日、金沢別院刊、2001年4月1日2刷。


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蓮如上人と伝承』に利用した刷り一紙


北陸 伝説の旅
福井・吉崎 嫁おどし肉附き面
藤島秀隆

嫁と姑の葛藤に蓮如上人の霊験
        北國文化   平成6年(1996年)6月12日「北國新聞

[本文]

 蓮如上人が比叡山衆徒の弾圧にもめげず近江から北陸地方へと遊化して、新たに布教活動の拠点と定めた越前国坂井郡吉崎の地に吉崎御坊を建立したのは、文明三年(一四七一)七月であり、四年後の文明七年(一四七五)八月には吉崎を退去している。布教活動の結果、越前・加賀一帯に浄土真宗が広まった。吉崎の嫁おどし、別名肉附き面ともいわれる伝説は本願寺信仰の中ではぐくまれた蓮如上人の功徳を語る説教話として伝承されている。
 福井県金津町吉崎の浄土真宗大谷派願慶寺蔵の「嫁威肉附面略縁記」はこの嫁おどし肉附き面の伝説を一冊にした整版とその刷本であるが、あら筋は次の通りである。

食まば食め

 文明年中、蓮如上人が吉崎山に在住のみぎり、十楽(じゆうらく)村に与三次(よそじ)という農民が住んでいた。先祖は日山(ひやま)城主の日山治部右衛門の家臣吉田源之進であり、落城後、十楽村にとどまり農民となった。与一次の妻は清といい、男の子が二人いたが、与三次と二子は相次いで病死してしまった。その後、妻の清は無常を感じ蓮如上人の勧化(かんげ)を受けた。邪見な心の姑は嫁の吉崎参りをやめさせようと、祖先伝来の鬼の面をかぶり、白いかたびらを着て往来のものすごい小谷(おだに)で特ち伏せ脅かした。嫁は「食まば食め喰わば喰え金剛の他力の信はよもや食むまじ」と口ずさみ、念仏を唱え吉崎へ向かった。失敗した姑は帰宅後、面を取ろうとしたが、面は顔にひっつき痛くて取れない。自害しようとしても手足がしびれて動けない。帰宅した嫁に告白し、嫁に勧められて「南無阿弥陀仏」と唱えると、面は落ち、手足も自由になった.、姑はざんげし、嫁とともに蓮如上人の勧化聴聞して、無二の信者となった。その後、肉附き面は願慶寺の開基祐念坊に授けられ、以来当寺に所蔵されている。また小谷は「嫁おどしの谷」と名付けられた。

 

 さて、本話の特徴を列挙すると第一に出来事の時期を蓮如上人が吉崎滞在中のこととし、真実性を強調している。

第二に先祖の紹介に次いで夫と、子の病没が語られ、話の核はは信心深い嫁と信心嫌いの姑の対立や葛藤に重点が置かれている。第三に鬼の面は祖先伝来と記し武士の子孫らしさを出している、第四に嫁の清は信仰によって意志が強く、鬼女姿の姑に出会っても恐れていない。それは唱え言葉「食まば食め・・・」の実践にある。私の手もとには、石川県内で採集された「肉附き面」の類話が二十話あるが、いずれにも必ず唱え言葉が語られている。そしてこの唱え言葉の文献上の初見が右に掲げた願慶寺の「縁記」である。

第五に願慶寺では今日に至るまで代々の住職によって「肉附き面」の説教と寺宝の肉附き面の展示が行われており、その結果、真宗の伝播とともに本話は広まったといえよう。したがって本話の筋書きが現代の口承文芸に多大な影響を与えている。

全国21県に流布

 願慶寺発行の縁起によれば、慶長十六年(一六一一)に開版されて以来、この伝説の改版・改刻は、昭和五十九年までに四千版に達している。この版本や住職の語った内容は吉崎蓮如忌及び願慶寺に参詣した人びとによって全国各地に運ばれ語られてきたのである。そしてこの伝承は実に青森から鹿児島まで二十一県に流布している。中でも約三百年の歴史を持つ岐阜県真正町の真桑文楽は毎年三月に「嫁おどしの段」を上演しており、この伝説を今に伝える貴重な芸能である。
            (ふじしま・ひでたか 金沢工大教授)

蓮如忌に向けて―絵解き・嫁おどしの段資料

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奈良県吉野郡昔話集』國學院説話研究会編 昭和58年 ガリ版


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左近の桜。この桜は見た通り緑の花。おひな様の向かって右に植わっている桜である。


蓮如忌は雪国の春を強く意識した行事である。

場所によっては、山行き・ピクニックがあり、境内には桜が満開、本堂を桜に見立てた模造品を柱に撒くところもある。

当寺のシダレザクラ若木は、そろそろ葉桜になってきたので25日とズレるが、そのころ左近の桜が咲くところがあるので、いただいてきて飾るつもり。

 

蓮如上人関係の法宝物を、虫干しも兼ねて展示し解説する。

 

絵伝の中心を、今年は嫁おどしの段、鬼面は何をあらわしているのか、を問うてみたい。

鬼面は舞楽で用いていた面あるいは能面で、能面を所蔵する宮は白山、八幡(千葉乗隆解説本)として伝わっている。

先日、何の気なしに『奈良県吉野郡昔話集』(國學院大學説話研究会編、ガリ版、昭和58年刊)を手に取ってみたら、「嫁おどし話」が「肉付面」の題で四話載っていた。

吉野までいくと話の舞台などがかなり違っており、面白いのだ。

しかも、どうしてなのか昔話の分類が「笑い話」なのである。

これは、紹介しなければならない、と思ったので整理し、プリントをお配りすることにしたい。

 同大学が調査刊行した『滋賀県湖北昔話集』には相当数の「肉付き面」話が載っているが、そこまで分析すると論文になってしまうので滋賀県はカット。

 

以下

吉野郡の「肉付面」話
肉付面―1

お婆ちゃん、よその国のしらんで。もうお嫁さんとな、お嫁さんを憎んで憎んでな.嫁さんはその信心家でなかなかな、いうて.お婆ちゃんに参りょうて言うたらな、ぶつけ歩いてな帰らんのですってほいて、お嫁さんがはなや、まあ山ずーっと道参るわな、山ん中通って。そしたら、竹やぶがあるんやて。なんだしゅつな、その竹藪でね、お婆ちゃんがな鬼の面かぶって(不明)竹槍持ってな、お嫁さんを突こうとしてこないに出てきたんやと、ほんけに。ほしたら、そのお嫁さん偉いな。その人のな、ほな手を合わせて「お母さん、なになさるんです」
言うたらな、目り前にな、言うたら阿弥陀如来さんちゅうんですわの。私たちの宗旨はは阿弥陀如来さん、その如来さんが現れてね。その、なにして、ほいで、その説教をせられた。てなこと聞きましたわな、
いうたら、その嫁のをかわいそうだと思おうてな、如来さんが、その婆をかえてな、嫁のかえてな、そいであわしたんやと。それでもな、なかなか直らなんだ。ほいでお婆ちゃん家に帰ってね、ほいで面かぶったまま帰りますやろ。ほいで、家に帰って取ろうて思っても、どないしても取れんのらしいね、肉が村いてね。ほして嫁さんに取ってくれってな。そして、お嫁さんがなえ、なんやてのお母さんどないしても取れないってな、そのなにしてな、肉付面といいましたわな.
天川村 菊谷タケ)     P47
話者情報 大字和田 明治42年2月 出身地中谷 

肉付面-2
 あれは、信州の方と違うかな。牛に引かれて善光寺参りとかゆう時、そんな話あったような気しますな。お寺さんで聞くんやね。説教師が来られた時にね。お嫁さんと。その仲の悪いお嫁さんがね、信心家でお寺に参っとって。ほして、来たら道帰ってくるのを脅かしていたらもう縁は来ない、と思って、隠れて出てったら、お嫁さんが脅かした。その罰に面が顔に付いたんが取れなんだんて。肉付面ゆうてな、その面が引っ付いたんやってゆうことは、お寺さんでオッショさんに聞きましたよ。 (天川村 森脇スエ)大字栃尾 明治27年10月10日 栃尾出身
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肉付面-3
 あの、なんのなあ。越前のあれは聞いたけどなあ。越前の国のお寺、永平寺か。そこで、嫁さんが信心してお寺参りするのに、そのお婆さんがそうゆうの嫌いで。そしてあの、お寺参り参って。
で、嫁さんが寺へ参んの邪魔しようと思って、鬼の面被って脅したってゆうたなあ。そしたら、それが取れないんで、それ肉付いたら剥げて、それで肉付の面てゆうて、永平寺にあるってゆうことは聞いたけど。越前の永平寺ってゆう所(とこ)。
天川村 中谷よしえ) 大字坪内 明治35年1月6日 坪内生  48

肉付面-4
 お婆さんがね、お嫁さんを憎んで憎んでね。そんで、お婆さんがお寺参りばかりするんやけど。
そのお婆さんがお寺に参っても、その自分の根性が直られへんもんで。
ほんで、そのお嫁さんがそのお寺へ行って、なんとかそのお婆さんがもう少し優しゅうなってもらおうと思うて、お婆さん目盗んでね、お寺へ毎夜毎夜、夜更けてからあのお参りしとったら、ある夜その、お婆さんが考えて、」毎晩毎晩あんな時間、男でも拵えて出てくんやかしらん、と思って。まあ、お婆さん考えとった

ところが、どうもお寺行くふうで。ほんで、お寺へ上(のぼ)ってここの谷の所(とこ)で、自分は鬼の面拵(こしら)えて、そでこう被って嫁が帰ってくる時にそれ下ろしてな、怖いことゆうて。そいで、そのしとったらしいな。そしたら、その嫁さんが、あの、「お声を聞いたら、鬼のお声と違う」ゆうて
「家のお母さんのお声によう似てはるお声をしとるけれども、お母さん、私ですよ。許してください」
てゆうてな、そのお嫁さんが頼んでも、そのお母さんがね、
「そんな馬鹿なことあらへん、わしは鬼や。おまえの根性、叩き直してやる」
って、こうして出てきた。
「これから、きっとお母さんに従うか。従うんやったらこの場で許すけど、従わんのやったら
毎晩毎晩ここへ出てきて、おまえを苛(いじ)める」
っちゅうて、こないゆうた。
ほうたら、その嫁さんがお婆さん探して、おれへんので、あれはきっと家(うち)のお母さんに違いない、わしが悪かったと思うて、お料理拵えて、ほで向(むこ)行って、(不明)そいで、なんべんもなんべんも手付いて
「許してくれ、許してくれ」って、
「もうこれ以上、迷惑かけヘんよって勘弁してください」って。
そしたら、お婆さんが大きい声で高笑いしてな。
ほで、
「それは、本当のことばかり」ってゆうたら、その嫁さんがね、
「わしは、了見が違(ちご)うた」
っちゅうて謝まってんけど、お婆さんがなにかゆうたやろな。それで、その面を取ろうと思うたら引っ付いてしもうて取れへんで、その面は、そいで、いつまでもそのお婆さんは鬼の面が付いたまま、おったってね。その鬼の面は、福井県の越前海岸からちょっと入いった所になんとかいうお寺があるわな、そこ行ったら肉付の面やってゆうて置いてあったわ。そこのお婆ちゃんが説朗してくれてな、そこで聞いたんや。
(川上村 中井浜子)   大字 高原 生地同じ 明治36年2月28日
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FB整理

蓮能尼の里に咲く「左近の桜」


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左近の桜

    

 


 

このFBとブログ:能登のうみやまブシの関係を模索してきましたが、FBの方は5月から「友達」に限定いたします。

記事そのものは「能登のうみやまブシ=西山郷史」に継続していきますので、もしご関心がおありでしたら、以下で御覧下さい。

能登のうみやまブシ=西山郷史

 
 
なお、能登のうみやまブシで検索すると、現段階では「能登のうみやまブシ(西山郷史)」(2005年11月~2019年1月26日)http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/
に繋がる場合が多いようですが、新ブログは=西山郷史です。
能登のうみやまブシ=西山郷史https://umiyamabusi.hatenadiary.com
 は、2005年から今までをフォローしています。

このところの書籍 

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受賞歴あっても 20を超す大学不採用―若手研究者は追い込まれていった(1面)ずっと研究していたかった(33面)~朝日新聞 ―参照


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講義に適宜な分量、喩えにいい物があるのではないかと思い購入


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『改訂新版大谷派本願寺 伝統行事』川島眞量著・川嶋正編 2019年4月20日法藏館から


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『生と死のことば 中国の名言を読む』川合康三 岩波新書 2017年10月刊 蟋蟀堂に入り・・・があって購入。


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『石川県輪島漆芸美術館 所蔵品図録』2018

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親鸞随想 その精神と風土』森竜吉 三一書房 1972年刊


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愚禿鈔講義録』(十九)宗正元

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『知られざる親鸞松尾剛次平凡社新書。松尾さんとは近世仏教研究会合宿(三河か金沢)の折、ご一緒したことがある、その頃は確か山形大助教授だった。


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『岩崎航エッセイ集 日付の大きいカレンダー』ナナロク社


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親鸞 その思想史 日本の精神的伝統をさぐる』森竜吉 三一新書


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海恵宏樹『仏の智慧に生きる―苦しみが感謝に変わる教え―』北國新聞社

 海恵宏樹(かいえ・こうじゅ)
1934(昭和9)年石川県生まれ。1958(昭和33)年京都大学文学部(仏教学専攻)卒業。

1961~63(昭和36~38)年ビルマ国IIABS(国際高等仏教学研究所)で仏教研究に従事。

1964(昭和39)年京都大学大学院中退。
1966(昭和41)年真宗大谷派存立寺住職となり現在に至る。

著書に『無碍光』(1984年、北国出版社〉、『聞光』(1
987年、北国出版社)、『人の知恵から仏の智慧へ上・下』
0(1994年、北國新聞社)。

※本著に載る著書の紹介。ここには載っていないが、私が初任(羽咋工業高校)の時、海恵さんは近くの高校教師をなさっており何度か尊顔を拝したことがある。時は流れて哲学者・戸坂順取材の時、同郷でもあり京大哲学を出ておいでることもあり、お寺に訪ねた(聞いた話は『妙好人千代尼』に生かした)。戸坂と能登町出身の西谷啓治氏は同級生だったが、―西谷氏が破防法で獄中でなくなった戸坂、同じ年、三木清が獄中で、二人の師である西田幾多郞も世を去っているー授業中その他でも戸坂に触れることはなかったとおっしゃっていた。

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ブログのURLが変わり、そのため、FB・ツイッターに表現出来るように、次々文を書いてきた。

少し表現出来るようになってきたので、たまった本を読まなければならない。

近々、方向を変えようと思っている。

 

 

ご縁―吉田清さんの著作

ご縁。

谷大大学院時代可愛がってもらった佐々木孝正さん(当時助手)が、調査や学会のお供をする度に、同級生の吉田清さん、木村至宏さんのことを語られた。

例えば練り供養を見学に行くと、「吉田はね~ととらえていた、」とか、近江の古寺を歩くと、「学生の頃木村に案内されて行った時は~」とか、そのあたりに彼らがいるように話されたものだった。

佐々木さんは大谷大助教授だった48歳の昭和59年6月、自転車にはねられた傷が元で還帰されたが、吉田さん、木村さんも、佐々木さんから西山君はね~、と聞いていたらしく、ほとんどお会いする環境ではなかったにも関わらず、

 懐かしいねぇ・・・と親しく言って下さる。

ご縁ーというのは、その吉田さんのお嬢さんが、近くに嫁いでこられ、時々、お嬢さんを通して吉田さんの執筆なされた本をいただく。

数日前にも、一冊いただいたのでお嫁に来られる前からいただいていた本を含め見直した。

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吉田清著作集

『初心者のための宗教民俗学入門 日本人の一生』上・下本などは、民俗学に志すような人、大学での一般教養の教科書として大いに利用されなければならない名著だと思う。

 

ちなみに『五来重著作集』全12巻の月報にお二方+私は次の文を書いている。


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第1巻、日本仏教民俗学の構築(解説=鈴木昭英)※日本宗教民俗学会代表・修験道

1仏教民俗学の提唱
2仏教民浴学の方法請
3仏教民浴学の回顧

 

第2巻、聖の系譜と庶民仏教(解説=伊藤唯真) ※仏教大学名誉教授 ※浄土宗

高野聖
善光寺まいり

第3巻、日本人の死生観と葬墓史(解説=赤田光男) ※帝塚山大学教授・アニミズム

1日本人の死生観・他界観
2葬法と葬儀
3墓と供養

第4巻、寺社縁起と伝承文化(解説=福田晃) ※立命館大名誉教授・説話 

1寺社縁起
2縁起絵巻
3仏教文学
4伝承文化

[月報4]

○五来先生との出合い…木村至宏 成安造形大学長・近江学

第5巻、修験道の修行と宗教民俗(解説=宮家準)※慶応大名誉教授・修験道

はじめに
1修行
2遍路と修験
3木食・念仏と修験
4修行のあかし一験競べ
5聖火・聖と宗教民俗
おわりに

第6巻、修験道霊山の歴史と信仰(解説=鈴木昭英) ※(前出)

1Ⅰ近畿霊山の山岳信仰修験道
2諸国霊山九峰の修験道と信仰
修験道文化・伝承論

[月報6]

能登の海と五来先生…西山郷史 ※元珠洲焼資料館館長・真宗民俗・能登.、私

第7巻、民間芸能史(解説=山路興造) ※民俗芸能学会代表・中世芸能

踊念仏と風流
2民間芸能の諸相
3芸能史と民間芸能

○五来先生の門下生から…吉田清 ※花園大名誉教授・真宗民俗・善光寺まいり解説

第8巻、宗教歳時史(解説=藤井正雄)※大正大名誉教授・先祖祭祀

1宗教歳時記
2歳時記の宗教行事〈解説〉
3年中行事と宗教民俗学

第9巻、庶民信仰と日本文化(解説=小松和彦) ※国際日本文化センター教授・陰陽道・妖怪

元興寺極楽坊と中世庶民信仰
2庶民信仰の論理皿
3付論

第10巻、木食遊行聖の宗教活動と系譜(解説=伊藤唯真) ※(前出)

1弾誓の宗教体系
円空の造像の軌跡
3木喰の造像の軌跡

第11巻、葬と供養・上(解説=赤田光夫)※(前出)

1葬法論一凶霊魂と鎮魂
2葬具論一その宗教的観念

第12巻、葬と供養・下(解説=赤田光夫)

2葬具論一その宗教的観念
3葬儀論1一臨終儀礼
4葬儀論2一殯飲儀礼

別巻年譜・著作団録・全巻索引

 



「権術を弄さず野心は抱かず―最後の加賀藩主のつぶやき―」徳田寿秋氏

4月16日(火)、徳田さんからご恵贈いただいた。

 

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いただいた著書の表紙を葉書いっぱいに印刷し、表にちょっとした印象、近況を書いて取りあえずのお礼状にしている。文末はほとんど出会いを感謝する「合掌」気分で、今回は草々と書いた。


 

 お礼の文

 季節は桜を満開にし、新たな時が巡ってきたことを教えてくれます。

この度は素晴らしい 御著書有難う御座いました。手に取らせていただき感嘆のため息と共に、図書館・書店そして私個人にも「徳田寿秋」コーナーがいるなァの思いと、「徳田学」があり、そのご本人がさらに広め・深めておいでるのだと、ただ、ただ頭が下がります。

同時代に徳田先生のような方と出会えたことは有難いことです。

私の方は能登の先端で、益々目先だけに動かされる生活をしておりますが、御著書を励みとして少しでも広い視野に歩めたらと思います。

本当に有難う御座いました。草々。

 

著者 徳田寿秋(とくだとしあき
昭和16年(1941)石川県野々市市押野生まれ。

同39年・金沢大学法文学部史学科卒。高等学校教諭、県教委事務局職員・金沢錦丘高校長、金沢泉丘高校長などを歴任。

平成14年(2002)3月定年退職後、19年3月まで石川県立歴史博物館長

現在・石川県観光スペシャルガイド、石川県教育文化会議副理事長、野々市市文化財保護審議会会長など。

著書に『加賀藩における幕末維新期の動向』(平成14年刊)『前田慶寧と幕末維新』(同19年刊)『海を渡ったサムライたち』(同23年刊)『軍艦発機丸と加賀藩の俊傑たち』(平成27年刊)がある。平成20年泉鏡花記念金沢市文学賞、平成21年全国新聞社出版協議会ふるさと自費出版優秀賞、

平成26年瑞宝小綬章拝受、平成28年北國文化賞受賞。

 ※著書紹介より

『言海』大槻文彦、高田宏 『言葉の海へ』、書評・倉本四郎氏、『雪古九谷』カバー装画・西のぼる氏

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倉本四郎『出現する書物 ポスト・ブックレビュー』昭和55年11月冬樹社刊


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高田宏『雪古九谷』2001年1月学陽書房刊。装丁・西のぼる氏


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高田宏『言葉の海へ』昭和53年新潮社刊。大佛次郎亀井勝一郎賞を受賞。



義祖母の形見だった『言海』。

形見だということが分かったのは4月15日に書いたブログ「歌人の系譜・・・」を調べていた折のことだった。

ところが、「週刊ポスト」ポストブックレビューを書いていた義兄・倉本四郎さんが、『言海』を扱った高田宏の名著『言葉の海』を取り上げていたのだ。

 

四郎さんが、ブックレビューに関わったのは、1976年5月7日号~1997年9月5日号の21年間、ほぼ1000冊の3ページ書評をなさった。それこそ多くの作家たちと語り合ったのに、私は島尾敏雄(『死の棘』)と高田宏を語った四郎さんの声や表情を思い出す。

高田宏氏については、同じ石川だから出会う機会があったら大切にしろよ(誠実な作家で)得るところが多いだろうから・・・とサラーっとおっしゃり、それがこころに染みこんでいる。

 高田さんとお会いすることは無かったが、白山麓の白峰望岳苑で講義や信仰の地の散策引率を行うことが時々あり、その望岳苑に並んで白山麓僻村塾という施設があり、そこで高田宏さんが塾の教授をしていると聞いたり、

中高校の同級生で、著名な挿絵画家・西のぼる君が装丁したのでと、恵贈いただいた文庫本が『雪古九谷』(学陽書房)という高田宏著であったり、身近に感じてはいたのだ。

 

四郎さんの書評は、4冊の本になっている。

『出現する書物』昭和56年冬樹社刊、250冊余から35編。本人取捨

『本の宇宙あるいはリリパットの遊泳』1986年2月10日、平凡社刊。1年50冊、10年500冊取り上げた折、36編本人取捨

『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上』

帯「声!声!声!本を語る悦ばしき声が響き合う 書評界の鬼才・倉本四郎の魅惑的ブックレビュー 「週間ポスト」の人気ロングラン書評を集成!」2008年7月22日刊、右文書院。1976年~1985年 この間の464冊書評中44冊採録。選者は本書編集の渡邉裕之氏

『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 下』

2010年4月26日刊。1986年~1997年 534冊中35冊所収。

 

※西山注ー冊数は週刊誌の号数であって、中には2冊取り上げている週もあり厳密にはもう少し増えるはず。

 

四郎氏は2002年(平成14年)1月食道癌が見つかり、「日刊ゲンダイ」に「楽天ガン日記」を連載。翌年8月23日還浄土。

辞世句

ひぐらしやまだ日を残しつ店じまい。享年59歳。

 

ほぼ1000冊取り上げた中の150冊が書籍化されているに過ぎないのだが、四郎さんが高く評価していた高田氏だ。

この4冊のどこかに『言葉の海』があるはずと調べたら、

最初の『出現する書物』「第三章 コトバをめぐる冒険」に高田宏「言葉の海へ」があった。

 

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四郎氏の文体を偲び、書評文を以下に載せる 

『出現する書物 ポストブックレビュー 倉本四郎

高田宏『言葉の海へ』

 

妻子と露命

 

十一月十六日。宵のま。次女が死んだ。一年に満たぬ命だった。月末に妻が倒れた。日ごとに痩せた。腸チフスだった。腸チフスは死病である。助からぬかもしれぬ。だが、せめてこの『言海』のできあがるのを待ってはくれぬものか。ゲラに朱を入れつつ大槻文彦は祈るようである。
昼に夜に病院へ通った。一方で伝染をおそれた。
仕事に取り組んだのは、十七年も前のことになる。いま三十の妻が少女のころから、この辞書をつくってきた。倒れるわけにはいかなかった。『言海』はおれにしかできぬ。これは辛苦を刻んだ者の自負だ。
十二月二十一日。妻は事切れた。文彦の仕事は「ろ」の部にきていた。
ろーめい(名)露命 ツユノイノチ。ハカナキ命。
彼は筆を取り落とす。明治二十三年。近代「日本」が姿を現わしつつあったころのことだ。

 

逃げない男

 

大槻文彦は栄達を捨てた男である。立身も名声も義理も体面も犠牲にして、言葉の海を泳ぎ渡った。少なくとも、そのように心決めして生きていた男である。
祖父に杉田玄白前野良沢を師とし『蘭学楷梯』などをあらわした玄沢、父に撰夷論が大勢を占めるなかで開国論を曲げなかった洋学者・磐渓をもち、自らも五歳のときから家学を受けて早くからその俊才を注目されていた。加えて明治初期の官途は草創期である。能力のある人間が栄達を求めれば、それは手にとどくところにあった.
それを全部、捨てていた。祖父玄沢は戒めていた。「およそ事業は、みだりに興することにあるべからず、思ひ定めて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」
栄達は誰もが望む、というのは人を見くびったいいかただ。文彦の『言海』は、そこを出発点として始められた事業である。のちに彼は書いている。「死ぬと逃げるが分け目である」
彼は、生涯、栄達のほうへ逃げこむことを拒み、言葉の海にとどまった。

 

赤子の皮ふ

 

妻が死んだあとの家は、虚しい。火を守る者を失った巣は片輪の巣だ。それは、心的なくずれを与えずにはおかない。
だが、文彦は取り落とした筆を持ちなおす。彼には強い使命感というべきものがある。
すなわち、「一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を団結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり」日本は若かった。憲法が発布され国会が開かれたが、列強には不平等条約を強いられていた。
「藩」と「日本」が重なりあっていなかった。文彦にとっての『言海』の編纂は、この赤子の皮ふを持つ「国」が独歩するのに、不可欠の事業ともみえていたのである。
私情は毒であった。彼は「私」より「国」を上位に置いた。または、ふたつを重ねあわそうと試みた時代の子であった。

 

インタビュー①国家意識

 

Qこれは日本初の普通語辞書の編纂に、生涯を賭した男の伝記です。執筆の動機は『言海』そのものへの興味、ですか。

高田 ええ。あれは芥川龍之介が引用した「ねこ」の項のように、読んでじつに面白いものです。「其晴(ソノヒトミ)、朝ハ円ク、次第に縮ミテ、正午ハ針ノ如ク……」という目の描写があるようにね。それに奥さんの死など編纂までの苦労を書いた奥書は.感動的なばかりでなく、高校の教科書にのせたいほどの名文ですしね。

Qただ大槻文彦はその奥書に反して、何か非常に俗気が強い人間ではないのですか。出版祝賀会に伊藤博文をはじめ時の権力者、官僚をずらりと呼んでいるでしょう。

高田 ぼくもはじめはそう思った。じつに大げさです。しかし、奥書をはじめ彼が書き残したものをみると、俗気ではなくネイション意識がそうさせたんですね。幕末から明治という国家形成期に青年期を送ったものが、必要欠くべからざるものとしての国家をどう発見していったか、その反映があの祝賀会になっていると思えるんです。

Qつまり、彼は国家意識から国語の問題を発想したということになりますか。

高田 ええ。のちに、かな文運動も推進するが、これも彼の国家像に根ざしています。国語の表記は誰にも読め、書けるものでなければならない。今変革して万人が迷惑をこうむろうと、国家百年の計でみればそのほうがよいというわけです。辞書づくりは、えてして碩学で世間知らずの老人の仕事になりがちですが、その意味では彼は、政治家に近い肌合をもっていたということができます。               

 

インタビュー②血統

 

Q彼のそういう発想の背景には、やはり洋学があったのですか。

高田 それが大きいでしょうね。祖父・玄沢が洋学の開拓者ということもあって、大槻家では洋学は非常に身近で色濃いものでした。家族の間でナポレオンの告訴が話題にのぼるという家庭だったんですね。正月も太陽暦で祝っているのです。

Q父の磐渓も、顕微鏡で精虫をのぞいたり、息子たちには種痘を植えて、「オランダ気違いで子供を殺す」と悪口をたたかれたりした、とあります。

高田 そういう背景だったから、文彦じしんただのナショナリストではなかった。藩閥意識を離れた新しい世界観をもっていました。だいたい一国の国語の辞書というのは、世界を視野に入れておかないとできない。そのうえで日本語のスタンダードな語彙はこれだ、という示しかたをしなければならないのですね。それにまた日本語全体を捉える文法も不可欠です。彼は、そういう辞書づくりに必要なものを、家庭のなかから吸収していた。当時の日本には西洋かぶれがおり、一方には国粋主義者がいましたが、彼はそのどちらも強く否定していますね。

Qある意味では、この事業は「血」の成果でもあるわけだ。

高田 そう思いますね。この父と子の関係はうらやましいほど健康です。父であると同時に師であるという信頼関係が、洋学を軸として保たれています。『言海』は、その関係が生んだ大槻家三代の作品、または日本洋学の作品であるといえると思います。

 

盤根錯節

 

けれど、何という事業だろう。何という魔物と取り組んだことだろう。まず、語の選択。ついで、その語源、仮名遣い。ただの泥鱈一匹が容易につかまらないのが、言葉の海だ。
どーぢゃう 鯲 魚ノ名、淡水ニ産ス、形、鰻ニ似テ短ク、黒キ班アリテ、腹白ク……彼は書いてみる。だが、この仮名遣いは正しいのか?「どじゃう」ではないか、または「どぜう」。文安年間の書物には「土長(トチャウ)」とある。してみると「どちゃう」が正しいのではないか。いや、そもそも、なぜ「土長」なのか?
疑問は押し寄せて果てしがない。盤根錯節からまりあって解きがたい。ひとつ朱を入れれば、無数の言葉が声をあげて再検討を迫ってくる。
支えはひとつ、「遂げずばやまじ」精神とネイションヘの熱いおもいだ。妻が死んだ翌年の一月七日、文彦は、それでも言葉の海を泳ぎ渡った.原稿校訂は成ったのである。

 

厭はしき恋歌

 

ねじれがなかったわけではない。「私」を「国」に重ねあわそうとする試みは、もともと逆立ちしたふたつのものの頭をそろえることができるという錯誤にもとづいている。そこからくるねじれである。
文彦にもそれがあった。彼は恋歌を「厭はしく憎むべき」ものとして排した。朝家の人士が「朝に恋歌の佳什を詠じ得ば、夕に死すとも可なり」といったことを言語道断と断じて、書いた。
「恋歌、実に亡国の恨なり、古来諸集中の恋歌、悉皆、抹殺削除すべきなり」
言葉の海を泳ぎ刻苦した者が、言葉を焚こうとしているのである。治者ではないはずの者が、
治者の言葉を口にのぼせているのだ。
彼には「文」は「実」であり「用」でなければならなかった。錯誤にもとづくねじれは、彼のうちから「遊」を削いだ。皮肉にも自身の文は、のちに文芸諸家の好むところとなる。

 

新たな海へ

 

とまれ『言海』は成った。魔物じみた言葉の海を文彦は泳ぎ渡った。明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御。明治は終った.『言海』と共に呼吸した赤子の皮ふをもつ時代が幕をおろしたのである。
同時に、それは新たな海への出発でもあった。冨山房から『言海』増補改訂版の注文がくる。逃げない男は、それを成さねばならない。
人を支えるものがナショナリズムであることもありうる。だがそうでないこともありうる。これは、そのような人間の精神の「劇」を描くことにおいてはいささか欠けているが、赤子の皮ふをもつ時代を、「物を顕することに徹しつづけた」対象にならって顕わしている。
(一九七八・三五号)

山麓僻村塾 1932年8月24日~2015年11月24日 83歳
1978年大佛次郎亀井勝一郎

 

 

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