つい先日、段ボール箱から、相当立派なアルバム4冊とかなりの写真が出てきた。
30数年前、庫裏を修復した時に誰かが箱に入れ、そのままになっていたらしい。
このような写真集があることなど誰も聞いておらず、一々驚きながら整理している。
その先代の四教の大谷大学卒業アルバム(アルバムは1937年・昭和12年、卒業は昭和15年・1940年3月)、
四教・飯田中学校卒業時アルバム(昭和8年・1933年)
それに祖母・朝野のアルバムである。
それ以外の記念写真も相当入っていた。
昨日11日は、1991年(平成3年)に示寂した父・外卿の祥月命日だった。
今年は32回忌である。
祖母・朝野は1972年・昭和47年に先立っており、今年は51回忌になる。
近々2人の年忌をする予定なのだが、
年忌を控えたこの時期にアルバムが出てきたのだから、興味津々
調べないわけにはいかない。
父外卿は、大正9年(1920)6月、七尾市江曽町妙楽寺(松谷家)の3男として生まれ、昭和16年7月4日に西山(旧姓朝倉)朝野の養子として西山家に入った。
大谷大学文学部国史學科を卒業したのが昭和18年9月で、卒業証書には西山外卿となっている(学長 事務取扱 豅 含雄)。
松谷姓で大学に入り、途中で西山姓に変わって卒業したのだ。
卒業しないと教師(住職資格)は取れないので、
先代の四教さんが昭和16年1月9日に23歳で急逝してから、父の卒業までは、朝野の兄・朝倉静雄が住職代理を務めていた。
この人は、私が小学生の頃、赤野井別院の輪番をしており、祖母に連れられ弟と共に朝倉家の孫達と赤野井別院で数日過ごしたことがある。
そういう時代のアルバムなので、写っている人物などは、ほとんど見当がつかない。
父のアルバムには、大須賀学長のように書き込みがあるのだけれど、フォトコーナーから剥がれていて、徳重浅吉教授一枚だけが対応しているものの、その他の写真と人物の関係は分からない。
とはいえ、フォトコーナーはそのままになっており、写真の大きさから推定できるので、?をつけて、お名前を紹介する。
徳重浅吉教授
かつて、父に大学の卒論指導を受けたのは誰だったのか、聞いたことがある。
徳重浅吉先生と答え、卒論の内容も聞いたのだが、こちらの方は忘れた。
父の同級生名簿を見ると、私が名を知っているのは山本唯一氏(後、大谷大学教授)
のみで、山本教授は国文、父は国史。しかも当時は松谷姓だったので、私が同級生の子だとは気づくことがなかったのだろう。
山本先生は大谷大学仏教文化修士を受けた時や、修論審査時の面接担当のお一人だったし、数回だったけれど講義を受けたこともあった。
大須賀秀道学長 ?
鈴木弘教授(哲学) ?
萬造寺斉教授(組主任 英語) ?
裏に書き込み。
六月四日 立野ヶ原ニ於テ
立野ヶ原は南砺市のようだ。
7月の城端別院・虫干し法要、井波別院・太子絵伝に例年泊まりがけでお参りしているが、時々泊まっている「桜ヶ池クアガーデン」エリアがここにあたるようだ。
学徒出陣壮行会が、1943年(昭和18年)10月21日に行われている。
父の卒業は、証書によれば一月前なのだけれど、
父からは学徒出陣壮行会の様子を聞いたことがある。
西山四教アルバム
大谷大学の学部は2次試験で受けた。面接があった。
面接なさったのは松原祐善先生だった。
開口一番、西山四教さんのお子さんですか?
とお聞きになった。
四教さんについては、父の先の代のかたで、大学を出てまもなく流行病で亡くなられた方とは知っていたが、突然その名が出てきたので、どう答えようか曖昧な返事をしていると、
松原先生は、四教さんはすごく優秀だった。君も(試験の点に寄るが)ここで学べばいい、とおっしゃった。
そのことから、四教氏と松原先生とは同級生同志だと、ずーっと思い込んでいた。
今、先生の『他力信心の確立』を読んでいるのだが、本を開く度に、このお寺の先々代と同級生の本、と思いながら読んできた。
アルバムの中に同級生か寮生かの寄せ書きがある。
私は昭和54年と平成9年版の大谷大学同窓生名簿を持っているが、四教氏の同窓生に「松原祐善」の名がない。
なんやかんや調べていると、二人は10歳ほど年が違っていることに気づいた。
父の前の代の人だから、1906年(明治39年)年生まれの松原先生と同世代だろうと思い込んでいたのだった。
四教さんは大正7年生まれ、同9年生まれの父と2歳しか違っていなかったのだ。
優秀だった四教さんは、父・謙(旧姓梧)、母・忍(紙子)の子として生まれたが、母・忍は四教2歳の大正9年3月1日に亡くなっている。
その時、四教の姉が5歳で幼い2人の子を抱え困ったのだろう。
1年半後の、大正10年9月26日、祖母・朝野が入籍し、2人の子を育てた。姉は昭和8年、謙さんは昭和11年、四教さんは昭和16年1月9日に亡くなり、
半年後に朝野の甥にあたる外卿が養子に入った、というわけだ。
であるからして、私は四教さんとは全く血がつながっておらず、優秀さも引き継いでいない。
さらにいえば、四教さんアルバムに写っている人々は、朝野を除いて誰1人見当の付けようのない人々なのだ。
それはそうとして、四教氏のアルバムがまた凝っていて、メモ一つ無い芸術的な写真集になっている。
アルバムに貼ってあるページを追って、写真を紹介する。
下に寄せ書き(写真版)なさっている方々が写っているはずだ。
萬造寺斉教授?
四教氏は弓道部だったのだろう。
卒業して1年で亡くなられたためか、
二つの同窓会名簿には
西山四教 (石川県)
とのみの記載しかなく、どこの西山なのかわからない。
この学年には、柏原祐泉先生、和田稠師がいる。
父も生前の名簿には珠洲市飯田町14-71 西山(松谷)外卿となっているが、
平成版では、西山外卿(石川県)だけになっている。
ところで、私は仏教文化修士課程を終了したはずなのだが、引っ越しや、
教員になる準備、着る物もジーパンしか無い状態だったのと、院のみの修了者が卒業式に出ていいのどうかわからず、同日にあった石川県新教員の集まりの方に金沢に行っていて卒業式にはでなかった。
そのせいなのだろう、終了証書をもらっていないし、論文もかえってない。
別に困ることはなかったが、今この文を書いていて、正式に何という課程で学び、終了時の学長がどなただったのかぐらい知っておけばよかった…との思いが涌いてきた。丁度50年前の出来事である。
そして、写真はないものの、私も学生時代アルバムを作りたくなるほど、
昔のアルバムに写っている群像は、躍動している。