戸坂潤(1900・明治33年9月27日~1945・昭和20年8月9日)

今日・9日は戸坂潤の祥月命日である。

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戸坂潤には選集と全集がある。
これは選集の第8巻
「おけさほど唯物論はひろがらず」
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『戸坂潤全集別巻』
先日聞いた戸坂潤と母という講義では、マルクス主義者・戸坂があって、それを育てた母ーいわば唯物論者・戸坂と固定してしまっているし、京大ではないが大学時代哲学を学んだ人に戸坂は?と訪ねると、マルクス主義者ね、と一言。

若くして獄中で世を去り、これからという時の方向性、広い人格が窺えるのが、娘・嵐子に宛てた葉書である。
それが、この別巻に載っている。
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「この葉書、保存のこと」とあり
獄中で仏教書を始め、あらゆる宗教書を読破している。
唯物論者とレッテル張りをして安心する学者たちに対し、
人間はもっと様々な可能性を持ちながら生きているのだ、との叫びが「このハガキ、ホゾン」の内容だろう。
戸坂家の師匠寺の御住職・粟津啓有氏が戸坂を研究していてこのこと気づき、それを、私に教えて下さった。
三木清の未完成の遺稿・親鸞に近い世界を感じている。

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『戸坂潤全集』
このうち、第2巻「日本イデオロギー論」などは昭和50年前後に購入した。
民俗から日本人とは?を考えていた頃…。
他は近日購入。
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能登俳人 藤田恕堂 附同時代の富来郷土史』佐藤荷人著、昭和29年刊
戸坂潤に関しては、
「因みに、大戦中悲惨にも巣鴨で牢死した有名な思想家戸坂潤氏は、この里大戸坂の里本江別家の当主であったことを附記する。」(p119)と紹介している。
牢死したのは巣鴨ではなく、空襲を避けて移った長野刑務所である。
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『戸坂家の文学 富来の大豪農俳人戸坂花渓と哲学者 戸坂潤』粟津啓有著、平成6年、北國新聞社
花渓は、潤の曾祖父の兄にあたる。曾祖父・飯左衛門が分家した。
通称新宅様である。

粟津啓有氏は、戸坂家の師匠寺・真宗大谷派廣覚寺ご住職。
グラフィックデザイナー粟津潔氏と従兄弟で、表紙の字は氏が書いたもの。
本は7月24日に頂いた。

海恵宏樹(かいえこうじゅ)

同じ羽咋郡出身で、京大に学んだ海恵さんは、戸坂をどのように評価しておいでるのか知りたくて、粟津さんを訪ねた24日、
少し足を伸ばして、お話しをうかがった。
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『人の知恵から仏の智慧へ』上・下

上記の本に載る氏のプロフィル

昭和9(1934)年石川県生まれ。昭和33(1958)年京都大学文学部(仏教学専攻)卒業。
昭和36~38(1961~63)年ビルマ国ⅡABS(国際高等仏教学研究所〕で仏教研究に従事。
昭和39(1964)年京都大学大学院中退。
昭和41(1966)年真宗大谷派存立寺(志賀町)住職となり現在に至る。著書に『無碍光』(1984年、北国出版社)、『聞光』(1987年。北国出版社)。
論文に「ビルマ仏教の輪廻説」(東南アジア研究第3号)、「TH.STCHERBATSKYの著作の概要」(アジア・アフリカ文献調査報告第4冊)他。

ここには紹介されていないが、私の初任校羽咋工業高校にいた頃、氏は高浜高校で教員をなさっておいでた。
20代からこちらは存じ上げていたのだが、それから40数年、はじめてお話しすることが出来た。
感動。

お聞きした話

戸坂はマルクス主義者といわれているが、結果的に晩年にあたる獄中で仏教書や宗教書を読みあさっている。
同じ羽咋郡出身で、大学も同じところで学ばれ、戸坂に対してどのように感じておられたか、何かあればお話し願いたいと、私が尋ねたのに対し、
海恵さんは、昔と変わらぬ背筋をのばした姿勢で穏やかに、次のように話してくださった。
西谷先生と同級生で仲がよく、宗教的な話しは西谷先生と交わされていたのではないか。学風は全く違うのだが、お二人とも同じ能登出身ということもあって仲がよかったのだと思う。
ただ、戦後、講義などで先生は戸坂さんについて触れることはなかった…。


能登町の西谷記念館を訪ねようと思う。近くの半村良の母の実家も行っていないし…。
 

戸坂潤略歴 0歳~

1900 明治33  0歳
9月27日、東京市神田区神田松下町十番地に生まれる。母戸板久仁子、父は同年1月に既に病没。母病身のために授乳ができなかったので、乳母とともに母方の祖父母のもと石川県羽咋郡東増穂村里本江におもむく。 
1904 37 4歳
祖父の勤務先、石川県江沼郡粟津の馬政局官舎に移る。これより1年間馬と土地の風景を友として育つ。また金沢の叔父の経営する缶詰工場に行き、缶詰の切れはしを材料として機関車などを作ったり、工員に作らせたりすることにしきりに興味をもつ。
1905 38 5歳
9月石川県より東京に帰り母とともに神田区錦町に居住。
1909 42 9歳
この頃、夏休み中は必ず郷里石川県の祖父母のもとを訪れ、田舎の環境に親しむことを習慣とする。


1918 大正7 18歳
開成中学校卒業。物理学者たらんとして第一高等学校理科に入学、数学を専攻〔一高理科に勉学中、自然科学の根本問題への関心をつよくする〕。入寮する。

1920 9 20
徴兵検査を受け、第1乙種に合格。1年志願兵を志し、卒業後までの延期願を出す。母は病気の為東京を引揚げ、郷里石川県に居住することとなり
1921 10 21
第一高等学校卒業。
西田幾多郎博士および田辺元博士を慕って京都帝国大学文学部哲学科に入学。
京大在学中は数理哲学を専攻、空間論その他自然科学の基礎の究明にしたがう。

1924 13 24歳  
京都帝国大学卒業、大学院に籍をおく。4月、肋膜炎にかかり京都で闘病にのち、
7月石川県へ転地して療養し間もなく全快。10月巴陵宣祐氏と城ノ崎温泉にあそぶ。
1929 昭和4 29歳  4月、大谷大学教授および神戸商科大学講師となり、それぞれ哲学を講ずる。
「戸坂潤略年譜」より。

巴陵(はりょう)宣祐氏

産婦人科の歴史』、
西洋医学史1959年
『古代医術と分娩考』
『人類性生活史』
醫學思想史
結婚生理学 遺伝と環境の研究 1942年(昭和17年)8月15日
生物學史などの著書・翻訳書があり、 関西医科大学・主任教授(昭和10年1月~昭和12年3月)だった。

高岡市開正寺(真宗大谷派)の先代ご住職のはずである。

参照:巴陵宣明師碑

略歴 28歳~

1928 昭和3 28
3月、陸軍砲兵少尉に任ぜられ、4月、正八位に叙せられる(のち刑の確定と同時に返還)。12月、長女嵐子誕生。
1930 5 30  
4月、当時逃亡中の共産党員田中清玄氏を自宅に泊め、そのために検挙される。
7月10日、妻充子死去。
1931 6 31  
4月、三木清のあとをうけて法政大学講師となり、京都におけるすべての勤務をやめて上京、東京市外阿佐ヶ谷3ノ250に住む。
12月、小曽戸イクと結婚。
1936 11 36  
1月、2女月子誕生。
2月、2・26事件の勃発に身の危険を案じ、東京市内の本間唯一方に身を隠し、ついで関西方面にゆき、事件の落着をまって帰宅する。八月、堀真琴・森宏一とともに、新潟・佐渡・高田と講演旅行をする。「おけさほど唯物論はひろがらず」の句は、そのときの感慨。
1937 12 37  
前年の2・26事件を契機としてファシズムが猛威をふるい、戦争の危機はついにこの年の7月、中国侵略をめざす日中戦争となり、やがて太平洋戦争へとのめりこんでゆく。
こうした情勢の急変のなかで唯物論研究会の活動は困難をきわめるが、その先頭に立ってたくみに困難を切りぬけ、4月には第3次『唯物論全書』の刊行を開始し、「名船長」ぶりを発揮する。前年の暮頃から『都新聞』の匿名批評欄「狙撃兵」で、青野季吉・大森義太郎・***本多顕彰
らとともに反戦反ファッショの論陣をはり、痛烈な批判活動を展開してきたが、年末にはついに大森・岡邦雄・向坂逸郎らとともに執筆禁止にあい、その活動も極度の危険にさらされるにいたる。

本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日 - 1978年6月30日)

日本の英文学者、評論家、浄土真宗の僧侶。
愛知県名古屋市の寺院に生まれ、自らも僧籍を有し、本名はけんしょう。1923年東京帝国大学文学部英文科卒。東京女子高等師範学校教授、1933年から1966年まで法政大学教授を務め、シェイクスピア、ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学ほかの広範な評論活動をおこなった。
夏目漱石親鸞に関する著作もあり、エッセイストとしても長年執筆を行い、学内事情を暴露した『大学教授』や『歎異抄入門』はベストセラーとなった。
著書[編集]
親鸞への道』普通社(しんらんシリーズ)1962
歎異抄入門 この乱世を生き抜くための知恵』光文社カッパ・ブックス 1964
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『信ずるということ 親鸞の信仰と歎異抄主婦の友社 1971
『現世往生 私は今日を安心して生きる』徳間ブックス 1974

略歴 39歳~45歳

1939 昭和14 39  
杉並警察署留置場において意気軒昂としてたたかい、検挙されてくる「思想犯」たちを激励する。
夏から秋にかけて膨大な手記を書き、唯物論の研究が治安維持法にふれるものでないことを論証し、絶対無罪を主張。
この頃留置場内の「俳句会」で薔薇亭華城(ローザ・ルクセンブルク)と号して句作をする。
 「蒸せ返える青葉祭や猿の村」や「唐辛、赤くなるころ嫁の来る」などはそのときの作。
この年留守宅、杉並区阿佐ヶ谷6丁目238番地へ移転。
1940 15 40  
5月、起訴され、東京拘置所に移る。
12月8日、保釈出所、2年10日目に帰宅。
1945 20 45  
5月1日、空襲のため長野刑務所へ移る。
7月23日、栄養失調と疥癬のため急性腎臓炎を発病。
8月9日、酷熱の居室で獄死。
なお、これよりさき、8月2日八王子の空襲で知人の家へ疎開中の「重要書類」の包みを焼かれたが、その中には、既発表論文の雑誌切抜や、保釈後に書きためた未発表の原稿、計画中の草稿などが一括してあった。
8月26日、自宅で葬儀、告別式挙行。

回想の戸坂潤

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回想の戸坂潤は早い時期に三一書房版(1948)が出ている。
そこには、長女の戸坂嵐子、久野収氏の回想も載っている。
それが、勁草書房版(1976)では辞退している。
どうしてか、知るために三一書房ばんを読んだ。

飯田高校平成元年卒業生同窓会が行われた7月30日、早めに金沢へ行って唯一同書を保管している県立図書館を訪れた。
最近汗の量が多くなっていて、図書館には冷房がなく、ポタポタ汗を落としながらコピーを取った。
読んでみて、30年の間にお二人の考えが変わったというのではなさそうだった。

東増穂小学校校歌 戸坂潤・作詞

全集に載っていないものに、潤の作詞した東増穂小学校校歌がある。
『富来町史 通史編』(昭和52)では母の名を「くに」(『戸坂家の文学』は久仁)としている。この校歌は昭和11年東増穂小学校の求めで作詞されたもので、15年に思想的な理由と歌詞の一部に不穏当なところがあるとの理由で廃止を命ぜられ終戦まで歌われなかった。
戦後復活し、昭和49年統合・増穂小学校開校まで歌われた。
延べ35年の間、児童に親しまれた歌われた校歌を作詞した人として、戸坂を見ることも大切なのだろう。

一、
高爪山に風をよび
増穂の海に潮たかき
わが故郷は父母が
鍬うちこめし土にして
鰍うちこめし土にして
二、
枝はたわめどアカシヤの
いばらのとげを君しるや
くる日を待ちてこの庭に
雄たけびあげる童あり
雄たけびあげる童あり
三、
砂の丘にも花さきて
はまなす色のいやこきは
くる日を待ちてこの窓に
希望をかたるおとめなり
希望をかたるおとめなり
四、
みぞれの音のさ中より
春はいぶきはくごとく
われらが庭にわが窓に
郷土の文化もえいでよ
郷土の文化もえいでよ

ここまでは、『富来町史』を参照した。

歌詞の三番は学校に飾ってあった額の詩では、
「おとめなり」は「おとめあり」となっている。
また、昭和49年に統合は、「能登 高爪山 高爪山山頂山麓遺跡群総合調査報告書」(2014年石川考古学研究書)では、昭和47年統合となっている。