二つの芭蕉句碑-その一・名月塚

25日の「宝立の月」講義に、長浜吟行句会のメンバーが聴講の多くを占めておいでになることもあり、能登最古の芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」が刻まれている名月塚について触れた。

 

石川県立飯田高等学校百周年記念に出版した『伝説とロマンの里』は、飯田高校生の通学エリア内の伝説・ロマンを紹介した書物なのだが、
その第4章 城址、旧家、碑、民話の12に芭蕉句碑を取り上げた。一項目約1000字。そのまま案内板にしてもいいくらいを目途に書いたもので、
芭蕉句碑は次の文である(同書216頁~218頁、下線はここで取り上げる箇所) 

④12 芭蕉(ばしよう)句碑
 連歌の発句(ほつく)から、滑稽(こつけい)な誹諧(はいかい)として親しまれていた文芸を、芸術の域にまで高めたのが松尾芭蕉(ばしよう)(一六四四~九四)だった。俳句結社などによって芭蕉句碑が建てられるが、能登では、芭蕉百回忌に建てられた天明三年(一七八三) の「明月塚」「名月や北国日和(ひより)さだめなき」(輪島市黒島名願寺境内)が最も古いもので、奥能登北部では、次の芭蕉句碑や翁塚がある。

○常椿寺境内(曹洞宗能登町宇出津)
「名月や同じ心のより処 芭蕉」。年代不詳。参道階段を登り詰めた左側にある。句碑の前に「芭蕉翁句碑」と書いた案内石が建っている。

大乗寺境内(日蓮宗、同宇出津)
「秋も早(は)やばらつく雨に月の影 芭蕉」昭和三十四年建立。大乗寺では元禄頃の俳壇に関わった七世日昌、寛政年中に句会を催した十四世法随(俳号竹姿)を輩出しており、『鳳至郡誌』では、竹姿が建てたのだろうとしている。

○万福寺(曹洞宗、同松波)
「黄鳥や柳のうしろ薮の前 はせを(芭蕉)」 万福寺庭園内。牧孝治氏は『内浦町史』第三巻で「続猿蓑(さるみの)集」に「鶯や柳のうしろ薮のまえ」があることを指摘しておいでる。

能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』第三巻に、「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠損しており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては、欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。
※大正五年(一九一六)、白丸観音堂からここ(校庭)に再建された。

○上戸寺社「翁碑」
 珠洲市内には芭蕉句碑はなく、上戸町寺社、逆さ杉の東側に「芭蕉(ばしよう)翁(おう)」の翁碑がある。県最北の芭蕉関係の碑である。ここには『能登名跡志』を著した太田道兼の歌碑もある。

 なお、富山県南砺市井波に、伊賀(いが)上野(うえの)の故郷塚、義仲寺の本廟(ほんびよう)とともに芭蕉(ばしよう)三塚(さんづか)の一つとされている翁塚がある。この翁塚は黒髪庵の境内(けいだい)にあり、元禄十三年(一七〇〇)に、芭蕉(ばしよう)の門弟(もんてい)であった井波瑞泉寺第十一代浪化(ろうか)が、師を慕(した)って建てた碑である。台座に「是本邦翁塚始也矣(これほんぽうおきなづかはじめなり)」とある。二年後の元禄十五年には芭蕉の遺髪(いはつ)も塚に納められた。

 

レジメを作るとき、芭蕉の没年を入れたところ、百回忌では無く、九〇回忌であることに気づいた。
有名な「名月塚」である。先行文は多いはずで、何かを見て百回忌と書いたはず。また、結社が句碑を建てるのに百回忌は疑いようも無くふさわしい。

先行文で、引用したのではないかと考えられるものを調べた。

 『新修門前町史通史編』(平成十八年一月)の420頁に載っていた。執筆者は石川高等専門学校教授 高島要氏

芭蕉追善の「名月塚」
天明三年(一七八三)珠トは、俳聖芭蕉の百回忌にちなんで追善供養の「名月塚」碑を建立した。
「名月塚」の碑面には、芭蕉の『奥の細道』から「名月や北国日和さだめなき」の句が刻まれ、その縁起及び除幕に寄せられた上地の俳人たちの芭蕉追悼句を、玞卜自ら記したのが自筆稿本『名月塚』の巻頭である。これに並ぶ黒島社中には、玞卜の息子の破井、妻の文遊、文朝、麦秀、恰水など一三人。名願寺住職の為本が践文を添えた。黒島社中はまた同年、加賀の河合見風追悼句集にも揃って選ばれたりもしている。句集『名月塚』には、その後も寛政三年(一七九一)秋頃までにわたって、京都や金沢など全国各地から名月塚に参詣来遊した俳人たちの献句が記される。玞卜は俳譜を加賀の蘭更に学び、京都の甫尺とも交遊をもった。また、浪速の芳園の撰「俳譜百家仙」に連なり、全国にその名を馳せた、

ここに百回忌とある。

 

芭蕉句碑を建てるのは自ら句の上達、あるいは結社の繁栄を願ってであり、すでに俳聖的扱いとなっている芭蕉を追善することなどあり得ない。

しかし、句集『名月塚』のどこかに碑の建立者・玞卜が書いていれば別なので、同町史資料編3近世編(P303)に載る『句集名月塚』の序文を見た。

名月や北国日和さためなき 芭蕉
彫刻 玻井 


祖翁は伊賀の国柘植郷の産
(中略)
されば我輩其高情を感するに幸いなるかなことし
百歳の回忌に満ければ
名月や北国日和さためなき と
越の角鹿の一章(※?)有今龍松山の境内に碑をもふけて
彼句を石碑の銘にあらはしおの〳〵
其むかしをしとふのみ
于時 天明三卯年 於龍松山建之 

 とあって、追善らしき表現は、当然なかった。

「むかしをしとふ」は追慕であって、他力を眼目とする真宗龍松山名願寺境内に自力行の作善碑を建てるはずがないのである。

 

それはそうとして、玞卜の著したこの書が「百回忌」となっている。

 

この前のページに高島氏の概説があり、

芭蕉の百回忌(この年は実は九〇回忌)に因み追善供養の翁塚「名月塚」碑を建立したときの芭蕉追悼句集である。 

とあるのに、一般の我らが見るとすれば通史であろうが、その通史に「百回忌にちなんで」としか表現されなかったのは、残念なことである。

 

この碑は、相当傷んでいて、かなり前から句を読み取ることが出来ない状態だったが、能登沖地震での黒島の被害は大きく、龍松山の道は崩壊し、お寺の本堂も傾き、庫裏は建て直さなければならない状態になった。

昨年9月15日に久しぶりに名願寺さんを訪ね、復興なった碑を見た。

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名月塚。「芭」だけが読み取れる。2020年9月15日撮影。

真ん中の「芭」しか読めないが、句集『名月塚』巻頭に句碑の絵が載っている。
そこには 

  名月や北国日和

     芭蕉

      さ多免なき

        彫刻 玻井

とある。

芭蕉九〇回忌を記念して、玞卜が建てた「名月塚」が、龍松山名願寺境内にある。

 ということである。

 

百回忌の碑は無いのだろうか?

それは、その二・白丸芭蕉句碑で…。

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