『言海』大槻文彦、高田宏 『言葉の海へ』、書評・倉本四郎氏、『雪古九谷』カバー装画・西のぼる氏

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倉本四郎『出現する書物 ポスト・ブックレビュー』昭和55年11月冬樹社刊


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高田宏『雪古九谷』2001年1月学陽書房刊。装丁・西のぼる氏


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高田宏『言葉の海へ』昭和53年新潮社刊。大佛次郎亀井勝一郎賞を受賞。



義祖母の形見だった『言海』。

形見だということが分かったのは4月15日に書いたブログ「歌人の系譜・・・」を調べていた折のことだった。

ところが、「週刊ポスト」ポストブックレビューを書いていた義兄・倉本四郎さんが、『言海』を扱った高田宏の名著『言葉の海』を取り上げていたのだ。

 

四郎さんが、ブックレビューに関わったのは、1976年5月7日号~1997年9月5日号の21年間、ほぼ1000冊の3ページ書評をなさった。それこそ多くの作家たちと語り合ったのに、私は島尾敏雄(『死の棘』)と高田宏を語った四郎さんの声や表情を思い出す。

高田宏氏については、同じ石川だから出会う機会があったら大切にしろよ(誠実な作家で)得るところが多いだろうから・・・とサラーっとおっしゃり、それがこころに染みこんでいる。

 高田さんとお会いすることは無かったが、白山麓の白峰望岳苑で講義や信仰の地の散策引率を行うことが時々あり、その望岳苑に並んで白山麓僻村塾という施設があり、そこで高田宏さんが塾の教授をしていると聞いたり、

中高校の同級生で、著名な挿絵画家・西のぼる君が装丁したのでと、恵贈いただいた文庫本が『雪古九谷』(学陽書房)という高田宏著であったり、身近に感じてはいたのだ。

 

四郎さんの書評は、4冊の本になっている。

『出現する書物』昭和56年冬樹社刊、250冊余から35編。本人取捨

『本の宇宙あるいはリリパットの遊泳』1986年2月10日、平凡社刊。1年50冊、10年500冊取り上げた折、36編本人取捨

『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上』

帯「声!声!声!本を語る悦ばしき声が響き合う 書評界の鬼才・倉本四郎の魅惑的ブックレビュー 「週間ポスト」の人気ロングラン書評を集成!」2008年7月22日刊、右文書院。1976年~1985年 この間の464冊書評中44冊採録。選者は本書編集の渡邉裕之氏

『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 下』

2010年4月26日刊。1986年~1997年 534冊中35冊所収。

 

※西山注ー冊数は週刊誌の号数であって、中には2冊取り上げている週もあり厳密にはもう少し増えるはず。

 

四郎氏は2002年(平成14年)1月食道癌が見つかり、「日刊ゲンダイ」に「楽天ガン日記」を連載。翌年8月23日還浄土。

辞世句

ひぐらしやまだ日を残しつ店じまい。享年59歳。

 

ほぼ1000冊取り上げた中の150冊が書籍化されているに過ぎないのだが、四郎さんが高く評価していた高田氏だ。

この4冊のどこかに『言葉の海』があるはずと調べたら、

最初の『出現する書物』「第三章 コトバをめぐる冒険」に高田宏「言葉の海へ」があった。

 

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四郎氏の文体を偲び、書評文を以下に載せる 

『出現する書物 ポストブックレビュー 倉本四郎

高田宏『言葉の海へ』

 

妻子と露命

 

十一月十六日。宵のま。次女が死んだ。一年に満たぬ命だった。月末に妻が倒れた。日ごとに痩せた。腸チフスだった。腸チフスは死病である。助からぬかもしれぬ。だが、せめてこの『言海』のできあがるのを待ってはくれぬものか。ゲラに朱を入れつつ大槻文彦は祈るようである。
昼に夜に病院へ通った。一方で伝染をおそれた。
仕事に取り組んだのは、十七年も前のことになる。いま三十の妻が少女のころから、この辞書をつくってきた。倒れるわけにはいかなかった。『言海』はおれにしかできぬ。これは辛苦を刻んだ者の自負だ。
十二月二十一日。妻は事切れた。文彦の仕事は「ろ」の部にきていた。
ろーめい(名)露命 ツユノイノチ。ハカナキ命。
彼は筆を取り落とす。明治二十三年。近代「日本」が姿を現わしつつあったころのことだ。

 

逃げない男

 

大槻文彦は栄達を捨てた男である。立身も名声も義理も体面も犠牲にして、言葉の海を泳ぎ渡った。少なくとも、そのように心決めして生きていた男である。
祖父に杉田玄白前野良沢を師とし『蘭学楷梯』などをあらわした玄沢、父に撰夷論が大勢を占めるなかで開国論を曲げなかった洋学者・磐渓をもち、自らも五歳のときから家学を受けて早くからその俊才を注目されていた。加えて明治初期の官途は草創期である。能力のある人間が栄達を求めれば、それは手にとどくところにあった.
それを全部、捨てていた。祖父玄沢は戒めていた。「およそ事業は、みだりに興することにあるべからず、思ひ定めて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」
栄達は誰もが望む、というのは人を見くびったいいかただ。文彦の『言海』は、そこを出発点として始められた事業である。のちに彼は書いている。「死ぬと逃げるが分け目である」
彼は、生涯、栄達のほうへ逃げこむことを拒み、言葉の海にとどまった。

 

赤子の皮ふ

 

妻が死んだあとの家は、虚しい。火を守る者を失った巣は片輪の巣だ。それは、心的なくずれを与えずにはおかない。
だが、文彦は取り落とした筆を持ちなおす。彼には強い使命感というべきものがある。
すなわち、「一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を団結せしむるものにて、即ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり」日本は若かった。憲法が発布され国会が開かれたが、列強には不平等条約を強いられていた。
「藩」と「日本」が重なりあっていなかった。文彦にとっての『言海』の編纂は、この赤子の皮ふを持つ「国」が独歩するのに、不可欠の事業ともみえていたのである。
私情は毒であった。彼は「私」より「国」を上位に置いた。または、ふたつを重ねあわそうと試みた時代の子であった。

 

インタビュー①国家意識

 

Qこれは日本初の普通語辞書の編纂に、生涯を賭した男の伝記です。執筆の動機は『言海』そのものへの興味、ですか。

高田 ええ。あれは芥川龍之介が引用した「ねこ」の項のように、読んでじつに面白いものです。「其晴(ソノヒトミ)、朝ハ円ク、次第に縮ミテ、正午ハ針ノ如ク……」という目の描写があるようにね。それに奥さんの死など編纂までの苦労を書いた奥書は.感動的なばかりでなく、高校の教科書にのせたいほどの名文ですしね。

Qただ大槻文彦はその奥書に反して、何か非常に俗気が強い人間ではないのですか。出版祝賀会に伊藤博文をはじめ時の権力者、官僚をずらりと呼んでいるでしょう。

高田 ぼくもはじめはそう思った。じつに大げさです。しかし、奥書をはじめ彼が書き残したものをみると、俗気ではなくネイション意識がそうさせたんですね。幕末から明治という国家形成期に青年期を送ったものが、必要欠くべからざるものとしての国家をどう発見していったか、その反映があの祝賀会になっていると思えるんです。

Qつまり、彼は国家意識から国語の問題を発想したということになりますか。

高田 ええ。のちに、かな文運動も推進するが、これも彼の国家像に根ざしています。国語の表記は誰にも読め、書けるものでなければならない。今変革して万人が迷惑をこうむろうと、国家百年の計でみればそのほうがよいというわけです。辞書づくりは、えてして碩学で世間知らずの老人の仕事になりがちですが、その意味では彼は、政治家に近い肌合をもっていたということができます。               

 

インタビュー②血統

 

Q彼のそういう発想の背景には、やはり洋学があったのですか。

高田 それが大きいでしょうね。祖父・玄沢が洋学の開拓者ということもあって、大槻家では洋学は非常に身近で色濃いものでした。家族の間でナポレオンの告訴が話題にのぼるという家庭だったんですね。正月も太陽暦で祝っているのです。

Q父の磐渓も、顕微鏡で精虫をのぞいたり、息子たちには種痘を植えて、「オランダ気違いで子供を殺す」と悪口をたたかれたりした、とあります。

高田 そういう背景だったから、文彦じしんただのナショナリストではなかった。藩閥意識を離れた新しい世界観をもっていました。だいたい一国の国語の辞書というのは、世界を視野に入れておかないとできない。そのうえで日本語のスタンダードな語彙はこれだ、という示しかたをしなければならないのですね。それにまた日本語全体を捉える文法も不可欠です。彼は、そういう辞書づくりに必要なものを、家庭のなかから吸収していた。当時の日本には西洋かぶれがおり、一方には国粋主義者がいましたが、彼はそのどちらも強く否定していますね。

Qある意味では、この事業は「血」の成果でもあるわけだ。

高田 そう思いますね。この父と子の関係はうらやましいほど健康です。父であると同時に師であるという信頼関係が、洋学を軸として保たれています。『言海』は、その関係が生んだ大槻家三代の作品、または日本洋学の作品であるといえると思います。

 

盤根錯節

 

けれど、何という事業だろう。何という魔物と取り組んだことだろう。まず、語の選択。ついで、その語源、仮名遣い。ただの泥鱈一匹が容易につかまらないのが、言葉の海だ。
どーぢゃう 鯲 魚ノ名、淡水ニ産ス、形、鰻ニ似テ短ク、黒キ班アリテ、腹白ク……彼は書いてみる。だが、この仮名遣いは正しいのか?「どじゃう」ではないか、または「どぜう」。文安年間の書物には「土長(トチャウ)」とある。してみると「どちゃう」が正しいのではないか。いや、そもそも、なぜ「土長」なのか?
疑問は押し寄せて果てしがない。盤根錯節からまりあって解きがたい。ひとつ朱を入れれば、無数の言葉が声をあげて再検討を迫ってくる。
支えはひとつ、「遂げずばやまじ」精神とネイションヘの熱いおもいだ。妻が死んだ翌年の一月七日、文彦は、それでも言葉の海を泳ぎ渡った.原稿校訂は成ったのである。

 

厭はしき恋歌

 

ねじれがなかったわけではない。「私」を「国」に重ねあわそうとする試みは、もともと逆立ちしたふたつのものの頭をそろえることができるという錯誤にもとづいている。そこからくるねじれである。
文彦にもそれがあった。彼は恋歌を「厭はしく憎むべき」ものとして排した。朝家の人士が「朝に恋歌の佳什を詠じ得ば、夕に死すとも可なり」といったことを言語道断と断じて、書いた。
「恋歌、実に亡国の恨なり、古来諸集中の恋歌、悉皆、抹殺削除すべきなり」
言葉の海を泳ぎ刻苦した者が、言葉を焚こうとしているのである。治者ではないはずの者が、
治者の言葉を口にのぼせているのだ。
彼には「文」は「実」であり「用」でなければならなかった。錯誤にもとづくねじれは、彼のうちから「遊」を削いだ。皮肉にも自身の文は、のちに文芸諸家の好むところとなる。

 

新たな海へ

 

とまれ『言海』は成った。魔物じみた言葉の海を文彦は泳ぎ渡った。明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御。明治は終った.『言海』と共に呼吸した赤子の皮ふをもつ時代が幕をおろしたのである。
同時に、それは新たな海への出発でもあった。冨山房から『言海』増補改訂版の注文がくる。逃げない男は、それを成さねばならない。
人を支えるものがナショナリズムであることもありうる。だがそうでないこともありうる。これは、そのような人間の精神の「劇」を描くことにおいてはいささか欠けているが、赤子の皮ふをもつ時代を、「物を顕することに徹しつづけた」対象にならって顕わしている。
(一九七八・三五号)

山麓僻村塾 1932年8月24日~2015年11月24日 83歳
1978年大佛次郎亀井勝一郎

 

 

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