節分 平太郎の熊野参詣 2-2
平太郎なにがしといふ庶民あり(御伝鈔・本願寺聖人伝絵『真宗聖典』P735)
大泉寺は浄土宗。九条兼実の別邸花園院跡と伝わり、御流罪前の聖人夫婦生活地伝承地でもある。親鸞聖人伝承地見学があり木場明志氏が案内してくれた。
常陸の国那珂西郡大部郷に、平太郎なにがし…
或時、件の平太郎、庶務に駆られて熊野へ詣すべしとて…聖人へまいりたるに…
はたして無爲に参着の夜、件の男夢に告げて云わく、
証誠殿の扉をおしひらきて衣冠ただしき俗人仰せられて云わく、
汝何ぞ我を忽緒して汚穢不淨にして参詣するや、と。
爾時かの俗人に対座して聖人忽爾として見え給う
その縁のお寺があり、その場面の摺物があることに驚いた。しかも浄土宗寺院。
もっとも驚いたのは「平太郎という庶民」がズーーと抱いてきた「庶民」像と違っていたこと。
左の人物が「衣冠正しき俗人」=熊野権現、右が「忽爾として見え給う」た親鸞聖人。熊野権現(本地阿弥陀如来)に合掌する人物が、いうまでもなく「平太郎」。
御伝鈔には,汝・平太郎よ、どうして我・熊野神を忽緒(コッショ,軽んずる)して、汚穢不淨のまま,参詣するのか、と
なので、2-1にも書いたように,中学2年から長年ー庶民・汚穢不淨ーイメージで平太郎を想像していたので、浅野内匠頭みたいと思ってしまった。
この場面を摺った一枚で次のものもある。
飯田町の藩政期には船主だったであろう家に伝わったいたもの。
祖師聖人、熊野権現、平太郎は平太良維房とあり、左に覚如上人真筆、花押とある凝ったものだ。
この話の元である「御伝鈔」は永仁3年(1295)覚如上人が染筆なさったのだから、そのことを教えてくれる貴重な参詣土産である。
平太郞開基の真仏寺には聖人お田植え歌が伝わっており、その摺り物も同家の掛け軸仕立てに。
私は二十四輩へいけないままにいることもあって、
すぐ近くのおうちのご先祖が、このような旅をなさっていたことに、自失の念にかられるーいつかは、いつまでもいつか
節分 平太郞
毎年、節分の夜は,門徒寺に、定まって,平太郞殿の事讃談せらるるなり。聞くたびに、替らぬ事ながら、殊勝なる義なれば、老若男女ともに参詣多し。
とある。
西鶴の元禄期は、寺檀制度の確立、幕藩体制が安定してきた時期で、仏教各宗は、様々な活動を展開した。その中で女性妙好人の代表としての『妙好人千代尼』を書いたが、その頃に,節分には「平太郞殿事讃談」お説教がおこなわれていたというのである。
このことに詳しいのは、『真宗史料集成 第十巻 法論と庶民教化』(柏原祐泉編・解題、同朋社出版)で、そこには「節分夜平太郞縁起法談/空慧・浄慧」「常陸平太郞事跡談/無染衲子」の談義本2編が納められており、平太郞と節分や身近な行事を通し、真宗教義がわかりやすく語られている。
節分夜平太郞縁起法談
節分の夜は熬大豆を撒き,鰯の頭を窓に刺す。都人は~とあって、
節分目指して熊野参詣に向かう平太郞が、その途次、都においでる聖人に心得を聞きに寄る場面。領主佐竹季賢は熊野信心の人で、宿願があって毎年年越しの夜熊野で年籠りしており、その供として平太郞が熊野にむかうことになったことが分かる。P742
同書は
願乗寺権律師浄恵述 宝暦十三年(1763)癸未稔臘月写之 釈恵実
常陸平太郞事跡談
事跡談は全漢字にふりがなを振り、上のような挿絵10葉、全5段の相当長い平太郞話である。
寛政8年(1796)丙辰年中冬 安堂寺町5丁目 田村九兵衛
大坂書肆 高麗橋壱丁目 北尾善七
真宗史料集成は編集委員に柏原祐泉・千葉乗隆・平松礼三・森龍吉氏を擁し、昭和49年~57年、全13巻の質量ともに最高・最大の史料集で、図書館などで読むことが出来るが、あるとき、『新編平太郞一代記』なる書籍がヨコノ書店という書店から出版されていることを知った。
そのうちヨコノ書店が金沢にある書店名だと知り、2008年に探し歩いた。
ようやく書店にたどり着き、一冊だけ残っていた『新釈平太郞一代記全』 を購入することが出来た。
『常陸平太郞事跡談』のさし絵と同じ。全10葉とも同じ場面で、事跡談と一代記と名は別だが同話だった。
『新編平太郞一代記』序文
信心定まる時、往生定まる」(御文一の15意訳)真宗の肝要は、この一語に定まり、三経一論の深意もこの一句につきる。
然るに、この信心は当流では他宗と相異なり、他力廻向に依るものであって、我等凡夫の起こすところの信心ではないとする。(御文二の13)
佛智の起こすところの信心であれば、菩薩聖者もはからう事が出来ない。いかにいわんや我等未代の凡夫をや。
ここに宿善の同行に仏智を授け、他力信心のすがたを伝える如来の代官。即ち善智識との出遇が、後生の一大事として切望されるのである。
実に「平太郎」は,開山聖人より口決面授を許された善智識の一人であった。(親鸞伝絵下の5)
又、当山に残る法脉の文中に
「我祖御歳五十九寛喜三辛酉年(一二三一)常陸国那荷西郡大部郷庶民平太郎朝盛へ利他教化之流脉を相伝し給ふ。是れ在家へ御相伝之先立達なり」云々と明記されている。家佛教として御同行の数も多いが、彼自信に関する記述は数少ない。今往古から伝わる古書が発見され、ヨコノ書店より出版の運びとなった事は我等「一念帰命」の同行信者の無上の喜びである。内容の真偽は後日の課題として「平太郎」をより知ることに依って日々の法喜法悦の増上縁ともなればと思う次第です。
一読を願いつつも、いつか古文体調でなく何人も理解できる現代文であって欲しいと思う。
選択寺 釈興隆
平成十五年六月初旬
節分に平太郞話を語っているお寺がないのだろうか?と折々に聞いたことがある。
ともあれ、加越能の地では聞いたことがない。
そのうち、平太郞が歩いたラインのお寺ー滋賀県だったと思うがーでは、結構聞法の場が開かれている、と聞いた。
が、記録も取ってなければ,いつごろ誰に聞いた話だったのかも判然としない。
メモぐらい取って、そのうちとしておいたのだと思うのだが…
はっきりしているのは。平太郞話は人気があったということ、
熊野 修験・フダラク渡海・西国33観音など、人気がある熊野。
その熊野と門徒(平太郞)が、御伝鈔に確固とした位置を占めているのに、おやりになる方がいなかったようだ。
※→桜井徳太郎氏 五来重茂を悼むー後ほど
コロナ騒ぎで大人数の集まりは無理なのだから、本堂に数名程度でいいから、小さな聞法の場を…。
多く、広くー数多くの常説教場のように…考えるべきだろう。
その、一つの話の素材として、節分には平太郞
もっと展開すれば、真宗王国とい、われているところに山車やキリコの出る盛大な祭りが多いのかを、「
熊野平太郞」話は、解きほぐすカギとなる一話でもあるのだ…。
節分 平太郎の熊野参詣 2-1
獅子岩(熊野市井戸町)1993年(平成5年)6月13日、日本宗教民俗学会研修旅行の折撮影
私が報恩講の晩、御伝鈔を拝読したのは、中学2年の時がはじめてだったーと記憶している。
父は準備その他で忙しく、国文の大学生だった叔父・前田暁賢がつきっきりで読み方を指導してくれたはずだ。
御伝鈔は巻子本の旧字体。
「ほんがんじのしんらんーでんげのげー」と声を張り上げ、まもなく、レ点、一・二点、上下点のある箇所が出てくる。
あっちいったり、こっちいったりしなければならない。
漢文を習ったのは高2の時だから、未知との遭遇。
本番では、返りきれなかった…らしい。
60年前のことなのに、外陣で叔父が見守り聞いている。ぼくは首を上げ下げしながら、いったりきたりしていて、どこへ戻っていいか分からなくなり、近くの字を読む。
おじさんの姿を目で追う。
ちょっとがっかりしながらもーうんうんとうなづいている叔父がいる。
というシーンが、一枚の写真のようにインプットされているのだ。
その部分ー
※あまり読みが遠くに飛ぶ箇所があるので,上下点があるのだと思い込んでいたが、一・二点ばかりだ。
平太郎熊野参詣
ある年から下巻全部を拝読するようになり、
「だいごだーん、ショオーニン、故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々(せいせい)夢のごとし、幻のごとし。長安洛陽の栖(すみか)も跡をとどむるに嬾(ものうし)とて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまひき…
其比、常陸国那珂西郡大部郷に平太郎なにがしといふ庶民あり。…」
からはじまる、御伝鈔で最も長い段落、「熊野参詣」文の、所々がこころにとどまり、たとえば、
「平太郎という庶民あり」とか「平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし」とかの文言が、フーッと浮かぶようになった。
熊野の思い出
熊野といえば、
住職資格を取得するための方法が見つけられず、大谷大の院に進んで資格を取れればと考えた。もちろん大谷の国史卒の父が導き出した方法だった。
入学後まもなく、院で指導教官になって下さった五来重先生が、「ロクサイネンブツ」を調べて見ないか?とおっしゃった。
時は大学闘争さなか、奨学金頼みでなんとか単位を取ろうと籍をおかせてもらった立場の者としては、あちこち調査に出かけないと調べることが出来ないという、ロクサイネンブツ調べの汽車賃捻出方法を思いつくわけも無く、
単位が取れたら珠洲へ帰り、出来れば教員になって家を継ぐことしか考えていないころに、初めて聞く「ロクサイ念仏」なんて世界に生涯関わっていけるはずがない、と、その話は霧散したのだけれど、
院に入ったといういうことは、何かテーマーを持って発表しながら深めていかなければならないということを、友・広岡君に教えられ、探し当てたテーマーが「一遍上人」だった。
いうまでもなく、中学生の頃から親しんできた「平太郎の熊野参詣」があったから、一遍上人の熊野夢告・熊野成道にたりついたのだが、聖絵はじめ,研究室の文献だけでなんとかなりそうだ、が強く後押しもした。
ゼミ(この言葉は知らなかった)内での最初の発表に、先生が質問なさる。
何か答えたのだろう。
「僕は(君が)言わんとしていることは分かったが、皆に分かるように説明しなさい…」とおっしゃり、用があるのでと席をはずされた。
あとで、広岡君が、一遍上人はやり尽くされている先生の専門だ、そこで何かしようたって(無理無理)…とアドバイスしてくれ、一遍と熊野を知ろうからはすぐ別れたが、熊野はベースとして流れて続けていった…。
その他の「熊野」
○梅津次郎先生の博士取得記念だったか?何かの記念のお返し品が、(熊野の神勅)「烏」の栓抜きで,さすがだなぁと思ったこと。
長年ビールの栓抜きで使わせて頂いたが紛失…。
○新婚旅行で、初めて熊野(那智)へ行ったこと、
○教員2年目にカウンセラーという生徒指導内に出来た新たな係を兼ねたとき、カラスに苦しむ相談者が最初で、その生徒のカラス観をちょっと変え得たこと、
○カラスに関する文を、新聞文化欄に書いたことなどなど
北國新聞(夕刊)昭和57年(1982)3月13日
かつては太陽の象徴
不吉なイメージだけ残る
夕刊文化 北國新聞(夕刊)昭和57年3月13日(土)
鴨川・鳳至川・鵜飼川など、鳥の名が冠せられている川が、能登などにある。瑞鳥(ずいちょう)もしくは神事にかかわる鳥の名であることが多い。
ところが、十人十人が嫌いだというカラスの名を用いた烏川が、珠洲市の外浦に流れ込んでいる。
小さいころから気になっていたので少し調べてみたが、この川には次のような話が伝えられている。
文治元年(一一八五年)、当地へ流された平大納言時忠が安住の地を探し求めていた折、カラスが現れて川の上流へ導いた。時忠が身につけていた守り刀「烏丸」の精の案内だとして、居を川上の平地に定めたという。山中へ分け入っていく栄華を極めた一族の末路を想像するのは哀れであるが、ここに出てくるカラスは、嫌われもののカラスとは趣を異にする。
牧歌的な付き合い
カラスは知能が高いと言われ、人家付近に住む。いわば私たちの生活圏に属しており、最も身近な鳥の一つである。それだけに子供の世界では「カラスはカアカア勘三郎」と語りかけ、夕焼け空に向かって飛ぶ姿に「カラスカラス勘左衛門手前の家が焼けるから、はよ行って水かけろ」と、はやし立てるなど、牧歌的な付き合いがあった。中村雨紅作詞の「タ焼け小焼」や野口雨情の「七つの子」も、愛すべき鳥となっている。
その一方で「カラス鳴きが悪い」との、言葉に見られるように死を予兆する不吉な烏という強烈な印象があるのも事実である。
所によっては、止まった家、尾の向いた方にととらえているところもあり、精神衛生上はなはだ具合が悪い。
カラスを嫌いと感じるのは、つまるところ、死と重なるイメージに帰着するのであろう。
時忠を道案内するカラスは、『日本書紀』に載るカラスの性格と酷似している。紀州熊野の山中で難儀していた神武天皇に、祖神天照大神が八咫(やた)鳥を遣わし、大和へ案内したという話である。
それも道理で、平家は伊勢から出、太陽神(天照大神)の使いであるカラスを神勅としていた。
恩を返す孝鳥
平家の守り神・厳島の弥山(みせん)では、今も夫婦烏によるトリバミノ神事を行っている。この神事は、熱田神宮の摂社や天照の父母イザナギ・イザナミをまつる滋賀県多賀大社でも執行され、正月行事の烏勧請(かんじょう)とともに、非日常の世界ては現在もカラスを霊鳥と意識している地方が少なくない。
古墳壁画の天長船や、法隆寺玉虫厨子(ずし)宮殿背面の太陽図に、三本足のカラスが描かれたように、さらに太陽を金烏(きんう)と呼んだように、古くカラスは太陽の象徴だったのである。その源をたずねると、中国での母神・西王母に食を運び、漢の武帝に仙桃を届けるなど、神仙思想の中で活躍した鳥でもあった。朝、姿を現し、夕日に向かって消えていく姿が太陽と結びついたらしい。
また「和名抄」では、親鳥に養われた恩を返す孝鳥とされる。これらの性格が生き続けていたなら、現在のカラスに対する思いは、よほど様子を異にしていたに違いない。
三本足のカラスは熊野神の神勅として、熊野信仰の隆盛と共に全国に喧伝されていく。津々浦々に配られた牛玉(ごおう)宝印札には、カラスの図案化したものが用いられ,起請文・誓紙としても利用された。
地方霊場でも牛玉宝印を出しており、能登・石動山のものも熊野系と見られるが、誓紙に用いられたのは圧倒的に熊野牛玉であった。「長家図録集」(石川県穴水町歴史民俗資料館刊)に載る前田利長、長元連の二つの血判起請文も熊野のものである。江戸期には遊女が盛んに利用し、誓いを反故(ほご)にすると三羽の神勅ガラスが死ぬと信じられた。
隠野(こもりの)を恵味し、霊魂の赴く地、六道世界があるとされた熊野との結びつき、これがカラスと死の連想を強めていく。
鳴き声で占い
一方、伊勢(太陽神)と熊野信仰との分離、平家滅亡の中で「カラスは過去陰陽師で吉凶を占う」(「日蓮遺文)とされていた世界は、「神書には鳥も神の使者といへり、いとあやしきことなり」(「伊勢大神宮神異記」)と意識されるようになる。
さらにおそらくカうスの鳴き声で占いをしたであろう熊野比丘尼(びくに)が 江戸中期には絵解きもせず、歌たけで国々を巡り歩くに至ったことや、山伏の地方定着化、明治初年の還俗(げんぞく)の過程で、カラス=霊鳥の物語りは、すっかり忘れ去られていった。そして、不吉さのみが今なお,日常の俗信の中に残されているのである。
○この他、一度、間違いなく熊野方面に行っている。
花の窟、徐福の何か,紀伊半島を走る電車ーこの三つが記憶にあるのだが、場面は電車のみ。花の窟,徐福は何か見たはずだ、と言葉だけの記憶。なかば夢に近い記憶しかない。
この機会に、いろいろ探してみた。
写真ファイルが見つかった。訪ねたのは、1993年(平成5年)6月13日。
日本宗教民俗学会研修旅行だったのだ。
その時の通信・案内文
別の当日日程表を見ると、
史跡見学は午前8時半~12時。
午後1時から、新宮市福祉センターで5時まで研究発表。6時から新宮ユーアイホテルというところで懇親会・泊。
駆け足見学だったのだ。
学会も合同だと幹部さんたちは学会交流に力が入り、普段学会に顔出ししていない私などの回りにいる人は、おそらく初対面の人たちだったのだろう。その年は、住職2年目の46歳。記憶が衰えている年ではなく、寺の生活に馴染むために,ただただ忙しい頃だった。
と、ようやくうっすらとした記憶しか無い理由が理解できた。
と、ここまで書いて、本題の「平太郎の熊野参詣」、節分の平太郎話お説教に-。
伝説の風景ー節分ー鬼(猿鬼・鬼神)、能登を訪れた人々ー常田(ときた)富士男さん
日本の鬼門守護神(須須神社)が鎮座する珠洲岬近くの浜を歩く常田富士男さんと「加賀・能登むかし話の旅」(金沢ケーブルテレビネットで放映)の進行役・アナウンサー増林さん。
後ろの山が山伏山。山頂に須須神社奥宮がある。右端は三崎の一つ相崎。2013年(平成25年)3月14日撮影。
常田さんは「まんが日本昔ばなし」で、市原悦子さんとともにナレーションを担当なさった。加賀・能登むかしばなしの時は、まず伝説の地を訪ね、そして語るというやり方で、常田さんは一話ごとに、むかしばなしの里を歩けることを本当に楽しんでおられた。
月に2話ずつ、1年間で24話の放送で、私は能登の14話分を選び、文を書き、いわゆる監修・担当した(1話長太狢・輪島は別の方が担当)。七尾でイベントもあったので、常田さんは少なくとも15回は能登各地をたずね、歩かれたことになる。
常田さんはその年から5年後の2018年、7月18日にご逝去・81歳。
今日は節分。
能登の「鬼」譚の一部を訪ねよう。
能登には、猿鬼、鬼神大王、鬼界ヶ島など、鬼譚がゴロゴロある。
まず
七尾の猿鬼から。
猿鬼が恐れていたシュケンとは、大きな白犬だった。元々は、白犬を連れた修験者のことだったと思う。
2013年(平成25年)8月23日(金)北國新聞
4月から放送が始まっていたのだが、私の住む珠洲は、ケーブルテレビの系列が違っていたため、作品を見たのはこの9月15日が初めて…。感動した。
旧鳳至郡の猿鬼 柳田・輪島
『地産地消文化情報誌 能登 2015年冬号 18号』 より。
ユートピア半島に生きる「鬼」ー鬼とは?
平成10年1998年2月1日(日)北國新聞朝刊・文化
本文
時に激しく、時にヒタヒタと波打ち寄せる能登には、数多くの寄り神・仏の伝承がある。
神仏が寄り来たるのは、そこに姿を留め人々を救いたいという願いがあってのことである。
もともと日本列島そのものが、東方海上の理想郷であった。
中でも能登は、羽咋が磐衝別命〈いわつくわけのみこと〉と犬が協力して作り上げたユートピアであり、
鹿島は神仙思想・常世〈とこよ〉と通じ合う地と意識されていた。
このことを物語るように七尾の東海岸には、常世と往来したといわれる少彦名〈すくなひこな〉神を祀る聖地が多い。
鳳凰が訪れた鳳至(ふげし)には、極楽国に生息するという鵠〈こう〉の巣(高洲)山もあり、
真珠が採れた珠洲(すず)は、輝きに満ち溢れる珠の洲であった。
能登はまさに古代人の憧れの凝縮した半島であり、
神仏の目当てとなるべき地だったのである。
一方、艮〈うしとら=東北〉の方角が魔軍の侵入口(鬼門)であると考えていた古代の都人は、自らを守るために幾重にも防御ラインをひいた。
平安京の北にあたる鞍馬山には最強の毘沙門天が置かれ、艮には比叡山。
白山・気多〈けた〉・須須〈すず〉の神々がその延長線上にあった。
強訴の度ごとに都に向かった白山神、
将軍地蔵と結びついた気多神、
第六魔天軍と戦った珠洲の神軍は、
さまざまな性格を有する神が担った一つの役割である。
鬼とは、人が感得できないオン(隠)であり、元々はかなり広い概念であった。
それが舞楽・散楽の面と結びついて赤鬼・青鬼のイメージとなっていく。
鬼門があるならば、門の外には鬼が住む。
都中心の見方からは、
ユートピア越の国は、ままならぬ「鬼」の跋扈(ばっこ)する地とされたのである。
確かに能登では、重要な節目に当たる日に、アマメハギや太鼓の打ち手などが、面を付けたり顔に海草を垂らして鬼となる。
しかし、これらの鬼は、なまけ続けているものを奮い立たせたり、敵からムラを守ったという伝説を生み出している。
忌み嫌われるどころか、感謝の対象だったのである。
そういえば、一寸法師も桃太郎も、鬼の試練を乗り越えて、はじめて一人前の若者となった。
さらに猛々(たけだけ)しい猿である猿鬼(猿神)も各地に生きている。
能登島伊夜比咩〈いやひめ〉神社に伝わる「猿鬼の角」は伝承のみとなっているようだが、
地域興しに貢献している当目の猿鬼(柳田村)、
彼岸の「お出で祭り」に撒かれる猿の尻をかたどった桃団子(羽咋市酒井町日吉神社)、
旧卯月申の日の行事であった青柏祭(七尾市)、
七日正月行事である片岩の叩き堂行事(珠洲市)などは、
神や修験者によって退治された猿が祀り上げられ、節目ごとに思い出されている。
名こそ鬼であるが、こうしてみると、
先祖が子孫の住む地を訪れるとされる来訪神の性格と極めてよく似ている。
しかも、それらは荒々しさゆえに、大地を刺激し、エネルギーをみなぎらせ豊穣をも約束していくのである。
ユートピアに生きた鬼は、当目の鬼のように最後は救われていく。
有名な吉崎の嫁脅しも。孤独の深さに耐えきれず、鬼となった老婆に救いの声が届いたというエピソードである。
理想郷とは、こうした誰もが抱えている鬼を認め、うなずき合える世界
-すなわち共生世界-なのだろう。
ならば、「鬼は外…」は、
どこかに私の鬼門を育てようとする「こころ」との、決別の一歩を宣言する叫びでなければなるまい。
平成10年(1998)2月1日(日曜日)-節分の2日前-
節分-あまめはぎ ※皆月7日年越しの日のアマメハギ
伝統行事が育てるもの-2004年(平成16年)2月10日(火)北國新聞夕刊「舞台」
石川県には六件(※2004年当時)の国指定無形文化財がある。
その最初の行事が「アマメハギ」で、
門前町五十洲〈いぎす〉は1月2日、
同町皆月は6日、
内浦町秋吉〈あきよし〉は節分と、
それぞれ重要な節目の前の晩に行われる。私が出会わせていただいたのは、皆月の「アマメハギ」である。
これは異形の面を着けた一行が、
「なまけもんはおらんかー」と
「アマメ(囲炉裏〈いろり〉に当たりすぎると出来る一種の低温やけど)」を剥〈は〉いで回る行事で、
猛々〈たけだけ〉しいアマメハギに、
幼子〈おさなご〉は怯〈おび〉え、怖〈こわ〉がって泣きじゃくる。
「アマメハギ」と子供、の印象が強いせいか、
意外に思ったのだが、
子供がいるいないに関わらず、一行は全戸を訪れる。
「どうやって入りゃいいげ…」
「今晩はー、アマメ来たぞー!、かな」
「ほんで、いいがでないか」。
形相〈ぎょうそう〉はいかめしいものの、
高校生を中心とした面々のやりとりは優しい。迎える家では、儀礼の後で、たいてい
「○○君けエー、でこーなって」と言葉掛〈が〉けをなさる。
「アマメ」に威〈おど〉かされて涙ぐんでいた子供が、今、
「ハグ」役割を担〈にな〉う少年になって回っている。そのことに対する喜びと、
寒空〈さむぞら〉の元を歩む、みんなの宝物である少年に対する慈〈いつく〉しみが、
つい言葉掛けとなって溢〈あふ〉れ出る、
といった趣だ。
一行の足下〈あしもと〉を皎々〈こうこう〉と照らす冬の月が、
心の中にも灯りを点〈とも〉し出す。伝統行事の持つ世界は、限りなく深い。
地鳴り 読者投稿欄 2004年2月17日(火)
一週間後に、この記事を読んで加賀市の福田久也さん(68才)という方が、読者欄に
「繰り返し読み、…心温かくなった。」と投稿なされた。
※最初の写真 プロはこう撮る。
でも、どこの海岸なのか分からない。
データーとして写真から読み取れるようにする(ー私)、
二人の語りから物語り・伝説を楽しむ(ー放送)、それぞれの目的の違いがよくあらわれている、なぁー!
能登の「むかし話の旅」先は
第1巻 1,3,5,7,9、11、12話
第2巻 13、15、17、19、21、22、23話。
→節分行事の様々と「平太郎」談義は、ブログ「能登のうみやまぶし」で。
能登を知るー逢坂~真浦~曽々木
逢坂隧道口付近からの夕景ー輪島方面
先端部・ツバ崎・千畳敷の夕日
『歳月能登』御園直太郎写真集1993年刊。千畳敷の落日―この写真を用いたポスターが1962年国際観光ポスターコンクールで最優秀賞を受賞した。実際の撮影は1962年(昭和37年)3月。
能登沖地震以降、千畳敷のある岬(ツバ崎)は立ち入りが禁止されている。
逢坂越えの三トンネル
真浦と仁江を結ぶ逢坂・ツバ崎には、珍しい三つのトンネルがある。
左先端から先が千畳敷。その右とさらに右(距離は70メートル程)に現在用いられているトンネルがある。
写真は現トンネル左、昔の道と交錯するあたりから撮った。
ところで、旧トンネルが完成したのは昭和30年のことで、それまではくびれたように見える峠道をたどった。そこにもトンネルがあるという。
この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられていた。
紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。
(『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』石川県教育委員会 平成9
年刊 この部分西山執筆)
真浦 岩山
千畳敷、ゴジラ岩やトトロ岩、鯖尾岩、亀岩、ジジ岩、ババ岩、窓岩などー
能登の外浦海岸は、岩の芸術にあふれている。
ほとんど知られていないと思うのだが、内陸部にも、岩の織りなす珍しい光景がある。
ここなどは、森あるいは田園感覚で足を踏み入れるとびっくりする。
2010年(平成22年)11月10日撮影。
水原秋桜子句碑
この岩が、日本一大きな句碑だと言われている「水原秋桜子」の句碑。岩の右手前に2人の人が見上げている。2013年(平成25年)5月23日撮影。
※メモ 秋桜子 馬酔木(あしび)主宰。俳人協会会長。句碑・昭和42年」10月8日。句は昭和31年(1956年)能登吟行時の時の句(『石川県立飯田高等学校百周年記念誌 伝説とロマンの里』319頁』)
真浦には地球の歴史を物語るという鯖尾岩、付近から切り取ってこの碑の下の広場に移した帆立岩があり、
かつてこの地にあった塩釜が、仙台の塩竈神社境内に移されてあった。
その塩釜に出会ったのは偶然で、テニス部の鳥毛兄弟、同じ日置中出身の机谷・鴨谷ペアたちと仙台インターハイに行った折、試合後、松島・瑞巌寺・塩竈神社を見学した。その時、塩竈神社境内の目立つ所に、真浦にあった塩釜が仙台の地にあるいわれを書いた説明札と共に展示されていたのである。
数年前、当時の珠洲塩田村館長の横道さんが、塩竈神社へ見に行ったのだが、見当たらなかったとのこと。なら、せめて写真を…と探すのだが見つからない。
塩釜が錆びるのは早く、引率したのは1990年(平成2年)で、もう31年も経っている。
やっぱり写真だけでも…だ。
真浦由来の重要なものにもう一つ。「ドウブネ」(一艘。真脇遺跡公園、遠島山の能登町郷土館・民俗館前に保存されているドウブネは国指定になっている)がある。
曽々木海岸・窓岩
岩の窓は義経の放った矢によってだとか、この海岸、岩は岩倉観音同所の白山神が、まずこの岩へやってきて岩倉山に鎮座したとか、時代ごとに折り重なるほどの伝説がある。
それで、曽々木は置いておいて、
『歴史の道調査報告書 第4集 能登街道Ⅱ』の真浦部分補足。
浜道は、上道に登る地点より、さらに二八〇m先で国道と分かれ右に入る。
一四〇m先の山腹に海月庵があり、地滑り時に当地に残った数戸の内の一軒と伝承し、寛文一〇年(一六七〇)の村御印や安政二年(一八五五)の真浦村飛脚札を所
蔵、天保七年(「八三六)には宝田敬が『能州日暦』を著すおりに泊まった南家、御塩蔵跡地、真浦の草分けで明治六年に退転した天正期扶持百姓の刀祢家など
が軒を並べていた。能登十七作物名薬師の一つである浜上薬師も刀祢家上の台地にあったと推測される。
浜道は、現在逢坂燧道口で国道と交わるが、昭和三〇年に現隧道より七〇mツバ崎寄りの旧隧道が完成するまでは峠道をたどった。
峠へは、井上商店横を右に折れてすぐ左折し、若子祭りを伝える真浦白山神社の東下を通って神社後方の道に出、さらに一四〇m西の地点から峠越えをした。
上道もジョウノコシへ向かう道を左に折れ、神社西上から同じところに出た。
浜からは四二〇m奥になる。
この一㎞程の峠道は、近世の紀行文には必ず難所と記され、いつからか逢坂と表記するようになったが、元々這ってしか進めないところから這坂の字が当てられていた。
紀行文には朴坂・宝坂とも記されている。
特に仁江側が急坂で、人々は「仁江の這坂」といって恐れていた。
途中に三昧跡があり、急坂を下って国道と交わる地点に六地蔵石像が安置されている。
〈追記〉
1990年(平成2年)8月6日撮影 塩竈神社の写真が見つかった。
説明板
煎熬(せんごう)用平釜
この釜は石川県能登半島 (揚浜式塩田)で 昔使われていたもので 濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです。
とある。真浦も、真浦観光センターーホテルニューまうらーにも一言も触れていないが、ニューまうらの入り口で見たか、その頃には経緯をたどれたので、説明板に書いてあった、と記憶がかぶさっていたもののようだ。
でも、写真が出てきてよかった。非常に大きな平釜である。すでに錆による劣化が進んでおり、下の方も崩れていく寸前のようだ。ーどうなったのだろう。
【メモ】ホテルニューまうら=1963(昭和38)年開業。北陸鉄道の子会社「真浦観光センター」が運営。地元食材を生かした「あえのこと料理」、「波の花」が見られる海岸近くのロケーションなどが人気を集めた。プロが選ぶ日本旅館100選に何度も入賞した。ピークの91年は年間6万5000人が利用。バブル崩壊や能登沖地震、ナホトカ号重油流出事故などで客足が減り2000年12月廃業した。(北陸中日新聞」2020年6月21日より)
20、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉑―豊四郎順拝100~104 文化六年-1809 越中
100 越中新川郡金屋村 永井山浄永寺
越中新川郡金屋村
高祖聖人御旧跡
永井山浄永寺[丸印]
霊宝縁起略之
巳四月五日 役僧[角印]
101 新川郡三日市 辻徳法寺
越中新川郡三日市
高祖聖人御舊跡
巳四月七日 辻徳法寺 ※以下印形省略
102 新川郡濱經田村 高龍山勝福寺
越中新川郡濱經田村
二十四輩高龍山勝福寺
御直弟正信上人之開基
霊寶品目畧于此
月 日 役僧
103 越中八尾 桐野山聞名寺
桐野山聞名寺
覺如上人御取立開基飛源願智坊
霊寶数多武持寄附等略之
巳四月十七日 當番
浄圓寺
104 越中富山 舘定山 極生寺
醍醐帝勅願所 越中富山
舘定山 極性寺
宗祖聖人 御舊跡
霊宝縁起如諸傳記也
月 日 當番
役僧
能登を訪れた人々ー原田信男さん
今朝(2021年1月30日)の朝日新聞朝刊・天声人語に原田信男さんの『「共食」の社会史』説が載っていた。
原田さんのお名前は、このところ、あちこちで目にするが、能登へも来ておいでる。
辞典・書籍刊行の下書きのように使っているこのブログで確かめると、
おいでたのは2011年(平成23年)2月28日のことだった。
あの時、同じ明治大民俗学系のためだと思うのだが、親しかった斎藤弘美ーゆう・えんについて | 会社概要 (yuen-net.com)ーさんが、久しぶりに能登に来ることになっており、その時、彼女の先輩であるご夫婦が共に、当地においでになり、翌日懐かしの地を巡る予定だったのである。
ちょうど10年経つのだ。記憶はあいまいなのだが、斎藤さんはインフルエンザに感染したかで来ることが出来ず、初対面のご夫婦と夕食を共にし、専門をうかがったのである。
ブログでは、そこのところを
原田信男さんは、斎藤さんからは、日本の食文化を体系的に研究なさっておられる方だと聞いていたのだが、お話を伺っていると、中世村落史がご専門とのこと…。
それで、昨年末で日本民俗学会も退会し、ボーとしている頭ではあるが、翌日回るコースがある程度イメージできた。
今、あらためて斎藤さんの専攻を見ると日本村落史となっている。知らんかった。
と書いている。今これを書きながら 斎藤さんの専門が「日本村落史」?と驚いている。学界で知り合った頃は、Fm東京で筑紫哲也氏と対談番組をやっていて、ハーイあなたの斎藤弘美でーす。とマイクに向かって呼びかけておいでたというのだから、
村落のどまんなかにいる私としては、「日本村落史」 と斎藤さんがつながらなかったとしても、宜なるかなーであろう。
翌、3月1日(火)、次の集落と田光景をご案内した。
午前9時から3時間半ほどで
若山荘の広栗・岩坂・鈴内・経念・古蔵・火宮田中家(あえのこと執行家)・大坊・上黒丸(黒丸家)・八太郎峠・吉ケ池
大谷町外山・仲谷内・作ヶ平・森吉・大谷・○長橋(台地田)・馬緤・(大谷)・仁江・○真浦(棚田)・
上町野庄の○曽々木(ドウブネ)・○佐野・小間生・桐畑・大町泥木・西方寺(珠洲焼窯)・石尾谷内・鵜飼・飯田
を案内した。
○は、この時期にはまず行くこともない所なので、私もシャッターを切ったのだが、佐野まできたところでカメラに記憶媒体のCF(コンパクト・フラッシュ)を入れていないことに気づき、撮れたのは次の2カ所のみ。
原田信男氏から頂いた御著書
7日、原田氏から2冊の本と「網野史学をいかに継承するか」と題する論のコピーが届いた。史学継承論は名文で論点もわかりやすい。
それに頂いた本がタイトルからして興味深い。
『中世の村のかたちと暮らし』角川選書地形・景観・暮らしをキーワードに、近世へと移行する中世の村の実態を立体的に描く。
ジャンル日本史・民俗学
当時のプロフィール
宝立山にもっとも近い集落・佐野の田とおしはら祭り
おしはら祭りの写真は、2003年3月3日調査時のもの。
行事内容については
『石川県祭り・行事調査事業報告書 石川の祭り・行事』「(九)輪島市町野町佐野のおしはら祭り(執筆・楠知之)」(平成11年3月石川県教育委員会刊)、
プロフィル
西山郷史(にしやま さとし)
1947年 石川県珠洲市飯田町生
1969年 静岡大学卒業
1972年 大谷大学大学院修士課程(仏教文化)修了
1972年~1991年 石川県高等学校教員(羽咋工業、宇出津、飯田)
1991年~真宗大谷派 西勝寺住職
1996年~2004年 珠洲市立珠洲焼資料館館長
1999年~2002年 真宗大谷派能登教区副議長
2002年~2005年 同議長
2002年~2015年 加能民俗の会副会長
2007年~2020年 珠洲市仏教会会長
現在
日本宗教民俗学会委員
927-1214 珠洲市飯田町14-71
【編著書】
○『とも同行の真宗文化』2020(令和2)年6月10日 臥龍文庫
初版第2刷 2020年7月20日
とも同行の真宗文化 - 法藏館 (hozokan.co.jp)
○『妙好人 千代尼』
[
『妙好人 千代尼』2018(平成30)年1月20日 法藏館
2018年2月20日初版第2刷
妙好人 千代尼 | 郷史, 西山 |本 | 通販 | Amazon
○『写真アルバム 昭和の能登半島』
[
『写真アルバム 昭和の能登半島』]2014(平成26)年7月10日、いき出版
○『加賀・能登むかし話の旅』
[
2014(平成26)年
○『能登の揚浜塩田』
編著『能登の揚浜塩田』奥能登塩田村。
2013(平成25)年3月30日。178ページ。
○『伝説とロマンの里ー石川県立飯田高等学校百周年記念誌ー』
著『伝説とロマンの里ー石川県立飯田高等学校百周年記念誌ー』
2012年(平成24)年10月21日。326ページ。
[http://image02.wiki.livedoor.jp/i/i/iidamati/55b8de28cea7435f.JPG:title=『伝説とロマンの里』
○『暮らしの歳時記』
編著『暮らしの歳時記』北國新聞社
2012(平成24)年8月20日。石川編380ページ。
○『石川・富山 ふるさとの民話』
『石川・富山 ふるさとの民話』北國新聞社
2011(平成23)年11月10日。162ページ。
作者: 北國新聞社出版局,岩田長峯 切り絵
出版社/メーカー: 北國新聞社出版局
発売日: 2011/11/04
メディア: 単行本(ソフトカバー)
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○『図説 能登の歴史』
編著(複数)『図説 能登の歴史』郷土出版社。
2011(平成23)年1月20日。228ページ。
○『珠洲散策のーと』Vol1
著『珠洲散策のーと』Vol1。
2008(平成20)年3月31日。362ページ。
『珠洲散策のーと』2008(平成20)年4月3日
○『能登国三十三観音のたび』
著『能登国三十三観音のたび』北國新聞社。
2005(平成17)年12月10日。152ページ。
○『能登のくにー半島の風土と歴史ー』
編著『能登のくにー半島の風土と歴史ー』北國新聞社。
2003年(平成15年)7月7日。250ページ。
『能登のくに 半島の風土と歴史』2003(平成15)年7月7日刊ー能登空港開港の日
『能登のくに 半島の風土と歴史』
○『石川県の民俗行事ー石川県民俗芸能緊急調査報告書ー』石川県教育委員会
編著『石川県の民俗行事ー石川県民俗芸能緊急調査報告書ー』石川県教育委員会
2003(平成15)年3月31日
○『石川の祭り・行事ー石川県祭り・行事事業報告書』
編著、石川県教育委員会
1999(平成11)年3月31日、232ページ。
○『蓮如上人と伝承』おやまブックレット1
著『蓮如上人と伝承』おやまブックレット1。真宗大谷派金沢別院。
1998(平成10)年12月25日、
2001(平成13)年4月1日2刷。92ページ。
著『蓮如と真宗行事ー能登の宗教民俗ー』木耳社
1998(平成10)年3月31日。302ページ。
『蓮如と真宗行事』(オリエントブックス)の再刊。
○『奥能登のキリコまつり』
『奥能登のキリコまつり』1994(平成6年)3月、奥能登広域圏無形民俗文化財保存委員会、奥能登広域圏事務組合
著『蓮如と真宗行事』木耳社、オリエントブックス
1990(平成2)年8月10日。302ページ。
『蓮如と真宗行事』1990(平成2)年8月刊
『蓮如さんー門徒が語る蓮如伝承集成』
1988(昭和63)年10月、橋本確文堂、318㌻
加能作次郎の真宗へ
作次郎なら本多さん
記事の文
志賀町富来出身で、故郷のことを多く書き続けた作家・加能作次郎の本格的な資料展示室が、年内にも「作次郎ふるさと記念館」として同町富来支所(旧富来町役場)に誕生する。
作次郎の孫の加能干明さん(56)が8月に寄贈した初版本や写真などを中心に約650点を展示する。一般公開によって、作次郎の名は生誕の地に長く残ることになる。「加能作次郎の会」副会長の本多達郎さんに聞いた。-町立富来図書館にあった作次郎のコーナーが質、量ともに拡充されますが
旧富来町長室がそっくり作次郎の資料室になります。作次郎のファンは全国にいるので、これは朗報。地元生まれの国文学専攻の学生が、卒論に作次郎を取り上げる際にも役に立つに違いありません。
金沢には泉鏡花、徳田秋声、室生犀星といった文豪の立派な記念館があり、今までうらやましいと思っていました。「作次郎ふるさと記念館」ができることによって、富来の風土で育った文豪・加能作次郎は忘れられずにすみます。-作次郎を顕彰する作文コンクール(小学生対象)や文学賞(中高生対象)が志贅町にはある。そんなに悲観的にならずともいいのでは
今の若い人は、作次郎のことを知らないと思う。私は地元の小学校の教員を長くやっていました。なるべく多くの子どもたちに作次郎を知ってもらおうと、作次郎が書いた童話などを読んであげましたが、彼の書く私小説などは子どもたちには難しい。「作次郎の会」や作文コンクールがあったおかげで何とか残っているのが現状です。
-どこが魅力なのですか
文学者としての、ものを見る目、でしょうか。感性豊かで、その場面の言葉やしぐさを克明に書くことによって、人の気持ちがこちらに伝わってくる。リアリズムの強さ、でしょう。これが徹底して、地元の”良くない”ことも書く。嫌がられる面もあったのです。
それともう一つ、加能文学では浄土真宗の宗教的な面も見逃せません。たとえば、土地の人たちの死に対する考え方、南無阿弥舵仏の教えが、にじみ出るように書かれています…-加能千明さんが資料を寄贈しましたが
会としては、のどから手が出るほど欲しかったものばかりです。作次郎のことを調べるために、私の家にまで聞きに来る学生がいましたから、今度できる記念館は大きな役割を果たすことになります。ソファやテーブルも置かれ、ゆっくりくつろぎながら作次郎と向き合えるはずです。作次郎にとっても良かったに違いありません。
-最後に、本多さんのおばあさんと作次郎との間に、恋愛があったそうですね。
作次郎は明沿37(1904)年に19歳で中島町(現・中島町)の尋常小学校正教員になります。この時、同僚の女教師だったのが私の祖母の両国す巳。2人の恋愛は小説にも書かれています.。ここからは類推になりますが、作次郎は失恋して、翌年、東京に出ることになるのです。
姉が直接、す巳に聞いた話があって「あのとき結婚出来なかったったことが、東京に出られるきっかけとなり、大変な苦労があったようだけど、立派な文学者になられたと思っとるわね。田舎の小掌校の教師で終わったかも知れんのにね」とあります。
作次郎は硬い、と言われますが、こんな一面も持っていたのです。(闘き手・越村隆二)ほんだ・たつろう 1938年、志賀町赤崎生まれ。.金沢大学教育学部卒。作次郎の入学した西海小学校の教員などを経て、99年に富来小校長で退職。在職中に子どもたちを指導しながら版画集『加能作次郎の生い立ち』『西海の昔語り』を編集。「加能作次郎の会」副会長。富来郷土史研究会幹事。
よくあることだが、誰でも知っているのでデーターを載せなかったり、自己主張しなくても、と遠慮してデーターを記載しないでいると、あるときから誰一人知る人がいないことが起こる。この本では「加能作次郎の会」メンバーは?が全くわからない。私は本多さんを知っていて、14年前の新聞切り抜きや、かつてブログに書いているので、本多さんがその会の中心メンバーだったことは知っているが、昨年先立たれたので、会の実態などは確かめる術もない。
この本は口絵写真、本文は18作品、加能作次郎年譜の327ページの本で見返しに富来から見える白山の写真と作次郎の文、作次郎生家の見取り図・平面図を載せ、極めて充実した本になっている。
ところが、入試問題の「羽織と時計」が作品を網羅しているはずの年譜に載っていない。この年譜作成者は「加能作次郎の会」メンバーではなく、全体指導と「年譜」作成に関わった、当時、県文学分野で著名な大学教授だった。この本はもう手に入らないようだし、その人の名を知る人もほとんどおいでないだろう。
すぐ自分の話に持って行くのが悪い癖なのだが、先週のブログに書いたおやまブックレット『蓮如上人と伝承』のカバーの絵が誰が書いたのかブックレットのどこにも書いてない。前に聞いたときは○○さんですよ、という人がいたが、表紙絵の題材である「西山蓮如堂」という画家が描いたと思うようになるかも知れない。実際に中高の同級生で有名な挿絵画家として活躍している「西のぼる」氏が、「西山の画名か?」と言ったことがある。西山(大乗寺山)の蓮如堂を知っている人はどれほどおいでるだろうか?
もう一つは、かなり後悔しているのだが能登の決定版とでも言うべき本『能登のくにー半島の風土と歴史ー』を、2003年7月7日、すなわち能登空港開港日に合わせて北國新聞社から刊行した。
「編著者 能登のくに刊行会」にしたのだが、27名の執筆者・パネラーを集めて作った本ではあるものの、編者は西山郷史(珠洲焼資料館館長7割)、吉岡康暢(国立歴史民俗博物館名誉教授3割)で作ったのである。
二人の名を並べて編にすると出版社は喜ばないだろうと、勝手に忖度してしまい。あたかも何人もで相談しながら作ったかのような「能登のくに刊行会」なる名を付けたのだった。(※一晩経って、どうしてこの組み合わせになったのか?を考えていたら、吉岡氏は、その年の4月から石川県歴史博物館館長に就任なされ、翌年3月に退職なさっておいでたことを思い出した。いろいろあるのは当たり前で、心血注いで次世代に残そうとした成果の、基本部分が伝わればいいのだ)。
そういうほろ苦い思い出があるので、「加能作次郎の会」にもすぐ同質の、仕事は残すが、出来るだけ目立ちたくない、を感じたのだ。でも、もし本が図書館に残っているなら、会のメンバー表を添えておくことをおすすめしたい。あっという間にいきさつ的なものは消えてしまう。
真宗と作次郎
本多さんのインタビューの中で、本多さんは、あえて加能文学と浄土真宗を指摘している(※ゴシック部)。
作次郎の奥さんは、年譜に
とあるように、故郷富来の真宗大谷派浄法寺から迎えている。
富来はほとんどが真宗門徒で、同地出身の戸坂潤、岸壁の母・端野いせ
など、真宗文化・土徳をその人の人生のベースに置かないと、見えてこないところがある。本多さんはそのことを指摘しておいでるのだが、「加能文学の真宗」を書いている人はまだいないようだ。
ついでに、この前のブログ「大栄翔」の北國新聞記事に「追手風・遠藤 穴水後援会事務局幽経一郎さん(59)」が出ているが、この方は浄土真宗本願寺派寺院のご住職さんのはずである。
その他
生家
おまけ
本多達郎先生作 面
現在、書斎・臥龍文庫にましましている。
大栄翔 孝行、祖父の里・宝立春日野
この写真は、(記憶に間違いがなければ)1982年(昭和57年)第66回全校高校相撲金沢ー卯辰山ー大会に飯田高校の応援に行った応援団・ブラスバンド部員の記念写真である。
その時、私は就職係、野球部、郷土史同好会顧問で、ブラスも生徒会も関係がなかったのに、引率応援に行っている。おそらく前年まで3年間を共に担任したブラスバンド部顧問・佐藤先生に誘われたのだった、と思うが…。
そして、これが団体で卯辰山に向かった最後の応援になったはずだ。
この時の66回大会は、団体・明大中野高校、個人・新宮高校の久島啓太君が優勝した。久島はメチャクチャ強かった。
それから2年後、金沢高校・穴水出身の山崎直樹君が個人優勝した。後、大相撲に入り大翔山を名乗る。今の追手風親方である。
25日「朝日新聞」朝刊
大栄翔V 母へ一番の贈り物
この記事は全国区記事だが、
大栄翔が優勝争いのトップを突き進んでいた13日目の北国新聞朝刊に、大栄翔の祖父は珠洲市宝立町春日野出身で若いときに関東へ出た、という記事が載った。
こちらでも、急遽盛り上がっていたのである。
北國新聞25日朝刊
ブログに「能登のうみやまブシ」を名乗っており、名だけだけれども「(能登の歴史と民俗)観光マイスター」であるものとしては、能登・穴水・珠洲と縁のある大栄翔を発信させないわけには、いかない。
珠洲弁で言うと「おれ、春日野(地名)の孫なげぇ!」と地名で出身地をいう極めて近い関係なのだ。
しかも、記事には「30年以上前に亡くなった大栄翔の祖父弘勝さんは飯田高校相撲部出 身。」とあるではないか。
このことを調べる前に、かつて、能登の相撲はなぜ強いか?を『北國文華』(2016年春、第67号、北國新聞社)に書いたことがあるので一部を紹介する。
アマチュアスポーツの草分けと伝わる高校相撲金沢大会100回記念に書いたもので、その時、遠藤がケガをして休場していたために、タイトルが「能登の暮らしに息づく相撲」へと変わっている。相撲が生活であり生活が相撲的であることを書いた。
飯田高校相撲部ー高西弘勝氏
私は、飯田高校に13年勤務し、90周年の時は珠洲焼資料館館長をしていたためなのだろう、同誌の執筆・編集委員の一人に加えていただいた。100周年の時には実行委員長だったので、様々な角度から校史に関する史・資料を見てきた。
高西さんは飯田高校の前身・旧制飯田中学校第13回卒業生(昭和21年3月卒業)である。
戦時中の大変な時の生徒で、この学年は49名しか卒業していない。
90周年誌から、相撲に関する話題を見ていくと、
座談会 飯田中学校
亀田(司会) 行事や学校生活の中で、特に印象深かったものは何ですか、
尾尻 私が中学一年に入学した時(15回卒※旧制中は5年制で、高西さんは13回卒なので3年生のはず。優勝時の出場メンバーではないが、その頃の相撲部中核を担っていたのだろう)、相撲部が金石相撲大会で優勝して、飯田町を提灯を掲げながら街頭行進をしたことを覚えております。
橋本 やりましたね。飯田のバス停まで迎えに出て。
慶祐 団体優勝と個人三位でしたね。私も町中が歓喜に包まれたのを覚えております。(P271)
回想文 仲間みんなの青春 昭和十六年卒(八回) 橋元昌夫
(※高西さんが中学へ入る直前の飯中の雰囲気である。執筆者橋元さんは輪島高校長をお勤めになった方)
飯中五か年の思い出は、人それぞれにたくさんあるとは思うが、金石相撲大会に向け、五年生が一致して青春の熱い血をたぎらせたあの応援活動は、私達みんなの共通の思い出である。歴史に残る『九十周年記念史』の一頁を与えられた光栄に感謝しながら、以下回想してみたい。私達が三年と四年生の時、二年連続してこの金石大会で優勝する快挙を成し遂げた飯中は各校から追われる立場となった。しかし、二年連続の優勝でも大変な壮挙であるのに、更に連続優勝など口で言うほど簡単なことではない。そのときの選手達は強く、ある程度自信もあったが、五年生としては最後のチャンス。せめて応援活動でも頑張って何とか勝利をものにしたいと願ったのも当然のことである。
みんなでいろいろ対策を練った結果、この大会だけの応援歌を作ることと檄を書くことから始めることにした。応援歌は従来から伝統的にいくつか使われていたが、三連覇を目前にした得難い機会ということで、三連覇の文字を入れることに重要な意義があった。記憶はあいまいだが、その一節は「我に残せし先輩の 二年連覇の栄冠を 我らが頭上燦然と 藤の香匂う三連勝 いざ征け立ちて戦え」というようなものだった。
体育館の壁に掲示する檄は国語科の狩野先生の指導を受けながら、簡潔で力強いものに仕上がった。また相撲を指導された酒井先生から「選手だけに練習させるのでは気合が入らない。五年生全員がまわしをかいて土俵の周りを引き締めろ。」と言われた。
土俵上の真っ黒に日焼けした筋骨逞しい選手と、それを取り囲んでいる細い痩せた男たちの取り合わせは何とも奇妙なものだったが、交替でまわしをかいて激励に努めた。こうして応援も次第に熱を帯びて来たので、金沢まで直接応援に行きたいと学校へ申し入れた。交渉相手はどの先生だったか忘れたが、結論は前例が無いから駄目だと断られた。しかし、私達の再三にわたるお願いと、今年は三連覇がかかった特殊な場合という事情が配慮されたのか「ブラスバンドとして参加するなら認めてもよい。」という提案があった。五年生だけでブラスバンドを編成するのは大変難しい問題だったが、三連覇をこの目で見届けたい一心で敢然と取り組んだ。
初めて楽器を手にする者が殆どで、本当にまともな音が出るのか心配だったが、これも五年生の意地、三連覇への執念の力で克服し、大会までには何とか合奏も出来るようになった。ただ曲目は、行進用の君が代行進曲と校歌の二つに絞らざるを得なかった。
こうして臨んだ相撲大会であったが、私達の努力にもかかわらず、戦い我に利あらず空しく敗退してしまった。帰りは電車が満員で、金石街道を金沢まで歩いて行くしかなかった。そのときの楽器の重さと敗戦の心の重さは筆舌に尽くしがたいものだった.、
しかし青春の一時期、無理もいろいろあったが悔いのない飯中での五年間を送った第八回生は幸せだった。こんな楽しいチャンスを設けて下さった先輩方に心から御礼を申し上げたい、この素晴らしい青春の鼓動は、私達八回生の心から永久に消えることはないだろう。
12回4年卒業 三杯恒夫
一年の時の想い出としては、6月、金石の学生相撲大会での団体優勝に狂喜乱舞したこと。
飯中の優勝年
1938年(24回大会)
1939年(25回)
1941年(27回)
1943年(29回)
1944年、1955年 戦争のため中止
1948年(32回)飯田高校
※ちなみに三連覇ならずの年の優勝は、氷見中だった。