得度式

 

8月4日(水)、得度式

 

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5日(木) 北國新聞朝刊

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毎日新聞朝刊

昭和34年(1959)の得度ー作文ー

 

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夏休みの宿題だった作文を提出したところ、題材・内容が珍しかったのだろう、国語の高瀬和子先生に呼ばれ、誰もいない教室で先生と二人、遊びたいのに何でこんなことしなければならないのだろうと、心ここにあらず状態のままかなり書き直し(させられた)ことを覚えている。

教室から見えた海の夕景もかすかな記憶となっている。

 

その時の作文が活字になっていることを知らずにいて、そのことに気づいた担任の砂山幸一先生が1冊くださったのだった。

 

 

京都に行きたかったけれど、昨日の午前中は別用があり、それから金沢までの運転、さらに電車に乗っていく現実を踏み出せる気力も体力もなし。

 

谷内正遠さん

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21021年8月 ほのぼのカレンダー(法藏館) 

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○石仏カレンダー  

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石仏カレンダー表紙 数部いただいた。送って頂いた小包の中に、下の下書きと見られるカレンダーも一部入っていた。

部屋に二つのカレンダーを並べて、ことば・版画をいただいている。

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○ほのぼのカレンダー

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下、今月7月。白山。

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『無碍の一道』と『光雲無碍』 

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まだ文は続くのだが、これらの本で手元にあるものを持って、河合谷慶専寺で開かれる版画展に出かけ、絵はがき・一筆箋を作ってよ…。

と言おうと思っていたのに………

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この本には、多くの谷内さんの版画が載っており、すごくいい本だ。

この写真は、谷内さんが本と共に送ってくれたのか、元々この本に添付されている写真なのか分からない。

アマゾン、日本の古本屋でも正遠さん編集『無碍の一道 谷内正順』は見つからない。市販されなかったのだろう。

写真にメモ書きをしなかったので、元が分からないのだが、この本をいただいたとき、幻の書となっている正遠さんの祖父・正順師の『光雲無碍』を再刊したものと思い込んでいた。(よくみたら貼り付けてあった。切り方も雑)

正遠さん逝去の衝撃の記事を見て、再刊本を探したら別の本だった。『無碍の一道』は『光雲無碍』に載らなかったテープなどを翻刻したとある。これも小さな衝撃。

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ひぐらしが鳴く能登のゆきどまりー山口誓子碑

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禄剛埼灯台 7月28日12時撮影

いろいろ整理していたら、「ひぐらしが鳴く能登のゆきどまり」の拓本が出てきた。

山口誓子については様々な情報を持っており、推進員勉強会、 蓮如法話の補助に使おうかと思ったが、狼煙で生かしてもらうのがいいだろう。

先日の推進員勉強会においでた狼煙区長さんに聞いたらー拓本があるなんて聞いたこともないとおっしゃっていたので、忘れないうちに届けようと狼煙に向かった。

 

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これがその拓本である。円筒の中にあった。

『伝説とロマンの里』で調べると、灯台が出来たのは明治16年

少年の頃、映画「喜びも悲しみも幾年月」を見

♪ おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす灯をかざす、

と(おおー、何も見ないで歌えた)友と大声で歌い、時に狼煙に行っては灯台守さんの姿を見て、映画の登場人物のような気分に浸ったものだったが、狼煙から灯台守さんが去り、無人化になったのは昭和38年のことだった。

昭和38年というと能登線が松波まで開通、翌年は蛸島までの全線開通、そして東京オリンピック。日本中が浮かれまくっていた頃、

おいら達を励まし続けていた歌の世界は、静かに幕を閉じていたのだった。

珠洲に千人以上の同級生がいた頃、多くが金の卵と言われて集団就職し、学校に残ったものは高校2年生の年だった。

 

麓の区長さん宅で渡すだけにしようと思ったのだが、句碑がどうなっているか、拓本との関係を見たくなり、できれば句碑と拓本を並べ、自分も入った写真を残せればと、「熱中症に気をつけて下さい」と連日有線が流れている中で、灯台に向かった。

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公園というか広場というか久しぶりにたどり着いて、見渡せど句碑が見当たらない。

7月28日夏休みなのに人影もまばら。

曖昧な記憶なのだが、この石畳の真ん中あたりに碑があったような気がしていた。

区長さんに電話して、彼の言うとおりに動いて見つけることが出来た。

 

次の写真が2007年8月20日に撮ったもので、現在右の鉄塔が無くなっており、そのため通路がずーっと右に寄ったため、かつては句碑の右横面(灯台の歴史が書いてある)が正面のようになったために、句に気づけなくなったのだと判明した。

探し方の下手さもあるだろうが、訪れる人は誓子句碑があることに気づかないで次の目的地に向かうのではないだろうか…。

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(2007年8月20日

 

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句は四角いレンガ塔の向こう側になる。

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禄剛崎は(灯台名は禄剛埼)、朝日が海からのぼり、夕日は海に沈む場所として知られる。

下の写真は昭和42年8月。夕暮時。

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 ウラジオストック772㌔、釜山783㌔、上海1599㌔、東京302㌔の方角・距離案内板もある。若者が見ている方向には佐渡がある。

佐渡は49里(江戸期の歌詞は45里)波の上…?

 

2007年には、次の碑文も建っていた。

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暁の蝉が聞こゆる岬かな 前田普羅

幽響院釋尼雅風(2020年4月20日)さん 

幽響院釋尼雅風(東条厚子)さん

昨年4月20日に亡くなられ、コロナ騒ぎの最中ではあったが、30日に、静かに手を合わせてきた。

坊守会引率という形ではあったが、恵信尼公の里、飛騨への研修旅行が出来たのは東条さんのお声かけがあったからだとの思いが強い。

私はどこに引率するにしろ、必ず一度コース予定を作り、実際に行ってみることにしている。

越後も、信州も、どこかに記憶にとどまっているのは、旅行を提案して下さった東条さんを中心とする方々のおかげだったのだなあーと、しみじみと浸っている。

去年30日に、お子さんとお会いし「東条厚子インタビュー

Littl Stories」という綺麗な冊子をいただいた。

瀟洒なネーミングに驚き、

15ページにご本人の字で

節目節目でいろいろな方に出会い

私の道を造る礎石となった皆様

 本当にありがとうございました。

とあり、

2020年1月に刊行されている。

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ガンが進行していて、余命わずかなのを知っていて書かれたに違いない。

-本当にありがとうございました。

そして、研修会に、いつも着物姿で参加され、着物が大好きだった方が、着物を畳まれる写真を添えておられる。

 

冊子が出来てきたそのころ

1月の17日。合同4組坊守研修会・新年会が七尾であり、着物姿の東條さんはいつものように座が和むように振る舞っておられた。

その日の講義で、ちょっと首をかしげなさった話を、次の講義で説明し、考えようと思っていたただ中の4月に先立たれた。

 30日に、冊子をいただいたのだが、ちゃんと目を通すことができなかったのである。

じっくり読み直してみると、中学校で英語の先生をなさっており、情緒障害児学級にも関わっておられていた。

そして、お嬢さん方に恵信尼公などと関係ある名や子供は仏様からのいただきもの・恵みであること意識した名を付けなさったという語りを読み、

あのころ(2010年)恵信尼公の里で、どんなにこころはずませておいでになったろうと想像しながら、

専慶寺さんへ寄った。

門主の署名のある法名「幽響院釋尼雅風 釈浄如」が、一年の時を刻んでいた。

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   東條さんのお寺・専慶寺さんは湯川の山腹に建つ

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本堂の後背部の山に墓地が見えた。32度程の暑い日だったが、墓地が見えるとふらふらと向かってしまうのは、病というしかない。

墓地からの光景は、この地に住み着いた人々の願いを伝える景観ともいえる。

青空がどこまでも広がっていた。

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整備された墓地に、水輪らしきものが一つ。

 

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    2010年6月10日、七尾・鹿島合同4組坊守会研修旅行

     ゑしんの里記念館(上越市板倉)。恵信公と関わる五輪塔前で。

 

 

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 2014年5月8日。庄川桜 ダムに沈んだ地にあった嘉念坊善俊開基の正蓮寺(1504年中野に復興したときから照蓮寺に改称)中野照蓮寺として堀端町に、高山別院照蓮寺は鉄砲町に法統をつなぐ。中野照蓮寺は真宗寺院の最も古い形を伝えている。撮影者西山

 東條さんは着物姿。

このあと、私を集合写真の一人に入れ、東條さんがシャッターを切ってくれた。

二宮 石動山道標石 2021年令和3年7月2日(金)

 二宮 石動山道標石

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中能登町二宮 第9番石動山天平寺 読めなくなっているところは、本社に続き「迠従是五十八町」だった。能登国三十三観音を40年以上調査してきた中で、「国定公園石動山登リ口 七・一KM」とすぐ後ろに案内板が立っていたころもあった。山門が見えるお寺は、真宗大谷派畠山山長賢寺さん。

 

前田土佐守家七代当主直時 

ところで、いつ誰がこの立派な道標を寄附したのだろうか?

そのことを書いた案内板は、見たことがない。

いろいろ調べて見ると、加賀藩二代藩主利長の弟・利政を祖とする前田土佐守家七代当主直時が、文政三年(1820)年に寄進したものである。二宮区有文書では「武運長久」を願ってとのみ記しているが、石動山伊須流岐比古神社文書には

 奉寄附
石動山神社
道標石
右為武運長久、心願成就所、寄附如件
文政三年庚辰春三月

 とあって、心願成就が見える。

文政3年は直時27歳。

加賀藩八家の一つ、土佐守当主(成立時1万1千石)が寄進した道標である。

土佐守家ゆかりの道標であることは私も初めて知ったが、

広く知られなければならない文化財であろう。

石材も笏谷石のように見える(この方面、疎い)。

 

能登はやさしや…

今は二宮口から石動山を目指す人はほとんどいないようだが、

元禄9年(1696)に御山(石動山)に参拝した加賀藩士浅加久敬(ひさのり)が、馬子の対応に感心して

このような馬子を育てる風土が、杵歌で唄われている

能登はやさしや土までも

なのか、

と紀行文『三日月の日記』に記した。

これが「能登はやさしや…」が記されたはじめであり、

さらに次代が下って土佐守の道標となると、

このあたりの歴史的深みは、

計り知れないと思うのだが……。(7月9日追記)

祖父・松谷明卿(1981年6月26日)

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        臥龍文庫前 7月2日

 

足元が分かっていない。

 

母はこの6月30日、満96才の誕生日を迎え、元気。

翌、7月1日朝日新聞(石川版)俳句欄に

電線に 並びかしまし 雀の子

が載って、意気揚々。

わからないことは聞いておかなくてはならない。

 

私が生まれたとき、当家には父母、祖母がいて、2年後に弟が生まれた。

祖母が1972年(昭和47年)9月15日に世を去るまでの23年間は5人家族だった。

父・外卿は七尾徳田・江曽妙楽寺・松谷家の三男に生まれた。

西山家には、1941年(昭和16年)7月4日、22歳の時に前坊守朝野の養子として西勝寺に入った。

朝野は、羽咋郡金丸随用寺に生まれ、旧姓朝倉。

昭和16年(1931年)1月9日に西山家を相続している。

父は、祖母を「おかあさん」と呼んでいた。

そして、私の記憶では、週の木曜日は父母と弟と親子水入らずで「ハナレ」で寝たが、他の日は祖母と二人で「ハッチョウマ」で寝た。

 

祖母のむかしがたり、子守歌を聞きながら、時には蛍が入ってくる部屋で、いつか眠りに入っていった日々の記憶なのだが、それは弟がほんの小さな頃だけだったのかも知れない。

しかし、その頃には、祖母が本当の祖母ではなく、だから-家族の中で孤立しないようー同じ部屋で寝なくてはならなのだろうと、口にはしなかったがそう思っていた。

 

そこで、船でしか行けないような遠い七尾のさらに奥の農村地帯に育った父を養子に迎えた祖母と、父はどんな関係だったのか?

生き字引の母も、正確なことは分からないという。

 

調べ出すと、朝野の兄・静雄が昭和16年10月20日から父が住職になるまでの間、当寺西勝寺の代務者になっている。

静雄氏は教如上人の由緒寺赤野井別院の輪番をしていたことがあり、昭和33年4月に、祖母・私たち兄弟と、静雄氏のお孫さん姉妹2人とで赤野井別院に数泊したことがある。

私が最年長11歳・小学5年生だった。

それとは別に祖母に連れられて京都付近へ何度か行ったことがあり、決まって本山前の油屋という旅館に泊まった。

檜の風呂があるいい旅館で、「金丸のおじいちゃん」も一緒のことが多く、親切にしていただいた。

今、思うに朝倉氏は、当時宗務役員か衆議会議員をしていたのだろう。

 

私たちが「おばあちゃん」と呼んでいた人が、本当の祖母ではないのなら、父方の祖父母がいるはずで、その祖母・冨尾は、父が11歳の時に世を去っている。

 

 

そして祖父・明卿は、1981年(昭和56年)6月26日、近くの山で遭難して亡くなった。

山探ししたが見つからず、夏になって発見されたはずだから、命日の6月26日は不明になった日なのだろう。

昭和56年というと、私は飯田高校で担任、野球部顧問、角川の地名辞典作りなどをしており、葬儀その他には全て参加しているはずだが、何一つと言っていいほど記憶に無い。

 

人身受けがたし…とあちこちで語っているのに、我が身のことについては知らないことが多すぎる。

祖父の命日を確認したのはついこの間のことで、これまで、お墓参りにも行っていない。

祖母・冨尾については命日さえ、まだ分からない。

 

とりあえずお参りからだ…

26日は行けなかったので、7月2日に手を合わせてきた。 

 

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能登国33観音第8番江曽観音堂 並んだ奥に妙楽寺住職家墓がある。

能登国33観音を調べだしたのも、父の実家に札所があること、早くに御詠歌を調べて見せてくれた、伯父・円明の影響があったのだろう。

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今、このお寺の住職は、円明伯父の孫が継承している。

※先日、金石の人からこの本が手に入らないかと電話があったが、今は古書でしか手に入らない。

 


 

究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。

究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。

父方祖父母のお墓、去年別れた東条さんのお寺を訪ね、写真を下書きに保存して、文を書こうと下書きを開いたら、表題の下書きがあることに気づいた。
2014年10月1日に書いたものである。
覚えに残しておく。(2021年7月4日記)


本を整理していて、
真宗大谷派大聖寺教区「蓮如上人五百回忌御遠忌」記念
 大谷暢顯門首御染筆」とある、綺麗な包装紙に包まれてある字を見た。

そこにあるとおり、大聖寺教区でシンポジウムに参加したときに頂いたのだが、勝手に御染筆コピーだと思いこんでいた。
御染筆とあって複写の言葉がどこにもないのだから、御門首の字なのに、
ついこの前まで気づかなかった。
染みが出来はじめていて慌てて表装した。
染み抜きも施され、30日、写真のように綺麗な軸に仕上がってきた。


この大聖寺教区御遠忌には、真継伸彦氏たちとシンポジウムを行い、それをきっかけに真継氏が我が家に泊まり、御示談を聞くため、中島蓮浄寺さんで行われた御崇敬にお参りしたのだった。


それにしても、本の整理をしなかったらそのままになってしまったかも知れない大聖寺での御遠忌記念。
いつのことだったのだろう?
当時のパンフが見つかった。
2000年9月2日(土)だった。


この日、私が最後に待ち合わせ場所の喫茶店につき、初めての方々と顔を合わせた。
お互いに知らないのだから、誰が一番年寄りなのか、といった話題になり、
たぶん西山さんが年配ではないかと話し合っていたとおっしゃる。

真継伸彦、伊香間祐學、そして私。司会は伊勢谷功氏(私の教師修練の時の師である)がなさった。

聴衆の中に、大聖寺高校の社会科の先生、その他の教員が聞きに来ておられた。
真継伸彦氏の話が終わると、彼らは帰っていった。その時、私が話し始めていた。

私でも、あの「真継伸彦を見てこよう(の話を聞いてこよう)」となるよな…。

真継氏は、
蓮如上人御遺言にある、病気に対して加持祈祷などをしない、それを守って真宗が現代に到っている、ことを高く評価されていた。、

覚えているのは、これらぐらいで、御染筆をその時に頂いた記憶は消えていたのである。

包みに大聖寺教区とあるので、そうだったなのだが、

この2000年は、
能登教区教区会副議長、珠洲焼資料館館長、七尾市史専門委員民俗部会長などの職にあり、
それぞれに忙しかった。

歴博の特別展・若山庄の準備にも関わっており、定期的な8組坊守会講師、「臥龍の集い」という夜の勉強会も行っていた。
5月13日の金沢教区同朋大会の講師をはじめ、講義もそこそこあった。

原稿の方も
「共同体とお年寄り」『老熟の力』早稲田大学出版(400字詰め原稿用紙28枚)
「昭和38年から43年の飯田高校の歴史」『飯田高等学校90周年誌』(120枚)
書評「宗教民俗研究」(25枚)

連載「珠洲の風物詩」1〜5「季刊能登」(10枚)
珠洲焼」「御影道中」『日本民俗写真大系』8 (4枚)
「阿部判官伝承」『若山庄を歩く』県立歴史博物館(22枚)
他に数点の新聞記事を書いている。

1つの行事が終われば、次々と先を見なくてはならず、終わった行事の余韻に浸っている暇はなかったのだ。

そのうち、忘却の彼方。

門首の書かれた「究其涯底」には、以下のような説明書が入っている。

大谷暢顯門首御染筆
究其涯底
この句の出典は『仏説無量寿経』上巻の「嘆仏偈(たんぶつげ)」(真宗聖典十一頁)の一句てある。
「嘆仏偈」は、四言八十句からなり、阿弥陀如来が法藏菩薩である時に、その師仏である世自在王仏の徳を讃歎(さんだん)された偈文である。
仏は、深く甚深の道理を窮(きわ)め尽(つ)くし、真実を完全に悟っておられるということであり、仏は私ー人間ーの本当の姿の奥底まで見きわめておられるという意である。

大谷暢顕門首は一九九六年に真宗大谷派第二十五代を継承され、法名を釈浄如、雅号を愚岳という。

※7月4日追記 

暢顕門首門主職を辞され、2020年7月1日から暢裕門主が26代を継承された。 

宝達山周辺

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        宝達山からの夕日-2007年8月25日  B地点

 

高尾城址 金沢市  A地点

金沢のホテルから、宝達山が見えた。ホテルは一向一揆の時の富樫政親が拠った高尾城のすぐ側にある。
高尾城と宝達山は呼応しあう位置にあったのだと、朝焼けからしばらく眺めた。
カメラは車の中なので、ノートにスケッチしてみたが、絵も下手。

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やっぱりカメラでないとピンとこない。時間はたっぷりあるので一枚写した。

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   A地点近く 撮影2021年6月26日

 

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 宮島峡 小矢部市 C地

能登一の高山・宝達山は熊野信仰の地で地図のC地帯は熊野三山(滝を含む)であり、近くに俊寛僧都の墳もある。

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        以上2枚 撮影2006年10月21日

 

気多社 羽咋市 E地点

また、Dの気多社いらずの森には古墳がある。その羨道口は宝達山に向いており、平国祭(おいで祭り)は随身門を通って1週間の平国行程を終えるのだが、
この随身門は、写真のように宝達山の遙拝所になっている。

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            正面が宝達山 撮影2008年2月2日

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             気多社随身門  2008年2月2日

 

大穴持像石神社  D地点

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  気多社のすぐ東(300m)に鎮座する大穴持像石神社の正面は白山である。宝達はやや左にある。 撮影2008年2月2日

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        大穴持像石神社には地震石がある。撮影2008年2月2日

 

能登一ノ宮気多神社は、宝達の乾に位置し、遙拝所だった。
このこと一つをとっても、古代聖・霊山として宝達があったことになる。
Cには竜宮もある。

 

 

その宝達と加賀領主だった富樫が築いた高尾城が艮、巽の位置にあって、朝焼け・夕焼け、月・星を眺め合う光景が、当時の人々にあった。

絵がうまい下手など、ぶっとぶロマン世界だ。

法藏館書店の『とも同行の真宗文化』、鈴木大拙『真宗とは何か』佐藤平顕明訳

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昨年6月に、『とも同行の真宗文化』を出版した。能登半島の先端で出版することが出来るのか?を問う試みでもあったのだが、印刷・製本は金沢の印刷屋さんにお願いし、あとは全て自分でやった。
発行所は臥龍山西勝寺内の自分の部屋『臥龍文庫』。
ISBN(International Standard Book Number)は『妙好人千代尼』の時に取得しており(『妙好人千代尼』のISBNは法藏館)それを用いた。

 

折角作ったのだし、「真宗文化」に関心がある人の目に付くようにしたいと思い、七尾きくざわ書店、穴水コメリ書店、飯田いろは書店、そして京都法藏館書店に少しずつ置いて頂いた。
先日、法藏館書店さんから連絡があり、20冊ようやく売れた、とのこと。
この本は一頁19行49字、400字詰め原稿用紙にして970頁のテキストのような本なので売れなかったら、残部を引き取るという条件で無理に置いて頂いたのだった。

 

それで、並べていただいたので、法藏館の書物を数冊購入しようと、綺麗な新装版シリーズを今一度検索した。

このシリーズは
『新装版 近代日本の親鸞 その思想史』『新装版 正信偈講話』上・下 『新装版 観経のこころ 観経の背景にある』の4冊を購入している。

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金子大栄『新装版 親鸞の人生観 教行信証真仏弟子章』、細川巌『新装版 唯心鈔文意を読む 信は人に就く』を求めようかと思い、元本がないか調べたらあった。
何度か、こういうことをしているが、装丁で印象がガラリと違うのが面白い。

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結局『真宗とは何か』鈴木大拙を購入した。

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同朋会推進員会協議会主催ー第10組研修・親鸞聖人に学ぶー、祠堂経

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                                  芝桔梗

 

そろそろ活動…。

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 今日は、「和国の教主 聖徳皇…」について、学び合う。

太子の三経義疏の三経選択は、在家仏教の視点に立つと、腑に落ちる…。

 

祠堂経ポスター

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