黒島 明月塚

5月7日(月)

總持寺最奥「古和秀水」へ寄って、町に降りるつもりが道に迷い千代集落に出てしまった。黒島地内を通らないと帰れないので通ったついでと言ってはなんだが、震災からの復興、芭蕉明月塚がどうなっているかを見ようと、名願寺さんを訪ねた。

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明月塚―名願寺境内


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名願寺さんから皆月・藻浦方面


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黒島沖

 

④12 芭蕉(ばしよう)句碑
 連歌の発句(ほつく)から、滑稽(こつけい)な誹諧(はいかい)として親しまれていた文芸を、芸術の域にまで高めたのが松尾芭蕉(ばしよう)(一六四四~九四)だった。俳句結社などによって芭蕉句碑が建てられるが、能登では、芭蕉百回忌に建てられた天明三年(一七八三) の「明月塚」「名月や北国日和(ひより)さだめなき」(輪島市黒島真宗大谷派名願(みようがん)寺(じ)境内)が最も古いもので、奥能登北部では、次の芭蕉句碑や翁塚がある。
○常椿寺境内(曹洞宗能登町宇出津(うしつ))
「名月や同じ心のより処 芭蕉」。年代不詳。参道階段を登り詰めた左側にある。句碑の前に「芭蕉翁句碑」と書いた案内石が建っている。
大乗寺境内(日蓮宗、同宇出津)
「秋も早(は)やばらつく雨に月の影 芭蕉」昭和三十四年建立。大乗寺では元禄頃の俳壇に関わった七世日昌、寛政年中に句会を催した十四世法随(俳号竹姿)を輩出しており、『鳳至郡誌』では、竹姿が建てたのだろうとしている。
○万福寺(曹洞宗、同松波)
「黄鳥や柳のうしろ薮の前   はせを(芭蕉)」 万福寺庭園内。牧孝治氏は『内浦町史』で「続猿蓑(さるみの)集」に「鶯や柳のうしろ薮のまえ」があることを指摘しておいでる。
能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』に「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠けており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移し、昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会の白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。
○上戸(うえど)町寺社「翁碑」
 珠洲市内には芭蕉句碑はなく、上戸町寺社・倒さ杉の東側に「芭蕉(ばしよう)翁(おう)」の翁碑がある。県最北の芭蕉関係の碑である。ここには『能登名跡志』を著した太田道兼の歌碑もある。
 なお、富山県南砺(なんと)市井波に、伊賀(いが)上野(うえの)の故郷塚、義仲寺の本廟(ほんびよう)とともに芭蕉(ばしよう)三塚(さんづか)の一つとされている翁塚がある。この翁塚は黒髪庵の境内(けいだい)にあり、元禄十三年(一七〇〇)に、芭蕉(ばしよう)の門弟(もんてい)であった井波瑞泉寺第十一代浪化(ろうか)が、師を慕(した)って建てた碑である。台座に「是(これ)本邦(ほんぽう)翁塚(おきなづか)始(はじめ)也(なり)矣」とある。二年後の元禄十五年には芭蕉の遺髪(いはつ)も塚に納められた。

『伝説とロマンの里 石川県立飯田高等学校百周年記念誌』2012(平成24)年10月21日・北國新聞社出版局刊、西山執筆より。

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