佐々木孝正さんの思い出

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抜き刷りの「恵存(いつまでもお側においてください)」も、佐々木さんからの伝受。

2月26日に「トキハジメ(ときはじめ)」を書いた。→「トキハジメー斎始め」
その時、2つの事典に書いた文章を紹介した。
その文の終わりに、参考文献として、
佐々木孝正著「本願寺教団の年中行事」(『仏教民俗史の研究』所収、1987)をあげた。

あの時、書きながら、
こんなところで佐々木さんに出会った…。
佐々木さんについてエッセイを書いたことがあったなァ…、と、しばし、感慨に耽った。

私が、曲がりなりにも、
能登の地で民俗調査を続けてこれたのは、
五来先生の教えに接し、関東で民俗を学んでいる友たちと出会い、
県内にも当時新進気鋭の研究者が多くいた、
という恵まれた条件が重なったためなのだが、
私の気持ちの中では、佐々木さんとの出会いがほとんどだった、との思いが強い。

佐々木さんについて書いたエッセイは、
『北國文華』第11号(2002:平成14年春号3月1日刊)に載った。
4年前のことである。

 
その文を書くことになったいきさつは、
『おもしろ金沢学』という本に「『ネンネ』と『ボンチ』の違い」「旧市内は『謡』、新市内は『民謡』」「心の中にあった城下の境界」の3編を書いた時のことだったか、
能登のくにー半島の風土と歴史ー』の詰めの段階でもあったので、そちらの用事だったのかも知れないが、
打ち合わせで担当者に電話を入れた時のことだったはずだ。

その時、電話を取りつがれた方が『北國文華』の担当者で、
昔、一緒に飲んだことがある人だった。
エッセイ執筆予定者に空きが出来、
どうしようかと思っているところに私からの電話が入った…。
グッドタイミング、となったらしい。

エッセイというガラではないが、憧れはある。
その頃、何かで、佐々木さんを思い出すことがあって、こういう内容でどうだろう?
OKとなって、書いたのだった。

今読み返してみると、
佐々木さんのことだけ書いたと思っていたのだが、
五来先生とのことから書きだし、
家に泊まって行かれた五来先生のことで終わっている。
記憶の曖昧さには驚くばかりだが、再録する。

「山から海へー現代の験者<げんじゃ>ー」(『北國文華』)

 
 ー学校でいじめられて悲しくてたまらない気持ちでの帰り道、ふと立ち止まり見上げると暖かそうな緑の山々が見えました。

 わたしは「山さん助けてください」といいました。すると山々の声が聞こえました。「だいじょうぶだよ。勇気を持てば」。
 また別の日、「勉強がわからないのでどうしたらいいか教えて」ときくと、山さんは「先生の話をちゃんと聞くとわかるようになるよ」と答えました。
 今は、毎日、「山さん、いつも私のことを見守ってくれてありがとう」とあいさつします。山さんは「どういたしまして」とおっしゃいますー。
 テレビで心に残る言葉に出会いました。と届いた後輩からのたよりに、この小学校三年生の文が記されていた。
 この文章を味わっているうちに、石川啄木の「ふるさとの山に向ひていうことなし、ふるさとの山はありがたきかな」が思い浮かんだ。そして、啄木に「死になむと思ふ夕<ゆふべ>に故郷の山の緑ぞ暗にほの見ゆ」の歌があることを知り、それまで単なる感傷の歌と思っていた「ふるさとの山に…」の中から、「山」が浮き上がってくるような感慨を抱いた、ちょうどあの時と同じ揺れを感じた。
 生の深淵<しんえん>でもがき苦しんでいた啄木と、いじめにあった児童は、ほぼ百年の時を隔てて、山と語り、山に勇気づけられたことを、言葉にしたのである。

 命の根源に関わる水を供給し続ける山は、「癒<いや>し」「励まし」レベルを超えた、生<なま>のエネルギーを、私たちに届け続けようとしているに違いない。
 しかし、「振り向くな、前に進まねばならぬ…」とされた高度成長期には、「振り向く」象徴である、故郷や山・川は霧に覆われ、人々が集まった里近くの「あたたかそうな、緑の山々」には、家が立ち並んだ。
 ー私たちは、山と語ることを忘れていたのかも知れないー。

 そのような時代にあっても、山の心をたずね歩いた人々がいた。景観がどう変わろうと、山・川・湖・海と共に生き、四季を肌で感じてきた列島人には、共通の心性とでもいうべきものがあるはずだ。それをたずね、村々を巡り歩いた民俗学者と呼ばれる人たちである。
 調査地で出会った古老の、深い皺<しわ>に刻まれた体験の豊かさ、方言の豊かな響き、深いところに流れる水脈がどこかで通い合っていることを感じながらも、地域の持つ豊かさを夢中で書きとどめているうちに、急激に地域が見えなくなってきたことに気づいた人々たちでもあった。振り向かなければならない、と感じだしたのは、おそらく、彼らだったのだろう。その先に「山」があった。

 山に分け入り、山と語り合った成果が全18巻の『山岳宗教叢書<そうしょ>』となって世に出たのは、昭和59年のことである。
 このシリーズの原動力となったのが、修験者と共に山を歩き回って調査を行った五来<ごらい>重<しげる>先生だった。
 調査に出ると、一週間後だったか一ヶ月後だったか「洗濯物だけがドーンと送られてくるのですよ」。と奥さんが笑いながら話しておられたことがあったが、講義においても、調査の成果を全身を使って行われる姿は魅力的だった。

 五来先生は私の指導教授だったが、年が離れすぎているというか、畏敬の方が先に立ってしまい、当時の助手で、先生の一番弟子と言われていた佐々木孝正さんに手ほどきを受けたとの思いが強い。

 佐々木さんからは、よく下宿先に電話がかかり、一時期、二人で色々な場所に出かけた。 私が石川県へ帰って教員になってからも、彼の研究に役立つようにと「墓松<はかまつ>がありましたよ」とか、「巡礼札所が能登にもあるそうですよ」といったことを知らせ、それをきっかけに、話し合えるのを楽しみにしていた。
 その佐々木さんとは、修学旅行の引率の折、京都の本屋さんで会い、「またね」と別れたのが最後になった。
 大学へ通う佐々木さんの自転車に車がぶつかり、その時の怪我がもとで、48才という若さで亡くなられたのである。
 お悪いという話を聞き、京都の病院に見舞ったとき、大きなガラスケースの中に、澄んだ瞳が瞬<またた>くだけの佐々木さんの姿があった。
 「もう会えなくのなるのかも知れない…」。そのお顔を目に焼き付けておこうと、花束を抱えたまま見つめ続けたあの時、今思うと、私は山を見失ったのだ。
 ーその年、『山岳宗教叢書』が完結した。(以下略)
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佐々木孝正さんとの調査、『仏教民俗史の研究』

佐々木さんには、近江のお寺巡り、近畿民俗学会、大阪市立博物館など、いろんな所へ連れていってもらった。
市立博物館へご一緒したとき、京都の下宿へ帰ると家から祖母が亡くなった旨の電話が入っていた、
と、下宿のおばさんが伝えてくれた。
翌朝しか列車がなく、家に帰るのが遅れた。
そんな思い出もあって、佐々木さんには随分個人指導を受けたのとの印象がある。
「山を見失った」と書いたように、
執筆したものを佐々木さんに送るのが本当に楽しみだった。
それが、突然、行き先が無くなってしまった、
とまどい、空しさ、寂しさはいいようのないものだった。

私は、いただいた抜き刷りなどを個人別にファイルにしている。
佐々木さんのファイルには11の論文、
大津市抜き刷りが1部、
同級生で吉田清氏と共に親友だとおっしゃていた木村至宏氏との共著である大津祭り総合調査報告書6冊が綴じられている。
それに時々の手紙も綴ってある。
そして、この本のお手伝いをしましたとくださった『竹生島宝厳寺』がある。
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最後にお会いしたのは京都三条駸々堂だった。

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『仏教民俗史の研究』も久しぶりに取り出してみた。
後書きに、「本書の刊行については、吉田清・木村至宏両氏によって計画され、(中略)佐々木先生夫人灯子氏には所蔵されていた資料と写真の提供をお願いした。
本書の刊行を快諾され、編集業務に終始たずさわって来られた名著出版岩田博氏の労…(略)」と書いてある。

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ええ…?
佐々木さんの写真!!という感じだ。
私が大谷で佐々木さんと過ごしたのは1969年~72年の3年間。
学園紛争の頃で、
写真など撮るムードは全くなく、その時代の写真はほとんどない。
調査に連れて行っていただいたのに、写真記録がないのだ。
そういうこともあって、佐々木さんの写真もないものだと思い込んでいたような気がする。
写真があり、
この本を編集したのが岩田書院の岩田氏だということもわかった。
今日、岩田書院から図書目録が届いていた。
佐々木さんの本もお世話になっていたのだ。