桜 開く

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講義の中止、延期が続く、今日この頃

コロナ騒ぎは、益々混迷の度合いを増している。

そのような時の桜開花は、

明日ありと思ふこころのあだ桜・・・を思わせる。

聖人御出家の頃の世情ー「方丈記」、源平の争い―1173年から1262年の御一生に36回の改元があった時代。

蓮師は寛正元年の大飢饉・疫病流行などをのがれられ、翌2年にお文をお書きになった(筆始めの御文)。

 中止です、延期です―の後に、祖師や蓮師は、どうすることも出来ない世情から何を学ばれておられたか、集まって学ぶことが出来ないのですから、ひとり一人の学びの時として下さい。

より言えば、「後生の一大事を」じっくりお考えくださいー程度のメッセージを添えて、延期・中止の案内が出来ないものか・・・と

桜を見て 思いに耽っている。

 

まず、蓮師は、いのちの奪い合いの場となりそうな場・時から徹底的に身を避けられた。

 「自信教人信」を生きなければならない、何にも増して尊い願いの促しがおありだったのだろう・・・。

 

 

 

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善光寺三尊佛と真宗、葉山新善光寺、能登新善光寺

先日、真宗の某要寺の倉を見せていただいた時、厨子に入った善光寺如来三尊像が仕舞われているのに気づいた。

側に、高僧木像も二体あった。

カメラが壊れていたのと、調査が目的では無かったので、ちょっと奇異な印象で立派な善光寺如来像と彩色も綺麗なままの高僧像を目に

焼き付け帰途についたのだが、

御伝鈔上巻8段に

 


御弟子入西房、聖人親鶯の真影をうつしたてまつらんとおもうこころざしありて、日来をふるところに、聖人そのこころざしあることを鑑みて、おおせられてのたまわく、「定禅法橋七条辺に居住にうつさしむべし」と。

 

 

入西房鑑察のむねを随喜して、すなわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢中に拝したてまつるところの聖僧の面像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがうところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。

 

 

「貴僧二人来入す。一人の僧のたまわく、「この化僧の真影をうつさしめんとおもうこころざしあり。ねがわくは禅下筆をくだすべし」と。

 

 

定禅問いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御房これなり」と。

ここに定禅たなごころをあわせ、ひざまずきて夢のうちにおもう様、さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛いよだちて、恭敬尊重をいたす。
また「御ぐしばかりをうつされんにたんぬべし」と云々 かくのごとく問答往復して、夢さめおわりぬ。

しかるに、いまこの貴坊にまいりて、みたてまつる尊容、夢中の聖僧にすこしもたがわず」とて、随喜のあまり涙をながす。

「しかれば夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかりをうつしたてまつりけり。夢想は仁治三年九月廿日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもうに、聖人、弥陀如来の来現ということ炳焉なり。

しかればすなわち、弘通したまう教行、おそらくは弥陀の直説といいつべし。あきらかに無漏の恵燈をかかげて、とおく濁世の迷闇をはらし、あまねく甘露の法雨をそそきて、はるかに枯渇の凡悪をうるおさんとなり。

おぐべし信ずべし。

 

とある。

重要なのは「本願御房」「生身の弥陀如来」の2語。

御伝鈔からも真宗寺院に聖人の本地とでも言うべき、善光寺阿弥陀像があっったとしても不思議ではないのだが、

実際目にしたのは初めてである。

かつて真脇新善光寺を調べた時の善光寺様式像(似たお姿はいくつかある)と、違いがないお姿だったので、その真脇新善光寺のお姿をここに載せる。

高僧木像は、善導大師・法然上人だろう。

 

善光寺まいり』(五来重平凡社・1988年)「第六章善光寺信仰と新善光寺」には、東海道東山道の、房総の、下野・常陸の、武蔵川口の各新善光寺甲斐善光寺、葉山の新善光寺について書かれている。

五来先生は、新善光寺は「鎌倉幕府の保護が厚く、原始真宗教団との衝突もひき起こされたのであろう。」と書いておられる。

先生が、葉山新善光寺に出会うのは昭和60年のことで、「思わぬところで新善光寺と彫った石柱に出会いびっくりし、さらにこの新善光寺が名越善光寺の後身だったので2度びっくりした」と書いておられる。

 

私は、善光寺三尊像を見て、積んであった本(『善光寺まいり』)をめくっていて、葉山新善光寺の歴史に気づき、びっくり2乗している。

山新善光寺は義兄宅の菩提寺で、何度も行っているし、義兄の葬儀もそこで行われたのだ。

 

一方、真脇新善光寺には巻子本の素晴らしい縁起書がある。それこそページ数の関係で、『能都町史』には載せなかった。

近くに虎御前の墓、百合若伝説の上日寺などもあり、遊行比丘尼の拠る拠点の寺庵であったことは間違いない。

 

一方の、善光寺真宗だが、戦後間もない混乱期に大谷派寺院と善光寺御開帳との間に、ちょっとした軋轢があったこともそれとなしに聞いている。

 

思わぬところから、

次々整理しなければならない仏さまが出現なさったものだ・・・。

と思いつつ、深いところでただただ

感動している。 

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一光三尊善光寺阿弥陀如来立像。舟形光背、臼台座の典型的な善光寺仏。像高27・2㌢。脇侍21㌢


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行基山新善光寺能登町真脇)『能都町史』個別寺院誌で執筆(昭和57年)。

2017年7月19日撮影。

真宗文化論ー聖徳太子画像讃―

埋文評議員会のため、金沢へ泊まりがけで出かけた。

その前後に、中能登町寺院、鶴来別院を調査することが出来た。

文化論のために太子画像讃を体系的にまとめており、3カ寺の讃を追加できた。

みなさん太子画像に讃があり、しかも様々な種類があることをご存じない。

コロナ騒ぎで、勉強会が次々中止になっている。

こういう時にこの資料を眺めて、当寺の太子讃は?

他は?など勉強すればいいと思うのだが、基礎データーが無いから

こういうことに時間を当てることも出来ない。

学校の宿題テキストのようなものが、門徒さんたちや坊守さんたちにお配り出来ないものか・・・と、つい考えてしまう。

 

 文化論用

太子画像の讃  

 画像の讃は、そのお姿のこころをあらわしている。真宗寺院に安置されている聖徳太子像は、美術史、太子伝からは、「十六歳孝養像」と呼ばれるものであり、父用命天皇の病気平癒を祈って柄香炉を持って祈る十六歳太子像とされている。それはそれなりに意味はあるが、「和国の教主聖徳皇」(「皇太子聖徳奉讃」)としては狭すぎる。この分野の研究を進めた平松令三(一九一九~二〇一三)氏は、太子が本尊だったのではないかと言われている「まいりの太子」画像をはじめ、初期の画像のほとんどが「吾為利生出彼、衡山入此日域、降伏守屋邪見、終顕佛法威徳」讃(B)であることから、氏は真宗寺院に安置している太子像は、「顕仏法威徳像」というべきだと主張する(『真宗重宝聚英 第七巻 聖徳太子絵像・絵伝・木像』)。
 それはそうとして、今までに知ることができた讃を以下に挙げる。その上で、Αの讃であれば、「大慈大悲」太子像といただけばいいのではないかと考えている。

Α「大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子、是故方便従西方、誕生片州興正法」。
井波瑞泉寺聖徳太子絵伝」第一幅讃文(『真宗の説教者たち』砺波郷土資料館・二〇一一・四九頁。以下「太子絵伝」と表記)。七尾市蓮誓寺、願正寺、真光寺,正福寺、専慶寺。(『新修七尾市史12造形文化編・平成十六年』による。以下七尾市とある多くは同出典)。中能登町伝流寺・託善寺、穴水町妙覚寺珠洲市専念寺・専行寺。(以上大谷派)。
[出典]『上宮太子御記』「松子伝太子讃」親鸞聖人撰述(『真宗聖教全書 四 拾遺部』)。〈参照〉堅田修『上宮太子御記序説』平成二年度安居次講 一〇八頁(以下堅田~頁)。

B「吾為利生出彼 衡山入此日域 降伏守屋邪見 終顕佛法威徳」  前に「銅蓋銘曰」
 「太子絵伝」第四幅。七尾市安浄寺、聖専寺、蓮照寺、円寿寺、広玄寺、長楽寺、安楽寺大乗寺、円勝寺(以上本願寺派)、七尾市称念寺、明願寺、聖徳寺。輪島市林敬寺、羽咋市光源寺(以上大谷派)。
[出典]『上宮太子御記』(堅田一〇八頁)。

C「狐非獅子類  燈非日月明  池無巨海納  丘無嵩岳栄」。  ※CDで一文
「太子絵伝」第五幅前半四句。かほく市正誓寺(大谷派)。
[出典]『佛祖歴代通載巻四』(大正新脩大蔵経第四十九冊)。
D「法雲垂世界 善種得開萌 顕通希有法 処々化群生」
「太子絵伝」第五幅後半四句。七尾市西勝寺、善正寺、乗龍寺、西休寺、光円寺、改観寺、真証寺、長正寺、頓聴寺(以上市史)、七尾市覚永寺、中能登町成宗寺、珠洲市浄福寺能登町長龍寺、穴水町浄誓寺(以上大谷派)。
[出典]『佛祖歴代通載巻四』、同第五十二冊『続集古今佛道論衡』、「後漢書列伝」七十八。

E「敬礼救世観世音、傳燈東方粟散王、従於西方来誕生、皆演妙法度衆生」。
「太子絵伝」第六幅。七尾市光称寺、志賀町極応寺、穴水町徳善寺(以上大谷派)、 珠洲市宝立町太子講。
[出典]『上宮太子御記』(堅田一〇一頁)。            

F「救世大慈 観音菩薩、妙教流通 東方日國 四十九歳、傳燈演説、大慈大悲 敬礼菩薩」
珠洲市飯田町太子講。
[出典]『上宮太子御記』『尊号真像銘文(「大谷派真宗聖典」五二三頁)』。               
G「四十九歳、伝統演説、大慈大悲、敬礼菩薩」
七尾市本龍寺、得生寺、中能登町仏乗寺、能登町蓮光寺輪島市専照寺かほく市仏性寺(以上大谷派
[出典]、『上宮太子御記』「敬礼救世大慈観世音菩薩、妙教流通東方日本国、四十九歳伝統演説」(堅田一〇一頁)。

H 讃なし
鶴来別院、珠洲市西勝寺、珠洲市馬緤町太子講、七尾市史には無讃像が四十ヶ寺中十一ヶ寺だが、判読不能なのか無讃なのか記載漏れなのか判断できない。無讃の太子絵像も多い。

 

 

2013-07-23の記事

2月22日、聖徳太子画像・御讃

聖徳太子敏達天皇

A「吾為利生出彼 衡山入此日域 降伏守屋邪見 終顕佛法威徳」

安浄寺、聖専寺、蓮照寺、円寿寺、広玄寺、長楽寺、安楽寺大乗寺、円勝寺(以上淨土眞宗本願寺派・お西・9か寺)
称念寺、明願寺、聖徳寺(以上真宗大谷派・お東・3か寺)。以上旧七尾市
輪島市名舟林敬寺(20110419)
羽咋市下曾根光源寺(20111027)
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名舟林敬寺蔵

B「法雲垂世界、善種得開萌、顕通希有法、処々化群生」

西勝寺、善正寺、乗龍寺、西休寺、光円寺、改観寺、真証寺、長正寺、頓聴
寺(以上、七尾市大谷派)。9幅
珠洲市三崎町引砂浄福寺(20130314調査)
中能登町成宗寺(20130421調査)
能登町宮地長龍寺(20130427調査)
穴水町古君浄誓寺(20130520調査)

讃は、大正新脩大蔵経第49冊『佛祖歴代通載巻四』、同第52冊『続集古今佛道論衡』に載るが、「後漢書列伝」78がそもそもの出典のようで、もっとポピュラーな出典があるのかも知れない。

C「大慈大悲本誓願、愍念衆生如一子、是故方便従西方、誕生片州興正法」。

蓮誓寺、願正寺、真光寺,正福寺、専慶寺。5幅(以上5ヶ寺旧七尾市
珠洲市宝立町鵜飼専行寺。
珠洲市三崎町寺家専念寺。(20130409拝見)
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井田伝流寺(20130601)写真
最勝講託善寺(20130804)
鹿波妙覚寺(20120929)

讃は、親鸞聖人撰述の『上宮太子御記』に「松子伝太子讃」として載る。
興正寺の寺号は廟崛偈といわれる聖徳太子の偈文によるものだと説かれていた(興正寺御系譜)。

D「四十九歳、伝統演説、大慈大悲、敬礼菩薩」

本龍寺、得生寺。2幅(旧七尾市
能登町鵜川蓮光寺大谷派(20121118)
かほく市宇気仏性寺、大谷派(2013年5月15日)
輪島市繩又専照寺(2013年5月29日)
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鵜川蓮光寺蔵。
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かほく市宇気仏性寺蔵
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繩又専照寺

讃は、『上宮太子御記』に「敬礼救世大慈観世音菩薩、妙教流通東方日本国、四十九歳伝統演説」

E「敬礼救世観世音、傳燈東方粟散王、従於西方来誕生、皆演妙法度衆生」。

光称寺。1幅(旧七尾市
宝立町太子講画像
火打谷極応寺(20121117)
穴水町山中徳善寺(2013年7月22日)
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極応寺蔵
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山中徳善寺蔵

讃『上宮太子御記』より。

F「救世大慈観音菩薩、妙教流通東日國四十九歳、傳燈演説、大慈大悲敬礼菩薩」

飯田太子講
飯田町太子講『尊号真像銘文』系。

G讃なし

当寺・西勝寺の太子画像は寛永17年(1640)下付。
馬緤町太子講の太子画像にも讃がない。
七尾市では、真宗寺院40ヶ寺の太子画像中、讃がある太子画像は29幅。
5種類の讃、11ヶ寺の太子像には讃なし(『新修七尾市史』)

『尊号真像銘文』(『真宗聖典』p523)

皇太子聖徳の御銘文として
「御縁起曰、百済聖明王太子阿佐礼曰、敬礼救世観世音菩薩、妙教流通東方日本国、四十九歳伝灯演説」文。
新羅国聖人日羅礼曰、敬礼救世観音大菩薩、伝燈東方粟散王」文。

真宗重宝聚英第七巻聖徳太子絵像・絵伝・木像』

太子が本尊だったのではないかと言われている「まいりの太子」画像をはじめ、初期の画像のほとんどが「吾為利生出彼、衡山入此日域、降伏守屋邪見、終顕佛法威徳」讃。
聖徳太子御廟記文、掘出一銅函其蓋銘云」のあとに続く銘文で、監修者の平松令三先生は、この讃をもって真宗太子の特色と捉え、真宗寺院に安置している太子像は、「顕仏法威徳像」というべきだと主張なさっておられる。

 

真宗の本、勉強会の代わり・・・

今日17日は、坊守会研修で七尾に行く予定だった。→中止

27日同朋会推進員研修会→4月に延期・会所当寺

29日 12組門徒会中止。

数日掛けて資料を作り、しばらくすると次に講義の準備、の日々が無くなったので、たまりにたまっている読みたい本が読めそうな気がしてきた。

最近いただいたり、届いた本も読みたい。

が、まだ文化論途中。

 

斎始めにおじゃました家の方が地元のスーパーに勤めておいでる。

先週(7,8日)も今週(14,15日)も、買い物客が多かったそうで、いつもなら土日は、大きな店が集まっている地域に買い物へ行く人が多いのに、そういう人たちが混むところを避け、地元で買い物したのではないか・・・、とのこと。

充分ありうる。

新型コロナウイルス影響は色んなところに及んでいる。

 

信心獲得の機会となるかも知れない勉強会をやめる

みずからを深く見つめる、時をいただいた・・・といただければいい。

 

 

 

 

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『タマシイの詩〈うた〉―讃阿弥陀仏偈和讃』世尊寺 吉田清順


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『雲集名号釈(上巻)』宗 正元講述

 

間もなくお彼岸  午前2時18分 地震

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3枚目阿弥陀山ー彼岸の中日には当寺から見て真西のこの山に日が沈む.4枚目は境内、能登最北地に咲く座禅草。彼岸会の法話のあと、お参りにおいでた方々に見ていただく。


2時18分地震。1秒ほどガタガタと揺れた。

輪島が震源地のようだが、速報を見ると13年前の能登沖地震より内陸部。門前の穴水・富来に近いところのようだ。震度5強珠洲は3だった。飛弾高山も3。

 

海恵宏樹さん

昨日、『真宗文化論序説』を進めるために、先学の問い―戸坂潤、五来重をなぜ取り上げたかをメモ書きした。

富来郷土史の会で戸坂を語る時、哲学者はどのように戸坂を見ておいでるのかを確かめるべく、当時京大においでたはずの海恵宏樹さんをお訪ねして、戸坂について聞いた。

そのことについて、文中に書くことになったら初校あたりをお送りして、書いていいかを確かめなければならないな・・・と漠然と考えていた。

 

今朝の朝刊「おくやみ」欄に御西帰なされた記事が載っていた。

 

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3月9日、85才      合掌

私は、初任の羽咋工業時代に、高浜高校においでて、長身・背筋をスーーっと伸ばし理路整然と語っておいでた海恵さんを存じ上げている。

その頃、海恵さんは、30代だったのだ・・・。

 

お座船歌ー二十四孝ー本願寺欄間を唄う(真宗文化資料)

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親鸞聖人伝記と本願寺欄間彫刻・二十四孝を唄ったお座船歌「二十四孝」。

 

 ※本文をクリックすれば文字が大きくなります。



今様の流れが生きている歌詞をたどって

―幕府お座船歌―加賀藩お座船歌ー福浦船歌ーまだらーをたどったことがあった。

 以下のブログ記事および『能登のくに―半島の風土と歴史―』二〇〇三年・平成十五年七月七日、北國新聞社刊に10枚ほどで、海の歌を書いた。

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 真宗文化から見直しを始めたら、

そういえば、お座船歌の中に

本願寺の欄間、孟宗を唄った歌詞があったことを思い出した。

それについてはこのブログにさえ書いていない。

真宗文化史の目線で見ると、いろんなことを整理しなくてはならなくなり、きりがない。

分析はおいておいて、一史料として紹介する。

お座船歌の最も大きな伝本浅野藩(広島藩)のものだが、これは尾張藩の船歌に載っていた。

 

記憶の中には、歌詞が載っている場所・ページがあったのだが、先ず本をどこに置いたかあたりからー探し出すのにちょっと苦労した・・・・・・

珠洲市仏教会

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飯田桟橋。出征兵士は船で七尾~金沢,九師団歩兵第七連隊に向かった(『』写真アルバム 能登半島の昭和』いき出版、西山監修・執筆。なお、執筆依頼した方の中に、上海事変で父君が戦死なされ、父君の顔を写真でしか知らない方がおいでる)。



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あいさつ文。下の空白部に通帳をコピーして貼り付け。もう一枚は仏教会ではこういうこともやってきました、メモ。同時期真宗講義の担当もしていて、林源常(白山道場主・下山仏)、太田浩史(土徳)、竹部俊恵(井波太子絵伝絵解き)氏などの講演も行っている。真宗?仏教会?混乱しており、この度の整理は、混乱を和らげるいい機会だった。


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副会長・吉祥寺さん。臨済国泰寺派、法燈派。元地外山にあった頃、平時忠が信徒だったとの伝承(『能登名跡誌』)があり、元地近くに大納言墓がある。古刹。写真は韋駄天。教員採用試験の時、走れメロスが問題に出てイダテンの漢字を問う問題が出た。書けなかった.悔しくてまだそのことを覚えている。いい像である。カメラのピントが合わなくなってきた。

 

 

 

珠洲市は人口およそ14000人。今年65才以上が5割を超えた。

そこに寺院が59ヶ寺ある。

兼務、代務者寺院もいくつかあるのだが、

真宗大谷派が39ヶ寺

その他20ヶ寺。

真宗王国と言われている北陸・能登にあって特異な地域である。

大谷派以外の宗派は、本願寺派1,真宗系独立寺院1,

浄土宗1,曹洞宗9,臨済宗3、日蓮宗2,

真言宗2,天台宗

臨済宗は国泰寺派、法燈国師,

真言・天台も宝立山・山伏山といった山岳霊場を背景としており、

梁塵秘抄300番に我らが修行にいでしとき・・・以来の多くの宗派が存在する地域なのである。

 

この混在とした宗派が合同で行う仏事がある。

戦没者追悼会

珠洲からは満蒙開拓団として多くの人が旅だった。寺院も満州へ行った。

9師団に属していたので、上海事変から戦地に赴いた人が多く、教員の先輩、門徒さんの中には、父の顔を知らない方が何人もおいでる。

平成6年が戦後50回忌。

それまで、仏教・神社一年交替、全住職、全神主が参加しての追悼会が営まれていたのである。

狼煙沖では潜水艦が沈没し、その乗組員の追悼も行なわれていた。

 

その後、規模は縮小されたが、追悼会は現在も続いている。

 

珠洲市仏教会は、真宗と他宗合同仏事をどう行うか?から生まれたはずで、最も数の多い大谷派から会長職、副会長が他宗の持ち回りでえらばれ、1期2年、2期交替の暗黙の了解があった(はず)・・・。

 

ところが、元教育長の前会長が平成19年に期間半ば西帰され、そのあとを、前会長と親しかったこともあり、私が引き受けた。

 

その時には、以前のような全寺院招待ではなく、町ごとの追悼会が行われなくなったところもかなりあったのに、総会があるはずだとか、

役に関わっていないのに、こうだったという人が多く、わけがわからないまま、何と11年もさせていただく羽目になった。

 

素直に言えば、誰もやりたがらない仕事で、宴席があっても(次に引き受けてくれ、と言われるかと)、目さえ合わさない人まで出てきた。

こちらも、それならと、話を聞きたい人を招いて講演会を催したりすればいいのだけれど、部屋さえ片付かない状況で、無理してもでも話を聞きたい人がいなくなっている今がある。

 

組会ごとにアピールし、

ようやく、父の世代に戻っての順番で、次の会長を引き受けて下さる方があらわれた。

一昨日、昨日と今までの資料を整理し、全寺院に配布する3枚の資料を作成。現副会長宅、次期会長宅へおじゃまして、

この任務と、お別れした。

名刺の珠洲市仏教会会長は、昨年度末新たに作った折、書かないでいたので、線を引く作業はなし。

 

これでいいのだろうな・・・。

 

今日は、氷見まで推進員の方々を送る予定だったのだが、それがなくなった。

申し訳ないが、

それで、この作業が出来ている。

 

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春勧化 満座

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在家御座、門徒御座中心の行事だから、聖人ご命日の今日で今年度の満座。でいいのだろうな。

例年、春近しを感ずる日々なのに、今年は全く雪がなく、24日からの5日間に2度粉雪がちらついた。

今朝、鐘撞きに出て、屋根が白くなっているのに気づいた。

夜、ちらついたのだ・・・。

来月3、4日氷見、今月27日奥能登塾、宗教民俗の会、いずれも中止。

 

 

 

聖徳太子祥月ご命日

今日は聖徳太子祥月ご命日。

親鸞聖人にとって六角堂夢告をはじめ、和国の教主として出会って行かれた方だ。

 

お朝事の御和讃が、

たまたま 

皇太子聖徳奉讃 愚禿善信作

の5首目からだった。

 

南無阿弥陀仏・・・

他力の信をえんひとは

仏恩報ぜんためにとて

如来二種の回向を

十方にひとしくひろむべし

 

南無阿弥陀仏・・・

大慈救世聖徳王

父のごとくにおわします

大悲救世観世音

母のごとくにおわします

 

南無阿弥陀仏・・・

南無

  阿弥陀仏・・・

久遠劫よりこの世まで

あわれみましますしるしには

仏智不思議につけしめて

善悪浄穢もなかりけり

 

南無阿弥陀仏・・・

和国の教主聖徳皇

広大恩徳謝しがたし

一心に帰命したてまつり

奉讃不退ならしめよ

 

南無阿弥陀仏・・・

南無阿弥陀仏・・・

上宮皇子方便し

和国の有情をあわれみて

如来の悲願を弘宣せり

慶喜奉讃せしむべし

 

南無阿弥陀仏・・・

多生曠劫この世まで

あわれみかぶれるこの身なり

一心帰命たえずして

奉讃ひまなくこのむべし

添え

(聖徳皇のおあわれみに)

護持養育たえずして

如来二種の回向に

すすめいれしめおわします

   願以此功徳

   平等施一切

   同発菩提心

   往生安楽国(帰三宝偈・勧衆偈・十四行偈ー善導大師作)

 

 

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ここ以外では出会っていない二面太子像

正永寺蔵。1994年1月30日撮影。

2年前にお聞きした時、もうこの行事はなさっていないとのことだった。写真が24枚ある。おそらく正永寺さんはお持ちでないだろうからおあげしなければ・・・と思ってしまった。

当寺の無讃の16才太子画像をこの文に添えようと思ったのだが、二面太子を思い出した。行事がないとすれば多くの方々が二面太子が存在し、太子=観音の一体となっている像があることも知られないままになってしまう・・・と考え、載せたのだが、さらに写真をおあげすればいい、に思いが広がったのは困った。

が思った以上春勧化が終わったらおあげしてくる。

ところで、今年は太子何回忌に当たるのだろう。

 立ち上がるのに時間がかかり、使い慣れた学生時代からの辞典を見るのに天眼鏡を使い、ようやく西帰(この言葉は、つい先日祖父江さんのFBで知った。アァーがあって、胸にしみた。もったいなお言葉を使わせていただく)なさったのが622年。

今年は1399回忌か・・・・・・。