歌人の系譜 近藤千英(ちふさ)・小鳥隆枝さん 、明治22年刊『言海』を通して

義母・小鳥隆枝さんの蔵書を整理していたら、『今井邦子短歌全集』・『若山喜志子全歌集』・塩田良平著『枕草子評釈』・『昭和万葉集』などとともに、使い古してはいるが大切に扱ってきた様子が一目で見て取れる大槻文彦の名著『言海』があった。『言海』の初版本である。これはどこにでもある本ではない。

どうして『言海』があるのか、ちょっとした『言海』の旅をたどる・・・。

その前に、

 『想(おもひしふ)集』小鳥隆枝歌集

 昭和61年、短歌新聞社刊。

について。

 

義母の歌集。説明に書いたように題名・跋文を書いた女婿の倉本四郎氏は、この頃「週刊ポスト」の3ページ書評・ポストブックレビュ―を連載していた。末っ子の女婿である私は、「明日香」第五十一巻第十二号、小鳥隆枝著「想集 批評特集」(昭和61年12月1日刊)に「「想集」に寄せて」を書かせていただいた。現役高校国語教師として、売れっ子ライターの四郎さんに対抗すべく気合いを入れて書いた思い出がある。

子どもたちをつれて小鳥家へ里帰りすると、孫を可愛がりながらも隆枝さんは、絶えず、歌集「明日香」の校正・編集をなさっていた。

私も時折手伝いながら、身近な実作者と暮らすことにより、生きた授業につなげそうな思いを抱いていた。

その時の「批評特集」には、若山旅人・宮地伸一・岩波香代子・塩田良平氏夫人忠・山田昭全氏などが寄稿なさっている。

 

 

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『想集』昭和61年8月5日 短歌新聞社刊 あとがきに「女婿の倉本四郎には多忙な著述のひまをみて題名及び跋文の労を煩わし、その義弟である立原由起生氏には装丁など一任いたしました。」とある。この装丁を見た時本本体の蟋蟀が秋の草の間から出てくるセンスにただ驚いたものだった。


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大槻文彦 自費出版経緯 


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言海 近藤印


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言海」背表紙


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大槻文彦

 

 背表紙の「小鳥隆枝蔵書」はわたしが貼ったものだが、見開きには「言海」、上に「書禄 第五九七六〇」とあって、「近藤~」の印が押されている。

 

この近藤家は、岡山藩士で小鳥隆枝さんの母の実家。

その母が生まれた時、岡山藩主が言祝いで、

「池水にうつりて匂ふ

 藤の花

 ももふさちふさ

 末栄えやも」

と詠んで贈った。

その歌から、その子は近藤千英(ちふさ)と命名された。

この「言海」は、千英さんが嫁いだ沼津・藤沼家、さらに

小鳥家に嫁いだ娘の隆枝さんへと読み継がれた本なのだろう。

昭和61年に刊行された小鳥隆枝歌集『想(おもひ)集』「あとがき」に、隆枝さんは次のように書いておいでる。

 

「私は幼時から短歌に親しんで来たと申しますか、生母が誕生し、その命名の時に藩主池田侯から賜ったという

「池水にうつりて匂ふ藤の花ももふさちふさ末栄えやも」(母の名は近藤千英)」

この歌を、祖母の口から幾度も聞いて育ちました。

「清営」という雅号を持つその母も折につけ歌を詠み、父も当時の軍人らしく、古今の名歌を「歌集」と名付け墨書して机上に置いておりました。

学生時代は毎年、宮中の新年歌会にクラス揃って出詠しておりましたが、勿論真似ごとに過ぎませんでした。」

 

※ここから、「想集」の説明に書いた、いつも楽しそうに校正をしていた義母の思い出に移っていくのだが、順序の変えかた、写真説明の変更の仕方も分からないので、そのまま。

 

今、気づいたのだがそして、あとがきに「祖母の口から幾度も聞いて・・・」とある。

どうして母の口からではないのか?

 私の父は、11歳の時母に先立たれている。それで私は父方の祖母を知らない。

隆枝さんも・・・・・・。

だとすれば、この『言海』は、隆枝さんにとって、母の形見ということになる・・・・・・