二島が一つ島に。月見島~見附島(見付島)


5年近く前に引用文を書いた。

 

その時

そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。

と書いたが、昨年秋の大風のあと、左の島が無くなり、

もう前半の状態になってしまった。

このブログの写真を並べて、見附の変遷を知るコーナーなどがあればいいのに・・・とふと思った。

近くにあるのかも知れない・・・。

このことを書いたのも、FBに見附を表紙にしている『伝説とロマンの里』が載っていて、いつも見附島を見ており二島の一つがなくなったことを、珠洲にいる者として載せておかなければと思ったから…

である。

相変わらず雪は0㌢。

2015-06-12

タイトル 

見附島ー二島の変遷-、そして、明治25年(123年前、今年は128年前)の鵜飼塩田作業図

編集

右見附島、左に小島があり、さらにその左に鳥居がある。
見附島までは遠浅。
石を積みあげた道がついていて、島のすぐそば行くことが出来る。
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この写真は、平成21年、6年前(9年前)。
変遷の注目は左の島、そして石道。

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平成14年以前
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昭和37年。約50(60)年前。
左の島はかなり大きい。
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昭和10年代。
かなり大きい。二島(ふたしま)と呼ばれていたのも納得できる。
石の道がない。

『写真アルバム昭和の能登半島』より。
石が積まれたのは、昭和23(1948)年。

二島図

相当前から、見附島近くの旧家に、左の島(どちらも見附島なのだそうだ)が大きき描かれている屏風があると聞いていた。
6月1日、そのお宅へ寄る用事が出来たので、見せてもらい撮影してきた、
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横67.5㌢、縦38㌢
屏風ではなく、普通の絵だったが、
なるほど、この時代のものはまずないだろう。
能州珠洲郡鵜飼村見付嶋之真景之圖
明治廿五年秋十月上旬
江南人豊写(印)(印)」
とある。
明治25年は1892年、123(20020年からは、128)年前だ。
120年余で、こんなに小さくなった。
そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。
この画は、極めて貴重なものである。

明治中期の塩田光景

そして、当時の塩田が描かれている。
これは、もう、をつけよう、もう極めて貴重な絵だ。

 

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黒峰城址からの見附島。直線距離で約5キロメートル。東南(辰巳)の方角。県下最高所(445.45メートルル)にある中世山城で城主は伝説の阿部判官。判官も月光の冴える海に浮かぶように見える見月島を眺めたことがあったのだろうか?