フェイスブック(FB)より―2019年1月30日(水)~2月25日分

 

昨晩、『日本宗教民俗学』第29号が届いたので、委員の一人と2018年大会の様子を聞いたり、その他を電話で話し合った。
ブログのURLが変わって「能登のくに=西山郷史https://umiyamabusi.hatenadiary.com/
にしたことや、北西先生ご逝去のことを話すと、そのことについては知らないという。あらたなブログで見てみたが見つけられないとおっしゃるので、その時期はFBに書いておりFBで試してみたら?とお伝えしたのだが、間もなく開くことができないとの連絡があった。FBはメンバー登録のようなことをしなければならず、前にも登録しなくてはならないのでFBを見ることはできないとおっしゃた方がおいでた。
あらたなブログに移すことができるようになるまで、FBのみに記事を載せており、その頃にFBで書いたのをブログに移しておくからそれで見てください・・・と約束し、昨晩からその作業を進めた。1月30日から2月25日の訳27記事。
日ごとに遡って載せることができればいいのだろうが、そんな器用なことは出来るわけもなく、今日23日にかなり膨大な記事が載ることになる。
FB ○月○日より と題して転載する。
 
FB2月25日(火)より

昨日は疲れで早めに休み、今朝FB(って言うんですね)を開くと、懐かしい映画監督・青原さとしさんからの投稿があったので、
その時を、想いだして・・・。
2016年6月25日、当寺・西勝寺で『土徳流離』の上映会を行い、青原さんが挨拶をし、翌日一緒に外浦海岸沿いの光景を見ながら、輪島までお送りしたのだった。
寺家の船小屋が並んでいる光景(写真5枚目)に目を輝かされ、彼の師が「姫田忠義」という映像民俗学者でその師が宮本常一氏だと聞いて、こちらは能登9学会論文、網野善彦さんや高桑守史氏、国語教科書などを通して宮本常一氏を身近に感じていたので、その時は巡り会うべくして巡り会ったとの思いだったのだ。
昨年、網野善彦夫人真知子さんが輪島・珠洲へおいでたとき、一緒にお越しになった方が、能登九学会調査の際、宮本常一氏と共に、調査なさった女性だった。また、七尾で活躍しておいでる彫刻家の所司さんが武蔵野美術大で宮本常一氏に学ばれており、近年も宮本氏の名をよく耳にする。...
そして、何よりも高校の国語教材にもなった「忘れられた日本人」はじめとする文章のやさしさは図抜けており、日本中の村を全て歩かれたといわれている宮本常一に、「土徳」論の原点の一つがあるのではないかと思っている。

 姫田忠義さんの名を見て、コメントではなく記事にしておきたいと、一昨年のブログ記事から一部転載する。
 青原さん、姫田さん素晴らしい写真をありがとう。

2016年6月27日
http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20160627/1467013249=『土徳流離』上映会
6月25日はいろんな行事が重なり、また祠堂経を営んでおいでるお寺もあり、折角当地で見る機会がありながら、日程の理由で見ることが出来なかった方々がおいでる。
それで、午前・午後の日程の代わりに、もう一度上映の機会をいただいた。
30日、午後1時から当寺で。
どなたでも、都合がつけば来ていただきたい。

青原監督は、宮本常一姫田忠義の流れを汲み、姫田氏との作品も多い。
これだけ聞いても作品の誠実さが伝わってくる。

7月2日
http://d.hatena.ne.jp/umiyamab…/20160702/1467450304=奥能登外浦海岸行
歴史・民俗・観光地を案内しつつ、
輪島までお送りする。

FB 2月24日(日)より  一寺庵の歴史・文化

近くの御住職が91歳で還帰なされた。お弔いにうかがった。
私たちの所では、お寺同志のお弔いは、「正信偈」舌々(ぜぜ)、短念仏、回向(えこう)。
哀悼の思いとかの個人的なことはおいておいて、初めておじゃました元道場の本堂ー民家と変わらない造りなのだがー安置の法宝物を見て驚いた。
親鸞聖人真向きの御影ー遠い昔、厨子にお入れして地域を巡った可能性がある。
顕如上人画像、蓮如上人あるいは実如上人六字名号、いずれも大幅。...
お勤めしていると、御代さまたちと距離が近いため包まれるような感覚と、東西分派以前の道場があるとすれば、これに近いのかも知れないとの思いを抱いた。
顕如上人は本願寺第11代で、次の教如上人、准如上人の時から東西本願寺に別れている。

能登北部には、一山(いっさん)と呼ばれる3カ寺体制があり、このお寺は天和三年(1683)に寺号を名乗っている。それまでは、賀信坊・加茂坊と称したという(昭和53年刊『珠洲市史第2巻』個別寺院誌より)。

一山(いっさん)体制

すぐ側に、主寺(おもでら)とか本坊と呼ばれるお寺があり、その山号が「仏石山」であり、このお寺も仏石山の一坊(寺)とみればいいはずだが、一山の意味・歴史が分からなくなり、市町村史などでは山号なしとしている。

私は、今、いわゆる神仏分離令が発令されたとき、公務・声明・法話をそれぞれに担う三カ寺体制を作り、出来るだけ廃寺を少なくしようとしたのではないか、そして、そのまとまりを一山と呼んだのではないか、と考えている。明治8年信教の自由によって、一山寺院以外も全て残ることが出来たが、その経過を物語り、その仕組みが濃密に残っているのが、藩政期の奥郡(鳳至、珠洲郡)だったのではないだろうか。
教区議長をしていた時、門徒戸数問題に取り組み、3戸門徒、0戸門徒寺があり、月参りやお墓参りなど実質的な門徒さんとのふれあいはそういったお寺のほうが濃密だ、と説明したことがあったが、口郡の方々は、どうしても理解出来なかった、と今でもおっしゃられる。
一山の意味は、その後も考え続けてたどりついたもので、また明治以前についても、ある見解を持っているのであるが、
それはそうとして、まずこれらの法宝物が「珠洲市史」に載っているかどうか確かめてみた。

同じ2巻に「歴史考古資料編」があるのだが、載っていない。多分、元道場ははじめから調査対象から外れていたのだろう。
載っていれば、写真を転載しようと思ったのだが出来ない。
昨日、お寺に入るなり、エエッ!と声が出るくらい驚いたのも全く表に出なかった法宝物だったせいでもあったのだ。

いい御姿に出会わせていただいた。

私のところは、今日から「春勧化」。

FB 2月22日(金)より  青春アイデンティティー    

 

静大を卒業してから静岡へ行ったのは、宇出津高校で生徒指導主任をしていて、熱海に中部地区生徒指導会議があって参加した折、帰りにわずかの時間寄ったのと、昨年5月に卒論を指導していただいた故南信一先生宅へ『妙好人千代尼』つながりで、お参り行った、その2回だけである。

その時、1年の時の下宿の先輩ですごく世話になった、sさんに電話してみると、すぐに通じ、車で下宿先跡、大学などあちこちを案内していただいた。52年ぶりに会ったのに、それこそ、下宿から何人かで風呂屋まで語りながら歩いた18歳と19歳2人がいた。私たちが卒業したのは大学紛争で校舎が封鎖されている最中だった。
その時から、同窓会などなくなったのだろうと思っていたのに、先輩は同窓会室へ行こうと、静岡県教委と同じ建物内にある同窓会室に連れて行ってくれた。彼は、静大教育学部同窓会副会長にもなっていたのだ。立派な同窓会誌(24P)、名簿がある(784P)。担当の女性に、西山君は?というと分厚い同窓会名簿を見ながら、行方不明者になっています。と答えられた。
不思議なのだが、行方不明者であろうと、同窓会員として...名があるのだ、と思った時、突然、大学の4年間実際にこの地にいたのだとの感慨が湧いた。それまで、地に足のつかない夢うつつの学生時代の印象でいたのだ。
その年、飯田高校から同級生が4人静大に進んだ。名簿を見ると全員行方不明者だった。もちろん同級生とは50年離れているわけはないので、こちら側からすると、同窓会はなかった、ということになる。
 昨日、その先輩のSさんの紹介だといって、同窓会だよりの「会員だより」(400字)に書かないかと打診があった。同窓会には21支部があり、支部外からも投稿を募ろうと話し合われ、その一人に選ばれたらしい。早速、今日一文を書いて送った。書いた文以外に、「くじけちゃいけない海の子は」にも触れたかったので、結局3文をお送りした。
今やっている論文の整理は、読みての顔が浮かんでこず、同窓会だよりはフェイスブック仲間の金田さんなど、顔が見えるのだ。
とうことで、今日は18歳から22歳の自分を訪ねていた。

画像に含まれている可能性があるもの:群衆、空、屋外
 
画像に含まれている可能性があるもの:1人以上
松坂屋でバイト中に、初めて買ったLP。
夜霧のしのび逢い、涙の太陽、ある晴れた朝突然に、霧のカレリア、シベリアの灯は消えて、ダニューブ・ウェーブ、別離(わかれ)など。
 

FB 2月20日(水)より   真宗教義を刷り込んだ「暦」

ダイアリーの役目を終え、更新出来なくなったブログ「能登のうみやまブシ」が、移行期間(扱えない)を過ぎてどれほどかしたら消えてしまうかも知れない。そんな不安をぬぐえないので、「真宗の生活」として書いたものをコピーし、フォルダーに残している。その作業中徒門さん宅にあった「略暦」について書いた記事が出てきた。おもしろいので紹介します。

「壬申歳略暦
 廣大の御恩
ありかたや十七八の五本願(御本願)...
信して参る二四(西)の極楽

 小身の我に受
正信偈和三て(和讃で) 六字名号の
九徳(功徳)のへ霜(述べしも) 祖師の恩徳

 右愚詠  紀州秤廼屋 元緒」

壬申(明治五年・1872か、文化9年・1812が壬申の歳)の歳の大の月、小の月を記す。
太陽暦になった現代でも、31日の月(大)と28日~30日(小)の月があり、小の2,4,6,9,11月を「西(2,4)向く(6,9)士(11)」の語呂合わせで覚えた。
月の満ち欠けによって、毎年大小の月が違い、閏月まであった陰暦時代には、大小月を覚えるのに様々な工夫がなされた。
 この資料は、真宗の教えを歌に詠み込みながら大小の月を示している。
今月は大か小か?
暦を見る度に、安心、師恩にうなずかれる教化。

生活の中に、いかに教えが身近なものとしてあったのか…の証左だ。

最初、「五本願」を、文字通りに重要な願である17,18,11.12,13の五願を示しているのかと思ったのだが、教学的すぎる。「御」でいいのだろう。

その年は、2,4,5、7,8,10,極(12)月が大の月、
正(1)、3,6,9,霜(11)月が小の月だったのだ。

写真の説明はありません。

FB 2月19日(火)より  五来重先生の真宗観

 

2月19日(火)

五来重先生の真宗観」について論じたものを見たことがない。
先生の著書目録を見ると、柏原先生の博士論文「日本近世近代仏教史の研究」の審査要旨も書いておられ、佐々木孝正さんをはじめ、大学に残った真宗関係者を指導しておられる。
なのにだ・・・。
かすかな記憶だが、住職になるための勉強で、五来先生に尋ねたことがあった。
その時、先生は柏原先生に聞きなさいと紹介してくださった(ような…)。新しい学問体系の構築に忙しく、真宗分野まで関わっておれなかったとも考えられるが、その時の印象は、真宗に関してもどれだけでも答えられるのだが、敢えて役割分担をなさっておいでる、と思えた。...
そして、問わず語りに「野間宏」の真宗理解を、先生から聞かされたこともあった。

やはり、五来重真宗を知りたいので、今、50年前の学生時代にコピーした「高野山における親鸞聖人像」をレンズを使って、薄くなった文字を拡大しつつ翻刻している。

五来重著作集別巻』(法藏館)から、先生の真宗関係著書を時代順にあげると(○は『五来重著作集』所収)次のようになる。

○北陸門徒の関東移民(著作集第9巻)1950・昭和25年
○伊勢三日市の「おんない」と真宗高田派の大念仏(著作集第1巻)1961・昭和36年
 高野山における親鸞聖人像 1961昭和36年
 阿弥陀如来の使者・妙好人 1966昭和41年 
 『日本を知る辞典』項目、親鸞浄土真宗、(彼岸会)、報恩講 1971・昭和46年
 (仏教の供花と生け花) 1973・昭和48年
 『慕帰絵』に見える趣味と生活 1978・昭和53年
歎異抄 解説 1977・昭和52年 (著作集第4巻)
 民俗と文学 親鸞と庶民信仰ー野間宏 1978・昭和53年
 (日本料理と仏教) 1979・昭和54年
 善光寺ー庶民信仰・親鸞Ⅰ-15 1984・昭和59年
 (対談)親鸞の実像を求めてー佐藤正英 1985・昭和60年
○『善光寺まいり』平凡社 1987・昭和62年 (著作集第2巻)
 『鑑賞歎異抄』 東方出版 1991・平成3年
 親鸞の実像を求めて 再録 『親鸞の核心を求めて』青土社 1993・平成5年
 『文学と民俗を語る』(宗教民俗集成8)角川書店 1995・平成7年

ブログ「能登のうみやまブシ」では、2016年9月21日
http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20160921/
=五来先生の真宗関係著書

 
 
 

FB 2月17日(日)より   直木孝次郎氏

 

2015年(平成27年)2月16日の朝日歌壇に
「はじ多き 一生なれどけんめいに 生ききていつか 九十六歳」が載った。
投稿者の名を見て驚いた。「直木孝次郎」とある。
学生時代ーほぼ50年前ーに著書を購入した、古代史学者として著名だった方と同名である。しかも96歳、その方かも知れない。
その歌の選者まではメモしていないが、選者のコメントに著名な古代史学者が詠んだ旨が書かれていた(はずである)。...
3月29日にも
「鹿児島のかるかん持ちて尋ね来ぬ 五十五年前学生たりし君」直木孝次郎・96才が載った。

今日の朝日新聞朝刊に「直木孝次郎さん死去」の記事があった。去る2日、100才で亡くなられたとのこと。
記事には,朝日歌壇に投稿されておられ、戦後70年(2015年)記念大会に「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」が入選した、と紹介されていた。

学生の頃、直木史学のクリーム色の本を購入していたはずだと、「臥龍文庫」と名付けている別室書庫を探した。
「日本古代・・・」が付いた題名だと記憶していたが、『神話と歴史』名の本だった。
今の私が、50年前の青年に会いに行った気分。

あのころ,大学者や有名人を呼び捨てにしーたとえば、吉本の次作はいいなぁーなどと、友と語り合ったものだが、直木は、とは言わなかった。遠く敬愛の対象だったのかも知れない。
直木孝次郎がなくなった・・・て、とすぐに会って話し合える相手は、今、一人も浮かんでこない。

短い京都時代に、大阪市立大、先生だった「直木孝次郎」・・・。

[写真]
一、二枚目
『神話と歴史』昭和46年購入。日本神話と古代の天皇、建国神話の虚構性、神武天皇と古代国家、古代の伊勢神宮などをかなり読み込んでいる(故・佐々木孝正助手の輪読会に混ぜてもらっていた。その時のテキストに用いていたのかも知れない)。
三枚目
歴史を学びだして、読み易く理解しやすい文体で感心したのが『日本古代の国家と仏教』井上光貞著(1771年刊)だった。

FB 2月16日(土)より   春勧化 御消息 天明7年11月18日 

2月16日(土)

「春勧化」拝読御消息

かつての手紙類を整理していたら、名古屋の羽塚孝和さんの便りに、名古屋(尾張)では、御座とか御消息は死語になっています、というのがあった。
蓮如上人500回忌お待ち受けの時、金沢別院でお話ししたことがあったが、その時のテーマーが「講」の復権だった。
その時、三河出身の本山担当者も聞きにこられ、三河には、門徒宅を回るような「講」(相続講)がないので、どういうことをするのか知りたいから参加したとおっしゃていた。...
こちらからは、「在所御座がない」ところがある方が不思議だったのに、現今の変化は、夜、御座があることが珍しくなっている。

これもだいぶ前だが、本山から声明指導においでた方に、大先輩(故人)が、御消息の最後に、漢字が並んでいるけどどう読むのかとお尋ねになられた。
その講師の方は「御消息」って何ですか?見たことないので分かりません…だった。
その時、私は、教義を門主名で出すのが御消息だから、ご本人がおいでる本山に「御消息」があるわけがなく、すなおにお答えなさっている、と思った。
先輩が質問した漢文の読み方を知ってはいたが、その人は当地区の声明の指導者でもあり、よく勉強しておいでるからこそ質問をなさったのである。
当時はまだ若く、若造が物知り顔で説明するのもどうかと思って黙っていた。

このような伝統は、どこかで活字化しておかないと、なかったことになってしまう。
ちなみに吉川弘文館の『日本民俗大辞典』を見ても「御消息」には全く触れていない。
近くの語の見出しである「御真影」は、天皇だけの説明になっている。
親鸞聖人「御真影」のあるところが「本願寺」で、吉崎には8世住職蓮如上人がおいでたにも関わらず、吉崎本願寺でなかったのは、吉崎には「御真影」がなかったからである。
仏教においての、「眞影」は極めて重要なのだが、決定版の民俗大辞典に説明がない。

話を戻して、御消息の漢文とは「右如蓮如上人文可有信心決定事肝要也」とあるもので、蓮如上人の「御文」そのままを「御消息」にした、いわゆる「御文御書」の決まり文句である。現在、大谷派が発給する御消息はすべて御文御書である。

それに対して、当寺の「春勧化」で用いてる御書は、御文御書に対してお巧み御書と呼ぶもので、その時々に作成された教義文面の御書である。
この御書の内容が、すごくいい。
発給年月日は乗如上人代の天明7年11月18日。
この日からほぼ70日後、天明8年1月30日の京都大火で本願寺も焼失。復興の歩みが,詰所、歓喜光院殿(乗如上人)御崇敬につながっていく。

再興にかけた門信徒の情熱が、この御消息から窺える歴史的な御消息だと思っている。
このような教えが、津々浦々に「御消息」を通して行き渡っていたのであれば、全国各地から本願寺再建に向けて人々が駆けつけたのは、まさに宜(むべ)なるかな―である。

「乗如上人御消息」本文

わさと筆を染さふらふ、
しかれハ、そのもとにをいて連々講をとりむすはれさふらふよし、
またく法義相続のもとひと神妙におほえさふらふ、
抑、当流聖人の勧化のをもむきは、信心をもて本とせられさふらふ、
されハ、わか身は造悪不善の凡夫なれとも、
不思議の誓願力によりて、やすく浄土の往生をとくるなりとふかく信して、
さらにつゆ・ちりはかりも本願をうたかふこゝろをましえす、
一念帰命したてまつれハ、弥陀如来ハよくその機をしろしめして、
无碍の光明におさめとりてすてたまハす、
この世のいのちつきのれハ、あやまたす浄土におくりたまふこゝろを、
すなはち南無阿弥陀仏とはまうすなり、
また経にハ、光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨とハのたまへりとしるへし、
さてその信心といふは、
すなハち弥陀如来の御かたよりさつけまし[繰り返し記号]たる他力の大信心とおもふへきなり、
なをこのうへにこゝろうへぎやうハ、かやうに弥陀に帰命する一念の信心によりて、
往生治定のうへには、行住坐臥に口にまうさんところの称名は、
われらか一大事の後生をやすくさためたまへる
弥陀大悲の御恩を報尽まうす念仏なりとこゝろうへきものなり、
あなかしこ[繰り返し]
天明七年十一月十八日釈乗如(花押)
専光寺下能州
珠洲郡飯田町
西勝寺
十四日小寄講中※原文読点なし。

※父の代のある時期まで、拝読し終わると「ギョメイギョハン」と言って、左右の手をさっと交互にして、聴衆に「釈乗如(花押)」を見せたものである。
いかに講宛の(本物の)御消息を受けるにいたるまで苦労があったかを物語るもので、本物に間違いないことを示す所作だった。
そのあと文字面を向こう側にしたまま、両脇をしめ、御消息が衣の袖にとどまるようにしたままの状態で、巻き戻していく。
左右ではなく上下の動きの巻き戻しである。
「ギョメイギョハン(御名御判)」作法はやっていないが、巻き戻しは伝統に則って続けている。
文の文字を向こうに向けるのは、息を吹きかけない為だと聞いたが、
巻き戻しの短い時間ではあるが、当時の素晴らしい書を皆さんに感じ取っていただきたいのと、
天明七年から230余年、
しわぶきなどによって文字がにじんだりすることがないよう、「息をかけない」という言葉で語られているのだろう、と私なりに解釈して、この作法は続けている。

この文はhttp://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20170225/1487982604
=2017年2月25日のブログ記事「春勧化 御消息」を元に少し書き直したものです。
[写真]
「春勧化」拝読「御消息」。乗如(歓喜光院)上人、天明七年(1787)11月18日発給。
京都大火で本願寺が焼失するおよそ40日前に届いた「御消息」。

写真の説明はありません。
 
  • 金剛圭樹 今はもう御講も葬式後の御座も無くなりましたが、こちらでは『ゴメイゴハン』と言って見せてました。巻き戻しは巻いてる間、間が空くので係りの方が下げてから控室で巻いてました。葬式の終わった夜に必ず御座があり、それが苦であり、喜でもあった頃が懐かしいです(笑)やっぱり自宅で通夜、葬儀をしなくなってから無くなりましたね〜
     
  • 西山 郷史 「御名御判」ですね。地域間、一カ寺ごとに風習の違いがありますね。葬儀でいえば隣の組のあるお寺では、49日間七日ごとに御座があり、お説教がありました。これだけでも年から年中、御座お説教です。絶えず勉
    強してお話しだけを担う人(布教僧)が必要でした。金剛さんのおいでる口郡(口能登)には426、私の住む奥郡(奥能登)には406の村があったのですから・・・特に葬制は谷ごとに違うといわれているくらい、違いがありますね。

FB 2月16日(土)より  春勧化 ご案内

 

「春勧化(はるがんけ)」の案内を、1週間前に役員さんの家や各地の掲示板などに貼ってもらう。そのチラシを作った。この時期の墨に赤線の案内ー近在のあちこちに一種の風物詩でもあると思っている。

昼一座、夜7時から御座(おざ)宿での一座を続けてきたが、昨年の大雪や、夜9時近くになってから御座宿からの帰宅、当番町内の方々の後始末の大変さを考え、今年から、夜7時を、夕刻4時からにしてみる。

「他国坊主に国侍」の伝統を引き継いでいて、布教師さんは遠方の方にお願いすることが多く、泊まりがけでお願いしていたのだが、車社会になってからは通いの方が増てきた。車だと雪の心配もある。...
あまり遅くなっても・・・などでの変化。

それでも他の地域にいって、出し合い話に2月24日~28日の5日間(数年前まで22日からの1週間)、この時期に「春勧化」という在所御座中心のお参りがあるというと、驚かれる。
まもなく、年18日(「地語り」は、春秋彼岸・蓮如忌の3日)の布教師さんに来ていただく「お参り」がはじまる。

 

写真の説明はありません。
 
 
 

FB 2月15日(金)より   渤海使節のめざした高爪山  義経伝説の白眉・生神

渤海使節も目指した、高爪(たかつめ、見よい―標高341㍍)山。
能登富士。古くは洞が嶽~鷹爪山~高爪。

能登十二薬師、能登国三十三観音札所。
前田利家の帰依した「北の坊」など十二坊。...
唱道者が集まる拠点(別所)。
具体的な龍灯があがる話(竜宮との行き来)を伝える。
一枚目機具岩(はたごいわ、右手)付近から。二枚目柏女から。
三枚目大福寺から。四枚目バス停「高爪山口」から

画像に含まれている可能性があるもの:空、海、雲、屋外、自然、水
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画像に含まれている可能性があるもの:空、山、木、屋外、自然
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ふと、生神(うるかみ)のお産の井戸に寄ろうと思った。生神は能登に多い義経伝説の代表の一つ、草分けとでもいうべき伝説地である。
奥州へ落ちのびるため、能登へ向かった義経を、身重のため遅れてあとをたどってきた北の方が、ここでお子を生み、その時用いたという良水の井戸がある。生神の地名も、この話しから付けられた。
私が民俗を始めたころには、無事出産するとお礼に奉納した「乳型」が一、二ではあったが、見た記憶がある。

近くのヤセの断崖などが崩落した2007年の能登沖地震で、車道から生神神社へ行く道は大きく崩れており、車は...通れない。
地震前には自動車道を通って何度か来ているのだけれど、初めて集落から井戸を目指した。

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FB 2月15日(金)より   いこいの村 能登半島の朝

 

2月15日(金)三山組勉強会の折

13日「いこいの村 能登半島」で午後5時半~7時、「御崇敬(ごそっきょう)」に関する勉強会を持った。布教で頑張っておられる僧、住職になって間もなくの若い僧たち。今・現在,将来を見すえるベテランたちと、これからを担うエネルギーが調和し、あとの懇親会も靄々。
そのまま、泊まった。
ここへは、数年前に、能登文化財50周年大会が行われ、その時はもう珠洲市文化財保護審議員を退いていたのだが、功労者として招待され,懇親会にも混じった記憶がある。高校の恩師世代が、(まだ)審議委員で、椅子を並べるなどの世話をしたことを覚えている。次の日の報告会にも出たはずなので、泊まったのだろうが、そのあたりは記憶から抜け落ちていて、初めてここに泊まった印象。

写真は...
いこいの村 能登半島」の朝。
14日7時半頃。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、雪、屋外、自然
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