多羅山蓮光寺ー蓮能尼の里 

蓮光寺圓谷城燕師が1月4日(火)、88歳で還帰なされた。

先に帰られた坊守さんは、私が教区会副議長を務めていた頃の坊守会会長さんで、その時期に迎えた蓮如上人5百回御遠忌などでは、人々の願いを聞き、精神的な支えになって下された。城燕師は御遠忌に加え、中島町史調査においても頼りきっていた方である。

多羅(タタラ)山、『拾塵記』に紹介されている小仏、蓮能尼の里の中心道場の雰囲気に触れることが出来るため、よく訪ねたものだった。

蓮能尼の手紙が伝わっており、表装して庫裏の欄間に掛けてあったのを、某学者の研究にと乞われ貸したところ、失火により灰燼と化してしまった。かつて消息横掛け軸を飾っていた長押を、そこにあるかのように愛おしむ眼差しで話してくださった姿を忘れることが出来ない。

城燕師がいつもお会いになって下さった座敷に、その長押があり、ご家族としばし思い出を語りあった。

 

 

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左・鳥越多羅山蓮光寺。 電柱の向こう側の山脈が蓮能尼が育ったと伝える西谷内城。

 

『拾塵記』蓮如10男 実悟著 母は蓮能尼(1998・平成10年 東本願寺出版部刊『蓮如上人と現代』附資料より)

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中島町史資料編上巻』

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拾塵記

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御開帳 『中島町史資料編上巻』837頁

『末世目覚草』に、

同年(天保十四年・1843)の八月三十一日より六日間、
今度は正永寺において鳥越蓮光寺の法宝物である「一、
蓮如法主影像壱幅一、六字名号二幅 一、蓮如法主

二通 一、教如法主消息一通」の開扉弘通が行われている。
以上挙げたのは記録に残されているもののみで、この
他にも多くの宝物が人々の目を楽しませ、法悦に至らせ
たものであろう。布教の一方法として当地においても盛
んに出開帳が行われていた時代があったのである。

※正永寺には、有名な二面太子像がある。

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蓮能尼の里ー辻堂地蔵(町屋)と太郎助地蔵(鳥越)

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   2022年1月8日撮影

虫ヶ峰登山道口-町屋地内

名号塔

銘    

    永和三五月十五日 佛心   

 南無阿弥陀佛    

    日課六万遍念佛

    ※永和三年 1377年 地上129㌢、幅44㌢

[参考]中島町豊田・市姫観音と呼ばれている弥陀三尊種子板碑(176㌢×103㌢)に

應安三年(1370)二月時正の銘

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右堂内に弥陀三尊種子板碑を祀る。説明はないが、左下の石が「弁慶石」。次の伝説がある。『中島町史 資料編上巻』857頁

 豊田町が町と呼ばれているのは毎月十六日の市が
立っていたためといわれ、市姫観音堂がある。観音堂
にある長さ一・八㍍、奥行き・高さそれぞれ約九〇㌢
の石を義経の「腰掛け石」といっている。義経・弁慶の
一行がこの地を通りかかった時、疲れの見えていた義経
に休んでもらうために弁慶が後ろの山から担いできた石
といい、その時についた弁慶の指の跡があるという。腰
掛け石は、元々立石であったが、ある時一老人がこの石
を台にして別の石で藁打ちをしたため、石霊が怒って夜
中に音を立てて倒れたとの話がある。

 

 

辻堂地蔵 別名・首なし地蔵 立て膝型 高さ29.0㌢、幅43.0㌢

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太郎助地蔵 鳥越地内 蓮光寺前田中 立て膝型 高さ40.5㌢ 幅39.0㌢

  2021年5月17日撮影

民話

辻堂地蔵と太郎助地蔵        『中島町史』資料編上巻 平成七年 828頁
町屋の辻堂地蔵と鳥越の太郎助地蔵の二つの地蔵に関して次のような伝承がある。
連日日照りが続き、これ以上水不足が続いたら稲が立ち枯れてしまうというギリギリの年があった。その年、ムラの死活を背負い一滴の水も惜しいと寝ずに水番をしていた鳥越の五兵衛の目を盗み、町屋の佐助が水を町屋側に流したため、カーッとなった五兵衛は鍬を振り降ろして佐助の首をはねてしまう。我に帰った五兵衛は、大変なことをしでかしてしまったとあらためて切り落とした首を見ると、そこには佐助の首ではなく地蔵の首が転がっていた。
 罪は罪として、辻堂地蔵がムラのことを思って犯した佐助の身代りとなって首をはねられたのである。一方、こともあろうに地蔵を傷つけてしまった五兵衛は、恐れおののいて傍らの太郎助地蔵に救いを求いを求めた。太郎助地蔵は地蔵同士の争いということにしておこうといって、自ら左手首を折って決着をつけた。
 辻堂地蔵には首がなく、太郎助地蔵には左手首がないのは、地蔵たちが二人の人間を救ったこんな出来事によるというのである。

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1991年撮影 向かって右鳥越太郎助地蔵
左 辻堂地蔵

御恵与 2冊 『加能人』新年号(『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』紹介)、『上井正三詩集 梅』亀鳴屋版

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写真は8日の能登島大橋石動山

 

13日猛吹雪の中、金沢から夜8時過ぎに帰宅すると、封書に混じって献呈と印を押した加能人社の封筒があった。開いてみると『加能人』新年号が入っており、

次の記事があった。

『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』をご紹介くださっていたのだ。

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紹介して下さった『加能人』2022新年号

 

『上井正三詩集 梅』亀鳴屋版  

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こちらは『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』と交換。

お互い元気だよーのエール。

続刊予定を見ると、お二方はなしたことがある方の予定が入っている。

たのしみだ…

石動山ー大字石動山集落の生活

8日に釶内に行く用事があり、石動山を仰いでドライブし、展覧会も見てきた

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1月8日11時。中島町横見からの石動山

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ふるさと創修館からの七尾城山石動山山脈

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鹿島町史民俗編執筆のため、冬の石動山集落を調査したのが昭和58年の暮れか59年にかけてであった。その頃飯田高校の教員をしていたので、冬の厳しい石動山を求めていったのではなく、天平寺と1、2軒の住んでおられた天平寺集落へ調査に入ることが出来たのは、その時期しかなかったのだ。編纂室の桜井さんと一緒に行った記憶があるが、もう40年近く前のことだ。”雪の広田家前”といったフレーズがボアーと浮かぶだけ。

現今の石動山、調査時の石動山、そしてそれ以前の集落の様子が写真で見ることが出来るというので、行ってきた。一枚一枚の写真が語りかけ、「石動山分校の歌」の詞に楽譜があったのでそれとなくハミングしてみた。

二番の歌詞 (作詞・作曲中村秀男)

能登の文化の発祥地 礎石にかおる百合の花 きれいな心 よい頭 強い体をみがくのだ

 

何度か調査その他で訪れた石動山一帯の光景が脳裏にひろがる…

 

石川県『鹿島町史』通史・民俗篇に書いた石動山集落の行事 執筆西山 昭和六十年九月刊

第4章年中行事と宗教生活 

第一節 年中行事  

石動山集落についてのみ、ピックアップする。

[二月正月の準備] 一月二十九日に搗く餅を「苦の餅」といって嫌ったのは、坪川・武部・石動山・小竹・東馬場・藤井・曽祢などであり、曽祢では、三十一日にも搗かなかったという。他地区では、余り日を気にかけておらず、その理由を真宗教義で説明したり(小田中)、逆に「苦に勝つ」(井田)、「苦を潰さんか」(最勝講)と敢えて搗く家もある。(一〇七八頁、以下略)
[繭玉]用いる木は、石動山がミズノ木。
繭玉とは、千切った餅の形が繭に似ているところから、養蚕の盛んな頃にそう呼ばれるようになったといわれるが、どちらかというと、稲穂の姿を表わしており、その形状に豊かな実りを期待したものである。西・原山・小竹では、それを示すように稲穂といい、石動山では、御花〈おはな〉といった。
[除夜の鐘] 石動山では、戦前に若い衆が頼まれて日澄寺の鐘を撞いた。
[宮参り・寺参り]元旦の朝に、蟻ヶ原・石動山では、古くから宮だけに参ってきた。石動山では、夜中に済ます人があり、女性は夜が明けてから参る。
[棚捜し] 二月四日は、「棚捜し」という地区(存江・西・坪川・久乃木・武部・井田・小田中)と「仕事始め」という地区(蟻ヶ原・石動山・尾崎・東馬場・藤井・小金森・曽祢)に分かれる。滝尾地区が大体の境で、北の方の地区では、お供えものを降ろして食べる日との意識が強い。「仕事始め」という地区でも、特に仕事があるわけではなく(曽祢)、祝い縄の大人版程度の仕事をした。蟻ヶ原・石動山では、山仕事や炭焼きを始めた。
[サツキ正月] 石動山では鍬などの農具形の団子を作り、鍋の中を鍬や朳〈いぶり・えぶり〉で混ぜる動作をした.中には蕎麦〈そば〉を打って食べる家もあった。
[二十日正月・寺正月]原山・石動山では、五十年程前にはすでに二十日正月と、言うだけの日になっていた。
[重ねの一日]どの地区でも、三月一日を重ねの一日〈ついたち〉といい、餅を食べてゆっくりと休んだ。
[春の山祭り]三月九日。山の神が、木の側〈そば〉に遊んでおられる(石動山)とか、木の種を「蒔〈ま〉かしゃる」(水白)といい、この日に木を切ると怪我をする(二宮)、特に「トモノ-木を切る道具-が危ない」(原山)などと言って気を使った。
[ネハン(涅槃)]三月一五日。石動山では、伊須流岐比古神社拝殿正面に涅槃図〈ねはんず〉を掛け、三蔵坊の広田家当主が僧侶代わりを勤めるお参りがあった。
一軒に二.三合の米を出し合い、五班のうち二班が当番になって団子を作ったが、その後、東と西の版で交替するようになり、日も三月九日の山祭りの日に移った.餅米・小豆・豆・粟を入れた赤飯を供え、五穀豊穣を祈った後にそれを参詣人が戴いた。同地区では日蓮宗日澄寺でも、同日に団子撒きが行われた。現在(※昭和五十八年ごろ)では、両者とも三月十日前後の適当な日に行われている(実施時間は異なる)。
[雛祭り]四月三日。原山や石動山では、あまりこの日を意識せず、蟻ヶ原では、昭和十五、六年頃に廃れている。
[江堀り・ハンカイコウ] 西の二十四日は、石動山の春祭りの日であった。古くは「石動山祭り」といい、団子を作って祝った。かつて近郷に名高かった石動山の祭りが、西地区に踏襲されてきた点で注目されるが、昭和三十年頃には四月三日(節句)に移っている。男達が総出で作業を午前中で済まし、昼に二升の酒と油揚飯〈あぶらげまま〉(炊き込みご飯)を食べて別れたものである。
[山見] 五月十四日。七尾大地主神社山王神社)青柏祭を見に行くこと。原山・石動山では、行く人を大目に見ていたとか、子供にせがまれた家ぐらいが行ったという程度であるが、ほとんどの地区では、「山見にも行かんと仕事しとるか」と悪口を言われる(小竹・東馬場)くらいに、こぞって出かけたものであった。
[サツキ]田植をサツキという。五月二十日頃を中心にして、六月五日の節句頃までにサツキを終えたものである。山間部では遅く、石動山では、五十年程前までは六月十八日頃までかかった。
[田休み]一通り田植を終えた時の休み。石動山では、田休みを「泥落とし」とも言った。
[煎菓子盆]七月一日(他市町村では氷室の節句という所も多い)。石動山では、休み日とし、蟻ヶ原では、虫送り祭りを兼ね区長宅へ集まって飲んだ。
[雨降り盆・雨乞い]田植えが終わったあと、雨が欲しくてたまらない頃に恵みの雨が降ると、雨降り盆(徳前・二宮・石動山)・雨降り祝い(西・最勝講・水白・福田)・雨盆(高畠・小金森・曽祢)などといって、一斉に休み日とした。雨乞いは、石動山大御前で祈祷を行ったり、三幅の雨乞いの掛け軸を用いた(石動山)。
[虫送り]石動山では、二十年程前まで、七月七日の午後二時から若い衆が「トコトコトントン、トントントン」と太鼓を打ちながら、焼尾地区まで回った。
[八月十三日から十六日] 「夜ハ仏前ニきりこトイフ灯籠ヲ吊〈つる〉シテ死人ノ冥福ヲ祈ル」(「郷土調査第二輯・風習思想篇」昭和十三年御祖尋常高等学校)とあるが、石動山では、キリコは金沢・富山側の行事であるといい、水白・小田中で、一軒ずつ吊った家の記憶がある程度で、一部の家の風習でしかなかったようである。
[盆踊り]八月十四日(坪川・久乃木・武部・井田・小竹)・十五日(坪川・武部・二宮・原山・石動山・井田・高畠・小金森)・十六日(坪川・徳前・石動山・井田・藤井)の三日間が中心で、三日間とも行われたのは、近郷の中心地区である。
[七尾の相撲]十一月三日、七尾愛宕山で光徳寺の満座相撲(お取越相撲・天長節相撲・明治記念相撲)が行われ、近郷から多くの人が出かけた。原山では、半分ぐらいの人が出かけ、蟻ヶ原では、山見ほどではないが、若い人も出かけた。石動山では、今も出かけ、井田では、男は相撲見物、女は法事参りという風であった。
[カリンテ・庭仕舞]稲を刈り終わるのをカリンテという。その日は、里芋を小豆で炊いた芋のイトコ汁(坪川)、ボタ餅(芹川・石動山・最勝講・水白・尾崎・福田・高畠・小金森)、赤飯(曽祢)、刺身(小金森)などで祝った。
[バンモチ]田んぼの収穫後によくバンモチが行われた。石または米俵を担ぎ上げるもので、坪川・久乃木・武部では米俵を用い、石は聞いたことがあるという程度である。石動山・最勝講(四斗・五斗・一石)・福田(四斗・一石)では石を用いた。運動会の競技にもなったが、大正初め頃(曽祢)、大正終わり頃(存江・久江・福田)、昭和初め頃(久乃木・武部・石動山)には行われなくなった。
[冬の山祭り]  十二月九日は、冬の山祭りの日で、春の山祭りとほぼ同じ伝承が残されている。二宮ではこの日を田の神様ともいう。武部・芹川・蟻ヶ原・石動山では、春より秋の山祭りを重視してきた。
[訪れる人々・芝居]  福俵を持った人が回ってくるのも正月の風物詩の一つで(存江・徳前・蟻ヶ原・石動山・最勝講・久江)、万歳師のようないでたちで、歌の拍子に合わせながら小さな俵を各家の座敷の中へ投げ込んでいった。石動山では今でも行者がしばしば訪れる。

 

第二節 祭礼行事
[春祭り概観]四月二十四日(石動山)。蟻ヶ原では石動山と同日の二十四日に行われていた。
石動山では、昭和三十年頃まで盛大に行われた。幟は、鳥居の下と高に各二本、焼尾地区の高と宝池家の前に各一本の、計六本を立てたが、後に四本になった。「〽伊勢の太夫様、春出てござる、春は日もよし日も長い」など伊勢音頭を歌いながら御輿が練り歩き、これを「オネリ」といった。中入りは二か所であり、ゴマをふった握飯を食べ、酔にまかせて踊ったり跳ねたりした。その頃は、夜中までかかり、焼尾地区へも春・秋祭り共に御輿が回ったことがあった。ここでも、御輿が出ることを「ゴコウな出る」といった。
[秋祭り概観]  十月二十四日(石動山)。蟻ヶ原・久江原山分はかつての石動山と同じ十月二十四日に行われた。石動山では、ヨソブリ・獅子殺しなど七種類の獅子舞があり氷見の十二町から習ったと伝えられる。

三 特殊祭礼
[開山祭]一一七三頁
石動山の開山祭は、泰澄大師の御霊祭りと称され、かつては、毎年七月七日に泰澄開基と伝えられる宝池院(明治以降は宝池家)で行われてきた。祭りの日に、子供達が宝池家へ笹餅をもらいに行ったものだという。大正十年に伊須流岐比古神社が神饒幣帛供進神社に指定されたのを機に、石動山区による祭礼となった。信仰の中心はイワシが池の霊水にあり、この水は四百四病に利くといわれ、特に氷見の灘浦地方の大敷関係の人々の厚い信仰を集めている。祭りには大御前に灯明があがり、多くの参拝者があったといい、灘浦を守る霊地としての石動山の影響は絶大なものがあった。一升ビンに池の水を汲んで神前に並べ、御祓いを受けるが、これを「お水取り」という。隆盛を見たのは、三蔵坊の広田まさき氏によって神託が広められた明治三十年代頃からといわれている。現在は、午前十一時から天平寺で法事が営まれ、午後から神社で開山祭の神事が行われる。この時、山開きの祝詞・水分神への祝詞・開山泰澄大師への祝詞があがる。近年、鹿島側からの参詣者も増え、鹿島町でも、町を代表する行事として宣伝に努めている。この日に地区の虫送りも行われていた(本章第一節参照)。
[その他の祭り]
石動山との境界争いに勝った日を記念したという蟻ヶ原のクジョウ祭り(十月十一日)もあった。

第三節 宗教講と民間信仰
二 在所御講
石動山 主だった家を順番にまわるオコサマがあり、子供達が容器を持っていくと、おかずを入れてくれた。必ず、その家で作った豆腐と小豆の御汁がついた。在家報恩講をオシッチャあるいはゴマンサイといい、決まって十二月二十五日に営まれていた。在所の一軒の家に集まり、大坊主様(導師)の「ひっぱったお経」に唱和するのである。子供達は、煎菓子・豆・蜜柑・数珠状にした栗・串柿などを袋に入れ、砂糖・飴を混ぜたゲンコツオコシを持って、年寄りに手をひかれて集まったものであった。卵やカタクリと合わせた山芋もよく持っていった。御伝紗(親鸞伝絵)の第一段が読み上げられ、九時から四時頃まで営まれた。この規模のものは、昭和三十年頃にはなくなった。
 
四 民間信仰
[観音信仰]  石動山は、本社に相殿として本地観音菩薩の白山社があり、能登国第九番札所として名高い。なお、石動山については、『鹿島町史』石動山資料編(昭和六十年度刊行)で詳しく述べられるので、ここでは省略する。
[地蔵信仰]  鹿島町には、約三十体の地蔵がある(石動山にも相当数の地蔵があるが、現在では信仰の対象にされていないので省く)。

 

 

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年頭挨拶ー蓬莱・喰い積み

f:id:umiyamabusi:20220104111711j:plain今年も広間に金屏風を立て、一般に蓬莱飾りとか喰い積み、あるいは福徳米と呼ばれてきたものを飾った。

新年の挨拶を交わし、三方に盛った五穀を頂きながら、御酒を頂く時に用いたものらしい。

加能民俗の会員だったころ、常民の行事の元になっているものが寺院に残っていることが多いことに気づかされた一つが、この正月飾りだった。

それを昭和61(1976)年3月刊行の『加能民俗研究14号』に「真宗地帯における正月行事ー珠洲能登島鹿島町を中心にー」と題して発表した。

珠洲市史では仏教伝承などを書いたが、年中行事は今村さんが担当した。能登島鹿島町史は年中行事を担当し、その両町がほとんど真宗門徒さん地帯だったので、民俗として扱ったもののすべてが真宗地帯の民俗ということになったのである。

そこで市史で担当しなかった地元・珠洲市の正月行事はどうなっているのか注目してみると、能登島・鹿島には存在しなかった正月飾りがあることを知り、驚いて知り合いの寺院、旧家をたずねて見たところ、数カ所で同型の飾りがあることに気づき、まとめたのだった。

その時の文は、のち『蓮如真宗行事』(木耳社・オリエントブック、1990年刊、のち1998年に『蓮如真宗行事能登の宗教民俗』と題名を変え再刊)に、「Ⅱ 真宗行事 一 正月行事と御影巡回 1 真宗地帯における正月」と題して載せた。

 

いずれにしろ、発表からもう46年~24年も経っているので、元の文を以下に記す。

 

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大箱 猿鬼塚散策 

討ち取られた猿鬼は懇ろな弔いの結果、光となって西の空へ飛び去った。何本かの猿鬼由来記(説教本)があるが、中の一本には「すがれ弥陀の本願」などとあり、真宗唱導に用いられたことは明らかである。

その猿鬼が埋められた場所と伝わる、大箱の鬼塚を訪ねた(12月23日)。

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弘化二年(1845)狖鬼岩屋傳記之写

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大箱村・当目・黒川村名の由来

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ヒトツ

一 大箱村より申ハ猿鬼筒之矢、目をい(射)ら

 れハ時俗ニ云ヲハコ草(車前草・車前草)ヲ取集煎洗

 鬼神草をその妙成シ故是大箱ト

 当村ハ申右草ヲ摘し所故なり

一 猿鬼筒矢ニ目をいぬかれし故、当目と申なり

 右鬼神討シ時川ヘ入血を洗しが不思議也

 黒血流れ黒川迄(まで)流し故黒川村申傅へるなり

尾添・白山下山仏

尾添の白山下山仏について、会ったことは無い知り合い(かつて電話で話しあった)から電話があった。林源常さんが亡くなられてから尾添を通り過ぎることがあっても、下山仏社を訪ねることはなかった。

そして、源常さん達が中心になって営まれていた蓮如忌には、下山仏社を開扉しお参りをなさっていた、その行事が続いているだろうかとおもうことはあったが、当寺でも同日に蓮如忌を営んでいる。

遠い思い出になっていた下山仏が、主として管理面から話題になっていたことは、知っていたし、電話があって、行方を気にしている人がいるのだ、と思っていた矢先ー

今朝の新聞に記事が載っていた。

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北國新聞2021年(令和3年)12月21日朝刊

 

白山曼荼羅・尾添白山下山仏ー林源常師

かつて林さんについて書いたことがある。2009年6月18日、12年前のことで、その時の題名は

林源常師ー白山曼荼羅

次の文である。

 

 

 

林源常さんから、DVDをいただいた。
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林さんは、白山お仏供水を発見され、加賀禅定道の復興、庶民・女人の結解であった檜新宮からの下山仏を守ってこられ、
何よりも林道場の主として、夏安居に十数年続けて参加されるなど、聴聞の見本、現代の妙好人の歩みを歩んでおられる方である。
丁寧なお手紙を添えてお送り頂いた。
こちらも心を籠めてお礼状をと思ったのだが、書けない。
結局、電話でお礼を申し述べた。
去年の今日、当地に来て頂いている。
また元気なお声に会えて、よかった。


次の写真は、2005年(平成17年)9月10日。尾添白山下山社で、諸仏の説明をなさる林さん。
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なんと、昨年の今日(6月18日)だったのだ。真宗講座
PDF『北國文華』2004年夏号「ほくりく古仏巡礼・第2回・浄土信仰を伝える白山下山仏 尾添と白峰の阿弥陀如来(下書き原稿)」

 

 

このブログ記事によって、尾添の阿弥陀様を雑誌の記事にしていたことを知った。

「知った」というのはおかしいが、書いた記憶が全くなかったのだ。

また、下山社の安置の仕方から、背後のお姿は見ることが出来なかったと思っており、今日の新聞記事で、全体を拝見できるなら見に行ってもいいかなぁと思えたのだが、古仏巡礼記事の写真には全体像が載っている。

カメラマンさんだけ行って撮ることはなかったので、私もしっかり全体像を拝観し見ているはずだ。

ともあれ、その時の作品。

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ちなみに、この「ほくりく古仏巡礼」は五回で終わった。北國文華は季刊誌なので2004年春号から2005年春号の掲載で、

第1回は「能登山岳霊場の隆盛を伝える 珠洲市翠雲寺の木像延命地蔵

第2回上掲の「浄土信仰を伝える白山下山仏 尾添と白峰の阿弥陀如来

第3回「戦乱の中で慈悲の眼差し 余川興聖寺聖観音座像」

第4回「白山信仰伝える秘仏 波着寺の十一面観音」

第5回「利長が拝んだ慈悲の眼差し 石動山の十一面観音菩薩
だった。

いかにも中途半端なのは、この雑誌の元々の出発が、小説中心の雑誌であり、元の姿に近づけるため、新連載を交渉していた作家が、急にというかすぐに引き受けたので、この連載ともう一本の「郷土の思想家」を連載していた、いわば非小説の連載を急にとりやめ、その分を小説スペースにしたのだった。

 

それから17年、「郷土の思想家」執筆者は現在大活躍しておいでる方になっており、新小説連載をなさった作家は、作家修業中の頃を、民俗仲間から名を聞くことがあった○○さんだった。

名が出てこないが売れっ子作家になっておいでたはずで、妙に納得したことを覚えている。

 

※○○は、立松和平(1947~2010)氏だった。



 

とりあえず終了ー23、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉔―豊四郎順拝119~124

2021年(令和3)2月18日に22、㉕を書いてから数回分を下書きに残し、別作業をしていた。主として『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』に時間を取られていたのだが、この10月ーいろいろと取りこんでいたー豊四郎一族の人がふらりと訪ねてきておっしゃるには、

持主の方々が亡くなられ、いわば埋もれていた「宗祖聖人御旧跡巡拝」をおもてに出し、抜き刷り・写真などを持主に残した人物が住んでいるところを訪ねてみよう、とやってきたとのこと。

お茶をのみながら、巡拝帳について何かを知っておいでるようでもなく…

私のほうも、遠方に住んで居られるという方々に、資料を見せて頂くために、持主のお店の品を購入したという話をしても仕方がないので、そうですかという以上の話もないままの時を過ごしたのだった。

この資料に出会ったのは、昭和58・9年(1973・4)年の鹿島町史調査の時だから、もう、

50年近く前のことになる。

 

できれば、ちゃんとデーターを書き上げ、ほぼ200年前の豊四郎の旅をなぞることが出来ればよかったのだけど、聖人二十四輩の一ヶ寺も訪ねていない身としては、想像するだけで空しい。

おかしなもので、持主の方が、もう話も通じないほどのご高齢になっておいでるだろうと想像するだけでも、いつか続きを進めようと思っていたのに、お亡くなりになり関係者もどこか遠くにしかおいでない、ことを知ってまもなく、進めようと思う気持ちが萎えていった。それで、一応の区切りとするため、

下書きの24、114~121ヶ寺分をここに載せ、

全231ヶ寺を紹介を終えた後でやろうと思っていた作業-『真宗史料集成 第八巻 寺誌・遺跡』(編集・細川行信)所収の諸本との校合・比較ーがあったことをも記し、この作業を終えます。

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119 花島村 阿弥陀如来

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親鸞聖人御作

阿弥陀如来 一躰

 下総国岡田郡花島村

  八月十二日   渡邊太兵衛㊞

 

120 猿島郡大口村 摂取阿弥陀如来

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 親鸞聖人御作

摂取阿弥陀如来

 下総国猿島郡大口村

   落合彦兵衛

 

121 報恩寺村 報恩寺 性信上人七十五歳木像

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   御朱印地 武州江戸浅草

        板東報恩寺掛所

廿四輩第一

開基性信上人七十五歳直作木像

   并代々木像安置

    下総国岡田郡報恩寺村

         高龍山報恩寺

 已ノ 八月五日      輪番所

 

120 下総国藤持邑 御坊 願牛寺

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 高祖聖人御建立三ヶ年御逗留鷹嶋

 御遊覧之御旧跡ニ而一心御坊開基也

  御坊 願牛寺

 伝来證物略之 下総国岡田郡藏持邑

           大高山役者

 

122 岡田郡新地邑 新堤山宗智院 弘徳寺

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123 葛飾郡磯部 鷲高山順性院勝願寺

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124 古河御坊

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