西・北能登散策ー1月27日(木)

午前中はまあまあの天気、午後は時折雨風の荒れ模様だったが、能登外浦を巡って家路についた。小さな旅。

宝達山

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能登一の高山・宝達山。むさし634より、3㍍高い647㍍である。

まあ、スカイツリーほどの高さの山が、能登一の高さなのだが、気多が遙拝所であり、付近には俊寛塚もあって、熊野信仰など懐が深い。

山頂からの光景はこんな具合だ。

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2007年8月25日撮影。

イチョウ並木  

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宝達志水町東野。いつもは通り過ぎてから、何だったかと思う光景。この日は余裕。

能登金剛

高浜から外浦(西海)海岸沿いの景勝地を行く。

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雨(雪ではない)風激し。

 

機具岩

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高爪山 見よい341山

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富来道の駅から。高爪は341㍍。

 

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酒見近くからの高爪

 

笹波・前浜

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ここの海岸付近から、義経一行は高爪へお参りしたと伝える。

笹波の棚田。ほぼ真東が高爪山頂である。

前浜

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この岬を巡れば、玄徳岩。

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前浜・北脇崎

 

ヤセの断崖・義経船隠し。

雨風激しくて寄らず通過。この一帯は能登半島地震(2007年3月25日)でずいぶん様子が変わった。

※想い出の写真ー義経の舟隠し・五来重先生・松本清張句碑関係を末尾に。

 

猿山岬

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猿山岬。先端先に不思議な光のようなものが見える。猿山も義経伝説の宝庫。

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地産地消文化情報誌 能登』第9号 2012年秋号より

 

亀甲石

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門前町

 

千枚田

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旅の終わり。門前あたりから見えていたのは虹だった。

デュークエイセス「日本のうた」の石川版は「ひとり旅」。

永六輔の詞は

♪1番

 あなたから 遠く離れて

 愛の終わりを 噛みしめる

 汽笛もはるか ひとり旅

 哀しや奥能登 灰色の海

 泣いてくれるか 雪の奥能登

である。

 若い頃は、能登灰色の海のステレオに反発を感じていたが、

 「泣いてくれるかー」に、共に手を取って悲しみ合ってくれる能登の自然を描け・感るようになって、しみじみと味わえるようになった。

 写真は、幸せそうな男女が 日本海を眺めているのを、左側の男性の後ろ姿を画面には、入れずに雰囲気をだそうとしたが、あわなかった。

あくまで「ひとり旅」は、フト流れたメロディである。

 

おまけ

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26日 千里浜道の駅で。


※ヤセの断崖・義経船隠し

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2010年7月19日撮影。この真東が高爪山山頂。

この付近から、修験の霊山・高爪を目指した修験者たちが多くいたようである。

高爪で和歌を詠んだ人物は、串稲田姫行基菩薩・俊寛僧都・平康頼・小督の局・見仏上人・平貞盛源頼朝義経義経北の方・弁慶・常陸海尊などで、それぞれが詠んだという和歌が伝わっている(『富来町史 続資料編』「大福寺(高爪神社)由緒覚書」昭和51年刊、651頁~)。海の修験道に相応しいこの地を訪ねたのが五来重先生で、一番弟子の佐々木孝正先生の一周忌・山岳宗教叢書が完結した年(1985年)のことだった。この日我が家に泊まられ、今日とは逆回りで先生を案内した。

その時、先生は「西山君、海の修験道研究はこれから百年かかりますよ…」とおっしゃった。海の修験道という聞き慣れない言葉を聞いたのは初めてで、その時の言葉=海伏を、このブログのタイトルに使わせていただいている。

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五来重先生。ヤセの断崖口(関野鼻)で。1985年6月16日。お生まれになったのは1908年だから、この時、77~8歳。若々しくて、70歳頃においでになったぐらいに思っていた。

 

松本清張歌碑

清張の代表作の一つ、「ゼロの焦点」の重要な舞台となったのがこの地。

能登ブームの中で、「かなし」こともあった。

それを悼んで清張の碑が建てられた。

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写真 2010年7月19日

 

清張歌碑除幕式 昭和36年

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『写真アルバム能登半島の昭和』(いき出版2014年刊、236頁より)

写真説明を富来地区は、当時富来町郷土史研究会会長だった故・本多達郎先生にお願いした。本多さんは

松本清張が「雲たれて ひとりたけれる荒波を かなしと思へり能登の初旅」と刻まれた自らの歌碑の除幕式に、長女と長男を連れて出席。この地は「ゼロの焦点」の舞台となった場所である。清張は歌が苦手で大学生の長女に見てもらい書いたのだと告白している。〈旧富来町・昭和36年

 

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この色紙は、清張が講演に珠洲に訪れた際に、私の2年先輩が書いて貰ったもの。

先輩が病で亡くなる数年前に、形見としていただいた。

句碑は「清張」のみ。色紙には「松本」も入っている。

 

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この茶碗の文字が、清張の句歌である。

今までずーっと横川巴人の字だと思っていた。

今、茶碗の字が清張の歌だと気づいた。旧羽咋郡の某寺所蔵である。