西谷啓治先生のふるさと

昨年、没後30年、生誕130年を迎えた西谷啓治先生(以下敬称略)について、ブログでは次のように触れてきた。

2010-02-15 能登・知人関係本など
『宗教と非宗教の間』

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『宗教と非宗教の間』岩波現代文庫

西谷啓治氏は隣の能登町宇出津出身。
1度か2度講義を聞いた(ような)記憶がある。
※2021年1月7日確認。

西谷啓治大谷大学講義、昭和39年~62年度。私が在籍していたのは昭和44年~47年なので「聞いた(ような)記憶」は間違いではない。ちなみに『西谷啓治著作集第24巻大谷大学講義Ⅰ』には、この時期の第八講(昭和46年度第7回講義・6月28日-体・心-純粋経験)、第九講(同年度第16回講義・12月6日-魂-生-仏教の立場)が所収されている。

20160629 書物

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西谷啓治随聞』佐々木徹、1990年法蔵館

西谷啓治氏は能登町宇出津出身。私の周りにも親戚の方がおられるなど、身近な方なのだが、近年は話題に上がることも少なくなったようである。新たに触れるつもりで、古本で購入。

(中略) 

その頃は、『とも同行の真宗文化』を本にする詰め段階で、西谷先生に目を向けるようになったのは、12月に入ってからだった。
西谷氏に「戸坂潤の思い出」の文があることに気づき、目を通した。ことばにはならないところに友を思う気持ちがにじみ出ているいい文だ。
戸坂を知るには『回想の戸坂潤』(勁草書房1976年)があるが、14人の執筆者に西谷の名がなく、元の三一書房本(1948年刊)に載る戸坂蘭子(潤氏ご息女)の「断片」、久野収氏の回想「戸坂さんの偉さ」はお二人の辞退により所収されていない)があり、西谷氏の文はかなり早く手に入れていた『戸坂潤全集』第三巻・月報4(昭和41年勁草書房刊)に載っているにも関わらず、1ヶ月ほど前まで気づかずにいた。

能登の風光

『宗教と非宗教の間』(西谷啓治上田閑照編 岩波現代文庫、2001年刊)より

現在、私(西谷啓治氏)のうちにある故郷のイメージや感じには、いくらか特殊なところがある。それは幼い日の或る思い出に由来している。
私は四、五歳の頃、珠洲の鵜島にあった宗玄という家に何日か泊まっていた。それは大きな酒造りの家で、私の母の姉がそこの主婦であった。その林泉造りの庭や、土蔵や土間にあった巨大な桶など、今でもはっきり覚えている。何よりも珍しかったのは、家のなかの土間をどうどうと水が流れていることだった。家の外に清例な谷川があって、その水が家のなかに引かれていたのだが、或る日、その谷川で魚をとっていて、足を切り、男衆の背に負われて飯田の医老に行ったことも記憶に残っている。
飯田に行く街道は、家の前を通っていた。道の片側はすぐ砂浜で、その浜は飯田の方までずっと続き、反対の方向は、伝説で名高い恋路の浜に続いていた。浜の向こうには静かな海が開け、遠くに水平線が見えた。

浜は広々として、とても清らかな感じだった。人気もなかったが、それ以上に、人間臭さの全くない、古い言葉でいえぱ「俗塵」から抜け出たような、澄んだ清らかさが感ぜられた。その浜には桜貝が沢山あるので、私も拾いにつれて行かれた。桜貝は、その透き通るような薄い殻が淡紅色に染まっていて、紅玉のように美しく、しかも宝石の堅さをもたぬ、非常に華奢な小貝である。砂の上にあっても、どことなく地上のものではないような、気高い清らかさがある。そして砂浜自身の澄んだ清らかさも、同じように、何となく地上のものではないような一種の感じを含んでいたのである。そういう砂浜のイメージ、また自分がそこで桜貝を拾ったことの想い出は、幼い心の底に刻まれて残った。
自然の景色が地上のものでないようだと言えば、おかしく聞こえるかも知れない。しかし、後になって、天の橋立や和歌の浦などに行った時にも、同じ感じを経験した。それで考えたのだが、昔の日本人が特別に好い景色として選んだ所、或いは歌枕と称して賞でた所は、どこか地上のものならぬ、その意味で幽玄ということにも通ずるような、深い清澄の感じを喚び起こす場所だったのではないか。それが、自然美に対する昔の日本人の感覚、古代から続いていた感覚だったのではないか。例えば赤人の「田子の浦にうち出でて見れば」という富士の歌にも、「藍辺をさしてたつ鳴きわたる」という和歌の浦の歌にも、そういう感じが籠っている。大伴家持の、

 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

でも、似たような感覚がその底にあると思う。
家持は、「能登の島山、今日見れば、木立繁しも、幾代神ぴぞ」とも歌っているが、その「幾代神びぞ」という感覚である。それは、現代の人々が普通にいい景色だといっている以上の感じだが、鵜島の浜の景色は、私のおさな心にも、そういう感じを与えたのである。

 数年前、久方ぶりにまた鵜島を通ったが、浜の風光はもうすっかり変わっていた。その代わり、鵜島から先の奥地が、とてもよかった。現代の世界にみなぎっている喧騒や慌しさは影をひそめ、一足とびに太古の悠久と静けさに返ったような気がした。昔の中国の詩人も、「山静かにして太古に似たり」と言ったが、そういう感じを喚び覚ます風光は、日本ではもう見出しにくくなっている。しかし能登には、まだあちこちにそれが残っている。
例えば須々(須須)神社のあたり、贄(仁江)の海岸、それから私の若い時に毎夏の遊び場であった九十九湾なども、古代の風光の跡をまだ残している。
しかし最も大きな感銘を経験したのは、同じ数年前の旅行の帰り途にであった。その時、バスは松波から小木に向けて波打ち際を走っていた。好く晴れた天気で、雲一つない五月の空は青く澄み、海も明るい紺碧の色を湛えていた。そしてその海の向こうに、雪をかぶった立山山脈の尾根が、半天に蜿蜿(えんえん)と連なっているのが見えた。尾根から下の部分は、青く霞んで見えず、尾根の部分だけが青空のうちに夢のように淡く浮かんでいた。その山と海と空と、それら全体の風光は、やはり地上のものとは思えない神秘な美しさであった。中国の伝説には、蓬莱山とか桃源郷とかいうような、神仙の住む土地の幻想があり、似たような神話的幻想は、古代ギリシアその他にもあったが、それが忽然として現実に現われたような感じであった。
その時に接した風光は、私の心の中で、子供の時に接した鵜島の浜の風光と重なり合い、それが、故郷の土地を代表する最高のイメージになっている。そしてそのイメージを取り巻く全体として、故郷を思う私の気持の基礎になっているのは、文明や文化の毒に災いされずにまだ多く残っている、古代的な(という意味は原日本的な)風光の跡である。故郷に対する私の最大の願いは、それらの貴重な風光が、土地開発の途上で破壊されることなく、かえってより清純な形で護持されることにある。

 ソウゲン 宗玄 『加能郷土辞彙』(日置謙著)より

珠洲郡直郷に属する集落。元禄十四年(1701)の「郷村名義抄」に、『此村先年は鵜島村の内にて御座候処、明暦二年(1656)に別村に相立、同村忠左衛門と申百姓家名を宗玄と甲候に付、村名に罷成候由申候』とある。
又『能登名跡志』に『宗玄村に則ち宗玄忠左衛門といふ古き百姓あり。此者故あつて宗玄の一名あり』。同書に、『宗玄村端に切通しというて、岩山を切抜きて往来する也。昔遙かの山を越えて往来せしを、御郡奉行に黒川五左衛門といふ人、此所を切抜き往来安く成りしと也。』などゝ記する。

西谷啓治氏の伯母が嫁いでいた宗玄家は現在株式会社・宗玄酒造(明和5・1768年宗玄忠五郎開業)になっている。その酒造の8代目社長・杤平一男さんが、若い頃当寺に下宿しておいでたことにより、宗玄の祭りの日には、大きな酒蔵の二階に私たちだけのためにしつらえられた板張りの間へ、毎年「よばれ」に行った。啓治氏が「土蔵や土間にあった巨大な桶など、今でもはっきり覚えている。」と書いている場所へ、私も子供頃訪ねていたのだった。

また、高校時代からの友人N君(今年はコロナ騒ぎでかなわなかったが、毎年少なくとも7月20日には会って、近況・思い出を語り合う時を過ごしている)が、何年か前に、「祖母の実家が宗玄だと」言っていた。

つい先だってこの「奥能登の風光」を読み、

「おいおい! 西谷啓治という著名な哲学者の伯母が宗玄に嫁いでいるぞ…」と電話を入れた。Nの祖母は西谷先生の伯母のこじゅうとさんにあたるようだ。

7月には会えなかったので、これを幸いと、12月25日に「奥能登の風光」のコピーやその他を持って、穴水のN宅へ寄り、話し込んできた。

N夫人も「鵜島」の人で、ともかく宇出津・遠島山公園にある「西谷啓治記念館」へ行ってこようと約束したのだが、大雪。

西谷啓治が私たちの新たな共通話題になるには、もう少し時が必要。

 それに近所のK子さん-2年後輩-の母の実家へ、西谷家から嫁いでおり(K子さんの祖母が、啓治氏の叔母にあたる)、K子さんが京都で過ごした学生時代には、西谷家へよく出入りしたという。

先に書いた「西谷啓治氏の真宗」などの話や、宗玄家からの親戚が今も医者をしている話などが、K子さんから啓治氏末っ子の敏子さんに伝わり、この『西谷啓治 思索の扉』を送ってくださったのである。

K子さんはとは、当寺を会所として開かれている推進員勉強会で顔を合わせている。

これも「法縁」なのだろう。

 西谷啓治 思索の扉』に載る文 

 人から人へ
追悼集『渓聲西谷啓治』(一九九二年、燈影舎)は上下二巻から成り、上巻の回想篇には五十七名の文章が、下巻の思想篇には九篇の論文が収められている。また、創文社から刊行された同じく追悼集『情意における空』(一九九二年)には、告別式での梶谷宗忍老師の引導法語、上田閑照先生の挨拶のほか、八篇の論文、二十六篇の追憶が掲載されている。その一々をここに詳しく紹介することはできないが、『漢聲西谷啓治』上巻の最後のところに、ご家族から見た西谷先生の日常の姿が綴られている。そこには、ともに生活した者にしかわからない先生の一面、とくに奥様との関係についてものべられている。奥様は、私の訪問の際にも、お茶やお菓子を運んでこられても、同席して話されるようなことはまずなく、すぐに引っ込んでしまわれ、あとは先生のお話が時間を超越して無限につづくという感じだったが、そういうかたちで影のように、先生の研究生活を支えてこられたのだと思う。
(「西谷啓治随想集 青天白雲」京都哲学選書第16巻解説 投影舎、2001年7月)

海二つ
この夏の終り(1986年8月)、私は能登半島をめぐる小さな旅に出かけた。主として、宇ノ気町の西田記念館と、西谷先生の生地・宇出津(うしつ)を訪ねるためである。(略)
宇出津では西谷先生の生家や、小学校、資料館等を、猪谷一雄氏と小林篤二氏の案内で訪ねた。猪谷氏は宇ノ気町町役場に勤務、哲学講座の世話をされ、小林氏は宇出津小学校の校長職を退かれたあと、町史の編集委員をしておられる。
西谷先生は、小学校へ上がるとまもなく、両親と共に東京へ移られたから、今も残る古く大きな家で過ごされたのは、ごく幼い時期だけである。しかし、その心にふるさとの風光がしるした跡は決して小さくないと思われる。資料館に展示されている先生の色紙の一つに、こんな歌が書かれてあった

  そうそうと海あり
 能登は君が生(あ)れ
 君が一生(ひとよ)をすごせしところ

 この歌の「君」が誰をさすか、つまびらかではないが、この歌の響きには、能登の海と終生離れてはありえなかった、先生ご自身の感慨がこめられていると思われる。能登から東京へ、そしてさらに京都の地へ移られてからも、故郷の海を渡る風の音は、遠く近く聞こえていたにちがいない。

能登の海は、半島の北西と東南とでは大きく異なる。日本海側は、曽々木海岸に見られるように波風荒く、その果ては遠く大陸にまで達しているが、富山湾側は、穏やかな海原がひろがる。

宇出津は内海に面しているので、少年の日の西谷先生が泳いだり眺めたりされたのは、静かでやさしい海である。

誰をも包みこむような先生のお人柄は、この海にはぐくまれ育ったと言えるかもしれない。
しかしまた、半島を吹き抜ける風は、二つの海を一つにして吹く。激しい嵐は、海に暮らす者の心に、自然の厳しさを刻みつける。西谷先生の寛いお心は、背後に、そんな海をもつているとも言えるであろう。
西谷先生が初めてヨーロッパへ赴かれたのは、一九三六年三月のことである。それまで和服だったが、この時初めて洋服をあつらえた。
長途の船旅を経て、はじめパリに、ついでハイデッガーに師事すべく、フライブルクに住まわれる。二年の留学の間に、先生は西洋の思想を深く主体的に学ばれ、その一つの成果が『根源的主体性の哲学』のなかに収められた「ニイチェのツァラッストラとマイスター・エックハルト」であることは、周知のところである。二人の西洋の思想家についてのべながら、すでにこの論文において、東洋と西洋とをその根底において結ぶ、後年の先生の立場は明確である。
そのような立場が可能になったみなもとには、遠くどこまでもひろがる海の体験があった。しかもその海は、小さな入江に面した宇出津という小さな町を離れない。洋の東西を結び、歴史を超えるような思索であればこそ、それは同時に、その「人」が生きてきたふるさとの今ここを離れない。夏の終りの、私の小さな旅は、そのことの確認の旅でもあった。
(西谷啓治著作集第一巻『月報』、創文社、1986年12月)

 ※小林篤二氏より。

私が能都町史編纂委員をしていた昭和頃54年~57年頃(当時は鳳至郡能都町)、委員の大先輩・小林篤二先生から、謄写刷りの「我と汝としての人間関係」京都大学名誉教授・大谷大学教授・能都町宇出津在籍 西谷啓治(B5判11枚)を頂いた。

 この「我と汝としての人間関係」について、小林先生は、

新年恒例の「講書始」儀が 昭和四十四年一月七日午前十時半から皇居仮宮殿の西の間で行われた。京都大学名誉教授・大谷大学教授の西谷啓治氏は「我と汝としての人間関係」という題で、天皇・皇后両陛下の前で御進講した。(仏教タイムス七八四号)

 を引用して説明なさっている。

矢田敏子さんの、父の思い出

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西谷啓治著作集』第26巻 月報13 1995年8月 ※月報3ページに載る執筆者は(西谷啓治先生四女)。 

能登

『渓聲 西谷啓治 上 回想篇』平成5年京都宗教哲学会編 一燈園燈影会発行

 

能登

一九九一年九月三日、父母の納骨の日、能登半島はまるで真夏のような日差しだった、
字出津の小学校裏の高台にある先祖の墓の前には、宇ノ気でのセミナーを終え合流して下さった方々、地元の所縁の方々など、思いがけず多くの人々が集まって下さっていた。
宇出津の隣町、鵜川に生まれた祖母は、西谷のこの墓は

海を見渡すいい場所にあると口癖のように言っていた。けれども、今は木が繁り、建物がたち、海を見るのは難しくなっていた.
読経の後、お墓の後ろの石を移動し、まず姉達が京都から持ってきた父の遺骨を、サラサラと土にかえした。それは人の死に関する厳粛な別れの儀式に違いなかったのだが、なにかごく普通の事を行なっている感じだったのが私には不思議だった。明るく照りつける光と海からの風のせいだったのだろうか,
その時、突然「おーい、おーい」父の呼び声を聞いた気がした。私たちが、幼い頃から聞き慣れている母のことを呼ぶ声だった。「ほら、また」と母は、この声に何度も立っていったものだった。「おーい、おーい」今度は、何してるんだ、早くしろよという風に、少し調子の違った声だった。私は思わず、それまでしっかり両手に握っていた小さな母のお骨の壺を父の遺骨の上にさっとあけてしまった。もちろん、一緒に納骨しようと持ってきたのだったけれど、父の声を聞いた気がして、慌ててしまった自分がおかしかった。
ふっと軽くなっていく心地で、私は、能登へ連れてきてもらった何度かの旅の事を想い浮かべていた。最初は、まだ学校にもいかない幼い頃、たしか母に連れられてだったと思う。父とは、二人で旅をしたことなんて数える程しかないが、それでも能登へは、二度来たことがある。一度目は私の小学六年の時、二度目は、母の死去の翌年、父が故郷に招かれた折に同行した時である。
幼い頃から甘えたでどう仕様もなく、母のひっつきむしだった私。そんな私を、丁度夏休み中だったので、多分教育的見地から、父と一緒に行かせる事にしたのだろう。これが一度目の旅行。金沢で泊めて頂いたのは、大きなお寺だった。父は先に出かけてしまい、私はお寺の方に町中を案内してもらったが、最後に連れていってもらったのは、講堂みたいなところだった。一番後ろにそっと腰掛けて、前方を見ると、みんな少し前かがみの姿勢で、びくともしないで座っていた。その人々の前に、父がいた。何かしゃべっているらしかったが、私にはよくわからなかった。内容がというより、エー、エー、がやたら多くて、聞き取れなかったからだ。その時の父の話しぶりが私には全く意外な印象だったのを今でも億えている。家にいると、大きな声で歌ったり、時にはお腹の底から出てくる様なすごい声をはり上げることもあった。夕食後、父も一緒に、というより父が先にたってお茶碗を叩いてリズムをとり、みんなで大声で歌をうたい、祖母から叱られたりした事もあった。だから、とぎれとぎれの話しぶりは、小学生の私には、想像外の事だったのだ。
今にして思うと、私が父の講演をじかに聞いたのは、後にも先にもこの時だけだ。もっとも母も、父が話をするのをその場で聞いた事は殆どなかった様だ。三十年ほど前、父母が二人で半年ばかりドイツに滞在した事があった。その時、父が大学で学生を前に話をするのを、初めて、そばで聞いたらしい。折角の機会だったのに、母は聴衆の学生が机をガタガタさせるのではないかとその事ばかり気になって、碌々話も聞けなかったそうだ。今ならさしずめブーイングというところだろうか。ドイツの学生はおもしろくないとそんなことをすると教えられて、母はハラハラしたらしかった。
父に連れられての能登行きだったが、一緒に遊んでもらった記憶はほとんど残っていない、小さな船に乗せてもらって海に出た時でも、周りにいる人達と話に夢中で、議論ばかりしていて、ちっとも構ってくれなかった。けれども旅先で、外にいる父を見て、父親像が少し変わったのは事実だ。家では、席の暖まるひまもなく、くるくると動きまわっている母に比べて、お昼過ぎまで寝ているし、何をやっているのか、私にはよく分からない父だった。ともかく、この旅行を契機に、父は私を一人前のように扱ってくれる様になり、私にとっては、母を通しての父ではなくなった。
この頃のことで思い出すことがある。ある冬の夜、私が未来の都市を計画するという様な社会科の宿題でもたもたしていた時、父もこたつで横にあたりながら、一緒にいろいろ考えてくれた。歴史博物館とか、海の上に町をつくる事とか、次から次へと。話し振りだけでなく、今でも内容までしっかり憶えているくらいだから、余程感心して聞いたのだろう。けれどもそんな時、感心してきく反面、まるで自分の宿題のように熱の入ってくる父の話に、早く終わらないかなと願ったことも度々だった。話は一旦始まると、止めどもなく続き、小学生のこちらの都合なんかちっとも考えてくれなかった。話だけでなく、遊びの時でも、しばしばそんな具合になった、お正月には、よくトランプをしたが、父だけでなく、みんなが本気になってやるものだから、ビリの私は、結局ベソかきかき母の所へとんていく羽目になった。

二度目の能登行きは、母の一周忌も済ませた一九八五年の秋、十月の初旬だった。一緒にというより私が付いて行くという感じだったが、小木に住む父の従弟(能登といえば、まずこのおじだったのに、父と連れ立つ様に他界してしまった)が準備万端整えて下さっていた。父は、先々で話に熱が入り、しかもいつものように夜八時を過ぎるとますます元気になった。久しぶりの故郷だからだろうか、ゆったりと寛いだ面持ちだった、床につく前に、ふと父の旅行カバンの中を見ると、底に丁寧に包まれた紙袋があった。
前日の支度の時には、確か無かったものだった。「あれ、これは」私が包みを取り出すのに気付いて、父はまるでいたずらの現場を見つけられたようなドキマギした表情をうかべた。袋の中身は思いがけないもの、母の小さなお骨壺だった。すでに九月のお彼岸、相国寺の新しいお墓に母の納骨は済ましていた。だが、能登の先祖代々のお墓に納めようと、小さな分骨の壺が吉田の家に置いてあった。一瞬、父は秘かに能登のお墓に納骨してしまおうと持ってきたのだろうかと驚いたが、どうもそうではないらしかった。私に見つけられるなんて予想もしてなかった感じだったので、とうとう、どうして、とは尋ねないままになってしまった。能登半島のあちこちを訪ねながら母の影を感じ、母の声をきいた。まるで、私にとっては、三人の旅のようだった。その小さな包みは、一緒に吉田の家に戻り、結局六年間そのままだった。

 

照りつける日差しのなか、父母の納骨は無事了った。みんなは、墓地から小学校の横の坂道を下り始めた。その時、生前、あんな淋しい処にあるお墓へはいるのはどうも、と言っていた母の言葉が浮んだ。たぶん母も父と一緒なら仕方ないと思うだろう。それに、父は父で、母のほうが自分より先に逝ってしまうなんて、思ってもみなかったことなのだった。だから能登での納骨はこういう風になった。これでよかったのだろう。
         (西谷啓治の四女、京都市在住)

 

 

見附(見月)島の月ー宝立公民館

西谷啓治氏の「奥能登の風光」に出てくる、先生の思い出の地、鵜島・宗玄などは藩政期の村名である。この村々は藩政期初頭頃までより広い「宝立(ほうりゅう)」名を通称にしていた。

宝立地区は九条兼実法名・円照が実質支配した若山荘の中心エリアで、宝立山・黒峰城を擁し、藩政期には「宗玄」「鵜島」「黒丸」「鵜飼」「春日野」などの海岸部、その他計九か村からなっていた。「奥能登の風光」に出ている家持の歌は、このエリア鵜飼にある、月の名所・見附島が意識されている(はずである)。

長浜の浦に比せられる、月の名所を有する宝立公民館から、3月頃に、見附島の月にまつわる話を依頼されている。

メンバーの希望では、私が書いた『妙好人千代尼』と重ね、「千代尼の月」に関する話を…ということである。

その話をそれとなく聞いたのが、昨年10月だった。

それから、今日までに「西谷啓治」の鵜島・宗玄-宝立、万葉集が急浮上したのだ。

K子さんは、西谷さんが親戚に交じると、話(議論)ばかりしていて、もう集まると話しーぱなしだった、の印象しかない、と言っていたが、

宝立公民館の郷土・歴史・文化を愛する方々は、知人・懐かしい人々が登場人物となって華を添える「西谷啓治」話に、どれほど興味を示し、語り合いことになるのだろうかー

と、『妙好人千代尼』の著者・私には申し訳ないが、

月の宝立は、「奥能登の風光」に決まり。

さらに、三々五々、西谷啓治記念館、宇出津散策も待っている。