二つの芭蕉句碑-その一・名月塚
25日の「宝立の月」講義に、長浜吟行句会のメンバーが聴講の多くを占めておいでになることもあり、能登最古の芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」が刻まれている名月塚について触れた。
石川県立飯田高等学校百周年記念に出版した『伝説とロマンの里』は、飯田高校生の通学エリア内の伝説・ロマンを紹介した書物なのだが、
その第4章 城址、旧家、碑、民話の12に芭蕉句碑を取り上げた。一項目約1000字。そのまま案内板にしてもいいくらいを目途に書いたもので、
芭蕉句碑は次の文である(同書216頁~218頁、下線はここで取り上げる箇所)
④12 芭蕉(ばしよう)句碑
連歌の発句(ほつく)から、滑稽(こつけい)な誹諧(はいかい)として親しまれていた文芸を、芸術の域にまで高めたのが松尾芭蕉(ばしよう)(一六四四~九四)だった。俳句結社などによって芭蕉句碑が建てられるが、能登では、芭蕉百回忌に建てられた天明三年(一七八三) の「明月塚」「名月や北国日和(ひより)さだめなき」(輪島市黒島名願寺境内)が最も古いもので、奥能登北部では、次の芭蕉句碑や翁塚がある。○常椿寺境内(曹洞宗、能登町宇出津)
「名月や同じ心のより処 芭蕉」。年代不詳。参道階段を登り詰めた左側にある。句碑の前に「芭蕉翁句碑」と書いた案内石が建っている。○大乗寺境内(日蓮宗、同宇出津)
「秋も早(は)やばらつく雨に月の影 芭蕉」昭和三十四年建立。大乗寺では元禄頃の俳壇に関わった七世日昌、寛政年中に句会を催した十四世法随(俳号竹姿)を輩出しており、『鳳至郡誌』では、竹姿が建てたのだろうとしている。○万福寺(曹洞宗、同松波)
「黄鳥や柳のうしろ薮の前 はせを(芭蕉)」 万福寺庭園内。牧孝治氏は『内浦町史』第三巻で「続猿蓑(さるみの)集」に「鶯や柳のうしろ薮のまえ」があることを指摘しておいでる。○能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』第三巻に、「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠損しており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては、欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。
※大正五年(一九一六)、白丸観音堂からここ(校庭)に再建された。○上戸寺社「翁碑」
珠洲市内には芭蕉句碑はなく、上戸町寺社、逆さ杉の東側に「芭蕉(ばしよう)翁(おう)」の翁碑がある。県最北の芭蕉関係の碑である。ここには『能登名跡志』を著した太田道兼の歌碑もある。なお、富山県南砺市井波に、伊賀(いが)上野(うえの)の故郷塚、義仲寺の本廟(ほんびよう)とともに芭蕉(ばしよう)三塚(さんづか)の一つとされている翁塚がある。この翁塚は黒髪庵の境内(けいだい)にあり、元禄十三年(一七〇〇)に、芭蕉(ばしよう)の門弟(もんてい)であった井波瑞泉寺第十一代浪化(ろうか)が、師を慕(した)って建てた碑である。台座に「是本邦翁塚始也矣(これほんぽうおきなづかはじめなり)」とある。二年後の元禄十五年には芭蕉の遺髪(いはつ)も塚に納められた。
レジメを作るとき、芭蕉の没年を入れたところ、百回忌では無く、九〇回忌であることに気づいた。
有名な「名月塚」である。先行文は多いはずで、何かを見て百回忌と書いたはず。また、結社が句碑を建てるのに百回忌は疑いようも無くふさわしい。
先行文で、引用したのではないかと考えられるものを調べた。
『新修門前町史通史編』(平成十八年一月)の420頁に載っていた。執筆者は石川高等専門学校教授 高島要氏
芭蕉追善の「名月塚」
天明三年(一七八三)珠トは、俳聖芭蕉の百回忌にちなんで追善供養の「名月塚」碑を建立した。
「名月塚」の碑面には、芭蕉の『奥の細道』から「名月や北国日和さだめなき」の句が刻まれ、その縁起及び除幕に寄せられた上地の俳人たちの芭蕉追悼句を、玞卜自ら記したのが自筆稿本『名月塚』の巻頭である。これに並ぶ黒島社中には、玞卜の息子の破井、妻の文遊、文朝、麦秀、恰水など一三人。名願寺住職の為本が践文を添えた。黒島社中はまた同年、加賀の河合見風追悼句集にも揃って選ばれたりもしている。句集『名月塚』には、その後も寛政三年(一七九一)秋頃までにわたって、京都や金沢など全国各地から名月塚に参詣来遊した俳人たちの献句が記される。玞卜は俳譜を加賀の蘭更に学び、京都の甫尺とも交遊をもった。また、浪速の芳園の撰「俳譜百家仙」に連なり、全国にその名を馳せた、
ここに百回忌とある。
芭蕉句碑を建てるのは自ら句の上達、あるいは結社の繁栄を願ってであり、すでに俳聖的扱いとなっている芭蕉を追善することなどあり得ない。
しかし、句集『名月塚』のどこかに碑の建立者・玞卜が書いていれば別なので、同町史資料編3近世編(P303)に載る『句集名月塚』の序文を見た。
名月や北国日和さためなき 芭蕉
彫刻 玻井序
祖翁は伊賀の国柘植郷の産
(中略)
されば我輩其高情を感するに幸いなるかなことし
百歳の回忌に満ければ
名月や北国日和さためなき と
越の角鹿の一章(※?)有今龍松山の境内に碑をもふけて
彼句を石碑の銘にあらはしおの〳〵
其むかしをしとふのみ
于時 天明三卯年 於龍松山建之
とあって、追善らしき表現は、当然なかった。
「むかしをしとふ」は追慕であって、他力を眼目とする真宗龍松山名願寺境内に自力行の作善碑を建てるはずがないのである。
それはそうとして、玞卜の著したこの書が「百回忌」となっている。
この前のページに高島氏の概説があり、
とあるのに、一般の我らが見るとすれば通史であろうが、その通史に「百回忌にちなんで」としか表現されなかったのは、残念なことである。
この碑は、相当傷んでいて、かなり前から句を読み取ることが出来ない状態だったが、能登沖地震での黒島の被害は大きく、龍松山の道は崩壊し、お寺の本堂も傾き、庫裏は建て直さなければならない状態になった。
昨年9月15日に久しぶりに名願寺さんを訪ね、復興なった碑を見た。
真ん中の「芭」しか読めないが、句集『名月塚』巻頭に句碑の絵が載っている。
そこには
名月や北国日和
さ多免なき
彫刻 玻井
とある。
芭蕉九〇回忌を記念して、玞卜が建てた「名月塚」が、龍松山名願寺境内にある。
ということである。
百回忌の碑は無いのだろうか?
それは、その二・白丸芭蕉句碑で…。
真宗典籍
25日(木)宝立公民館で講演したことはその日にアップした。
講義の始まる少し前に、待機していた事務室に、一人の女性がおいでになり、二冊の和本をお見せになった。
一人暮らしの友だちのところにほこりだらけの汚いのが100冊ほどもあって、西山先生に見てもらおうと、埃を落として持参したと、おっしゃる。
見ると、四帖疏玄義分を解説した一冊、もう一冊は廣本~とある。
それで、善導大師のお書きなった観経解釈本の説明、親鸞聖人のお書きになった御本の説明本ですね。
筆写された本なので、大切にしておいてくださいと伝えて下さい。
ところが、汚いし何が書いてあるかも分からないし、跡継ぎもいないし、
今日ゴミ捨ての日なので捨てる、とゴミ場に行くところだったので、ともかく見てもらおうと持ってきた。
家に置いておくつもりはないのです。
とおっしゃるので、(焼却しないで)残しておかなければならないですよ、と言ってはみたものの、
残すにはどうしたらいいかが出てこない。
講義の時間は近づく。
結局、預かるしかなくなり、
講義を終えてから、持ってきた方(知り合いの奥さんだった)、館長と共に持ち主のお宅に行き、預かってきた。
それが、この冊子類である。
79冊ある。
どうしよう……
宝立の月ー2月25日(木)=旧暦1月14日
先端は能登町赤崎。半島の向こうは鹿泊、比那。比那には西行・松島の見仏上人と出会ったという仏穴(『撰集抄』)がある。
長浜八景(『能登名跡志』)では、吼木晩鐘、黒峰暮雪、飯田夕鐘、蛸島帰帆、雲津落雁と続く。
今日、宝立(ほうりゅう)公民館で講義
タイトルは「宝立の月」。
最初の話は「千代尼の俳句」だった。
午前中 吟行をした長浜俳句会のメンバーの方々も聴講なさった。
私は西谷啓治氏の「奥能登の風光」にある家持の「珠洲の海に朝開きして~長浜の浦に月照りにけり」から
見附島が藩政期の藩への書上げが、すべて見月島となっていることをお話し、
「宝立の月」を語ることにした。
西谷啓治氏は、唯一の子供の頃の思い出を書いた「奥能登の風光」の後半部に、後年、能登をたずねたときのバス越しに立山が見えた光景に
その山と海と空と、それら全体の風光は、やはり地上のものとは思えない神秘な美しさであった。
と書いておられる。氏が乗ったは松波から小木に向かうバスで、宝立は外れているので、レジメにはその部分を削除したのだが、
講義前に見附海岸に寄ったところ、立山が見えた。シャッターを切ってまもなく、雲が覆いぼや-となった。
下はレジメ。
小さな小さな旅ー猿鬼ー宮・大箱ー
写真が語るものー退職、父の還帰、日本宗教民俗学会発足の頃-
例年なら、春勧化(はるがんけ)の準備にいそしんでいる頃だが、御門徒宅の地域御座(おざ)である春勧化は、待ち焦がれた春の息吹を感じながら行う、どこかこころ弾む行事であるがゆえに、密閉・密集・密接のいわゆる3密は避けられず、中止せざるを得なくなった。
そのぶん時間があるので、ボツボツといろんなものを整理している。
上にあげた写真は、メンバーから日本宗教民俗研究会関係だということは見当が付いていたが、いつの何の写真かは分からないままでいた。
これに違いないと、昔のdeskdiary見ながら写真裏に書き込んでおいたのが
平成元年12月16日(土)、1C・3E授業の後、京都へ。
だった。
この年、内浦6校の執行委員を引き受けており毎週木曜ごとに金沢で執行委員会、校務分掌は進学(主として補習担当)、クラブは22・23日のテニスインドア大会で団体2位、(ちなみに翌年2月17・18日上越リージョン・プラザでの北信越大会では、飯田4:0富山、4:2三条、4:2県工、2:4?で3位)、引率顧問でなく一緒に練習・試合をするタイプだったので、なんやかんやとめちゃめちゃ忙しかったはずなのに、12月16日(土)の18時からの宗教民俗学会会議に参加している。
その日のことが整理中の「日本宗教民俗学研究会通信 第0号」(1989年12月16日)に載っていたので、引用する。
○日本宗教民俗学研究会の発足経過について
以前から御案内がありました「日本宗教民俗学研究会」の発足について、去る12月16日(土)午後6時から、アバンティホール会議室において、御賛同を頂いた28名のうち、次の会員の方が出席して、当会の発足次第(案)について、第一回目の検討をいたしましたので、御通知致します。
〔出席者〕日野西真定、伊藤芳江、山田知子、斉藤寿始子、栖川隆道、豊島修、西山郷史、木場明志、中川義晶、大森恵子各氏の10名
この時、役員が決められ、次の人が役員になっておられる。
会長 五来重 幹事(世話人)日野西真定、吉田清、豊島修、木場明志、大森恵子、
会場設営係 山田知子、斉藤寿始子 会計係 中川義晶 記録係 大森恵子
フーンだが、記憶にないとはいえ、当方のメモ書きと通信の記録があるのだから参加していることは間違いない。
写真には日野西氏(以下敬称略)、豊島、木場、大森、山田、中川が写っており、斉藤さん(実際は斎藤)と吉田さんは分からない。
これもさらに、かつてだが、大谷大学の児童文化クラブ員で斎藤先生に習っていた方に、この写真を見てもらったのだが斎藤さんは入っていないという。
それに、名畑先生が2列目に立っておいでるのに、私がスーツを着て一列目に座っているのは、偉そうだなァーの疑問はあったのだけど、
よく遠くから来たなぁーと歓待され、「能登の人」だけで通ることがあったので、この時も能登先端の人の威力で前に座ったのだろう、と納得していた。
じっくり、宗教民俗学研究会通信を見ていくと、ナ、ナ、ナーンと
日本宗教民俗学研究会第一回大会で発表しているではないか!
発足からほぼ1年半後の1991年6月15日(土)である。
~たら、ればはないのだが、これが翌年の6月だったら、14日(木)郷土史クラブを引率して加賀市へ、15日授業の後、テニス北信越大会の打ち合わせ。16~18日北信越大会。
団体戦で飯田3:0富山東、2:1長野伊那弥生ヶ丘、2:0羽咋、決勝2:0県工と、石川国体強化校を破って優勝していた時なのだ。
会場が能都(当時は能都)町テニスコートだったので、女子の方の決勝審判を飯田高校の一年生テニス部員がしていた。男子が先に優勝が決まったので、彼らは審判席でたまらず万歳をして、本部席の他校監督たちから笑顔の顰蹙を買ったものだった。
その翌年の同時期、大谷大学多目的ホールというところで、研究発表をしていたのだ。
あらためて写真を見てみよう。
前列右から(敬称略)、田中義廣 、中澤成晃、鈴木昭英、日野西眞定、豊島修、西山郷史、?
二列目 ?、根井浄、名畑崇、?、大森恵子、?、?、中川義晶
三列目 ?、?、?、?、本林靖久、山田知子、?、木場明志、岩田博(岩田書院社長)
分からない人も多いとはいえ、この時の写真に間違いない。
プログラム3が〔記念撮影〕となっている。
一列目に座っている理由もはっきりしたし、よく見れば、12月にしちゃ涼しげな服装の人が多いじゃないか。
ちなみに、前列右端の田中義廣さんはまつり同好会を主催しておられ、「まつり」「祭り通信」を発行なさっていた。祖母が日本最初の女医、あるいは女医が建てた病院だとかといい、名古屋のお医者さんだった。
気が合って一度、日銀のパリ支店長の逆、パリ銀行の日本支店長とか言う人と若きフランス人二人ほど、パリの音楽学校ピアノ科を主席で卒業し、帰国してまもなくだという鮫島有美子氏の妹が泊まっていったことがある。
外国人は派手な生活をしているのだろうと思っていたのが、ビールの飲み方からして質素なのに驚いたものだった。
ちなみにのちなみにで、我が家に泊まって行かれたビックスリーはこの田中さん、五来重先生、真継伸彦氏としている。
研究発表のプログラムを見ると私だけ手書きになっている。
日々がそのまま流れていたら、北信越大会で優勝したメンバーに、全中で優勝したメンバーが二年生となっていて、さらに強力な布陣を擁するテニス部顧問なままだったら、この日、そこにいなかったはずだ。
こはいかに?
この年の2月13日、風邪気味だった父の熱が下がらず、義父の七回忌で連れ合いの里・東京赤羽から帰るのを待って、父は七中時代の同級生神野さんの経営する病院(神野病院改め恵寿病院)に検査入院した。
前々から神野さんは父に、70になったのだし一度検査に来いよ、と言っていたその約束もあって、楽しみながら入院したのだった。
2月15日授業を終え、上越市で行われるテニスインドア大会個人戦に出場する東崎・稲谷君を車に乗せ、総体の飯田高校宿にしている金沢の「みな美」旅館に向かった。
途中病院に寄って見舞ったら、確か血液検査中だとのこと。17日午前中で試合を終え、高岡あたりから風雪が激しくなる中、鵜川中出身の二人を鵜川で降ろし、家に着いたのが午後9時。
当時、公立高校では特色ある学校作り事業ということをやっており、飯田高校は夜・中央公民館を主会場に、教員の公開講座をやっていた。
その人選。テーマなどを私がやっていたため、翌18日はその会議ため雪道を金沢へ(会場はノートに書いてない)。
この日、新潟、青梅付近は列車が通らず、飯田からは馬渡の坂を車が登れず、海岸通りへ迂回して午後の会議に。
帰りに病院へ寄り、若い担当医に詳しく様子を聞くと、半年くらい入院しなければならないのではないか?とおっしゃる。
半年!
4日後の、22日から昼・夜の春勧化が始まる。
校務分掌ーこの時は進学係、
テニスと郷土史のクラブ顧問、
それに1月だけで「法住寺縁起について」30枚『北陸の民俗』、「オザ」に見る農民の宗教活動」21枚、「奥能登地方にみるアエノコト行事」26枚、以上『人づくり風土記 石川』、緊急調査諸職の原稿見本「ホウライ飾り」12枚を書き上げ、
日本宗教民俗研究会から木場氏を通して「真宗と宗教民俗」の依頼も入っていた。
翌19日、授業を終え、帰宅してから6ヶ月の重みに耐えられるか?
ギリギリの現状に父の代わりの僧としての仕事、
七尾への見舞いーなど
そのような今後引き受けていかなければならないことを考え、来し方を本堂阿弥陀様の前で思い、
19年の教員生活を退くしか方法がないのでは、との結論に達した。
その後、人事異動に影響が出ない頃に退職の意思を伝えるとすれば、を調べると3月1日がギリギリらしく、
26日、弟に辞める旨を電話した。
「どっちでもいいけど することあるがか?」
「本、読んどってもいいもんな」と応答している。
自分を納得させるのに「本」を使っている。
3月1日。県教委に退職願いを提出。
同日病院へ行き、父にその旨を伝えた。
いつ寝ているか分からないような私の日々を知っているだけに、
父は「寺もヒマやぞ」と、一言だけ言葉にした。
8日(金)誰も知らないが、私にとって最後の卒業式。
9日(土)父の実家・江曽のいとこと見舞う。家へ帰るぞ!と、ベッドから降りよう
としたので、もう少し見てもらってからね…と慰める。
翌10日(日)には弟が東京から見舞い、夜行で帰る。
この日は午前中お年忌、金大の合格者発表日だったため、16時半頃合格者たちが学校に報告に来、その生徒たちと対応。
ところが、翌11日、朝6時に病院にいる母から電話が入り、父の容態がおかしいという。
連れ合いと七尾を目指すが、やはり馬渡は雪で上がれず、海沿い道に出て七尾へ向かい、途中の公衆電話から年休願いを教頭さんにしたのだが、すごく不服そうだったので、この日が入試当日だったのだと今の今まで思っていたのだが、11日は準備日だった。
病院へ着いたとき、父はすでに息を引き取っていた。
示寂7時2分。
弟は上野について、まもなく父の西帰を知らされトンボがえり。
写真に戻る。
6月15日は、教員ではなかったのだ。それどころか、父の100日法要3日前。
13・14日は、輪島へ通い、宗教法人の住職として必ず有していなければならない資格・防火管理者の講習を受けていた。
発表タイトルを考え送っている余裕などなかった。そのことが手書きのタイトルに表れている。
ノートを見ると木場氏の依頼の後、4月11日(木)に豊島さんから原稿の催促を頂いている。
その日は父の月忌命日のお参り、本山収骨をどうすればいいかを教務員から聞き、責任役員任命のための印を総代さんから集める、などで、申し訳ないが豊島さんの願いを記憶に留めておけないような環境変化だったのだ。
この時、ちゃんと原稿をお渡ししていたら、宗教民俗研究会は私の中に、もっと大きく生き続けていただろう。
その後は、調査する立場から、調査対象の中に身を置くことになって、お寺行事の季節の調査は出来ず、いくつかの市町村史調査も、おのずから宮・まつり・コト関係調査に比重が移っていった。
そのころよく使った、語り部・古老そのものに、今の自分がなっている。
今年で、ちょうど満30年を迎える「写真が語るもの」である。
ところで、初期のメンバーにはどういう人たちがおいでるのか、2号(1990年1月)以下に載る例会参加者を見ていくと、
栖川隆道、須田勝嶄仁、根井浄、横山俊夫、吉田清、石川稔子、山香茂、上別府茂、木村至宏、本林靖久、菊地武、平野寿則といった方々の名が見え、9号に
これも何と、私が例会に参加している。
1990年8月例会で、この年の夏期休暇中は連日の補習、郷土史クラブは秋の学校祭に向けて珠洲市の狛犬調査、テニスは4日から8日に開かれた仙台インターハイに鳥毛兄弟チーム引率。途中東京で『蓮如と真宗行事』(オリエントブックス)を出版することになっていた木耳社に寄っている。
この本は日本民俗学167号(昭和61年9月)に載った「真宗と民間信仰の研究ー能登のコンゴウ参り習俗を通してー」を軸にしたもので、オリエントブックスに『生と死の民俗史』を出しておいでた新谷尚紀氏が間に入られて一冊になったもの。
仙台から帰った7日に150冊届いていた。
例会は25日だったようだ。
1990年8月例会の記事
2、研究発表
西山郷史氏によって同著『蓮如と真宗行事』(木耳社、1990年8月、1700円)の研究・編集上の苦心談を語ってもらい、つづいて「法住寺縁起について」と題して、配付資料(別紙)にもとづいて、能登吼木山法住寺縁起の開創由来を主として発表。その後出席者から活発な質疑が行われた。遠方の会員である同氏の研究姿勢と精力的な調査研究に深い感銘を受けた(豊島)
これも驚きだった。例会にどんな人たちが参加してるのだろう?10号あたりまで見てみよう、との気を起こさなかったら、こんなことがあったことは、記憶から消えたままになっていたはずだ。
そういえば、かすかな記憶に(法住寺の)白山信仰が近世初頭だと思う、と話したとき、日野西さんが平安まで行くんじゃないと言ったことがあった。
そんなシーンが現実にあったとは思われず、あれはなんだろう、と思っていたそれが、この会だったのだ。
今頃になって、いろんなことがつながりだしている。
diaryを見ると、翌日、北陸三県民俗の会が福井県立博物館で開催され、発表・シンポをこなしていた。
22、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉓―豊四郎順拝113~118 文化六年-1809 武州・下総
親鸞聖人御直筆
本尊面向阿弥陀如来
摂取山
光増寺
114 関宿中戸 常敬寺
下總國葛飾郡關宿中戸村
中戸山西光院常敬寺
鎌倉将軍惟康親王御建立
亀山院後宇田院兩帝勅願所
高祖聖人御孫唯善上人開基
具如別録
月番 圓乗筆
八月五日
115 上幸嶋庄一ノ谷 妙安寺
總州上幸嶋庄一ノ谷村一谷山大法院妙安寺ハ
祖師聖人第六之御遺弟開基成然上人江
御付属之 御真影百四十余年之御安座其後
三村前橋ニ二百年之余御移転又前橋より
御本山江御遷堂被為在是則一ノ谷最初安置の
旧跡殊ニ成然上人文永二乙丑年十月十日遷化之
寶物ホ數多畧之
役者
116 猨嶋郡三村 妙安寺
下總國猨嶋郡三村
一谷山最頂院妙安寺
関東二十四輩第六之御直弟
成然上人旧跡上州前橋妙安寺
兼帯所也
巳八月七日 輪番
117 長須 阿弥陀寺
御朱印地 總州長須村
屈施龍山 稱名院阿弥陀寺
高祖聖人御旧跡也
左へ御旅之御願御筆
宝物数多
八月七日 役僧
118 野田 西念寺
二十四輩山第七野田
西念御房開基也
下總国邊田村
八月八日 執事
21、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉒―豊四郎順拝105~112 文化六年-1809 信州
104-2 飛州高山 御坊
飛州高山
御坊
文化六年
巳 五月三日
役者
105 信州小松 安養寺
信州
小松安養寺
開基西念坊道祐
祖師聖人御旧跡
蓮如御留逗之地
文化五巳 五月十日 月番
憶念寺
106 信州松本栗林郷 大寶山高綱院正行寺
信州松本栗林郷
大寶山高綱院正行寺
祖師聖人御舊跡
寶物縁起別記
巳ノ五月十一日 當山 知事
※本願寺派
107 信州松本 北林山福野 極楽寺
信州松本城下
北林山福野極楽寺
祖師
御旧跡
蓮師
宝物略之
當番
巳五月十一日 善福寺
※深志2丁目
108 信州松本 木曽山義仲院 長称寺
信州松本城東
木曽山義仲院長称寺
高祖聖人五年 御逗留
御舊跡
役寺
巳 五月十一日 □□寺
※大谷派 女鳥羽2丁目
109 松本 大寶山 佐々木正行寺
信州松本城下大寶山
佐々木正行寺佐々木四郎高綱
則 聖人御直弟子也宝物略之
當番
御坊 妙勝寺
※大谷派
110 信州更級郡塩崎関 向鳥山康楽寺
信州更級郡塩崎関
向鳥山康楽寺は開基
木曽太夫廣前時の旧跡なり
一 開山聖人御木像 六十三歳御自作
一 元祖色□尊像 日本一□
一 御本傳横巻四軸 宗門御繪傳のはしめ
右之外寶物令畧者也
年月仝前 當番 役寺
※本願寺派
111 松本新田 本誓寺
本願寺御門跡院家信州松本新田本誓寺
宗祖聖人御建真弟是信上人相承也
一 本尊瀬踏弥陀如来 太祖聖人御安置
御當家御判物葵 御紋附宮殿等 御寄附
一 太祖聖人等身尊像 満八十歳御自筆
一 石摺十字御名号 太祖聖人御真筆
二十四輩十嗣
右外別記 寂林山 知事
112 信州 紫阿弥陀堂
信州紫阿弥陀堂
十字御名号
親鸞聖人御筆
其外宝物有 別当 吉池主計
※上高井郡高山村高井 一茶ゆかりの里一茶館に、コピー送付。問い合わせ。
高山村なかひら地 大字中山 高山五大桜の一つがあり、その下に紫阿弥陀堂があった。一茶館には父のみとり日記(多くが「終焉日記」としている)原本がある。
西谷啓治氏の歩み-写真二点
今日2月12日(金)、西谷啓治氏のお嬢さん・矢田敏子さんから、写真集などをいただいた。多謝…。
西谷啓治氏は,一言で言うと1900年(明治33年)2月27日 - 1990年(平成2年) 11月24日)は、日本の哲学者(宗教哲学)。京都学派。京都大学名誉教授、文化功労者。
ここに転載したのは、敏子さんから送って頂いたイースタンブッディストに掲載された写真。
敏子さんの文より
写真集は,三十年前、父が逝くなりました折に作って頂いたものです。
父は晩年、大拙先生から引き継いでイースタンブッディストという英文雑誌の編集をしておりました。
その関係で、雑誌の追悼特別号を発行して下さいました。
「なかなかいいものできあがっている思っております」とお書きになっておられるように,20葉の写真は、子供の頃から、Heidegger(ハイデッガー)と語り合っている72歳の時の写真など、どれもが貴重な写真ばかりだ。
その中から、7ページの写真2葉を選んで,ここに載せた。
上の写真は,私が生まれた年(早生まれ)。
柳宗悦さんがおいでる。
敬称略で、前列左2人目から、古田紹欽、西谷啓治、鈴木大拙、柳宗悦
下の写真 32年後である。
左から 西谷啓治、古田紹欽,鈴木大拙、源Ryoen?、岡村美穂子、湯川秀樹。
ええ!湯川秀樹!
岡村氏は鈴木大拙館(金沢市本多町)の名誉館長のはずだし、→"HONGAN”(近々のブログで)
イースタンブッディストは学の大成―大拙と大谷大学― (otani.ac.jp)
『大門素麺』『古代越中の万葉料理』経沢信弘さん 春のあえのこと 供物・食材 20210209
あえのこと見学のついでに、経沢信弘さんが寄って行かれた。
前においでたとき、経沢さんが出版なさった『大門素麺』(2019年4月 桂書房刊)を手に入れにくいといっていた、それを覚えておいでになり、『古代越中の万葉料理』(2017年5月 同書房刊)と共にくださった。
綺麗で、万葉・考古・英文にいたる幅広く深い内容。たとえば万葉の赤米の再現のために種子島宝満神社の赤米神事に足を運び、器を家持時代の遺跡発掘品から選ぶといったように、一品一品、一枚一枚がとてつもなく貴重なページになっている。
『古代越中の万葉料理』、P4有澤善允氏「氷見海岸」。
P44
宝住池Ⅴ遺跡は太閤山カントリークラブ地内遺跡群。P62~63
P46~47には「訳」。
とある。
昨日(2月9日)、「塩釜の行方」「塩釜の行方と真浦 塩竈神社」の二本を書いており、引き続き塩竈神社に出会うとは思わなかった。
してみると、釜があったのは,末社境内だったのだろうか?
「藻塩」を代表例として選んだのは、来月13日(土)小木公民館で講義する柱の一つに藻塩~揚浜塩田を考えていることもある。しっかり勉強しよう。
大伴家持の春巡行の鵜飼について(同書、P78部分)
大門素麺 0kado Somen
砺波市大門は身近だけど、さらに蛸島素麺、輪島素麺、おさよと粉ひき歌(麦屋節)など、さらに身近な世界が待っていた。
経沢さんは大阪その後、ニューヨークで4年料理修業に出かけられ、帰国後「割烹まる十」店主として,広く深く活躍なさっておいでる。
あえのこと
塩釜の行方 真浦 塩竈神社
1月31日のブログに
かつてこの地(珠洲市真浦町)にあった塩釜が、仙台の塩竈神社境内に移されてあった。
その塩釜に出会ったのは偶然で、テニス部の鳥毛兄弟、同じ日置中出身の机谷・鴨谷ペアたちと仙台インターハイに行った折、試合後、松島・瑞巌寺・塩竈神社を見学した。その時、塩竈神社境内の目立つ所に、真浦にあった塩釜が仙台の地にあるいわれを書いた説明札と共に展示されていたのである。
数年前、当時の珠洲塩田村館長の横道さんが、塩竈神社へ見に行ったのだが、見当たらなかったとのこと。なら、せめて写真を…と探すのだが見つからない。
塩釜が錆びるのは早く、引率したのは1990年(平成2年)で、もう31年も経っている。
やっぱり写真だけでも…だ。
〈追記〉
1990年(平成2年)8月6日撮影 塩竈神社の写真が見つかった。宮城県塩竈神社境内
説明板
煎熬(せんごう)用平釜
この釜は石川県能登半島 (揚浜式塩田)で 昔使われていたもので 濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです。
とある。真浦も、真浦観光センターーホテルニューまうらーにも一言も触れていないが、ニューまうらの入り口で見たか、その頃には経緯をたどれたので、説明板に書いてあった、と記憶がかぶさっていたもののようだ。
でも、写真が出てきてよかった。非常に大きな平釜である。すでに錆による劣化が進んでおり、下の方も崩れていく寸前のようだ。ーどうなったのだろう。
引き続き、「ホテルニューまうら」を知るため、次のメモを引用した。
【メモ】ホテルニューまうら=1963(昭和38)年開業。北陸鉄道の子会社「真浦観光センター」が運営。地元食材を生かした「あえのこと料理」、「波の花」が見られる海岸近くのロケーションなどが人気を集めた。プロが選ぶ日本旅館100選に何度も入賞した。ピークの91年は年間6万5000人が利用。バブル崩壊や能登沖地震、ナホトカ号重油流出事故などで客足が減り2000年12月廃業した。(北陸中日新聞」2020年6月21日より)
このメモの本文が、北陸中日新聞の次の記事である。
往時の姿 追憶誌で後世に
珠洲で38年営業 ホテルニューまうら
2020年6月21日 05時00分 (6月21日 11時07分更新)
珠洲市真浦町で二〇〇〇(平成十二)年まで三十八年営業し、能登観光ブームを支えた「ホテルニューまうら」の往時を紹介する追憶誌が完成した。ホテルOBらでつくる「まうら友の会」発行。全国から観光客が押し寄せた状況も分かる。編集した元社長の星場与一さん(88)=中能登町西馬場=は「自分を育てていただいたホテルを後世に伝えたい。皆さんの協力で仕上がった」と感謝する。(室木泰彦)
開業当時、映画「忘却の花びら」で隣接する輪島市曽々木海岸がロケ舞台となり能登ブームの契機に。曽々木と真浦間にトンネルも開通し、ホテルも奥能登の誘客を支えた。
星場さんは一九八九〜九八年に社長、その後二〇〇〇年まで取締役を務めた。施設改良、宿泊客に定置網の陸揚げ見学を楽しんでもらう企画、十年連続で修学旅行で訪れた愛知県立安城東高校との交流、防災研修など、ホテルの歩みを写真や新聞記事などで紹介している。
星場さんの社長時代は宿泊者数などの営業実績も掲載。バブル崩壊で観光客が減った厳しい現実もうかがえる。御陣乗太鼓演奏、団体客出迎えや新入社員歓迎式、改装工事、OB友の会(真志会)発会など写真も多数掲載。一八年に跡地にホテルを後世に伝える看板を設置したことも伝えている。
七〇〜九一年に支配人だった中井敏雄さん(78)=金沢市上荒屋=は八〇年から手書きのミニ新聞を月一回発行した。毎月六百部で百七十五号まで発行。ホテルだけでなく能登全体の観光情報も掲載し、全国の関係者に配布しホテルPRに貢献した。「東京や大阪、名古屋などに行くと新聞を作る人として顔パスだった。反響がうれしかった」と振り返る。中井さんは追憶誌に写真など貴重な資料を提供した。(以下略)
記憶が頼りだけのブログ記事を元社長藤岡與一さんに送った。
すると、翌日すぐにお電話があり、貴重な『追憶誌』と、観光センター(ホテルニューまうら)にあった塩釜の写真送って下さった。
塩竈神社で、真浦にあった塩釜だ!と思ったのは、私は、「重要有形民俗文化財能登の揚浜製塩用具」の調査員をしており、角花家の製塩技術指定にも関わり、塩釜を見る機会がかなりあった。
その中でも、ニューまうらにあった釜は優品で深く記憶に刻まれていたのだった。
「追憶誌」には、さらなる歴史が載っていた。
この文を書くまで、昭和20年製造。26年まで真浦海岸で使用、平成5年ニュー真浦玄関右に展示。
そして、塩竈神社へ。テニス部員と能登の塩釜があることを知り、撮影。
のはずだったが、仙台インターハイは平成2年。
その頃のホテルは、御陣乗太鼓の初めてのビデオを作り販売したり、利用客が6万人近くの最盛期のころだった。
となれば、仙台にあったのは別なところからものになる。良く写真を比較してみると、やはり違うようだ。
塩田地域に大きな平釜があり、そのうちの何点かが展示され、塩の歴史を語った。その例の塩釜たちだった、ということになる。