親鸞聖人700回忌記念像ー湯涌ー

28日(月)、午後から石川県埋蔵文化財センターで、令和4年第1回評議員会が開かれた。

 

28日は親鸞聖人ご命日なので、朝鐘を撞き、ご命日用のお参りをしてから金沢へ向かった。

会議までに少し間があったので、埋文と比較的近い湯涌へ車を巡らした。

気持ちに余裕があったのだろう、何度か通っている湯涌街道の途中にある像に気づいた。

今までは、スーと通り過ぎていた場所だ。

「宗祖親鸞聖人七百回記念像」とあり、聖人座像の前に「南無阿弥陀仏」が建つ。

ご命日に、このようなところで聖人像に出会うとは…!

湯涌は熱心な門徒地帯だし、真継伸彦氏が湯涌谷を舞台に一向一揆に題材を取った「鮫」を書いておられる。

聖人像があって不思議では無い所に、言い換えれば、あるべき地に聖人像があったのである。

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

下は湯涌江戸村

埋蔵文化財センターから湯涌方面

 

想い出の糸口ー宝田明氏、御影道中ー

 

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[昭和61年・1986年 蓮如上人御影道中]

 

昨年から群発地震が起きている。

昨日の地震は報道が全国に流れたようで、その新聞記事を見た大阪の南に住む後輩から電話があった。

書くのは、地震の話では無く京都時代にその後輩から聞いた話である。

現在は大阪の方に住んでいるが、出身は岡山県玉島だったはずで、実家の船元に歴代番頭として働いていた家がホウダ(宝田)家だったという。

そこが宝田明さんの家で、ホウダではなく、タカラダと名乗っているという話だった。

この13日に宝田明氏の訃報を知り、学生時代の彼の話を思い出していた矢先の電話だったので、コップも倒れない地震もさることながら、若き頃の話で盛り上がった。

 

電話のあったのが、裏庭の草むしりをしている時で、

偶然、前日に彼と同学年か前後の仏教史卒業生・阿部(旧姓柳原)法夫君から

蓮如上人と見玉尼」(『若越郷土研究』66巻2号)の抜き刷りが届いていたので、その話も交えようかと福井の蓮如上人をやっている…モニャモニャ…(名が浮かばないまま)で、話し終えた。

部屋へ帰って抜き刷りを見ると、阿部君は福井のというより鯖江のであって、

飯田高校の教員時代、5月の連休を利用して、

後に「蓮如上人御影道中」と名が付けられる蓮如上人御影の京都本山に向かう御上洛に福井から木之元までお供で付いて行ったことがあった。

早朝、ごろ寝の宿寺を出発してすぐの立ち寄り先寺院で、御影をお迎えに外で待っている住職が阿部君で、言葉にならぬ再会を思い出がある。

 

宝田明さんは、去る3月14日に亡くなられた。87才。

 

23代四教、24代外卿アルバムー昭和12年、昭和16年ー

つい先日、段ボール箱から、相当立派なアルバム4冊とかなりの写真が出てきた。

30数年前、庫裏を修復した時に誰かが箱に入れ、そのままになっていたらしい。

このような写真集があることなど誰も聞いておらず、一々驚きながら整理している。

 

アルバムは、父の大谷大学予科3年(昭和16年・1941年)

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その先代の四教の大谷大学卒業アルバム(アルバムは1937年・昭和12年、卒業は昭和15年・1940年3月)、

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四教・飯田中学校卒業時アルバム(昭和8年・1933年)

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それに祖母・朝野のアルバムである。

 

それ以外の記念写真も相当入っていた。

 

昨日11日は、1991年(平成3年)に示寂した父・外卿の祥月命日だった。

今年は32回忌である。

祖母・朝野は1972年・昭和47年に先立っており、今年は51回忌になる。

近々2人の年忌をする予定なのだが、

年忌を控えたこの時期にアルバムが出てきたのだから、興味津々

調べないわけにはいかない。

 

父外卿は、大正9年(1920)6月、七尾市江曽町妙楽寺(松谷家)の3男として生まれ、昭和16年7月4日に西山(旧姓朝倉)朝野の養子として西山家に入った。

大谷大学文学部国史學科を卒業したのが昭和18年9月で、卒業証書には西山外卿となっている(学長 事務取扱 豅 含雄)。

松谷姓で大学に入り、途中で西山姓に変わって卒業したのだ。

 

卒業しないと教師(住職資格)は取れないので、

先代の四教さんが昭和16年1月9日に23歳で急逝してから、父の卒業までは、朝野の兄・朝倉静雄が住職代理を務めていた。

この人は、私が小学生の頃、赤野井別院の輪番をしており、祖母に連れられ弟と共に朝倉家の孫達と赤野井別院で数日過ごしたことがある。

 

そういう時代のアルバムなので、写っている人物などは、ほとんど見当がつかない。

父のアルバムには、大須賀学長のように書き込みがあるのだけれど、フォトコーナーから剥がれていて、徳重浅吉教授一枚だけが対応しているものの、その他の写真と人物の関係は分からない。

とはいえ、フォトコーナーはそのままになっており、写真の大きさから推定できるので、?をつけて、お名前を紹介する。

 

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徳重浅吉教授

かつて、父に大学の卒論指導を受けたのは誰だったのか、聞いたことがある。

徳重浅吉先生と答え、卒論の内容も聞いたのだが、こちらの方は忘れた。

 

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父の同級生名簿を見ると、私が名を知っているのは山本唯一氏(後、大谷大学教授)

のみで、山本教授は国文、父は国史。しかも当時は松谷姓だったので、私が同級生の子だとは気づくことがなかったのだろう。

山本先生は大谷大学仏教文化修士を受けた時や、修論審査時の面接担当のお一人だったし、数回だったけれど講義を受けたこともあった。

 

大須賀秀道学長 ?

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鈴木弘教授(哲学) ?

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萬造寺斉教授(組主任 英語) ?

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裏に書き込み。

六月四日 立野ヶ原ニ於テ

立野ヶ原は南砺市のようだ。

7月の城端別院・虫干し法要、井波別院・太子絵伝に例年泊まりがけでお参りしているが、時々泊まっている「桜ヶ池クアガーデン」エリアがここにあたるようだ。

学徒出陣壮行会が、1943年(昭和18年)10月21日に行われている。

父の卒業は、証書によれば一月前なのだけれど、

父からは学徒出陣壮行会の様子を聞いたことがある。

 

西山四教アルバム

大谷大学の学部は2次試験で受けた。面接があった。

面接なさったのは松原祐善先生だった。

開口一番、西山四教さんのお子さんですか?

とお聞きになった。

四教さんについては、父の先の代のかたで、大学を出てまもなく流行病で亡くなられた方とは知っていたが、突然その名が出てきたので、どう答えようか曖昧な返事をしていると、

松原先生は、四教さんはすごく優秀だった。君も(試験の点に寄るが)ここで学べばいい、とおっしゃった。

そのことから、四教氏と松原先生とは同級生同志だと、ずーっと思い込んでいた。

今、先生の『他力信心の確立』を読んでいるのだが、本を開く度に、このお寺の先々代と同級生の本、と思いながら読んできた。

 

アルバムの中に同級生か寮生かの寄せ書きがある。

私は昭和54年と平成9年版の大谷大学同窓生名簿を持っているが、四教氏の同窓生に「松原祐善」の名がない。

 

なんやかんや調べていると、二人は10歳ほど年が違っていることに気づいた。

父の前の代の人だから、1906年明治39年)年生まれの松原先生と同世代だろうと思い込んでいたのだった。

四教さんは大正7年生まれ、同9年生まれの父と2歳しか違っていなかったのだ。

 

優秀だった四教さんは、父・謙(旧姓梧)、母・忍(紙子)の子として生まれたが、母・忍は四教2歳の大正9年3月1日に亡くなっている。

その時、四教の姉が5歳で幼い2人の子を抱え困ったのだろう。

1年半後の、大正10年9月26日、祖母・朝野が入籍し、2人の子を育てた。姉は昭和8年、謙さんは昭和11年、四教さんは昭和16年1月9日に亡くなり、

半年後に朝野の甥にあたる外卿が養子に入った、というわけだ。

 

であるからして、私は四教さんとは全く血がつながっておらず、優秀さも引き継いでいない。

 

さらにいえば、四教さんアルバムに写っている人々は、朝野を除いて誰1人見当の付けようのない人々なのだ。

 

それはそうとして、四教氏のアルバムがまた凝っていて、メモ一つ無い芸術的な写真集になっている。

アルバムに貼ってあるページを追って、写真を紹介する。

下に寄せ書き(写真版)なさっている方々が写っているはずだ。

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萬造寺斉教授?

 

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四教氏は弓道部だったのだろう。

卒業して1年で亡くなられたためか、

二つの同窓会名簿には

西山四教 (石川県) 

とのみの記載しかなく、どこの西山なのかわからない。

この学年には、柏原祐泉先生、和田稠師がいる。

父も生前の名簿には珠洲市飯田町14-71 西山(松谷)外卿となっているが、

平成版では、西山外卿(石川県)だけになっている。

 

ところで、私は仏教文化修士課程を終了したはずなのだが、引っ越しや、

教員になる準備、着る物もジーパンしか無い状態だったのと、院のみの修了者が卒業式に出ていいのどうかわからず、同日にあった石川県新教員の集まりの方に金沢に行っていて卒業式にはでなかった。

そのせいなのだろう、終了証書をもらっていないし、論文もかえってない。

別に困ることはなかったが、今この文を書いていて、正式に何という課程で学び、終了時の学長がどなただったのかぐらい知っておけばよかった…との思いが涌いてきた。丁度50年前の出来事である。

 

そして、写真はないものの、私も学生時代アルバムを作りたくなるほど、

昔のアルバムに写っている群像は、躍動している。

 

 

 

亀鳴屋ー石川デザイン賞受賞・勝井隆則さん

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2020年令和4年3月10日 梅の花と椿 ふき畑

 

句集 春暁 西山暁子
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平成26年(2014年)4月8日刊行 私家版

亀鳴屋制作

母・暁子米寿、父・外卿23回忌記念 

現在 「風港」同人

 

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宮崎孝正全詩集

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編者・勝井隆則氏があとがきに書いている。

ぜんぶコミで面白いのだし,

石があるから玉もかがやくと、

一切合切を放り込む方針に転びました。

 

その成果が、上のような写真15ページ・64枚。

年表中に40枚。本文中にも詩集表紙写真などが紹介されており、本文709ページ。

大変な労作である。

すぐそのような見方をしてしまうのだが、博士論文級の著書だと思う。

 

私は宗教民俗の五来重先生に学んだが、先生が最初におっしゃったのは、

 

歩いていると、調べなければならないことが寄ってきますよ。

 

であり、

柳田国男は「帰納」であり、折口信夫は「演繹」だったが

折口の演繹が成り立ったのは、折口という天才、余人には近づけない研ぎ澄まされた感性があったからで、

柳田国男の方法を目指しなさい、

だった。

 

この一切合切の亀鳴屋・宮崎本は、五来宗教民俗が目指した地平を示す、別の具現だと思う。

 

ところで、「天井の櫻」は写真解説に

「天井の櫻」が使われた「チェリー(たばこの銘柄)」の宣伝ポスター。

専売公社札幌地方局の制作で、昭和52年の花見シーズン、北海道全域に貼り出された。

とあるように、チェリーの宣伝に使われた詩の作者ということで、宮崎は一躍有名になる。

年表によれば、政孝は同年5月9日77歳で逝去。

政孝は、1900年(明治33)に宮崎家のある德田村江曽で生まれた。

私の父は、大正9年1920年)に同じ江曽の妙楽寺・松谷家に生まれ、昭和16年(1941)年飯田・西勝寺の西山家に養子に入った。

政孝と父とでは、年の差が20あるとはいえ、江曽は農村集落であり、西往来沿いにある

宮崎家の前を通らなければ、父・外卿は、德田小へも七尾中学校へも通えなかったので、孝政を知っていたはずだ。

普段は会うことがなかったとしても、孝政が德田小校歌を作詩し、校歌制定の昭和7年(1932)10月7日には、外卿は德田小学校6年生なので、校歌披露を最上級生としてむかえたことになる(下の「德田小学校史」参照)。

 

なお、『宮崎孝政全詩集』には宮崎作詩の校歌が4編載っている(P433~440)。

德田小學校、德田中學校、西湊小學校校歌、宇出津中学校校歌で、現在いずれの学校も統合されて学校名は変わっている。

 

さらに、孝政は昭和11年(1936)に長女・萬亀子と私の弟を通した七尾の親戚筋にしばらく住んでいた。

宇出津中は、私が4年間在籍した宇出津高校へ最も多くの生徒が進学しており、高校で出会った生徒達は、中学時代に孝政作詩

♪海の瞳は祈りをこめて 澄みきりわたり 松風を聴く…

を歌っていたのだろう。

不思議な縁としか言いようがない。

※その頃の関係者に聞いたら、すでに宇出津地区は能都中学校校下になっており、宇出津中は今は昔の話になっていた。

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1999年(平成11年)1月1日亀鳴屋発行 

編者勝井隆則 

私家版

 

宮崎孝政作詩校歌 德田小学校 (『德田小学校百年史』昭和47年・1972・11月18日発行』)

 

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「汝自當知」暁烏敏書  [出典]告法藏比丘 如所修行 莊嚴佛土 汝自當知(「無量寿経」)

 

歌われなかった校歌 

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 德田小学校 昭和8(1933年)年3月卒業生

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父・松谷外卿、教区会議員時代に能登教務所でよくお会いし、教えを受けた推進員の中心メンバーだった木下繁氏もここにおいでる。

木下さんとお話し、別れる時には自然と合掌なさる方だった。

父からは、江曽では、田仕事のあいま・休憩時間には、

畦に腰掛けて真宗大系(大系と言ったと記憶している)を読む人がいた、と、子供の頃によく聞かされたものだった。

写真には191名写っている。卒業生名簿は175名。16名は教職員だろう。

 

「鯉」

宮崎孝政には教科書に採用された詩(「鯉」『中学国語二』学校図書KK,昭和56年1月)がある。

高校で国語を教えていた経験からいうと、一編の詩なら普通3単元で扱う。

教える方はたいてい、3クラス3時間ずつ9時間。生徒は3時間たっぷりと学び、その詩に対して試験勉強もしなくてはならない。

教科書に採用されるということは、大変なことなのである。

先の写真説明に、

俳優加藤剛が朗読したカセットテープも、合わせて制作されている。

とあるが、これは補助教材である。教科書会社は、採択を目指しさまざまな補助教材を用意していた。

 

十月社・亀鳴屋本の装丁者が誰なのかを記しているのは、現代国語教科書に載っていた栃折久美子「モロッコ皮の本」に出会ったことによる。

その時、本は表紙・帯を含めた総合文化でもあることに初めて気づいたのである。

まして、デザイン賞受賞をきっかけに手元の亀鳴屋本を整理しているのである。

ともあれ、この膨大な本を完成させた勝井氏の「ねばり力」が、

以後の亀鳴屋本のゆとりをもった制作に生かされ続けているのだと、うなずいている。

 

 

藤澤清(氵+靑)造貧困小説集

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2001年(平成13年)4月20日発行

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今年2月5日に54歳で急逝した芥川賞作家・西村賢太さんが協力者だった。

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倉田啓明譎作集 稚児殺し

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口絵 牛島 孝 無題

口繪 撮影 小幡英典 表紙加賀染 奥田染色

協力 高田巌 上陽子 坪坂実千代

 

人譽幻談 幻の猫 

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2004年4月30日 発行

著者 伊藤人譽

表紙写真 武田 花

著者写真 小幡英典

本文レイアウト 高田巌

奥付貼紙 一二明子

 

室生犀星断章 馬込の家 伊藤人誉 

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2005年(平成17年)5月30日 

撮影 小幡英典 篆刻 井口哲郎 

検印紙図案 藤澤由佳

 

詩集 寡黙な家 ヒグレテタドルハ 大野直子

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平成18年(2006年)10月30日発行

私家版 表紙 扇田克也 撮影 桝野正博

装丁 金田理恵

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大野さんはこの時までに第17回日本海文学大賞「詩部門北陸賞」を受賞されていたが、この後、詩集「化け野」によって、第22回日本詩人クラブ新人賞を受賞された。

 

伊藤茂次詩集 ないしょ

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発行 平成21年(2009年)3月12日

著者 伊藤茂次 編者 外村 彰

題字 著者葉書より 表紙画、扉画 滝田ゆう 奥付版画 高橋照雄

 

高祖保書簡集 井上多喜三郎宛

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平成20年(2008年)5月4日発行

編者 外村彰

写真撮影 小幡英典 表紙画、題字 高祖 保

 

湯浅啓写真集 能登線憧憬

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2008年(平成20年)10月14日発行

 

上司小剣コラム集

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2008年(平成20年)10月30日発行

編者 荒井真理亜

表紙版画 高橋輝雄

題簽(白山紬) 奥田染色

 

ひたむきな人々ー近代小説の情熱家たちー

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平成21年(2009年)4月6日発行

編者 木田隆文・田村修一・外村彰・橋本正志

カバー画・扉挿画 グレゴリ青山

扉版画 高橋輝雄

収録作品の作家 八木重吉 国木田独歩 夏目漱石 志賀直哉 菊池寛

 佐藤春夫 芥川龍之介 近松秋江 阿部知二 宮沢賢治 中山義秀 

 岡本かの子 室生犀星 中島敦 平塚武二 武田泰淳 城昌幸 井伏鱒二

 宮尾登美子 井上靖

 

念ふ鳥 詩人 高祖保 外村彰

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著者 外村彰

函・表紙版画 高橋輝雄 写真撮影 木幡英典

近江上布装A版[白]、同B版[生成り色]。

私が所有しているのはB版

 

歌のわかれ  中野重治

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平成23年(2011年)3月31日

発行 石川近代文学

版画・題字 中野重治
 

ぼくの創元社覚え書 高橋輝次

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2013年(平成25年)10月10日

表紙イラスト グレゴリ青山

扉画 創元社文庫表紙より

 

妹の力、島の人生

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昭和21年(1946年)4月20日 6版発行 

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昭和37年(1962年)9月30日 再版

創元社文庫は書庫に2冊あった。いずれも柳田國男

 

犀星映画日記 室生洲々子編

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2020年(令和2年)10月18日発行

イラスト 武藤良子

 

さらに充実…

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土井正三詩集 梅

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令和3年(2021)11月28日発行
版画(表紙・扉・奥付貼紙) 武藤良子

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十月社、亀鳴屋ー石川デザイン賞の勝井隆則さん

蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成

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1988年10月25日発行

企画・編集 加能民俗の会

発行者 橋本勝郎

製作 株式会社十月社

 

執筆「本文・註」「蓮如伝承と北陸の真宗民俗」「久乃木村豊四郎の巡拝」「蓮如の言葉と和歌」「加賀能登真宗寺院由緒」

 

加賀の一向一揆500年を記念して、会員に熱心な門徒達が多かった加能民俗の会が唯一企画編集した一書。

私の専門でもあったので、当時香林坊2-9-2中宮ビル2階(後、長町3-13-5)にあった十月社に度々出向いて、編集のお手伝いやらじゃまをした。

社長は故・中田徹氏、編集担当の中心が勝井隆則さんだった。

そこにいるだけで、それまで経験したことがなかった、知的生産・先端文化の雰囲気に包まれ、身にしみていくようだった。

 

たいころじい

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「たいころじい 太鼓と人間の研究情報誌」第1巻

1988年7月15日発行。編集発行人・中田徹、編集スタッフ 勝井隆則・大場悦子・宮川加寿枝、エディトリアルデザイン 一二明子

執筆「天と地の太鼓」

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「たいころじい 太鼓と人間の研究情報誌」第5巻

1991年9月17日発行。編集発行人・中田徹、編集スタッフ 釜井陽子・熊走佳代子・石田聡子・高橋由紀子、エディトリアルデザイン 一二明子、表紙イラストレーション 右澤康之

執筆「原初性と官能 太鼓起想学 雅楽・宮田まゆみ」

 

いしかわ人は 自然人

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特集 土といきる 春季号  NO.19 1992年4月1日

制作 株式会社十月社

執筆「土とくらす あえのこと」

 

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特集 水のながれ 7月 夏季号  NO.20 1992年7月1日

制作 株式会社十月社

執筆「特別企画 能登の塩づくり」

 

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特集 彩 いろどり 7月 春季号  NO.23 1993年4月1日

制作 株式会社十月社

執筆「輪島塗の技と彩り」

 

北陸 エリアガイドG/21

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1992年7月発行 執筆・本文レイアウト・写真を十月社が担当している。

このガイド本の担当は石田さんで、「MIND TRIP」コーナーを書かないかと誘われ、

杜氏の里」と「一乗谷の盛衰」を書いた。

格好いいなあーと心の中で思っていたフリーライターに、ちょっと近づいた気持ちになったー、一度切りのできごとだった。

 

ー手元にある十月社本いろいろー

 

北陸この店あの味 

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1987年(昭和62年)2月28日 朝日新聞 富山支局・金沢支局・福井支局編

発行者 中田徹 発行所 出版編集工房十月社

 

大祭 大野日吉神社千二百五十年祭記念誌

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昭和62年(1987)12月25日発行

企画/制作 出版編集工房十月社

監修 今村充夫 座談会司会 中田徹

今村さんか、中田さんのどちらかからいただいた。

 

幻想空間の東西 フランス文学をとおしてみた泉鏡花

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1990年(平成2)1月8日発行

編者 金沢大学フランス文学会 代表 渡辺香根夫

著者 平川祐弘・私市保彦天沢退二郎・篠田知和基・柏木隆雄

発行者 中田徹  発行所 株式会社十月社

装丁 一二明子(アートプロジェクト)

 

浅野川年代記 川のひびきを聞きながら 1890-1990

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1990年(平成2)7月5日発行

発行人 中田徹 発行 株式会社十月社

編集委員の1人に勝井隆則氏。

 

白山の四季 上馬泰生写真集

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1990年10月23日発行

装丁・AD 一二明子とある。

 

西時国の白雉山岩倉寺ご住職の姓が一二三(ひふみ)さんなので、一二明子さんの姓はヒフさんだろうか?と思いつつはっきりしたほうがいいと調べたら、「いちに」さんだった。

 

NOTO 能登・人に知られぬ日本の辺境

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明治22年5月8日にローエルによって撮影された。このような写真が32葉載る。

1991年10月7日発行

著者 パーシヴァル・ローエル

訳著者 宮崎政明 発行者 中田徹 発行所 株式会社十月社

装丁・本文デザイン/右澤康之+一二明子

 

参考までに

荒山峠道(県道18号)は,現在トラック同士もすれ違える立派な二車線道路になっているが、かつては写真のようなローエル顕彰記念看板が建っていた。今はローエルが越えた道どころか、ローエルの名を知る人さえ少ないのだろう。

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1988年(昭和63年)5月8日は、ローエルが荒山峠を越え穴水に向かった日から、100年目にあたる。撮影2005年(平成17年)4月27日。

 

現在の「荒山峠」碑はここよりかなり氷見側に建つ。

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 写真「あみの3ブログ」より

 

湖底の風景 能登・小屋ダムの自然 佐藤弘孝写真集

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1993年(平成5年)4月20日発行

小屋(おや)ダムは鵜飼川上流、修験の山・宝立山麓に平成5年に完成した多目的ダムである。

ダム湖は宝水湖と名付けられた。

佐藤さんはダム建設の技術畑のトップとして赴任されていた方で、数回お会いしたことがある。

多目的ダム建設による自然破壊と自然を守ることを絶えず誠実に考えておられた。

一枚一枚の写真に、佐藤さんの葛藤と昇華が込められ調和しあっているように思える。

 

もう手に入らない写真集なので、いかに素敵な写真なのかを、湖底とは関係のない一枚で紹介する。

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タイトル 鰐崎海岸 家路を急ぐ小舟(佐藤弘孝)

 

白山の四季Ⅲ 白山高山帯 上馬泰生写真集 

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1998年(平成10年)7月6日発行 

十月社は2001年に幕をおろし、

一時代の文化(人)を育てた中田徹さんは、2018年(平成30)9月17日、66歳で息を引き取られた。改めて哀悼の意を表します。

 

 

十月社でのさまざまなノウハウや、出版にかけた情熱は

勝井隆則さんの「亀鳴屋」に引き継がれた。

それから20年後ーのこんにち、亀鳴屋本デザインは、石川デザイン賞を受賞するほどの高い評価を得ている。

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北陸中日新聞 2022年2月23日(水)朝刊。写真の受賞者が勝井氏。

 

手元の「亀鳴屋」デザイン書物については、

改めて。

 







ちょっと珍しい光景ー別所岳サービスエリアと見附海岸

 

2月27日(日)午後の春勧化お参りに間に合うよう、とんぼ返りで羽咋へ行ってきた。その折、別所岳パーキングエリアで珍しい光景に出会った。

午前9時頃だったのに一台も車がいないのだ。

珍しさが別所岳の想い出につながっていった。

 

別所岳は男体・女体の二子山で、正面向かって右が女岳

左が雄岳である。

古代の様相を呈している山岳なのに、神社がない。

元々比咩神がおいでになったのだけれど、比古神のいる山岳と背比べをして負け、

嫁いだので神がいないのだ。

その相手は、伊須流岐比古(石動山)だったり虫ヶ峰(釶内山)だったりする。

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2009年10月17日。2007年3月25日の能登沖地震で道路そのものが変わってしまった。

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これは地震前の光景。2004年8月26日11時。

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別所岳女岳山頂近くの坂で、「布引坂」の名がある。

山の背比べに負けた別所比咩が、機織機と織っていた布を引きずりながらこの道を下って、嫁いでいったため「布引」坂の名が付いた伝わっている。

 

背比べには、丁度麓を通りかかった弁慶が、比咩神の応援に付き、大岩を海から運び上げている途中に「背比べ」が行われ、弁慶がたどり着いた時には、布引のあとがあるのみで比咩神の姿はなく、悲しみの中で弁慶は大石を谷向こうに投げ捨てて去ったという。

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雄岳側の坂。1993年頃撮影(1994年『図説中島町史』に「布引坂」の写真を使用)

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山頂から能登島・島別所方面。2005年4月18日16時撮影。

 

能登の大橋

1995年に刊行した『中島町史 資料編上巻』執筆のため、何度も別所岳に行った。

その時、別所集落の奥に「能登の大橋」と呼ぶ橋があることを知った。

橋名は、長い地域歴史・文化を担った名が付いていることが多い。

 

能登の大橋」ーそんな大仰な名を持つ橋が山奥とでもいうべきところにあるなどと、首をかしげながら、在所の人に案内してもらった。

下の写真の橋が「能登の大橋」だとおっしゃる。

昔からこの石橋を「能登の大橋」といってきたのだという。

しかも、この石は地蔵様で、踏んで渡るのは勿体ないので、たびたび起こすのだが,その都度私を踏んで渡ってくれと、倒れてしまうという。

橋は裏向きで、表に地蔵菩薩(線刻?種子?)が彫ってあるのだともおっしゃっていた。 

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覗いてシャッターを切ったが、地蔵さんかどうかは分からなかった。

中島町は様々な地蔵さん(板碑、宝篋印塔)の宝庫で、町史には、81体の地蔵(と呼ばれている物も含む)を調べ一覧表にした。

この大橋は81体には含めなかったが、全国的に地蔵が橋となって人々の川渡りの苦を代わって引き受ける(代受苦)話があり、

地蔵・橋なら、大橋を名乗って来たのは不思議じゃない、と今は思っている。

 

しかし、現今、この橋のことを知っている人がどれくらいおいでるのだろう…?

 

弁慶石

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弁慶が投げ捨てていったと伝わる大石である。

里山海道「鹿島跨橋」のすぐ側にある。撮影2004年8月27日12時。

雨乞い石だった。

 

見附島

同日夕方、春勧化満座後、見附海岸に行った。

ここでも、見たことがない景色に出会った。

見附から赤崎にかけて、大きな船が並んで風よけをしているのだ。

波浪警報だったか、注意報だかが出ていたが、このような形で複数の大型船が待機しているのを見るのは初めて。

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船の大きさを知るために撮った写真だが、あらためて見附二島の一つが昨年、消滅したことを実感する。鳥居の右横に島があったのだ。

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umiyamabusi.hatenadiary.com

黒峰

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見附海岸の反対側は黒峰(宝立三山の一つ)。

石川県の公立高校で旧中学校時代からの校歌を歌っているのは飯田高校だけだが、

♪白雲棚引く宝立の峯 茂れる木立に黒ずみわたり…(作詩・鴻巣盛廣)

の、「茂れる木立に」の「に」を、長い間「茂れる木立は」と歌っていた。

ある時、どなただったかが原詩を確かめたら、「は」ではなく「に」であることに気づき、それからは原詩どおり「木立に」と歌うことになったのだけれど、百周年記念の時には、ずいぶん「いつから、「木立は」が「に」になったげ?」との声があった。

紹介されていない文化・文化財ー写真

鬼瓦に地蔵菩薩

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このところ、ずーっと書斎整理。

 

本・抜き刷りなどをある程度分類出来たので、

写真の整理に入った。

 

市町史に関わった根上・鹿島・能登島・七尾・中島・門前・能都・珠洲

教員時代の郷土史同好会生徒諸君との調査や長年続けていた史跡巡り引率などの写真が、それこそ膨大な量のアルバムとなって書斎の一角を占めている。

 

今回は重なっているアルバムーたとえば「太子講」「太子諸像」などを一冊にまとめ、書棚のスペースを空ける作業に取り組んだ。

 

そうこうしているうちに、全く記憶にない写真、あるいは貴重な写真だけど、世間では知られていない写真などが、かなりあることに気づき驚いている(忘却の彼方ということなのだが…)。

 

今年の春で、埋文の評議員定年を迎え、民俗関係は数年前に手を引いており、これから何かしようということもなくなったので、手元資料がどの程度意味あるのものなのかを、かなり客観的にとらえられるようになってきた。

 

あとで説明するが、上の写真を見た時は「何だこれは?」だった。トリミングした下の方に、「29 7’90」とある。

1990年7月29日に撮影したもののようで、アルバムには神社名だけが鉛筆で書き込んである。

 

次の写真も貴重なものだが、これは1999年10月6日に撮影したもので、将軍地蔵である。

旧山王社の奥宮内に他の仏像類と共に安置されており、その宮の本地仏にあたる。

将軍地蔵は気多神の本地仏で、古く由緒ある宮は、たいてい気多だった。

この将軍地蔵を見たのは、石川歴史博物館が平成12年(2000年)に秋季特別展『能登最大の中世荘園ー若山荘を歩く』を開くための調査の一環として、手つかずになっていた旧山王社奥宮に入った時に出会ったのでる。

この調査の中心は中世専門の小西さん。

特に仏像を専門にしている本谷さん。

若山荘と切っても切り離すことの出来ない古珠洲焼の資料館・珠洲焼資料館館長職にあった私も加わったが、それは地元で土地勘があることと、現地を歩きながら珠洲焼の時代を学ぶことが出来る、との理由で参加させていただいたのだった。

 

その時に見つけた像なのである。

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後で小西さんが教えてくれたのだが、この神社のあるエリアは若山庄には含まれておらず、特別展の図録に反映されることがないまま、「将軍地蔵」は神仏分離期に戻っていった。

奥宮に本地仏があることを知り、見たのは、宮司さんを含め4人だけなのである。

市の文化財担当者も気づいていない(はずの)像なのだが、小西・本谷の両専門家が存在を知っているのだから、きっかけがあれば広く世に知られることになるかも知れない。

 

それに対して前の写真は、ここに載せなかったら存在そのもがなくなる類のものなのだ。

 

この写真を見た時、「鬼瓦」だと思った。そして、瓦の像容は地蔵菩薩ではないかと思った。

先に書いた将軍地蔵の社とは別の神社ではあるが、この神社も本地・将軍地蔵であることを知っていたので、それで鬼の代わりに地蔵なのか!と思ったのだが、多分間違ってはいないだろう。

蓮華座に地蔵菩薩。回りは蓮池のようである。

持物は左手が宝塔、右手は宝珠のように見えるのだが???

 

撮影日の2000年7月29日を調べてみた。

当時、私は飯田高校で進学係をしていた。

 

29日までの1週間を振り返る。

23日(月)補習(進学)、能登町へテニス練習(顧問をしているクラブ。個人一チームが8月4日から始まる仙台インターハイ[高校総体]に出場するため、県合同練習)、選手を木ノ浦まで送る(木ノ浦方面行きバスの最終が午後5時。テニス練習がそれより遅くなるので、いつも家まで送っていた)

24日(火)補習、テニス練習、夜郷土史同好会3年生3名来宅し、打ち合わせ

25日(水)補習、同好会生徒と真浦~長橋神社狛犬調査 ※この年は学校祭に珠洲狛犬発表予定。

26日(木)羽咋へテニス部生徒4名送る(※多分珠洲実生徒一チームも)

27日 (金)木耳社へ『蓮如真宗行事』出版校正を電話で。同好会この日は3年女子3名を引率し調査。

28日(土)補習。午後金沢へ。出版社・十月社(「タイコロジー」「自然人」など)に寄った後、安江良介氏の岩波書店社長就任記念パーティに出席(世界編集長だったことは存じ上げていたが、全く面識はなく、「加能民俗の会」の動員で出席したはず)。

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   安江氏社長就任記念会の引き出物

 

29日(日)朝早く金沢出発。午前中同好会1年生2人・3年女子、午後3年男子3人と調査。

この瓦は、3年男子達と調査した時に見たらしい。

翌日からも補習・テニス練習・同好会調査が続くのだから、取りまくっていた写真の一々に説明を付けている余裕はなく、30年余経った今になって、

なんだこれは?…初めて見るぞ…となったのだ。

 

仙台には3日に向かっている。大宮の乗り換え時間を利用して木耳社編集さんと打ち合わせ。『蓮如真宗行事』発刊は8月10日。

秋には男子テニス部が北信越大会で団体優勝。

学校祭には一教室使って、獅子の調査報告をした(今もそれが書斎兼物置にある)。

 

生徒たちとの調査から半年後、

父が入院し、そのことを契機に3月いっぱいで教員を退職したのだから、

先のことは本当に分からないものだ。

 

そんなあれこれを思い出させてくれる一枚の写真なのだが、

一体なんなのだろう?

 

2体の太子像

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この2体の太子像は、珠洲市史の「個別寺院誌・仏像什物」には載っていない。

石川県立博物館図録(平成9年10月刊)には写真と法量が載るものの、底部の願主・年号などを記しておらず、ここに載せたのが唯一のものであろう。

 五世月吼旭潭代、正徳2年(1712)大谷村祐友などによって寄進された像である。

 

オオカミ?

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2000年2月、えびす祭り調査の折、某神社で見かけた。

それより前、昭和52年(1977)年頃に、この面を見ている。

元山伏家の神官さんが、毎朝薬師如来前でお経をあげておられるのを知り、調査した時、付近の神社で笹を咥えていない、赤く塗ったこの面に出会い、ギョッとしたことがあった。

その時の直感が、オオカミ!だった。

この写真から22年。最初に見てから45年。

 

能登島別所のニワカで「猫踊り」というのを見たことがあるが、ニワカあるいはこのふきんの獅子舞にある「行道」あたりの先頭役が用いた面なのかもしれない…。

 

なお、いずれの写真もパソコン取り込み以前の古いもので、現在、それらがどうなっているかわからない為、所在地情報は避けた。

 

少彦名社 箸奉納

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箸が供えられている。昭和50年頃の古麻志比古神社境内。珠洲市史には境内摂社の少彦名神は「歯痛止めの神」と記しているが、具体的には、歯痛止め祈願のために「箸」を奉納したのである。

この写真を撮ってから後に、どうなっているか見に行った時には、箸は全くなく、風習そのものが無くなっていた。

箸を供えて歯痛止めを願ったことがあったことを証明する、貴重な写真である。

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その頃は、この書籍に「能登の薬師信仰」を書くため、能登各地の薬師を訪ねていた。

昭和61年(1986)年刊

「春勧化(はるがんけ)」ポスター掲示

勧化は雪解けを迎える頃、年始めの行事として営まれる。

もとは1ヶ月のお参りで、親の命日に年始めのお参りをし、お寺と門徒さん宅で営まれる御座(おざ)でお説教を聞く行事である。

当寺では、一昨年まで昼はお寺でのお説教、夜は在所御座を2月22日から28日の間営んでいた。

冬の御門徒宅に寄り添ってお話を聞くのは、コロナ騒ぎの避けなければならない三密の見本のような場を想定せざるをえず、昨年は春勧化そのものを中止した。

 

今年は、45畳の庫裏広間で、コロナ対策をしっかり取りながら、日中のお参りを3日間だけ営むことにした。

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19日(土)15時半。御布教の馬川師は南砺市の方である。

真宗の風景(『とも同行の真宗文化』2020年6月臥龍文庫刊、出典「節談説教の風土」『大系日本歴史と芸能 第五巻踊る人々』日本ビクター・平凡社1991年6月)

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以下4~21頁略



丑三つ時の月ー2月17日早朝

強い寒気の影響で昨日から雪。かなり積もりそうだというので昨晩は8時半に布団に潜り込み、今朝は3時に目覚め(風、小動物の音?)たので、雪よけ(すかし)に大庭へ出た。

大庭と呼んでいる本堂・庫裏前広場をすかさないと、新聞配達その他の人が難儀するので、配達前にすかさねば、と準備万端大庭に出たのだ。

 

正像末和讃

康元二歳丁巳二月九日夜寅時夢告云

弥陀の本願信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨の利益にて

無上覚をばさとるなり

正像末の浄土和讃 

 愚禿善信集」(『真宗聖典』500頁)

 

祖師が1257年に正像末和讃をあらわすきっかけとなった「夢告」の765年後ー、

ほぼ同じ時刻の

月が綺麗だった。

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3時半頃。今日は陰暦の睦月17日。月は満月なのだ。

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しばらくすると雲が西の方からかかってきて、ママさんダンプを使い始めた頃には、月は雲間に隠れてしまった。

それで、カメラを月に向けている間に、最初の新聞配達さんがおいでになった。

お早うさんといいながら、途中で受け取った。

西・北能登散策ー1月27日(木)

午前中はまあまあの天気、午後は時折雨風の荒れ模様だったが、能登外浦を巡って家路についた。小さな旅。

宝達山

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能登一の高山・宝達山。むさし634より、3㍍高い647㍍である。

まあ、スカイツリーほどの高さの山が、能登一の高さなのだが、気多が遙拝所であり、付近には俊寛塚もあって、熊野信仰など懐が深い。

山頂からの光景はこんな具合だ。

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2007年8月25日撮影。

イチョウ並木  

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宝達志水町東野。いつもは通り過ぎてから、何だったかと思う光景。この日は余裕。

能登金剛

高浜から外浦(西海)海岸沿いの景勝地を行く。

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雨(雪ではない)風激し。

 

機具岩

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高爪山 見よい341山

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富来道の駅から。高爪は341㍍。

 

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酒見近くからの高爪

 

笹波・前浜

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ここの海岸付近から、義経一行は高爪へお参りしたと伝える。

笹波の棚田。ほぼ真東が高爪山頂である。

前浜

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この岬を巡れば、玄徳岩。

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前浜・北脇崎

 

ヤセの断崖・義経船隠し。

雨風激しくて寄らず通過。この一帯は能登半島地震(2007年3月25日)でずいぶん様子が変わった。

※想い出の写真ー義経の舟隠し・五来重先生・松本清張句碑関係を末尾に。

 

猿山岬

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猿山岬。先端先に不思議な光のようなものが見える。猿山も義経伝説の宝庫。

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地産地消文化情報誌 能登』第9号 2012年秋号より

 

亀甲石

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門前町

 

千枚田

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旅の終わり。門前あたりから見えていたのは虹だった。

デュークエイセス「日本のうた」の石川版は「ひとり旅」。

永六輔の詞は

♪1番

 あなたから 遠く離れて

 愛の終わりを 噛みしめる

 汽笛もはるか ひとり旅

 哀しや奥能登 灰色の海

 泣いてくれるか 雪の奥能登

である。

 若い頃は、能登灰色の海のステレオに反発を感じていたが、

 「泣いてくれるかー」に、共に手を取って悲しみ合ってくれる能登の自然を描け・感るようになって、しみじみと味わえるようになった。

 写真は、幸せそうな男女が 日本海を眺めているのを、左側の男性の後ろ姿を画面には、入れずに雰囲気をだそうとしたが、あわなかった。

あくまで「ひとり旅」は、フト流れたメロディである。

 

おまけ

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26日 千里浜道の駅で。


※ヤセの断崖・義経船隠し

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2010年7月19日撮影。この真東が高爪山山頂。

この付近から、修験の霊山・高爪を目指した修験者たちが多くいたようである。

高爪で和歌を詠んだ人物は、串稲田姫行基菩薩・俊寛僧都・平康頼・小督の局・見仏上人・平貞盛源頼朝義経義経北の方・弁慶・常陸海尊などで、それぞれが詠んだという和歌が伝わっている(『富来町史 続資料編』「大福寺(高爪神社)由緒覚書」昭和51年刊、651頁~)。海の修験道に相応しいこの地を訪ねたのが五来重先生で、一番弟子の佐々木孝正先生の一周忌・山岳宗教叢書が完結した年(1985年)のことだった。この日我が家に泊まられ、今日とは逆回りで先生を案内した。

その時、先生は「西山君、海の修験道研究はこれから百年かかりますよ…」とおっしゃった。海の修験道という聞き慣れない言葉を聞いたのは初めてで、その時の言葉=海伏を、このブログのタイトルに使わせていただいている。

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五来重先生。ヤセの断崖口(関野鼻)で。1985年6月16日。お生まれになったのは1908年だから、この時、77~8歳。若々しくて、70歳頃においでになったぐらいに思っていた。

 

松本清張歌碑

清張の代表作の一つ、「ゼロの焦点」の重要な舞台となったのがこの地。

能登ブームの中で、「かなし」こともあった。

それを悼んで清張の碑が建てられた。

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写真 2010年7月19日

 

清張歌碑除幕式 昭和36年

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『写真アルバム能登半島の昭和』(いき出版2014年刊、236頁より)

写真説明を富来地区は、当時富来町郷土史研究会会長だった故・本多達郎先生にお願いした。本多さんは

松本清張が「雲たれて ひとりたけれる荒波を かなしと思へり能登の初旅」と刻まれた自らの歌碑の除幕式に、長女と長男を連れて出席。この地は「ゼロの焦点」の舞台となった場所である。清張は歌が苦手で大学生の長女に見てもらい書いたのだと告白している。〈旧富来町・昭和36年

 

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この色紙は、清張が講演に珠洲に訪れた際に、私の2年先輩が書いて貰ったもの。

先輩が病で亡くなる数年前に、形見としていただいた。

句碑は「清張」のみ。色紙には「松本」も入っている。

 

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この茶碗の文字が、清張の句歌である。

今までずーっと横川巴人の字だと思っていた。

今、茶碗の字が清張の歌だと気づいた。旧羽咋郡の某寺所蔵である。