おっとこれは…『とも同行の真宗文化』

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北陸中日新聞朝刊

『とも同行の真宗文化』は『蓮如真宗行事』以後の一応のまとめ・総括なので、来年からは賀状交換を辞めると言ってきた先輩その他、同たぐいの人に来年からだよね、としぶとく送った。

そろそろよしも含め、「さよならの総括」終了。

 

こんな言葉に続いて「さよならの総括」のメロディーが流れてくるのは、

フェイスブックのプロフィール写真を、二十歳の信州美ヶ原一人旅写真に変えたせいかもしれない。

 

だったら、あまりにも単純すぎる…気がする

 

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17、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑱―豊四郎順拝81~85 文化五年-1808  江州

81 八幡御坊

 

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江州蒲生郡八幡

御坊[角印]

文化五年

辰八月十四日 役者[角印]

 

 

82 八幡御坊

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文化五季辰八月十四日

役者(印)

東泰院殿

宣如上人御開基

近江国蒲生郡八幡

御坊 蓮照寺

 

 

83 愛知川寶満寺

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江州愛知川

祖師聖人御旧跡

別山寶満寺[角印]

宝物略之

役者(印)

文化五辰年八月十五日

84 中川原 西音寺

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江州犬上郡中川原 

祖師聖人御腰懸石

 西音寺

 辰八月十六日 役者(印)

85 四十九院唯念寺

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江州兜率山四十九院

 唯念寺

當院開基行基菩薩天平年中祈

建之古霊場    浄之地也

實如上人御時永正年中御真字 

教如上人御滞留之遺跡也 

文化五戊辰八月十六日當番恵林寺

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江州犬上郡彦根

 明性寺(印)

 役者[角印]

 

満月物語―輪島ロータリ卓話ー9月15日(火)

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嶽薬師 高洲山 高清寺

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高清寺芭蕉句碑 名月や麓の霧や田のしめり

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どう猛な猿鬼を退治することが出来ないどころか犠牲が出て苦しみながらこの海岸を歩いていた副将神杉比咩に、波が退治する方法を歌となって教えた稲舟歌波の浜と歌波地蔵

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白(八百)比丘尼

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八百年の間17歳ほどのままだったという白比丘尼。手には椿を持ち春になると椿を咲かせて歩いたという。

 

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はだかにて生まれてきたに何不足 一茶 臥龍山専徳寺。HPを調べるとこの句が法語としていろんなお寺のブログに載っている。このお寺さんも何かを見て書かれたのだろうが、『一茶発句全索引』を見てもこの句はない。一茶とあってもどの句集にあるのか出典をあげているものもないので、この標語句は一茶伝説の句と言うべきなのだろう。

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黒島芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」。芭蕉百回忌天明3年(1783)。名願寺真宗大谷派境内

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句碑先の海

 

志賀・富来散策~13日(日)+12日七尾北湾

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不動明王板碑・カーンマーン

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板碑・五輪・宝篋印塔・地蔵―富来町史には紹介されていない。

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『とも同行の真宗文化』171頁~178頁に書いた「御崇敬(ごっそきょう)」に、夜明けまで御示談を聞きながら御参りしたお寺。昭和58年11月のことだった。その後1度ぐらいは訪ねたかも知れないが記憶が無く、37年ぶりに訪ねた。春日灯籠に見事な龍を掘った灯籠があった。

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12日(土)七尾北湾 立山連邦が見えた。

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13日(日)志賀町安部屋の海岸

 

一茶―享和元年手記(日記)(いわゆる『父の終焉日記』)について

一茶については、まずこの時期、「涼しやな弥陀成仏の此の方は」、と言う句がありますね。と語り出すことが出来る。

妙好人としての一茶を知るには、「おらが春」(文政二年・一八一九、一茶五十七歳)といわゆる『父の終焉日記』(享和元年一八〇一、三九歳)に拠るのがいい。

千代尼と違い、一茶を真宗信徒・門徒としてとらえた宗門関係の研究者はおいでになり、この二作品から引用なさっているものの、作品そのものを丁寧に分析した方はおいでにないようなので、とも同行・妙好人一茶の視点からまとめておかなければ、とかねてから思っていた。先に出版した『妙好人千代尼』は、元々、千代尼と一茶を取り上げ『千代尼と一茶の真宗』あたりのタイトルも考えながら作業を進めていたので、一茶に関するデーターは十分すぎるくらいにある。

 

 ここから書かないと分からないのだが、著名な「おらが春」も、タイトルは後世の人が、本文のはじめにの方にある「目出度さもちう位也おらが春」の句から付けたものである。

 まして下書きというか、おそらくより壮大な句文仏教説話・談義本を作品として完成させる意図があって、三十九歳の時に書き留めたいわゆる『父の終焉日記』は、定着した名称ではない。

 

それはそれとして、作品から一茶の信心を見るためには、どの刊本を底本にするべきか?。前に調べたところでは、少なくとも二種類の刊本がある。
そのことを念頭に、まず、今、手に入る岩波文庫版『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一編』を見た。

文庫本ならスキャナー用に新しく買ってもいいかぐらいの気持ちで、書き込みを入れていった。解説を見ると、少なくとも二種類あることも、どこが校訂者の書き入れで、どこまでが原典なのかがはっきりしない。

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岩波文庫平成4年1922刊。凡例に「小見出しを付し」とある。小見出しはどれかわかりにくいが、次の例ではっきりする。小見出し付きの刊本は3種類ある。たとえば5月12日「毒をすすめるものたちすすめる者たち」「厭はしき一家の者」「ままならぬ世」、14日「酒毒のむくみ」(2本)「無理いふ病の咎」、15日「むくみと痰」「蟷螂の斧」「灯影仄かに称名の声」、5月1日「過去敵」(2本)「田植時」など。一番新しいこの書の校訂者が最初の見出し。2本とあるのはこの校訂者が参考にした本。最後の柔らかいのは「みとり日記」。「過去敵」のような不思議な見出しを引用しておきながら、「ままならぬ世」は「毒をすすめる者たち」である。草稿が後世の研究者によってあたかも一茶がこのような見出しを書いていたかのように(この本しか手に入らない)思われるのは、いかにも悲しい。リアリズム讃嘆か何か知らないが、「灯影仄かに称名の声」(みとり日記)が「むくみと痰」だぞ!

手に入らない小見出し付き本

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昭和37年版角川文庫。校訂者は底本『一茶全集』第五巻『父の終焉日記』担当。底本と文庫本の違いについては解説で説明しておいでる。校訂者の考えでつけた見出しはゴシックになってる。それで、その前の「日記本文」も校訂者が付けたことがわかった。ゴシックにしなくても[ ]にするとか一茶ではないのだから、それぐらいは岩波もすべきだったろう。

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大正10年(1921)刊「みとり日記」。この書には校訂者勝井普風氏の見出しがz全日に亘ってついている。昭和37年角川版、入手可能な現岩波文庫本には写真で分かるように24日の小見出しはない。理由があるとすれば、これも解説に書いておかなければならない。24日は「薬をすゝむ」である。

底本版

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昭和9年1934版岩波文庫『一茶遺稿 父の終焉日記』。これがータイトルも小見出しもないーが底本に最も近い形である。この本及び束松露呈氏の関わった大正11年本は、現行本の参考文献にさえ載っていない。

さーて解説

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岩波文庫『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一編』解説



解説にある「父終焉の記」「みとり日記」は誰の校訂本なのか?

束松露香とはどういう人なのか?

それが一般化されるほどの根拠はどこにあるのか?

などを解説しないと、初七日までの話が記されている草稿をどうして、「終焉」と言えるのかが分からない。

ひとつ重要なことに触れておく。

解説では「今日では大正11年に束松露香の校訂によって刊行・命名された」とある。

どう見ても束松露香氏が刊行したとしか読めないが、束松氏は大正7年に亡くなっておいでる。

亡くなって4年後に「刊行・命名され」るわけがなく、誰かが刊行・命名したのである。

 この解説に添ってその人物名を書かないで進めるが、その人は大正6年に長野で束松氏に会い、出版に尽力してほしいと、いわば遺言のような形で原稿を託された。

 それが岩波書店から「一茶遺稿 父の終焉日記」として刊行されたのが大正11年1月5日のことだった。

 刊行者は、この草稿を誰よりも調べ、タイトルに「父の終焉日記」とこだわっておられた束松氏の願いを生かすべく、『父の終焉日記』名にした、と解説に書いておられる。

 その方は自著の刊本では、「看病手記」としておられる。

 このようないきさつは、現行本の解説には載っていない。

ちなみに、「従来」の「父終焉の記」は明治41年刊刊俳諧寺可秋編『一茶一代全集』、

「みとり日記」は大正10年勝井普風編 近藤書店発行である。

 

 今までのタイトルの中では、もっともこの件に力を注いできた方の「看病手記」、あるいは若さ体力があるものが老いた人を(親子はおいておいて)看取る程度に考えて「みとり日記」がふさわしいと思うが、とりあえず「享和元年手記(日記)」とこの書を表現しながら、考えてみる。

底本

とも同行と共に一茶に出会おうというのだから、手に入れやすい文庫本を底本にしようと思ったが、指摘したような問題がある。

 ところでこの平成4年刊文庫本のあと、2012年(平成24)にも刊本が出ているのである。

 校訂者は、本文も他の解説も読んだとは思えないとらえ方をしているので、書名等は伏すが…あるにはある、

 読んでいないんじゃないか、とまで書かざるを得ないのは次の書き込みの通りだからである。

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校正者の意図によって書き込まれた「見出し」が、角川版ではゴシックで表記してあるため、本文では無いことが見てわかる。岩波版ではどうなのかなと思いつつも、勝手に作りあげた見出しが、下の方にあって遠慮がちではあった。

 この本では上に移っていて、完全にタイトルになっている。しかも、注が無いので「ありの実」などは何のことか誰も(当地の人を除いて)わからないだろう。

さらに原典と離れた作品になっている。

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使いようが無いことが分かった時点で、メモを書き込んだ。この書物は立派で、出来るなら底本にしたかった。編集者さんたちが心血注いで作り上げた本の感触が伝わってくるような書物なのだ。合掌しながら開き、さあーやるぞ、気合いが入る書物と言ってもよい。

 それが、無残な中身。

現在手に入る二冊の本の校注者・担当者は幸いお元気のようだ。

いつかお話を窺いたい…とも同行は思うが半島先端からは無理か。

素敵な本も使えないとなったら、底本はおのずから『一茶全集第五巻』となる。

 疲れた。まぁー、よくいうガス抜きだ。

 さあーて、やさしい一茶を訪ねるぞ。

 

八朔 ーほのぼのカレンダー(法藏館)、『とも同行の真宗文化』、谷内正遠ふるさと版画展

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ほのぼのカレンダー-9月(法藏館刊)谷内正遠絵。場所は書いていないが、昭和39年9月21日全線開通し、平成17年3月31日に廃止された能登線藤波~波並間の光景である。。

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能登線日和 湯浅啓写真集』能登印刷出版部 2005年(平成17年)4月1日発行。

廃止された翌日の刊行本だ。私は宇出津高校へ毎朝6時過ぎの列車で通った。妻はそれよりかなり早く起きて弁当作り。飯田高校時代は生徒が通学した。30キロ離れた鵜川から通った生徒たちもいた。この光景はその途中…。

中の写真は、一枚一枚が次々と語りかけてきて切なくて見ることが出来ない。

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同じ場所の朝焼け。『湯浅啓写真集 能登線憧憬』亀鳴屋制作 2008年10月14日発行。湯浅さんはどうしているだろう…。

 

ほのぼのカレンダーを発行なさっている法藏館からメール配信版「法藏館書店ニュース9月号」が届いた。

なにげなく読み眺めていくと、恒例のベスト10コーナー(8月期)

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法藏館書店ニュース9月号、16ページ。売行ベスト10(8月期)

なんと10位に『とも同行の真宗文化』が載っているではないか!!

本が重いのと、つても無く、知り合いの能登の本屋さんと小松の本屋さんにかろうじて置いてもらったが、私の車移動範囲が精一杯。タイトルからし法藏館さんにもと、お願いしたら快く置いて下さった。

 それで、この本に関しては満足しきっていたのが、このような形で目にするとは…申し訳ないことです。

 

次に谷内正遠さん。ご本人とは面識はないが、父君の誠之師は私の二度目の教区会議員時の議長さんで、可愛がっていただいた。

その御尊父が正順師で郷土の偉人調査の記事(北國新聞2006年・平成18年8月8日)に次のように書いている。

谷内正順は一八八六(明治十九)年四月に羽咋郡河合谷村(現津幡町上河合)の慶専寺で生まれた。九歳の時に眼病にかかり左目を失明したが、県立第三中学校(現七尾高)、旧制一高を経て進学した東京帝大を首席で卒業、明治天皇から「恩賜の銀時計」を、本山から「宗門の名誉」として銀の鎖も受けている。
一高同期の文豪谷崎潤一郎も「大変な聖人」と認めた谷内は、東京帝大助手、石川師範教諭、高岡高商(現富山大)教授、真宗大谷派教学研究所長、同中央修練道場長などを歴任し、一九六八(昭和四十三)年に八十二歳で亡くなった。

 

 

 

付け加えれば祖師650回忌前年の明治43年んは句仏上人の一ヶ月余に及ぶ北海道樺太御巡化に同行しており、若き時から教化の中心を担ってこられた。

著書に『光雲無碍』(昭和37年11月1日文永堂刊)がある。

 

懐かしの能登線沿線は、そのお孫さんの絵であり、今月の展覧会案内。

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学びの人が育った地での、美術鑑賞ー胸躍る秋の始まりー八朔である。

 

 

 

名畑崇先生ご逝去

石橋義秀さんのFBを開いたら、名畑崇さん(先生)ご逝去なさったことが載っていた。8月27日、87歳。

研究室は国史・日本仏教史同室で、私が在籍した時は名畑さんは30代。仏教史の非常勤講師か講師職だったようで、お話ししたことはなかった(と思う)。

 名畑さんはおそらく私のことを知らないままだったと思うが、いくつかの接点・想い出がある。

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前列右から二人目が名畑さん。その左横が藤島達郎先生。前列左の白いセーター姿が私。その右後ろ・後列二人目が大桑斉さん(先生)。あとは省略。仏教史の集まりだが、私とその横のたばこの煙を吹かせているのと二人は、もぐりだ。後輩たちがネクタイをしているので、社会人になってから(年号が書いてない)。

 

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1989年・平成元年 12月16日土

 日本宗教民俗学会。

名畑氏は2列目、右から3人目。

私は前列左2人目。先輩の大學関係者に限り名を記す(敬称略)。

 私の右横、豊島修、日野西眞定。後列左から4人目山田知子。

 

長光山 養泉寺 (御住職:名畑崇師)

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2013年(平成2年)5月8日(水)撮影。郡上市明宝大谷

 

2014年5月8、9日、講師をしている能登教区11組~14組坊守会の研修旅行引率で 高山・古川へ行くことにしていた。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

そのころボランティアガイドきらり珠洲の代表や県民講座の史跡探索などもやっており、旅行引率を楽しんでいた。5月にしたのは、庄川桜の満開期に合わせて研修しようと思ったためで、そのちょうど一年前に最終コース決め、確認のため高山・奥飛騨を巡った。

ここは予定コースではなかったが、学生時代、高山、郡上八幡、益田に親しい先輩や同級生がいたので、彼らがどういう雰囲気の所に育ったのかを見たくて、郡上八幡まで足を伸ばした。

寺院名簿を持っての旅で、由緒寺や目につくお寺に寄りながら旅をした。

このお寺が、名畑崇さんが住職をしておいでるお寺である。

すぐ近くに道の駅・明宝(磨墨の里公園)があって、いい景観の中の綺麗なお寺だった。

先生がおいでれば名乗るか何かしようと思ったのだが、誰もおいでにならなかった。

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お寺背後。昔、先生がまだ小さい頃、このあたりでも遊んだのだろうな、などと想像しながら歩いた。

「せせらぎ街道」も間もなく終点の郡上八幡に近い。

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法語

散るさくら 残るさくらも 散るさくら …

 先生の字なのかも知れない

 

著書

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「とも同行」に促され書いた『妙好人千代尼』。少し研究書に近づけるとすれば…。

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27日午前9時。

 

妙好人千代尼』(2018年1月20日 法藏館)の補足・注釈。

蜻蛉釣り今日はどこまで行ったやら
伝千代尼作の著名な句である。2019年1月刊行の『妙好人千代尼』(法藏館出版刊)には、最初にこの句に触れた箇所(5頁4行目)では
 たとえば、小林一茶(1763~1827)がわが子に先だたれた時、千代女が子の弥市に先だたれたときに詠んだと伝わる
 蜻蛉釣り…
と表現した。

  その後もこの句は7カ所で用いたが(句索引を作っておいてよかった)、索引では、あえて伝千代尼句を設け、そこでこの句を引くことが出来るようにしておいた。
  研究書だったら、どの本のどこに、千代尼の句とは認められないと書いてあるとかを、ああでもないこうでも無いと引用ししつつ分析にすることになっただろう。

 そうすれば、
 この千代尼句として受け止め、生かしてたり励みにしてきた、
一茶、新渡戸稲造フローレンツ鈴木大拙徳富蘇峰(同書5~7頁)たちの受け止めを切り捨てなければならなくなる。

 「とも同行」に語る時は、サラーっと「詠んだと伝わる」程度がいいのだろう。

○千代尼が、これまで妙好人、あるいはとも同行として取り上げられなかった理由。
 著名な千代女・千代尼がせいぜい「熱心な真宗信者でした」程度にしか紹介されてこなかった。私はいろんな場-法話や研修会法話の主人公としてーで、導入などに千代尼名を用いてきたので、まとめなければと思い、また書くことができた。
 なぜ、これまで書かれなかったか…。
 その理由を3つ挙げた。

 千代尼を妙好人として見ていくには、
1、彼女の拠った俳諧
2、生きた時代の背景と風土
3、真宗の教えとの出会い
などの観点からとらえなければならず、それぞれがかなり面倒なのです。

 

 

なぜ面倒かは、3の真宗との関係は、用語の問題、教えなどがあり、言うまでも無いので理由は書かなかった。それをクリアしても、千代尼の時代に寺檀制=家の確立という、いわば「とも同行」が実態を持ち始め、民衆に宗教が広がり始める元禄頃をしっかり見据えなければならない。その上で、比較的多く取り上げた一茶の時代が円熟期にあたる化政期であることとの違いを絶えず考慮しなければならないということである。真宗史にしっかりとたたなければならない。
 いろんな方から感想をいただいたが、真宗地帯の人では、九十近い女性が一晩で読んだとおっしゃられ、静岡の俳人は、前半はサーと読み進めたが、真宗用語が出てくるあたりから全然進まなくなったとおっしゃっていた。
 この3真宗の関わりで、2の例として、
 

著名な歌人が千代尼の本願寺詣では、収骨のために……と、

近現代に生きた千代尼像にしたり、

 とぼかしたのは、言うまでも無く、親鸞聖人五百回忌に参詣して句を詠んだので、端書きもそのことが記されている。

 今でこそ本山は収骨であるが、元禄期という時代にそんなことがあるわけは無く、書いた人だけで無く、この記事を載せた雑誌の見識を問われても何なので、実際は売れっ子俳人なのだが、歌人ということにしておいた。

 

1は、柳田国男の文からの引用を例に挙げた。

 柳田国男が、『生活の俳諧』で、芭蕉の「風吹ぬ秋の日瓶に酒無き日」(『冬の日』)を「私などは「風吹かぬ」と解し、先生(幸田露伴)は「風吹きぬ」だと見て居られた」と指摘している程度の「面倒」さが、同時代の千代尼句にもあるからです。(228頁 あとがき)

 書いたのはこれだけだが、私は高校で古典を教えていたので、当時の送り仮名の面倒さを知っており、うーん面倒だと思って書いたのであるが、

  どうして、そうなるのか、本来ならそこから書かなくてはならないのかも知れない。
 「吹く」は、吹か(ず、ば)、吹き(ぬ、たり)、吹く。吹く(時)、吹け(ば)、吹け、と変化する。
 柳田は、「吹かぬ」の「ぬ」は、打ち消し・吹かないの意の「ず」と解釈し、「ず」の変化「ず(未然)、ず(連用)、ず(終止)、ぬ(連体)、ね(已然)」の連体形「ぬ」であって、「吹かぬ(吹かない)秋の日」と名詞につながる用法とした。
 一方、先生・露伴は、「吹き」に完了の「ぬ」がついているとした。「ぬ」の変化は、な(未然)、に(連用)、ぬ(終止)、ぬる(連体)、ぬれ(已然)、ね(命令)だから、この場合の「ぬ」は終止形で、「風吹きぬ(風が吹いた)。秋の日瓶に酒無き日」ととらえた。

 「強い風が吹いた。秋の日の、瓶に酒の無い日に」ぐらいになるだろう。
 要するに、漱石露伴という巨匠の見解が分かれるくらい、当時の一句を詠むことは面倒なのである。
 では、どう取らえればいいか?

 柳田も書いていないことを掘り下げるが、「吹かぬ」だと、「吹く予想」があっての「吹かぬ」になるから、どこか近現代の気象庁のような存在があるように見える。野分(台風)が吹いた。酒を買いに行くことが出来なかった。あるいは酒も無く侘しい日に風まで吹いた。より秋をしみじみ感じることになった、と先に生きた人・露伴のとらえ方が良さそうな気はするが、

 もちろん、兩巨匠のとらえ方に口を挟めるはずもない。

 ともあれ、相当骨の折れる段取りを踏まないと『妙好人千代尼』を知りにくく、誰も書かなかった理由があったのだ。

 

 抜き刷りなどをお送りすると、いつも厳しいご意見を下さった故大桑斉さん(先生)が、この本に対しては、

 驚きでした。ニュー西山と言うべきか。民俗学者とばかり思っていましたが、本体は文学者だったのだ。そういえば専攻は国文学だったのでは。
 それならこの著書に込められた薀蓄が分かろうというもの。
 私も千代尼が気になりながら、とうとう手を出さずに来ました。それは千代の句に仏語や安心用語がみあたらなかったことによっていますが、それを見事にクリアーして、妙好人かどうかは別にして、篤信の真宗者千代を描き出しました。
 これは国文学の素養なしにはできないことと、改めて感心した次第。
 千代の句を少々読んだのですが、「百生や蔓一すじの心より」に「三界唯一心」の端書がある所までは読んでいませんでした。
 それも端書がなければ、「弥陀をたのむ一心を表しており」p153とは読めないでしょう。このように端書などがなければ、とても信心の句とは読めない。

 端書などない句にも信心を読み込んだことが第一の成果でしょう。(以下は疑問点の指摘)

 

 

朝顔に つるべ取られて もらい水
 朝顔や つるべ取られて もたい水

「に」を「や」に変えたのは、千代尼35歳頃。親鸞聖人は35歳越後御流罪蓮如上人同年北陸への旅。釈迦同年12月8日菩提樹の下で悟りを開きブッダに、と。
 そこから、この句の仏教的展開(深みと広がり)を見た。

 それはそれでいいし、その見解に変わりはない。

 さらに35歳は、子があれば、その子が「立志」(成人)を迎える年ごろにあたり、35歳はより広い区切りの重要な年だと認識している。

 その後、「朝顔に」の句が、晩年にも書かれていた直筆があったとの報道があった。
 考えすぎかも知れないが、当時かなり「に」から「や」への移行が話題になっていたこともあり、中には完全に「に」の句が消え「や」ばかりになったと受け止めた人もあったかも知れないが、それはそうではない。

 「に」で作った頃の思いに還り、そのように書くことは当然ある。
 35歳のころ、一文字ではあるが、生きているもの同志の巡り逢いに感動する句境の大きな深みに出逢ったのが「朝顔や」だったととらえればいい。

 その後は幅の広い日々の中で、時には「朝顔に」とうなづくこともあったということである。

 

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今朝の百日紅。例年なら、お盆過ぎにも咲いている、さすが百日紅だ、と眺めてきた花が、この頃花が咲き、これからも花開こうと蕾が膨らんでいる。確かに季節が分からない年だ。

 

南條文雄師筆墓碑銘

8月17日(月)鶴来の墓地で南條文雄師の墓碑銘に出会った。その時、これまでに1,2基出会った旨をかいた。一つは七尾の大泊であることは覚えているが、日記・記録ブログであるこのブログの検索を見たが記録していない。そこで、それこそ膨大な写真を検索した。

大泊と明達寺さんに出てきた。記録しておく。

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七尾市大泊墓地2007年3月6日撮影

「累代之墓」である。

 

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碑(廟)は光が当たっていて読みづらいが「南無阿弥陀仏 清澤満之」と読める。境内に清澤満之・暁烏敏対座像を安置する「蝋扇堂」があり、こちらは有名だが、南條文雄書の碑文のある墓があることはあまり知られていないのでは…。今、「南無阿弥陀仏 清澤満之」と読めたので、満之の字を引用した暁烏家の墓かと思ったが、文雄の碑文もあることから、満之師の分骨墓とみるべきなのだろう。

碑文は

「阿耨達池四」大河如来亦爾」出一切寿一切」人天寿命大河」流入如来寿命」大海」

大正二年三月

南條文雄書」

とある。

 

 

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蝋扇堂 2012年12月27日撮影。この向かいに著名な敏作「一億の人に一億の母あり…」碑がある。この碑も何カ所か見ているので改めて項立てする。

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南條文雄直筆。『梵漢対譯 新譯法華經』(大正2年9月25日発行 眞宗大谷大學尋源會出版部編輯 法藏館発賣)より。

[解説]これは南條先生の手写しの梵文であって、普門品の初の方の壱葉である。本書では四八八頁二行目の「壌せむ」といふ所から九行目の「かくの如きの力あり」までに相当する梵文である。「序の一」にもある如く六部の写本二部の刊本とを以て縦横に校合した苦心の跡を見るべき稿本である。併せて「序の二」を参照せんことを希望する。(泉 芳璟)

※泉芳璟氏はこの本『梵漢対照 新譯法華經』の供訳者で大谷大学教授、ちなみに南條文雄師の肩書きは、文学博士となっている。

 

同朋会推進員研修 令和2年度第二回 8月20日 法語12ヶ月、眞宗句を詠んだ俳人

お盆過ぎの20日は涼しくなっているだろう、なごりゼミの鳴き声を聞きながら「蟪蛄春秋を知らず」とか「涼しやな弥陀成仏の此の方は(一茶)」「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀高浜虚子)」等を取り上げながら、コロナに気を配りながら、いく夏を惜しみつつ、勉強しようと思っていたら、なんと…

20日は今年最高の暑さになるという予報。

前に氷り柱を買ってきて本堂入り口に置いたこともあったが、今は売っていないのだという。

せめて冷茶を多く用意して、何度も飲んでもらうしかない…。

何せ1時半から3時半、この暑さじゃ数名お出でになるかどうか(実際は20数名の参加)、

それでも、話は少し面白いというか、作業を入れて暑くてもすごせるものにしようと、急遽、法語カレンダープラス先に書いた一茶、虚子、彼らと深い関係のある井泉水、法語の作者写真、俳人写真を次の通り準備した。

 

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真宗教団連合結成50周年記念法語カレンダー 下の数字は法語が載った年度

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虚子、井泉水いわゆる『父の終焉日記』と深く関わった俳人。そして、山頭火、放哉が井泉水の弟子。

中程は、父のみとり、看病、終焉日記と呼ばれるもので、現在手に入るのは⑨平成4年刊の岩波文庫本、⑩平成24年版しかない。いろいろ見ていくと⑨そのものが原典と違うもので、⑩は⑨をそのまま写したと解説に書きながら違う刊本にしてしまっている。しかも、活字になった初めは⑤の昭和9年本と書いているが、それまでに明治41年から4本の活字本があり、そもそもタイトルのない下書きでの同系統の書は、大きく4行までと5行目以下とに分かれるのである。

今は誰もが⑨を見て『父の終焉日記』と思うだろうが、この書物の解説はおろか、参考文献にすら⑥以前を取り上げていない。この草稿本は、一茶と眞宗を知る重要な内容本(底本はおそらくA)なので、どういったものなのか、はっきりさせておかなければならないだろう。ただ、今手に入れて読もうと思えば読めるもう一冊の⑩は、あまりにひどい解説なので書名などは書かないでいるのだが、どうしたものだろう……。これは後ほどじっくりと、ということにして…

次の頁の写真は法語関係者7名を月順に挙げた。あとの2人は俳人

ダルマさんみたいな最後の人が清沢満之?と声があがったが、かほどに聞いている話から来るイメージと、実物は違う。

ダルマさんは荻原井泉水氏。清沢満之師は左上。

そろそろ始まる頃に、今一度書棚を見ていくと信国淳選集があって数葉の写真もあった。付け加えるのは間に合わないので。口頭で語る。イメージは左2人目の安田理深師、近くの人では最近金沢で逝かれた○○さんに似ているといったら、高校の同級生だったとおっしゃる女性がおいでた。暑さをものともせぬ、同級生ーそれぞれの日々…。

家にいて明け方熱中症になって何日か入院なさった方が、症状と水分補給をする気にならなかったその夜の様子を語られ、聴聞の方々はあらためて身近に起こるのだということに感じ入っておられた。

 

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五月 いだかれてありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

 九条武子

このよく知られたこの短歌は、九条武子さん著『無憂華』に載っていることが分かった。どこかでこのタイトルを見た記憶があったので本箱を探すと『無憂華』が見つかった。その本に載っていると書いてある参考文献には『無憂華』に「うどんげ」とふりがなが振ってある。見つかった本の本文にもふりがなが振ってあって、「むゆうげ」とある。よく見ると「むゆうげ」だ。本が無かったら「うどんげ優曇華)」で話を進めるところだった。見つけたのが11時頃で、急遽その歌が載っているエッセーと『無憂華』が分かるように本の表紙なども付けた一枚を用意した。

右から読むがかねぇ?

ウン右?(私は左利きなので、右左がとっさに判断できないことが多い)

九條武子著がなかったら、「華憂無」だと思ったかもしれない。「華、憂い無し」これも悪くない…などと、今、書いていてどんどん妄想世界に入っていく。

法語が載る「幼児のこゝろ」本文も、しみじみとしたいい話だ。

かつてどこかで読んだ九条武子から「麗人」という言葉が生まれた、も面白いけど、原典を知ってこそ、そこに用いられている歌が精彩を放つことを、改めて知った。

フェイスシールドは暑かったけど、いい時をいただいた夏の終わり頃…。

 蟪蛄(蝉)は、暑さ負けしてほとんど鳴いていないようだった。