仏御前の里―祇王・祇女と五逆の譬喩

8月1日に小松教務所の暁天講座を終えた後、平家物語祇王」の中心人物・仏御前の里・原が小松教区内だったことを思いだした。

この祇王の母・「とじ(刀自)」が、自ら命を絶とうとした祇王に、老いた身が子がいなくなって生き続けることは出来ないーそれは親殺し・五逆罪にあたると戒め、自害を思い止まらせる。

弥陀の本願、第十八願の抑止文「唯除五逆 誹謗正法」の五逆を説明するのに、最高の喩えが、祇王・祇女・仏・刀自をめぐる「あはれなりし事どもなり」(平家物語祇王」末)の物語だと思っている。

 

その本文を引用し、仏御前の里・原を記録しておく(12日に訪ねた)。

祇王(『平家物語』)

 さやうの事

(とは、清盛を訪ねてきた仏御前を追い払おうとする清盛に、一度会ってみたらと勧めたところ、すべて―みめ形・声・舞―が美しい仏を愛でこころをうつした清盛は、祇王に暇を出す。祇王は「もえ出るもかるるもおなじ野辺の草いずれか秋にあはではつべき」と泣きながら障子に書き付け宿所に帰る。翌春清盛は使者を立てて、仏御前がつれづれげに見えるから、参って今様をうたい舞を舞って仏を慰めよ、という。母刀自は、覚悟を決めている祇王を説得し、清盛の元に向かわせる。独りで行くのはあまりに辛いため、妹祇女を具し、泣く泣く「ほとけも昔は凡夫なり我等も終には仏なり いずれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」と詠った。」満足した清盛は、これからは召さじとも常に参って、仏を慰めよという。この世にあれば辛い目に会わねばならない。もう身を投げよう、というと祇女も私も一緒に身を投げます、という。母刀自は、参って慰めよと説得したのは、お前の訴える切ない思いが、)

 

 あるべしともしらずして、けうくん(教訓)して、まいらせつる事の心うさよ。但わごぜ身をなげば、いもうともともに身をなげんといふ。二人のむすめ共にをくれなん後、年老をとろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、我もともに身をなげむとおもふなり。

 いまだ死期も来らぬおやに身をなげさせん事、五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりのやどりなり。
 はぢてもはぢでも何ならず。唯ながき世のやみこそ心うけれ。今生でこそあらめ、後生でだにあくだうへおもむかんずる事のかなしさよ」と、さめ〴〵とかきくどきければ、祇王なみだをおさへて、「げにもさやうにさぶらはば、五逆罪うたがひなし。さらば自害はおもひとゞまりさぶらひぬ。かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。いまはたゞ都の外へ出ん」とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。
 いもうとのぎによ(祇女)も、「あね、身をなげば、我もともに身をなげんとこそ契しか。まして世をいとはむに誰かはをとるべき」とて、十九にてさまをかへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞあはれなる。
 母とぢ是を見て、「わかきむすめどもだにさまをかふる世中に、年老、をとろへたる母、しらがをつけてもなににかはせむ」とて、四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、いつこうせんじゅ(一向専修)に念仏して、ひとへに後世をぞねがひける。

 かくて春すぎ夏闌(たけ)。秋の初風吹ぬれば、星合の空をながめつゝ、あまのとわたりかじの葉におもふ事かく比なれや。夕日のかげの西の山のはにかくるゝを見ても、日の入り給ふ所は西方浄土にてあんなり、(略……たそがれどきも過ぎ、親子三人念仏していると、竹の網戸をほとほとと打ちたたくものがいる。魔縁ではないか?と思いつつ網戸を開けると、)

 

仏御前ぞ出で来る。
 祇王「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かや、うつゝか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申なり。もとよりわらはは推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、祇王御前の申状によつてこそ、めしかへされてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとゞめられまいらせし事、心ううこそさぶらひしか。
 いつぞや又めされまいらせて、いまやう(今様)うたひ給ひしにも、思しられてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思ひしかば、嬉しとはさらに思はず。

 障子に又「いづれか秋にあはではつべき」と書置給ひし筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其後はざいしよを焉(いずく)ともしりまいらせざりつるに、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつてのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。つく〴〵物を案ずるに、娑婆の栄花は夢のゆめ、楽しみさかへて何かせむ。人身は請けがたく、仏教にはあひがたし
 此度、ないり(※奈落・地獄のこと)にしづみなば、たしやうくはうごう(多生曠劫)をば、へだつとも、うかびあがらんこと事かたし。

 年のわかきをたのむべきにあらず、老少不定のさかいなり。出るいきのいるをもまつべからず、かげろふいなづまより、なをはかなし。一旦の楽みにほこって、後生をしらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かくなつてこそまいりたれ」とて、かづきたるきぬ(衣)をうちのけたるをみれば、あまになつてぞ出來る。

(略、「仏御前)

ことしは纔(わずか)に十七にこそなる人の、かやうにゑど(穢土)いとひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、まことの大だうしん(道心)とはおぼえたれ。うれしかりけるぜんぢしき(善知識)かな。いざもろともにねがはん」とて、四人一緒にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそありけれ、四人のあまども皆往生のそくはい(素懐)をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法王のちやうかうだう(長講堂)のくはこちやう(過去帳)にも、祇王・祇女・ほとけ・とぢらが尊霊と、一所に入られけり。あはれなりし事どもなり。

 

 

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仏御前荼毘地へ。右の地蔵龕、左の五輪塔。この五輪が珍しい。火輪の全部に火輪をあらわす梵字(ラ)が陽刻されている。


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仏御前は永暦元年(1160)1月15日白河兵太夫の娘として原町に生まれた。

幼少の頃から美人で歌舞に長じて、仏を信ずること厚かったので、仏と呼ばれていた。

14才の時に京に上り白拍子となり、時の権力者、平清盛の寵愛を一身に集めた。以前から清盛に仏御前を紹介した祇王・祇女の姉妹は世の無情を感じて嵯峨野に尼となったのを知り、自らも報音尼と称して仏道に精進した.安元元年(1175)仏御前が17才の時だった。

翌年、原に帰って小庵にこもったが、治承4年(1180)8月18日亡くなった。仏御前の庵室のあったところを午前様屋敷といい、三基の墓石が残っている。

墓石は左から、供養碑、供養祠、墓石と伝えられている。中央の祠は昭和20年代に別の場所から、30年代に「御前様屋敷」の地名が残る現地に移された。

 

『真宗教化と民衆―習俗(民俗)・文化』その後


 『蓮如真宗行事』(1990年・木耳社刊、のち『蓮如真宗行事―能登の宗教民俗』1998年刊)から昨年の『妙好人千代尼』(法藏館)の間に書いたり取材を受けた記事などが、どこにあるのか分からない状況になっているのでまとめておこうと取り込みを始めたのだが、6月各地にお話しに行くことが続き、その後は暑さ、お盆などで遠ざかっていた。

作業を再開しはじめ、感触では半分近くプリントアウトした。

数えてみると654ページ。倍になるとすれば1300ページになる。手に入りにくい真宗関係の論?を500ページくらいの本にまとめて関係者にあげようぐらいの気持ちで始めたのだが、全体そのものが基本データーとしての意味がある。これは、そのまま形に残しておいて、そこから絞ればいい。

ということで、全体は全体として数部作り、そこからジャンルごとの基本的なものを500ページほど、選ぼうと思う。

今日は口能登で講義があり、明日は金沢でお参り。

ついでに、一向一揆資料館、福光(棟方志功)、原・仏御前の地などを巡ってこようと思っている。

帰って続きをすぐに進められるよう、経過を「その後」として記した。

 

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例えば「蓮如習俗論」のセットには、習俗論の18ページのほか24論・文をまとめてありぞの計が162ページ。他も同じ。

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「幻のユニフォーム甲子園歴史館に(谷村誠一郎先生)」、「西のぼるさん全国デビュー40年」

 

 

 

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今年は星陵が強かったこともあってか、星陵・簑島戦の話題が新聞紙上を賑わした。その中心に、谷村さんのユニフォーム話があった。今朝大きく載っており、事情がよく理解出来たし当時の想い出がかなり蘇ってきた。谷村誠一郎さんの初任校が、当時私が勤めていた飯田高校だった。勿論彼は飯高野球部監督で、簑島戦のことやマネージャー生活の話など、いろいろ聞いた。当時のさわやか教師がろう学校の教頭・・・。そして、唯一の貴重なユニフォームを寄贈―感無量。私は長年野球部部長だったが、谷村さん時代はどうだったのだろう?教員を辞めて来年が満30年。それ以前の話だが、つい近年まで賀状のやりとりはしていた―。いい話に出逢わせていただいた。


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西のぼるさん全国デビュー40年。美への巡礼。風景画が中心10月27日まで。いい絵に出会える。行ってこよう・・・。西氏とは中学校からの同窓生。

 

『恩徳讃ものがたり』海谷則之氏著、 無常講式(後鳥羽天皇作)

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『恩徳讃ものがたり』7月4日、林智康師からいただく。『花すみれ』をお送りしたのでそのお礼。「恩徳讃」が『日本の唱歌』に載っているとあるので、古本を購入。「無常の思いを超えて」とあるところから「白骨の御文」と後鳥羽天皇の「無常講式」を扱っておられるので、その方面も調べて見た。


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『白骨の御文説教』藤岡了空師著、明治41年法藏館。パラッと見たところでは無常講式には触れていない。『御文聞記第二巻』広瀬惺氏著真宗大谷派能登教務所刊。『存覚法語』『無常講式』に触れておいでる。


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日本の唱歌(上)~(下)。下の最後に「恩徳讃」(親鸞聖人作、清水脩作曲)が載る。他の仏教聖歌は御詠歌、札打和讃、往生和讃、四弘誓願を載せている。


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唱歌集には慈鎮和尚の「はるのやよい」も載っている。解説がいいので紹介。

 歌詞は慈鎮和尚の個人の歌集『拾玉集』に「今様」と

 

して掲載されている作品。慈鎮和尚は鎌倉初期の歌人であるから、随分古い歌をもってきたわけであるが、春夏秋冬のそれぞれの興趣を簡潔に歌いあげたもので、『徒然草』の第十九段、「折節の移り変り」を思わせる、千古の傑作である。他の歌詞と比べても、少しも古臭さを感じさせない。渋沢秀雄氏は、日本民族が幾世紀に亘って培ってきた仏教の諦観「もののあわれ」のフィルターを心のレンズにかけて、月・雪・花を写した芸術写真と評している。歌詞には多少異同があり、第一節の第四行は、人によっては「かからぬ峰ぞなかりける」とし、第二節の第四行は「名乗りして」とする。第三節の第二行の「半ばは」の「は」は削ってあることもある。
 歌詞に比べると曲の方は見栄えがしないが、まだ洋楽に親しまなかった、当時の雅楽人が、西洋の歌はドで終るものなのだとか、第一行・第二行・第四行は、大体同じような旋律に作るものだとか心得て、恐る恐る試作したものであったろう。また、次ぺージにあげたような節でも歌われることもあったようで、この節は、讃美歌の「悔改」という曲にも採られた美しい日本的旋律である。上段の曲は明治二十九年の『新編教育唱歌集』(第二集)に再び採録されたが、あまりよい出来ではなく、歌詞が泣きそうな曲であるが、伊沢修二が第一高等学校の唱歌の教官だったころの追憶談に、第一高等学校の体操の教官に松岡某という人がいて、日ごろ唱歌を歌うなどは、柔弱で何ら教育の上に役に立たないと言ってい た。ところがかれが生徒を引率して行軍をしたところ、その帰路生徒一同大いに疲労したが、誰からはじめるともなく、この曲を歌い出し、一同これに和したところ、いつの間にかやすやすと帰校できた。松岡某大いに感心し、自分の不明を伊沢にわびたと書うことであるが、この歌の歌いやすさからそういう効果もあったのだ。この歌は、二二(九の間違い)ぺージにあげた越天楽今様の節でも歌われたもので、断然その方がよかった。

慈鎮和尚(一一五五―一二二五)は、在世中の名は慈円、慈鎮はその諡名である。関白藤原忠通の息に生まれ、九条兼実らの弟、名門の出で、天台座主の職をつとめた。和歌としては、「おほけなく憂き世の民に覆ふかな……」が百人一首にも取られて有名である。当時の芸能人たちのパトロンの役をもつとめ、『平家物語』の成立に力があったことが『徒然草』に見える。自分自身、『愚管抄』という歴史評論を俗語をまじえて書いており、多才の人だった。

 

 

 無常講式(後鳥羽天皇作)[ウィキペディア]より

後鳥羽天皇御作無常講式
第二段
擧世如浮蝣。于朝死于夕死別者幾許哉。
世こぞって蜉蝣かげろうの如し。朝あしたに死し、夕べに死して別れるものの幾許いくばくぞや。
或昨日已埋 槽涙於墓下之者。
或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。
或今夜欲送 泣別棺前之人。凡無墓者人始中終、如幻者一朝過程也。
或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。
三界無常也。自古未聞有萬歳人身。一生易過。在今誰保百年形體。
三界無常なり。古いにしえよりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に在ありて誰か百年の形體を保たん。
實我前人前。不知今日不知明日。後先人繁本滴末露。
實まことに、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴しずく、末の露つゆよりも繁し。
指厚野爲獨逝地築墳墓、爲永栖家。燒爲灰埋爲土。人成之終之資也。
厚野を指して獨り逝地に墳墓を築き、永く栖家となす。燒けば灰となり埋めて土となる。人の成りゆく終りの資すがたなり。
嗚呼。撫雲鬢戲花間朝。百媚雖難別、先露命、臥蓬下。夕九相皆可捨爛一兩日過者悉傍眼。
ああ、雲鬢を撫でて花の間に戲たわふるは、朝あしたに百媚と別れ難しといえども、露の命を先立ちて蓬の下に臥す。夕ゆうべに九相みな捨つべし、爛れて一兩日を過ぐる者、悉く眼を傍そはむ。
臭三五里行人皆塞鼻。便利二道中白蠕蠢出。手足四支上青蠅飛集。
臭くして三五里を行く人、みな鼻を塞ぐ。便利二道の中より白き蠕むし蠢き出で、手足四支の上に青蠅飛び集まる。
虎狼野干馳四方、置十二節於所々。鵄梟鵰鷲啄五藏、投五尺腸於色々。肉落皮剥但生髑髏、日曝雨洗、終朽成土。
虎狼・野干は四方に馳せて、十二節を所々に置きて鵄・梟・鵰・鷲は五藏を啄くらひて、五尺の腸はらわたを色々に投ぐ。肉は落ち皮は剥げ、ただ生なましき髑髏、日に曝し雨に洗はる。終に朽ちて土と成んぬ、
雲鬢何収。華貌何壞。眼秋草生。首春苔繁。白樂天云、「故墓何世人。不知姓與名。和爲道頭土。年々春草生云云。」
雲鬢何いずくにか収まる。華の貌かんばせ、何いずくか壞るる。眼には秋草の生おひ、首には春苔の繁し。白樂天の云く、「故墓、何れの世の人ぞ、姓と名を知らず、和して道の頭ほとりの土となして、年々に春の草生ふと」[1]云云。
西施顔色今何在。春風百草頭云云。
西施の顔色、今や何いずくに在る。春の風、百草の頭ほとりに有るべしと、云云。
再生汝今過壯位。死衰將近閻魔王。欲往先路、無資糧。求住中間、無所止。
再び生れて、汝いま壯さかりなる位を過ぎたり。死し衰ろえて將に閻魔王に近ずかんと。先路に往かんと欲するに資糧なく、中間に住とどむを求むるに所止なし。
一切有爲法如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。
一切の有爲の法は夢幻ゆめまぼろしの泡の影の如し。露の如く電いなびかりの如し、かくの如きの觀をなすべし。南無阿彌陀佛
契而尚可契菩薩聖衆之友。憑尚可憑者彌陀本誓之助也。
契ちぎりても、なお契るべきは菩薩聖衆の友、憑たのみても、なお憑むべきは弥陀本誓の助たすけなり。
凡夫友一期程也。未伴于六道之旅。今生亦富貴之間也。
凡夫の友は一期ほどなり。未だ六道の旅には伴ともなわず。今生もまた富貴の間なり。
貧賤時誰隨哉。今面見亂世。實佛外憑誰。
貧賤の時、誰か随はんや。今、まのあたりに乱世を見るに、まことに仏より外に誰をか憑むべき。
昔清涼紫震金扉。采女竝腕巻玉簾。
昔は、清涼紫震の金の扉とぼそに、采女腕を並べて玉の簾を巻く。
今民煙蓬巷葦軒。海人埀釣僅成語。
今は、民煙みんえん蓬巷ふうこうの葦の軒に、海人あまびとびとと釣を埀れ、僅わずかに語かたらいを成す。
月卿雲客身切生頸於他郷之雲。槐門棘路人落紅涙於征路之月。
月卿雲客の身は、生頸を他郷の雲に切られ、槐門棘路の人、紅涙を征路の月に落とす。
彼孟甞君三千客。但是一生友也。
彼の孟甞君が三千の客、ただこれ一生の友なり。
漢明帝二十八將。未爲二世之徒。
漢明帝の二十八将、未だ二世の徒なり。
呉王得一天。落時獨落。秦王靡四海。死時獨死。
呉王の一天を得、落ちし時は独り落つ。秦王の四海を靡なびかしし、死する時は独り死す。
上陽人獨老。李夫人獨病。千萬人無代病。
上陽人は独り老い、李夫人は独り病み、千万の人、病に代わるもの無し。
然則、蕭々夜雨打窓之時。皎々殘燈背壁之下。爲十二縁之觀、悲生死無常。
しかれば則ち、蕭々しょうしょうたる夜の雨 窓を打つ時、皎々こうこうたるの残の灯ともしみ壁を背ける下にして、十二縁の観をなして、生死の無常を悲しむ。
欣九品之迎。唱彌陀之名號。
九品の迎えを欣ねがいて、弥陀の名号を唱えよ。
天帝二十五億人。天女五衰夕皆捨去。轉輪聖王八萬四千後宮。一期終一不從。
天帝二十五億の人、天女五衰の夕べには皆捨てて去ぬ。転輪聖王の八万四千の後宮、一期の終りには一ひとりも従がわず。
仰願觀音・勢至二十五菩薩。普賢・文殊四十一地賢聖。臨命終夕。捧蓮臺來草菴。
仰ぎ願わくは、観音・勢至二十五菩薩、普賢・文殊四十一地賢聖、臨命終の夕べに、蓮台を捧げて草菴に来り。
一期生之後導淨土、移玉臺。
一期の生の後、浄土に導きて、玉台にうちに移したまえに。
此身萬劫煩惱根也。
此の身は万劫煩悩の根たり。
厭可為金剛不壊之質。妻子珍宝及王位臨命終時不随者。
厭て金剛不壞の質すがたとなすべし。妻子珍寶および王位、臨命終時には隨わざるものなり。
唯戒及施不放逸。今世後世爲伴侶。
ただ戒とおよび施と放逸せざると、今世後世に伴侶になる。
此依諸功徳。願於命終時。見無量壽佛無邊功徳身。我及餘信者。既見彼佛已。
この諸の功徳に依て、願はくば命終時において、無量寿仏 無辺功徳の身を見たてまつらん。我および余に信ずる者、既に彼の仏を見たてまつりおわりて、
願得離垢眼。往生安樂國。
願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。
  南無阿彌陀佛

無常式   陰岐法王御筆
  正月九日  帝王崩御同月廿日
    建長元年七月十三日於雲林院書寫了

 

 

 

秋近し―朋、遠方より来る

毎年寄ってくれる大谷大院時代の後輩、宝塚に住む家田君が、今年も旅の途中に寄ってくれた(午前中)、今年は香城君の17回忌、相馬君が来年50回忌を迎えるのではないかといった話をしみじみと・・・蝉の声、虫の音が混ざる中で語り合った、秋近い日。

 

午後、なんと静大グリークラブで大変お世話になった2年先輩の大原さん(安城市)から、近くに来ているとの電話。

すぐ、お迎えに行って想い出話のときを過ごす。

グリークラブOBの恒例白馬山小屋合宿に引き続き、能登にドライブにおいでたとのこと。

大原さんとの想い出は、私が大学1年生、大原さんが3年生の時の話だから、54年前の日々・・・。

 

家田君に大原さん。

夢のような一日だった。

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西方、阿弥陀山を望む


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谷大3年後輩、家田君(宝塚)昨年、一昨年に続き・・・


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空は秋


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静大グリークラブ、2年先輩の大原さんご夫妻

 

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白馬はこちら。工学部グリーメンバーが白馬に合宿場を建てたという話は、昔から伝説のように耳に入ってはいた。写真でも見るのは初めて。

 これは山小屋ではないな。立派すぎる。演奏会会場なのだろう・・・。

お盆、還帰なされたお二方

15日の夕方。38度越えというピークがやってきた。

15日は朝5時に、山の墓地のお墓参りが始まるため、朝3時に起床し準備を進めた。

襦袢・白衣、黒衣を身につけ猛暑の中のお墓参り、日焼け、目が乾き目薬を欠かせない。

16日は野々江地区の城山墓地のお墓参りに決まっているのだが、今年は台風・暴風雨のため、17日に延期。

その17日朝、親しくさせていただいていた金沢の御門徒さんが息を引き取られ、

18日金沢でお通夜、19日葬儀。

18日には、これもお世話になっていた外浦地区の御門徒さんが還帰なされ、20日の「同朋会推進員定例勉強会」の後、お通夜・21日に葬儀を務めさせていただいた。

 

私はブログやFBに寺役関係は書かないことにしているのだが、

金沢の塩梅さん(94才)、馬緤の南方さん(97才)は、歴史・文化とも深く関わってこられたので、その観点からの一部を記録させていただく。

 

塩梅俊夫さん(94)

戦後、地域郷土史研究会としては最も早い時期に珠洲郷土史研究会が珠洲の地に生まれ、昭和25年1月7日「すずろ物語」が創刊された。

創刊号には3名の方が執筆されており、その一人として塩梅俊夫さんが「正院町旧図を見ての一考察」を書いておられる。塩梅さん27才の頃であり、郷土史研究の先駆者であられた。

引き続き次号から3号にかけて「江戸時代の武家屋敷に対する一考察(正院御代城山の役屋敷跡について)」、「正院町の井戸水を調査して」を発表なさった。

いずれも調査の範をお示しなさったようで、さまざまな角度から緻密な調べをなさっており、そこから大きく広がっていくのではないかと思わされる論の数々で、

それだけに、郷土史黎明のその頃には、理解者を得るのが難しかったのではないかと思わされるほどの調べぶりである。

 

喪主のご子息が、(金沢)大手町法律事務所に所属なさっている弁護士で、その方面の関係者も多くお参りなさっていたようなので、お通夜では

俊夫さんの論の紹介と、

十七条憲法

 

十に曰わく

忿を絶ち、瞋を棄てて、人の違うことを怒らざれ、

人皆心有り、心おのおの執れること有り。

彼是すれば我は非す。我是すれば彼は非す。

我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。

共に是れ凡夫ならくのみ。

是く非しき理、詎か能く定むべけん。

相共に賢く愚かなること、鐶の端無きが如し。・・・

 

 について、ともに考えさせていただいた。

 

親鸞聖人の「義無きを義とす信知せり」(正像末和讃54)

の元であり、

604年にもう「凡夫(ただびと)」を聖徳太子が用いておいでるのにおどろき、確かめたのである。

 

20日(火)は、午後からの「同朋会推進員定例研修会」準備で、早起きし、

「印度西天之論家、中夏日域之高僧~龍樹大士出於世」、

「大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」などについて触れた。

そこにいたるまでに、どうしても『阿弥陀経』の「祇樹給孤獨園」や阿難尊者、弥勒菩薩韋提希夫人、長老舎利弗の聞の方々の「聞」に触れなくてはならず、

頭の切り換え、

環境(お盆―金沢―珠洲)の変化と暑さへばりで頭痛状態のまま、

故人―南方宝作さん(97)ーが出版なさった折にお手伝いしたことのある本に触れながらの通夜説教・・・。

その御本は、地域史や軍隊での飛行機搭乗員としての記憶の細かさ・確かさに驚嘆しつつ原稿を読ませていただいたものであり、その後も、いろいろなお話しをいただき続けてきた方のお通夜だった。

 

南方宝作氏(97歳)

80歳の時、出版なさった著書の後書きに次のように特攻の話に触れておいでる。

 特攻に行く日が決まっていて8月15日を迎えた方とは

上山春平氏から一晩、

桜井甚一氏からは何度もお話しを聞いたが、

南方さんの話・記憶は、目の前にある記録を読んでおられるような鮮明さだった。これは、その後書きの部分である。

あとがき(部分)

 

「身を棄ててこそ浮かぶ瀬もある。」

私はかの戦争中、勝敗を抜きにして、戦争終結までに
は己れの命はあるまいと思っていた。

ならば、悔いのない戦場で果てたいと常に念じていた.
悲願の飛行機搭乗員となり、制海権、制空権が敵手中にあるなか、太平洋戦域へ無防備の輸送機で日夜任務、要務の飛行に携わっていた。

北海道に移ってからはB29基地へ夜間に強行着陸して、そのB29を爆破するという任務を帯びて訓練していたが、特攻出撃三日前に終戦となり、私は生きて自分の命日を迎えること五十六回(80才)。
[南方宝作氏著、おかげさまで、後書き部分]

 

 さらに17回の齢を重ねられて、還帰なさった。

このような、特攻計画もあったのだ・・・。

 

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昭和25年1月7日刊「すずろ物語」創刊号―「正院町旧図を見ての一考察」塩梅俊夫氏


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南方宝作氏著「おかげさまで」平成14年刊270頁

 

七尾城祉から 8月10日(土)午前9時

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七尾城より。城はすべて城址。なので、論争の挙げ句「址」取ったのが金沢城。七尾城はどうなのだろう?

 


七尾の親戚に法要があり、出向いた。早く七尾に着いたので、七尾城祉に寄り道をした。

暑い日が続く。

書いている今(午前一時半)の気分は

♪松風騒ぐ丘の上

古城よひとり何偲ぶ・・(高橋掬太郎)

より

霜は軍営に満ちて秋気清し・・・(九月十三日・上杉謙信

だ。

理由というほどではないが、秋の月を乞う気分か。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

 

整理・整頓―お盆近し

本棚に多くの抜刷、その他、背文字を入れるほどの厚さではないので、何が書いてるあるものなのか分からない冊子がいっぱいある。

なんとかしなくてはならない、ボーッとしながら出来る作業なので、仕分けは気にしないで、数冊宛綴じ、背表紙を貼る作業を続けている。

このところ出来てきたのが写真。

もう少し綺麗に出来るかも知れない。

美しくなくても、ならべて何があるのかが分かることは、こころが落ちつく。

 

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数冊ずつの抜刷を留め、製本テープで背表紙を付け、タイトル印字。そして透明ブックカバーを貼って出来上がり。気分は製本屋さん。


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連日の30度越えで、百日紅も急に花開いた。


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もう少し、のところで微妙に雑だ。

 

 

 

 

そして、お盆近くになって百日紅も咲き出した。

初任校―羽咋工業高校―羽咋本念寺さんで大谷婦人会、夜ー春日中学校同窓生と懇親会

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いつも下道から眺め、頭礼して通った本念寺山門


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本念寺さんでの大谷婦人会里方支部法話


5日大谷婦人会で羽咋本念寺さんにおじゃました。

最初の下宿Sさん方は山門前四・五軒目、次の下宿・平場アパートも数軒隔てた中央通りにあった。

暑い中を懐かしさのあまり歩いた。

汗が噴き出すと、夏休み中も野球部のノックをし、豆だらけの手や、夕方ギターを持って千里浜海岸で夕陽を眺めながらつま弾いた頃が蘇ってくる。

2年間野球部の部長をし、実質はノッカーだったのだが、一年目甲子園予選決勝で敗北。最後の兼六園球場の試合だった。翌年、新球場の開幕記念試合を平安高校と行い、2年間で最も勝てなかった時でベストエイトだったのだ。

などと思いだしていたら、講義にならない。

ともあれ、いつも眺めてこころの中で手を合わせながら通ったお寺で講義をすることになるとは・・・。当日、話した法縁ど真ん中。

 

その後、志雄のお寺によって宗教民俗学会委員で先日金沢別院に講義に来られた斎藤壽始子先生の話題で盛り上がり、盛り上がりついでにご本人と電話でお話し。

その後、穴水の本屋さんで知人と仏教書を眺めながら真宗談義・・・

 

家へ帰って遅い夕食を食べていると、中・高の同級生で滋賀県警の署長にもなり、さらに出世したはずの懐かしい友が帰ってきているので出てこないかのと電話。

お酒は飲めないし、暑さの中での講義や運転が続き、翌日ゆっくり会おうと返事したのだが、どこにいるのか電話をかけ直すと、すぐ近くにいるという。

出かけた。

行ってみると友・マサの母校・上戸小から6人、隣の直小から1人が部屋を借り切っていた。

そこへ飯田小の私、後でもう一人飯田小が混じって総勢9人でワーワーになった。

ヘッチにカンマにタチーマサにホウサクにカンタロー・・・12才から14才頃に戻っての大騒ぎ。

タチ―マサには、前から会いたかったし、帰ってくることがあったら、連絡してくれと近所の同級生に頼んでいたこともあって、本当に、皆で会えたことは嬉しかった。

 

ブログとFBは、平成元年卒業生の話題が占めている。

そんな頃、同じ日に中学の同級生に、初任校・羽咋

どうなっているのだろう?・・・の感慨