紹介されていない文化・文化財ー写真

鬼瓦に地蔵菩薩

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このところ、ずーっと書斎整理。

 

本・抜き刷りなどをある程度分類出来たので、

写真の整理に入った。

 

市町史に関わった根上・鹿島・能登島・七尾・中島・門前・能都・珠洲

教員時代の郷土史同好会生徒諸君との調査や長年続けていた史跡巡り引率などの写真が、それこそ膨大な量のアルバムとなって書斎の一角を占めている。

 

今回は重なっているアルバムーたとえば「太子講」「太子諸像」などを一冊にまとめ、書棚のスペースを空ける作業に取り組んだ。

 

そうこうしているうちに、全く記憶にない写真、あるいは貴重な写真だけど、世間では知られていない写真などが、かなりあることに気づき驚いている(忘却の彼方ということなのだが…)。

 

今年の春で、埋文の評議員定年を迎え、民俗関係は数年前に手を引いており、これから何かしようということもなくなったので、手元資料がどの程度意味あるのものなのかを、かなり客観的にとらえられるようになってきた。

 

あとで説明するが、上の写真を見た時は「何だこれは?」だった。トリミングした下の方に、「29 7’90」とある。

1990年7月29日に撮影したもののようで、アルバムには神社名だけが鉛筆で書き込んである。

 

次の写真も貴重なものだが、これは1999年10月6日に撮影したもので、将軍地蔵である。

旧山王社の奥宮内に他の仏像類と共に安置されており、その宮の本地仏にあたる。

将軍地蔵は気多神の本地仏で、古く由緒ある宮は、たいてい気多だった。

この将軍地蔵を見たのは、石川歴史博物館が平成12年(2000年)に秋季特別展『能登最大の中世荘園ー若山荘を歩く』を開くための調査の一環として、手つかずになっていた旧山王社奥宮に入った時に出会ったのでる。

この調査の中心は中世専門の小西さん。

特に仏像を専門にしている本谷さん。

若山荘と切っても切り離すことの出来ない古珠洲焼の資料館・珠洲焼資料館館長職にあった私も加わったが、それは地元で土地勘があることと、現地を歩きながら珠洲焼の時代を学ぶことが出来る、との理由で参加させていただいたのだった。

 

その時に見つけた像なのである。

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後で小西さんが教えてくれたのだが、この神社のあるエリアは若山庄には含まれておらず、特別展の図録に反映されることがないまま、「将軍地蔵」は神仏分離期に戻っていった。

奥宮に本地仏があることを知り、見たのは、宮司さんを含め4人だけなのである。

市の文化財担当者も気づいていない(はずの)像なのだが、小西・本谷の両専門家が存在を知っているのだから、きっかけがあれば広く世に知られることになるかも知れない。

 

それに対して前の写真は、ここに載せなかったら存在そのもがなくなる類のものなのだ。

 

この写真を見た時、「鬼瓦」だと思った。そして、瓦の像容は地蔵菩薩ではないかと思った。

先に書いた将軍地蔵の社とは別の神社ではあるが、この神社も本地・将軍地蔵であることを知っていたので、それで鬼の代わりに地蔵なのか!と思ったのだが、多分間違ってはいないだろう。

蓮華座に地蔵菩薩。回りは蓮池のようである。

持物は左手が宝塔、右手は宝珠のように見えるのだが???

 

撮影日の2000年7月29日を調べてみた。

当時、私は飯田高校で進学係をしていた。

 

29日までの1週間を振り返る。

23日(月)補習(進学)、能登町へテニス練習(顧問をしているクラブ。個人一チームが8月4日から始まる仙台インターハイ[高校総体]に出場するため、県合同練習)、選手を木ノ浦まで送る(木ノ浦方面行きバスの最終が午後5時。テニス練習がそれより遅くなるので、いつも家まで送っていた)

24日(火)補習、テニス練習、夜郷土史同好会3年生3名来宅し、打ち合わせ

25日(水)補習、同好会生徒と真浦~長橋神社狛犬調査 ※この年は学校祭に珠洲狛犬発表予定。

26日(木)羽咋へテニス部生徒4名送る(※多分珠洲実生徒一チームも)

27日 (金)木耳社へ『蓮如真宗行事』出版校正を電話で。同好会この日は3年女子3名を引率し調査。

28日(土)補習。午後金沢へ。出版社・十月社(「タイコロジー」「自然人」など)に寄った後、安江良介氏の岩波書店社長就任記念パーティに出席(世界編集長だったことは存じ上げていたが、全く面識はなく、「加能民俗の会」の動員で出席したはず)。

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   安江氏社長就任記念会の引き出物

 

29日(日)朝早く金沢出発。午前中同好会1年生2人・3年女子、午後3年男子3人と調査。

この瓦は、3年男子達と調査した時に見たらしい。

翌日からも補習・テニス練習・同好会調査が続くのだから、取りまくっていた写真の一々に説明を付けている余裕はなく、30年余経った今になって、

なんだこれは?…初めて見るぞ…となったのだ。

 

仙台には3日に向かっている。大宮の乗り換え時間を利用して木耳社編集さんと打ち合わせ。『蓮如真宗行事』発刊は8月10日。

秋には男子テニス部が北信越大会で団体優勝。

学校祭には一教室使って、獅子の調査報告をした(今もそれが書斎兼物置にある)。

 

生徒たちとの調査から半年後、

父が入院し、そのことを契機に3月いっぱいで教員を退職したのだから、

先のことは本当に分からないものだ。

 

そんなあれこれを思い出させてくれる一枚の写真なのだが、

一体なんなのだろう?

 

2体の太子像

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この2体の太子像は、珠洲市史の「個別寺院誌・仏像什物」には載っていない。

石川県立博物館図録(平成9年10月刊)には写真と法量が載るものの、底部の願主・年号などを記しておらず、ここに載せたのが唯一のものであろう。

 五世月吼旭潭代、正徳2年(1712)大谷村祐友などによって寄進された像である。

 

オオカミ?

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2000年2月、えびす祭り調査の折、某神社で見かけた。

それより前、昭和52年(1977)年頃に、この面を見ている。

元山伏家の神官さんが、毎朝薬師如来前でお経をあげておられるのを知り、調査した時、付近の神社で笹を咥えていない、赤く塗ったこの面に出会い、ギョッとしたことがあった。

その時の直感が、オオカミ!だった。

この写真から22年。最初に見てから45年。

 

能登島別所のニワカで「猫踊り」というのを見たことがあるが、ニワカあるいはこのふきんの獅子舞にある「行道」あたりの先頭役が用いた面なのかもしれない…。

 

なお、いずれの写真もパソコン取り込み以前の古いもので、現在、それらがどうなっているかわからない為、所在地情報は避けた。

 

少彦名社 箸奉納

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箸が供えられている。昭和50年頃の古麻志比古神社境内。珠洲市史には境内摂社の少彦名神は「歯痛止めの神」と記しているが、具体的には、歯痛止め祈願のために「箸」を奉納したのである。

この写真を撮ってから後に、どうなっているか見に行った時には、箸は全くなく、風習そのものが無くなっていた。

箸を供えて歯痛止めを願ったことがあったことを証明する、貴重な写真である。

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その頃は、この書籍に「能登の薬師信仰」を書くため、能登各地の薬師を訪ねていた。

昭和61年(1986)年刊