写真が語るもの

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例年なら、春勧化(はるがんけ)の準備にいそしんでいる頃だが、御門徒宅の地域御座(おざ)である春勧化は、待ち焦がれた春の息吹を感じながら行う、どこかこころ弾む行事であるがゆえに、密閉・密集・密接のいわゆる3密は避けられず、中止せざるを得なくなった。

そのぶん時間があるので、ボツボツといろんなものを整理している。

上にあげた写真は、メンバーから日本宗教民俗研究会関係だということは見当が付いていたが、いつの何の写真かは分からないままでいた。

これに違いないと、昔のdeskdiary見ながら写真裏に書き込んでおいたのが

平成元年12月16日(土)、1C・3E授業の後、京都へ。

だった。

 

この年、内浦6校の執行委員を引き受けており毎週木曜ごとに金沢で執行委員会、校務分掌は進学(主として補習担当)、クラブは22・23日のテニスインドア大会で団体2位、(ちなみに翌年2月17・18日上越リージョン・プラザでの北信越大会では、飯田4:0富山、4:2三条、4:2県工、2:4?で3位)、引率顧問でなく一緒に練習・試合をするタイプだったので、なんやかんやとめちゃめちゃ忙しかったはずなのに、12月16日(土)の18時からの宗教民俗学会会議に参加している。

 

 その日のことが整理中の「日本宗教民俗学研究会通信 第0号」(1989年12月16日)に載っていたので、引用する。

○日本宗教民俗学研究会の発足経過について

以前から御案内がありました「日本宗教民俗学研究会」の発足について、去る12月16日(土)午後6時から、アバンティホール会議室において、御賛同を頂いた28名のうち、次の会員の方が出席して、当会の発足次第(案)について、第一回目の検討をいたしましたので、御通知致します。

〔出席者〕日野西真定、伊藤芳江、山田知子、斉藤寿始子、栖川隆道、豊島修、西山郷史、木場明志、中川義晶、大森恵子各氏の10名 

  この時、役員が決められ、次の人が役員になっておられる。

会長 五来重 幹事(世話人)日野西真定、吉田清、豊島修、木場明志、大森恵子

会場設営係 山田知子、斉藤寿始子 会計係 中川義晶 記録係 大森恵子

 

フーンだが、記憶にないとはいえ、当方のメモ書きと通信の記録があるのだから参加していることは間違いない。

写真には日野西氏(以下敬称略)、豊島、木場、大森、山田、中川が写っており、斉藤さん(実際は斎藤)と吉田さんは分からない。

これもさらに、かつてだが、大谷大学の児童文化クラブ員で斎藤先生に習っていた方に、この写真を見てもらったのだが斎藤さんは入っていないという。

それに、名畑先生が2列目に立っておいでるのに、私がスーツを着て一列目に座っているのは、偉そうだなァーの疑問はあったのだけど、

よく遠くから来たなぁーと歓待され、「能登の人」だけで通ることがあったので、この時も能登先端の人の威力で前に座ったのだろう、と納得していた。 

 

じっくり、宗教民俗学研究会通信を見ていくと、ナ、ナ、ナーンと

日本宗教民俗学研究会第一回大会で発表しているではないか!

発足からほぼ1年半後の1991年6月15日(土)である。

 

~たら、ればはないのだが、これが翌年の6月だったら、14日(木)郷土史クラブを引率して加賀市へ、15日授業の後、テニス北信越大会の打ち合わせ。16~18日北信越大会。

団体戦で飯田3:0富山東、2:1長野伊那弥生ヶ丘、2:0羽咋、決勝2:0県工と、石川国体強化校を破って優勝していた時なのだ。

会場が能都(当時は能都)町テニスコートだったので、女子の方の決勝審判を飯田高校の一年生テニス部員がしていた。男子が先に優勝が決まったので、彼らは審判席でたまらず万歳をして、本部席の他校監督たちから笑顔の顰蹙を買ったものだった。

その翌年の同時期、大谷大学多目的ホールというところで、研究発表をしていたのだ。

 

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あらためて写真を見てみよう。

前列右から(敬称略)、田中義廣 、中澤成晃、鈴木昭英、日野西眞定、豊島修、西山郷史、?

二列目 ?、根井浄、名畑崇、?、大森恵子、?、?、中川義晶

三列目 ?、?、?、?、本林靖久、山田知子、?、木場明志、岩田博岩田書院社長)

分からない人も多いとはいえ、この時の写真に間違いない。

 

プログラム3が〔記念撮影〕となっている。

一列目に座っている理由もはっきりしたし、よく見れば、12月にしちゃ涼しげな服装の人が多いじゃないか。

ちなみに、前列右端の田中義廣さんはまつり同好会を主催しておられ、「まつり」「祭り通信」を発行なさっていた。祖母が日本最初の女医、あるいは女医が建てた病院だとかといい、名古屋のお医者さんだった。

気が合って一度、日銀のパリ支店長の逆、パリ銀行の日本支店長とか言う人と若きフランス人二人ほど、パリの音楽学校ピアノ科を主席で卒業し、帰国してまもなくだという鮫島有美子氏の妹が泊まっていったことがある。

外国人は派手な生活をしているのだろうと思っていたのが、ビールの飲み方からして質素なのに驚いたものだった。

ちなみにのちなみにで、我が家に泊まって行かれたビックスリーはこの田中さん、五来重先生、真継伸彦氏としている。

 

研究発表のプログラムを見ると私だけ手書きになっている。

日々がそのまま流れていたら、北信越大会で優勝したメンバーに、全中で優勝したメンバーが二年生となっていて、さらに強力な布陣を擁するテニス部顧問なままだったら、この日、そこにいなかったはずだ。

こはいかに?

 

この年の2月13日、風邪気味だった父の熱が下がらず、義父の七回忌で連れ合いの里・東京赤羽から帰るのを待って、父は七中時代の同級生神野さんの経営する病院(神野病院改め恵寿病院)に検査入院した。

前々から神野さんは父に、70になったのだし一度検査に来いよ、と言っていたその約束もあって、楽しみながら入院したのだった。

 

2月15日授業を終え、上越市で行われるテニスインドア大会個人戦に出場する東崎・稲谷君を車に乗せ、総体の飯田高校宿にしている金沢の「みな美」旅館に向かった。

途中病院に寄って見舞ったら、確か血液検査中だとのこと。17日午前中で試合を終え、高岡あたりから風雪が激しくなる中、鵜川中出身の二人を鵜川で降ろし、家に着いたのが午後9時。

当時、公立高校では特色ある学校作り事業ということをやっており、飯田高校は夜・中央公民館を主会場に、教員の公開講座をやっていた。

その人選。テーマなどを私がやっていたため、翌18日はその会議ため雪道を金沢へ(会場はノートに書いてない)。

この日、新潟、青梅付近は列車が通らず、飯田からは馬渡の坂を車が登れず、海岸通りへ迂回して午後の会議に。

帰りに病院へ寄り、若い担当医に詳しく様子を聞くと、半年くらい入院しなければならないのではないか?とおっしゃる。

 

半年!

 

4日後の、22日から昼・夜の春勧化が始まる。

校務分掌ーこの時は進学係、

テニスと郷土史のクラブ顧問、

 

それに1月だけで「法住寺縁起について」30枚『北陸の民俗』、「オザ」に見る農民の宗教活動」21枚、「奥能登地方にみるアエノコト行事」26枚、以上『人づくり風土記 石川』、緊急調査諸職の原稿見本「ホウライ飾り」12枚を書き上げ、

日本宗教民俗研究会から木場氏を通して「真宗と宗教民俗」の依頼も入っていた。

 

翌19日、授業を終え、帰宅してから6ヶ月の重みに耐えられるか?

ギリギリの現状に父の代わりの僧としての仕事、

七尾への見舞いーなど

そのような今後引き受けていかなければならないことを考え、来し方を本堂阿弥陀様の前で思い、

19年の教員生活を退くしか方法がないのでは、との結論に達した。

 

その後、人事異動に影響が出ない頃に退職の意思を伝えるとすれば、を調べると3月1日がギリギリらしく、

26日、弟に辞める旨を電話した。

「どっちでもいいけど することあるがか?」

「本、読んどってもいいもんな」と応答している。

自分を納得させるのに「本」を使っている。

 

3月1日。県教委に退職願いを提出。

同日病院へ行き、父にその旨を伝えた。

いつ寝ているか分からないような私の日々を知っているだけに、

父は「寺もヒマやぞ」と、一言だけ言葉にした。

 

8日(金)誰も知らないが、私にとって最後の卒業式。

9日(土)父の実家・江曽のいとこと見舞う。家へ帰るぞ!と、ベッドから降りよう

としたので、もう少し見てもらってからね…と慰める。

翌10日(日)には弟が東京から見舞い、夜行で帰る。

この日は午前中お年忌、金大の合格者発表日だったため、16時半頃合格者たちが学校に報告に来、その生徒たちと対応。

 

ところが、翌11日、朝6時に病院にいる母から電話が入り、父の容態がおかしいという。

連れ合いと七尾を目指すが、やはり馬渡は雪で上がれず、海沿い道に出て七尾へ向かい、途中の公衆電話から年休願いを教頭さんにしたのだが、すごく不服そうだったので、この日が入試当日だったのだと今の今まで思っていたのだが、11日は準備日だった。

病院へ着いたとき、父はすでに息を引き取っていた。

示寂7時2分。

弟は上野について、まもなく父の西帰を知らされトンボがえり。

 

写真に戻る。

6月15日は、教員ではなかったのだ。それどころか、父の100日法要3日前。

13・14日は、輪島へ通い、宗教法人の住職として必ず有していなければならない資格・防火管理者の講習を受けていた。

発表タイトルを考え送っている余裕などなかった。そのことが手書きのタイトルに表れている。

 

ノートを見ると木場氏の依頼の後、4月11日(木)に豊島さんから原稿の催促を頂いている。

その日は父の月忌命日のお参り、本山収骨をどうすればいいかを教務員から聞き、責任役員任命のための印を総代さんから集める、などで、申し訳ないが豊島さんの願いを記憶に留めておけないような環境変化だったのだ。

この時、ちゃんと原稿をお渡ししていたら、宗教民俗研究会は私の中に、もっと大きく生き続けていただろう。

その後は、調査する立場から、調査対象の中に身を置くことになって、お寺行事の季節の調査は出来ず、いくつかの市町村史調査も、おのずから宮・まつり・コト関係調査に比重が移っていった。

 

そのころよく使った、語り部・古老そのものに、今の自分がなっている。

今年で、ちょうど満30年を迎える「写真が語るもの」である。

 

 ところで、初期のメンバーにはどういう人たちがおいでるのか、2号(1990年1月)以下に載る例会参加者を見ていくと、

栖川隆道、須田勝嶄仁、根井浄、横山俊夫、吉田清、石川稔子、山香茂、上別府茂、木村至宏、本林靖久、菊地武、平野寿則といった方々の名が見え、9号に

これも何と、私が例会に参加している。

1990年8月例会で、この年の夏期休暇中は連日の補習、郷土史クラブは秋の学校祭に向けて珠洲市狛犬調査、テニスは4日から8日に開かれた仙台インターハイに鳥毛兄弟チーム引率。途中東京で『蓮如真宗行事』(オリエントブックス)を出版することになっていた木耳社に寄っている。

この本は日本民俗学167号(昭和61年9月)に載った「真宗民間信仰の研究ー能登コンゴウ参り習俗を通してー」を軸にしたもので、オリエントブックスに『生と死の民俗史』を出しておいでた新谷尚紀氏が間に入られて一冊になったもの。

仙台から帰った7日に150冊届いていた。

例会は25日だったようだ。

1990年8月例会の記事

2、研究発表

西山郷史氏によって同著『蓮如真宗行事』(木耳社、1990年8月、1700円)の研究・編集上の苦心談を語ってもらい、つづいて「法住寺縁起について」と題して、配付資料(別紙)にもとづいて、能登吼木山法住寺縁起の開創由来を主として発表。その後出席者から活発な質疑が行われた。遠方の会員である同氏の研究姿勢と精力的な調査研究に深い感銘を受けた(豊島)

 これも驚きだった。例会にどんな人たちが参加してるのだろう?10号あたりまで見てみよう、との気を起こさなかったら、こんなことがあったことは、記憶から消えたままになっていたはずだ。

そういえば、かすかな記憶に(法住寺の)白山信仰が近世初頭だと思う、と話したとき、日野西さんが平安まで行くんじゃないと言ったことがあった。

そんなシーンが現実にあったとは思われず、あれはなんだろう、と思っていたそれが、この会だったのだ。

今頃になって、いろんなことがつながりだしている。

diaryを見ると、翌日、北陸三県民俗の会が福井県立博物館で開催され、発表・シンポをこなしていた。