「とも同行の真宗文化」発刊 珠洲・西勝寺住職西山さん 「土徳」を掘り下げる 2020年(令和2年)11月26日(木曜日)富山新聞

『とも同行の真宗文化』を紹介いただいた。

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「とも同行の真宗文化」発刊 珠洲・西勝寺住職西山さん 富山新聞「土徳」を掘り下げる 2020年(令和2年)11月26日(木曜日)

 

記者氏とのやりとり(FB部分)

西山から記者氏 11月29日
新聞を贈って下さり有り難うございました。
連れ合いがわたしが富来に泊まっている間の昨日、記事を読んでおり、素敵な文だと言っておりましたが、まさしく本人以上に要を押さえた、素敵な内容・文です。
有り難うございました。
ことしの法話で出かけることもこれで終わり、御門徒報恩講参りを終えれば、家でほぼ閉じこりの冬期を迎えることになりそうです。
一茶を書いてみようかな、という気持ちが徐々に高まりつつあります。
そういう意味でも有り難うございました。

記者さんから
ご連絡ありがとうございます^_^
地域文化(特に北陸では真宗文化)の記録を紙面に残すのは北國新聞富山新聞の使命の一つと思っております(後世に対する責任もあります)
今後ともよろしくお願い申し上げます。

記者氏とのやりとり(部分)

 

富来「湖月館」で。授業で取り上げた教科書ー福永武彦「貝合せ」との再開ー11月28日(土)

 

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高校二年生用現代国語教科書―尚学図書

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「貝合せ」福永武彦。本文の「K館という宿屋」が湖月館である。

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中学校国語二 学校図書株式会社 教材―紀行「能登の貝がら」福永武彦が載る。

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太陽 特集 作家の宿 文学と出会うホテル、物語を生んだ宿41軒 1995年1月号 NO403 平凡社

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湖月館 女将・畑中幸子さん、福永武彦の文が紹介されている。

 

「太陽」 一九九五年一月号 No四〇三 平凡社刊 
特集 作家の宿  文学と出会うホテル、物語を生んだ宿 福永武彦

能登半島、西岸の富来町。断崖、奇岩の続く海岸線を北上すると、やがて増穂の浦という白浜が見えてくる。十一月から三月にかけて「貝寄せの風」が吹き、歌仙貝が打ち寄せられることで名高い。この土地に「好奇心を刺激させられた」福永武彦が、浜からほど近い湖月館を訪ねたのは、昭和三十九年十月だった。
 そこで「若いお嫁さん」が見せてくれた、さくら、にしき、いたや、なでしこ、わすれ……という名がつく三六種の貝の「詩的な美しさ」に魅せられる。
 その後も作家仲間や夫人を連れて訪れ、湖月館は福永武彦の大のお気に入りとなった。女将になった畑中幸子さんの手元には、贈られた歌やはがきとともに、多くの思い出が残された。
 湖月館では、雪の間に拾い集めた色つやのいい貝殻を小さなビニール袋に詰め、宿泊客に手渡してくれる。
小さな宿ならではの心のこもったサービスである。
P73

福永武彦の文
宿屋に戻って土地の俳人の句集などを繙いているうちに、バスの時刻になった。気の毒なほど安い宿賃を払い、お土産だという例のビニール入りの貝殻まで貰って、この素朴な宿屋をあとにし、北へ行くバスに乗り込んだ。
 今でも私は、その時の貝殻を並べてみては、湖月館というあの小さな宿屋と、むすめむすめした若いお嫁さんのことを、思い出すのである。(『遠くのこだま』『貝合せ』より)

 「むすめむすめした若いお嫁さんのことを、思い出す」と福永が書き、その後も何度も訪ねた旅館のー―元女将・畑中幸子さん。

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福永武彦田宮虎彦加賀乙彦犬養道子森崎和江、高田宏、伊藤信吉……など語り合った文人たちの思い出を話してくださった。

ノーベル物理学賞受賞者が泊まっていかれた思い出もあり(理解できなかったが…)日本海の波が打ち寄せ続けているような大きな文化の波に興奮しぱなっしの時をすごした。文学研究者よ!畑中さんの語りを残してくれよ!と思いながら翌29日朝のお話があるので、余韻に浸りながら床についた。

湖月館には老人会、四組研修会その他の折、何度か泊まっている。幸子さんはその頃のことも覚えていて下さった。それも夢のようだった…。

 

幸子さんは、今も変わることなく、活き活きと、素敵な女将さんを助け、旅人を迎えておいでる。

 

満日中28日~お浚い・絵解き説教29日

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旧富来中学校近くからの高爪。いつ通っても見えていたはずの山容が見えない。28日は時間に余裕があったので旧中近くをゆっくり通り、振り返るとー高爪が見えた。富来が待っているーそんな印象を抱いた。


28日当寺の聖人ご命日お勤め、その他を終え、再び富来へ向かう。

満日中の登高座、報恩講式・嘆読文拝読―その間、前日と同じように御門徒の方々が伽陀、文類偈・三朝浄土の大師等~如来大師の恩徳は…まで全てを唱和なさった。

大したものだ。

その後、御法話二席。

29日お浚い、絵解き説法

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絵解き用に、本堂の様子ががらりと変わる。このあと御伝鈔を置く台。ろうそく等が整えられる。

翌29日は朝7時過ぎからお浚いのお参り。

引き続き御伝鈔「絵解き法話」を行った。

下巻第五段。4幅目下から2段向かって左、3段目が第5段と対応する。

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常徳寺庭園。かつて『加賀・能登の庭園』(1992年石川県発行)で、この庭を書いたはずだ。

富来七浦と高爪

三日間で、なんと9枚の資料を同行さん達にお渡しした。

聞くだけでは用語の意味・用語そのものの字がわからなことがおおく、とくにフェイスシールド、聞く方のマスクは聞き取ることも大変だという事情から用意したのだが、ゆっくり同じ言葉をいいかえ伝わるようにする、点から言えば全くだめだったかかも知れない。

信心をいただいて歓喜にある人は弥勒菩薩と同じ正定聚に住すから、今回の和讃は始まっているので、像法期・海の修験を伝える中心地帯の富来七浦と高爪山の関係を見ていくために、今まで気づかなかったというか無視していた七浦から義経・弁慶、俊寛・康頼などが高爪を目指した伝承、竜宮・竜灯などの資料も多く用意したのである。

「釈迦の遺法ことごとく龍宮に入りたまひにき」「像季末法のこの世には緒善龍宮に入りたまふ」(正像末和讃)の具体的世界である。

その七浦・藤懸郷の中心が後の笹波、さらに鹿頭に独立していく常徳寺エリアだということが分かってきた。お寺の山号・嵯陀山も海の修験地をくさい。

 

そのこともあって、帰りは七浦の北を辿った。

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なんだー、これは

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振り返れば鳴き砂の浜、富来七浦へ。権現は正面の高爪権現だろう…。


 

 

 

 

鹿頭常徳寺さん報恩講・大逮夜・御伝鈔・改悔ー27日

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大逮夜 五十六億七千万~次第六首、淘五ッ。マスク・フェイスガード、区切りごとの一斉喚空気入れ替え~本堂・廊下の区切りは無し、と徹底したコロナ対策の元、真宗最古の本堂形式を伝える本堂で伝統的な報恩講が営まれている。

大逮夜(写真)

お説教

御伝鈔拝読(下巻)

改悔批判お説教

今日28日は、13時半から満日中法要。その後、御法話二席。

明日は朝8時からお浚いのお勤め。引き続き―絵解き説教―下巻第5段「熊野示現」の絵解きを予定している。

 

書籍ー秋深まる

17日霜月半ば過ぎだというのにその日も暖かかった。

イチョウの実を集めに外へ出ようとするとこれからのカマキリがいた。

季節全体は秋が深まりつつあるのに、個々のいのちの季節忘れ

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どこへ向かえばいいのか分からない…

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イチョウ。17日。この連休に葉もほとんど散った。

書籍

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『松香―喜寿記念文集―』石橋義秀氏より。

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『1000の言葉』方丈堂出版

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『照林坊史料集』法藏館。金龍静氏より。

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『仏法聴聞の一生』家山勉氏(1948~2017)。家山氏は石川県最南端の大聖寺高校、わたしは最北端の飯田高校教員時代、それぞれの分会長時代に知りあっったはずだ。10日金沢別院で「崇信」という新聞を見て、家山さんの著書があることを知り、手に入れた。彼の話は一度能登教務所で聞いたことがあるが、初めて彼に出会った気分になった。そこで彼の問いかけ、彼をはぐくんだ世界、ズーッと思い込んでいた疑問などを当時の先生方、『新編信国淳選集』、『誤解された親鸞の往生論』(小谷信千代)、『親鸞の往生思想

』(内藤知康)などで問い直したり、『児玉暁洋選集』注文のきっかけにした。

 

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『石川県埋蔵文化財情報』第42号

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同第43号。ことしのコロナ状況で会議はなく、一年の動きを2冊の情報で知る。

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『児玉暁洋選集』全12巻(法藏館)一括購入。奇麗な本だ。飾っておきたい―ではだめか。

購入したのは、家山本に後押しされてのことだが、購入きっかけを待ち続けていた感もある。

お取り越し(在家報恩講)時期が過ぎたら、冬期は読書にも精だそうーの柔らかな気持ち。









 

 

金沢別院 大谷婦人会金沢支部・報恩講。別院シンボルのイチョウと谷内正遠氏。 

11月10日(火)。昨年続き、大谷婦人会金沢支部報恩講でお話しさせていただいた。部屋に何種類かのカレンダーを飾っており、その中でも目立つほのぼのカレンダーの今月の絵が金沢別院(版画・谷内正遠氏)の秋でもあり、いつも眺めてはその日のくるのを楽しみにしていた。

実際、会長さんはじめとする関係者、聞法三昧の方々と信心歓喜に近いひとときをいただき、余韻にひたりつつ、今、また部屋でカレンダーを眺め報謝の秋に身を置いている。

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2020ほのぼのカレンダー11月。別院山門、シンボルの大銀杏。絵・文字谷内正遠氏。別院事務室に原版画が飾ってあった。

 

 

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来年度

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2021年令和3年石仏カレンダー※上半分。正遠氏より

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『無碍の一道』平成28年探求社刊。正順師は明治19年~昭和43年。九歳の時眼病に罹り不自由な中で現七尾高校卒業。東大を主席で卒業。松本高校、大谷大、京都大、大阪商大などで教鞭を執り、大谷派教学研究所長、中央修練道場長なども歴任。正遠氏の祖父に当たる。この著は正遠氏のさし絵・木版画のほか貴重な写真が入った、硬い学に柔らかさが混じった一書になっている。(同じく正遠氏より)

※参考

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尾山御坊・別院のシンボルが銀杏と言うことで、ブックレットを出版(1998年12月)するにあたって、「おやまブックレット」と題し、聞いたことのあるような無いような言葉だったがロゴを付けようという話になった。そのロゴが銀杏の葉と組み合わせた斬新なものになった。別院と銀杏は、わたしにとって人一倍親しい世界なのだ。カレンダーにはどこの光景かは記されていないし、横安江町商店街が門の外にある光景として金沢別院門と銀杏を見ている方もおいでになるのだろう。

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おやまブックレット1が出てから、もう22年。この間に6冊ぐらい出版されたはずだ。『蓮如上人と伝承』のみが絶版。挿入写真の中には新幹線によって光景が変わってしまった伝承地写真もある。著者として、このままにしておくのは惜しい。350円と値段も手頃だし、第3刷を考えなければならないのかも知れない。

 

報恩講前日

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ポスター

今年は各町内の張り出しを取りやめ正面と国道沿い城山下にだけ用意した。

門徒・孫門徒さんにはこのあたりの風習としてカンブクロ(紙袋)、はがきでの案内。

今年は「お斎」は無し。

じっくりと振り返り、歩む。

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3日午前中。あと、4日からは仏旗も彩る。

 

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飯田城山を背景に。

欅二本、くねくねとのびていた榎などを伐採したのだが、違いに気づけない。

あらためて 虎石墓についてー 

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28日報恩講にお参りし、祖父母・叔父のお墓に手を合わせてきた。照福寺住職家の「虎石墓」が、後背の山から本堂側に移転してあった。かつて、この墓について以下のように書いたことがある。

 三 葬送 無墓石制

1 四門 虎石墓 無墓石の地

虎石墓と四門

泰澄ゆかりの輪島の神田山 輪島市石休場(いしやすみば)町地内に、上野山と呼ばれる舌状丘陵がある。そこには地名の由来となった、泰澄が一休みしたという石が残されている。
 泰澄は、かなたに見える神奈備(かんなび)(=霊山)の様相を呈する鉢伏山系神田(じんだ)山に分け入り、そこに八華山補陀落(ふだらく)寺や粉川(こかわ)山観音寺を建立したという。補陀落山は天竺(てんじく)南方にある観音浄土。日本では紀州熊野あるいはその南方海上が名高い。
 両寺は現存していないが、浄土真宗の幾つかの寺は、山から輪島市稲舟や杉平へ移り、さらに中心地へ移転したとの伝承を持つ。また、曹洞宗横地の粉川寺は当時の名を継承しているし、石休場町の浄土真宗上野山照福寺が建つ地は、神田山から移った所であるという。この照福寺に二つの注目すべき遺物がある。
 照福寺裏手の山に、歴代の寺関係者の墓があり、「虎石墓」と刻まれている。
墓石は江戸時代末のもので、台座の石が虎石と称されていたものらしい。
 泰澄の腰かけ石など、高僧や英雄に付会されて伝えられる石は、往々にして神仏の示現する霊地や祭祀(さいし)場であった。一方虎石の虎という名は、曽我十郎の妾(しよう)「大磯の虎」に代表される、遊行比丘尼の称であったとされ、女入禁制の霊山へ登ろうとした比丘尼が化した石だと伝えるものに、虎石と呼ばれるものが多い。
 すなわち、ここには真宗以前のこん跡が見られ、さらに女人結界石(虎石)の下方に寺が位置することにおいて、性による区別を脱却しようとした民衆宗教の一面目をも感じとれる。
四門 他の一つは、おそらく全国的にも例の少ない、葬儀における「四門(しもん)」があることである。宗教史でも民俗学のうえでも、寺院自身の葬儀についてはあまり語られない。いわば、盲点ともいうべきところに存在していた。
「四門」額と出合ったのは、十三年前、照福寺前住職の葬儀に.参列した折のことであった。
 釈迦出家の機縁となる四門出遊の説話、、「いろは歌」に訳されたとされる四句偈(げ)など、仏教と四との結びつきは深い。四門の場合、もちろん仏教化されてはいるが、仏教以前のものが、その背景にあるとされる。四門とは、葬儀に際して四方に立てる門のことで、古代の葬制の殯(もがり)にその元をたどることが出来る。
 死者の復活を願って死音を安置する、つまり通夜の起源とも言うべきものが殯。この殯の場と俗界とを区別するために設けた忌垣(いがき)の四方に、門を設けたのが四門と言われるものである。
 のちに密教で盛んに用いられ、四門として発心・修行・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の額を掲げた。古いものでは、中世の具体例を「熊野那智曼茶羅(まんだら)」によって見ることができる。
 この四門の葬制は現在も残されていて、近県では庄川上流、岐阜県大野郡での例が、富山県の民俗研究者・高谷純夫氏によって報告されている。棺を担いでグルグル門を回るという所もあり、死霊がもとの所へところへ戻らないようにするのだと言われたりする。が、死者に発心から涅槃への過程を歩ませる儀礼と考えるのが妥当であろう。
 照福寺の四門は、本堂の四方、本尊側に「教門」、蓋(がい)(=ひつぎ)に向かって左測に「行門」、右側に「信門」、蓋側に「證門」と書いた額を掲げる。親鸞の著した「教行信証」を四つに分け、門としているところから、これも真宗のもつ世界を巡って、浄土へ還っていくものと意識されていたのだろう。
 この四門は、中陰(四十九日)を過ぎると取り外され、同寺には四代前からの四門額が保存されている。ここにも、前真宗的なものが生き続けている。
 虎石・四門の事例は、神田山ろくの歴史、風土を抜きにしては考えられない。さらに同市の河原田川を約二・五キロさかのぼると、隠野(こもりの)を意味し、こういった境界と深いつながりを持つ熊野という集落がある。
 泰澄・虎・神田山・熊野・四門を結ぶ一つの糸は、中世的なものをよみがえらせ、語りかけてくる。四門のような特異な例は見いだせなくとも、このような世界はあちこちで気づかされるはずである。
 ある地域全体に流れるものが見えてこそ、私たちは地方を見なおし、そこに生きる意味を考えることができる。しかし、近年の観光化の波は特殊な個、例えば祭礼のある協分をショー化していくような傾向を拡大させた。その結果として、それをはぐくんできた歴史風土を切り捨て、画一化し、生活の伝わってこない場へと押し流しているように思えてならない。
 非日常やうるおいを求めて旅する、現代の遊行人に、神田山ろく的世界が、より豊かなしみじみとした問いかけをしないものであろうか。
[出典]「奥能登に見る真宗以前―古代葬制継ぐ四門額」北國新聞「文化」欄 昭和五十六年(一九八一)五 月二十一日

祖墳上の虎石

 親鸞聖人の「念仏の息たえましましおわ」られた禅房は、「押小路南、万里小路東」(御伝鈔)にあった。そこには聖人が愛でた「虎石」があり、この故実により一帯は虎石町(中京区)名を名告っている。
 虎石はそのものは、聚楽第を経て、寛文十年(一六七〇)に造営された東大谷(大谷御坊、大谷祖廟)の祖墳上に置かれた。宝永六年(一七〇九年)のことである。先に書いた石休場照福寺住所家の虎石を、山岳信仰と関わる「虎石」と見たが、その後、各地で、祖廟を模した形の墓上に虎石があるのを知った。虎石墓があるのは、住職家の墓石で、講師・擬講など本山と出入りすることの多い僧を輩出した寺庵に多い印象がある。以下、虎石墓があった墓地をあげる。住職家とはいえ、個人家の墓なのでエリアで記す。
 鶴来町親鸞聖人廟所(九基)、白山市松任(四基)、金沢四十万霊寶山(蓮如上人御墓所)、白山市粟田、金沢市米泉、宝達志水町中能登町志賀町(二個所)、飛びすぎるが高山市内にも一基あった。

 

 以上『とも同行の真宗文化』324頁~327頁

 

「虎石墓」の成立時期を考える

大谷本廟にある「虎石墓」をまねて末寺(住職家)墓石に虎石を安置してあるのを時々見かけるが、大概が学僧などで本山に出入りした経歴を持つ住職を輩出した寺庵である。

今度28日に、あらためて照福寺「虎石墓」にお参りしたのを機に、そのことについて考えてみる。 

常徳寺三代の学僧たち
(二) 義観、得住そして玄寧
 (前略)常徳寺(眞宗大谷派・富来鹿頭)十五代を継いだ得住は加賀の人で、在家出身だった。
 十五才で上洛し、学寮に学んだようである。常徳寺の経蔵の中にこの人が十五才の時の深励の講義の聴講録『選択本願念仏集』がある。
 また十七才の時には『大乗五葱論』を読んでいる。末尾の頁に読了の日付を得住が自から入れていることでそのことが知られる。この書はインドの天親の著で、西暦六四二年に玄奘三蔵によって漢訳されたものである。
 得住の師は霊?だった。霊?はとりわけ哲学的解釈の学風を持った学僧で晩年は失明したが、著しくおとろえていく視力の中で学問をきわめ、「講師」職を拝命した。得住はこの霊?門下の鬼才といわれた。
 この得住は義観の安居講義の二年前(天保六年、一八三五)に安居で講義していた。講義は『入阿毘達磨論』だった[註「真宗大系」第三十七巻、『学寮講義年鑑』二百十四頁]。これは具舎の学問の書である。そして現在も仏教学の研究において重要視されつづけている書物である。天親の著述とされるが学界ではいまでも定説はない。そしてインドで成立したとされるが、原本がどの言語で書かれたか不明である。玄装三蔵によって六五八年に漢訳されている。仏教の経典や哲学書には、よくこのようなことがある。原典が失なわれているが、他の言葉に「訳されたもの」が残っているというのである。
 さて得住の常徳寺入寺の時期はさだかではないけれど、義観の死去の年は、得住四十七才だった。あるいは得住は五十才頃までに入寺しているのかも知れない。
 得住は実は義観の死去の翌年(天保十年、一八三九)と翌々年(天保十一年、一八四〇)二年つづけて安居の講席を果していた[註『学寮講義年鑑』二百十六~二百十七頁]。そして天保十三年(一八四二)には「擬講」に転席(昇進)している[註『大谷派学事史』七十三頁]。 得住は、「自身の中で、ものを生み出す精神の時期」に常徳寺へ来たことになる。西欧の心理学では人間の五十才代を「志向の著しさという」という場合がある[E.H.Erikson"Identity and the LifeCycle" International University.N.Y,七十三頁 ]。得住は門徒の人々にとって義観の死をのりこえさせてくれるほどの人物だったのかも知れない。この得住はやがて自分の門下生を養子として常徳寺へ入寺させた。玄寧であった。
 玄寧は輪島の照福寺の息男だった。そして得住との年齢差は二十才であった。
 この人もまた安居の講席を果たす秀才だった。それは明治元年(一八六八)の夏の安居だった。玄寧がおこなった講義は『大日経住心品口之疏紗』全八五巻である[『学寮講義年鑑』二百三十四頁]。『大日経住心品疏』の註釈書であった。実は常徳寺の経蔵の中に、この玄寧の蔵書がおよそ半分を占めるのではないかとおもわれる。そしてその蔵書の特徴は、養父得住の「講義録」の清書、また玄寧自身の著述『因明正理論門論聞書』が目を引くし、安居講義の問題意識からか真言宗密教に視点をむけていた人のようである。加えて明治初期の人であったためとおもわれるがキリスト教批判の書物に玄寧の蔵書印がある。
(高畑崇導著『常徳寺三代の学僧たち』平成二十年、常徳寺刊)

 補注・考察
 高畑崇導はマクギル大学(カナダ)大学院修了 歴史哲学、宗教学専攻。著書に『北陸の学僧碩学の近代 存在証明の系譜』(2018年北國新聞社刊)など。
高畑さんに直接お聞きしたところでは、虎石墓のある照福寺から常徳寺に入寺した玄寧は照福寺次男で、照福寺を継いだ長男静継、三男玄風(米沢へ)、四男玄和があった。玄和は飯田西勝寺に入寺しており、西勝寺書上に「玄和 西勝寺第十七世 安政七年庚申年ヨリ文久三癸亥年マテ住職四ヶ年」、系譜に「為物印釋静祢玄和法師 文久 七月九日 照福寺?後見入寺」とある。
 西勝寺は当寺で玄和は何台か前の住職のようだが、高畑氏の文に出てくる天保頃から明治にかけた時期に「虎石墓」が照福寺住職家墓として建てられのだろう。
 わたしが子供の頃から知り、「虎石墓と四門」に書いた頃は、本堂後ろの山が墓地でその一番奥まったところに虎石墓があった。
 なんとなく彫りもはっきりせず、質素な墓だと思っていたのだが、この二十八日に改めてその場所に向かおうとして、境内はずれの納骨堂近くに移転してある墓に出会った。
 改めて光の当たるところで見ると石もいいし、彫りも薬研彫りに近く、堂々たるものである。元地にあるとしたら墓石が相当欠けているに違いないとの思いは、見事に外れ、さすが「虎石墓」を建てるほどの本山とつながりのある学者を輩出したお寺だったのだと改めて感心した。
十一月二十七日~二十九日、常徳寺さんで報恩講法話に出向する。
昔の話で、特に私たちのつながりはないが、あらためて法縁を語り合ってきたいと思っている。

 

 

 

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28日親鸞聖人ご命日

 

 


来月28日は御正当。

一ヶ月前のこの日、各寺で報恩講満座のお参りが行われている。

当寺は来月4日~8日。

この日は、午前中輪島石休場の報恩講

午後門前吉浦の報恩講にお参りする尊い縁を得た。

かつて坊守会でお会いしていた懐かしい方々とも会うことが出来た。

 

写真は帰りの日本海夕景。

爾時佛告 長老舎利弗 従是西方 過十万億佛土

有世界 名曰極楽 其土有佛 

阿弥陀 今現在説法(阿弥陀経無量寿経では極楽は安楽・国)

 

世俗の君子降臨し 勅して浄土のゆえをとう

十方仏国浄土なり なにによりてか西にある

鸞師(曇鸞和尚)こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして

いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず

 親鸞聖人作高僧和讃曇鸞和尚

 

 

智慧浅きどころではないわたしは太陽の沈む「西方」に浄土をいただく。

我が家からは阿弥陀山・宝立山方面、すなわち山々に日が沈む。

同じ珠洲なのに、外浦へ行くと海の反対方向に日が沈む

―どうしても方向感覚がうまく育たない。

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曽々木海岸窓岩。岩の窓は義経の放った矢によってだとか、この海岸、岩は岩倉観音・白山神の寄り浜、依り代だとか多くの伝説がある。

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真浦・逢坂から。28日17時17分。

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同。この先の岬は危険なので回ることは出来ない。その先端に続くのが千畳敷

 

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『歳月能登』御園直太郎写真集1993年刊。千畳敷の落日―この写真を用いたポスターが1962年国際観光ポスターコンクールで最優秀賞を受賞した。

参考 真浦道~逢坂

『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』石川県教育委員会 平成9

 

年刊 西山執筆

 浜道は、上道に登る地点より、さらに二八〇m先で国道と分かれ右に入る。
 一四〇m先の山腹に海月庵があり、地滑り時に当地に残った数戸の内の一軒と伝承し、寛文一〇年(一六七〇)の村御印や安政二年(一八五五)の真浦村飛脚札を所
蔵、天保七年(「八三六)には宝田敬が『能州日暦』を著すおりに泊まった南家、御塩蔵跡地、真浦の草分けで明治六年に退転した天正期扶持百姓の刀祢家など
が軒を並べていた。
 能登十七作物名薬師の一つである浜上薬師も刀祢家上の台地にあったと推測される。
 浜道は、現在逢坂燧道口で国道と交わるが、昭和三〇年に現隧道より七〇mツバ崎寄りの旧隧道が完成するまでは峠道をたどった。
 峠へは、井上商店横を右に折れてすぐ左折し、若子祭りを伝える真浦白山神社の東下を通って神社後方の道に出、さらに一四〇m西の地点から峠越えをした。
 上道もジョウノコシへ向かう道を左に折れ、神社西上から同じところに出た。
 浜からは四二〇m奥になる。
 この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられて
いた。
 紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
 特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
 途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。