2月27日(日)午後の春勧化お参りに間に合うよう、とんぼ返りで羽咋へ行ってきた。その折、別所岳パーキングエリアで珍しい光景に出会った。
午前9時頃だったのに一台も車がいないのだ。
珍しさが別所岳の想い出につながっていった。
別所岳は男体・女体の二子山で、正面向かって右が女岳
左が雄岳である。
古代の様相を呈している山岳なのに、神社がない。
元々比咩神がおいでになったのだけれど、比古神のいる山岳と背比べをして負け、
嫁いだので神がいないのだ。
その相手は、伊須流岐比古(石動山)だったり虫ヶ峰(釶内山)だったりする。
2009年10月17日。2007年3月25日の能登沖地震で道路そのものが変わってしまった。
これは地震前の光景。2004年8月26日11時。
別所岳女岳山頂近くの坂で、「布引坂」の名がある。
山の背比べに負けた別所比咩が、機織機と織っていた布を引きずりながらこの道を下って、嫁いでいったため「布引」坂の名が付いた伝わっている。
背比べには、丁度麓を通りかかった弁慶が、比咩神の応援に付き、大岩を海から運び上げている途中に「背比べ」が行われ、弁慶がたどり着いた時には、布引のあとがあるのみで比咩神の姿はなく、悲しみの中で弁慶は大石を谷向こうに投げ捨てて去ったという。
雄岳側の坂。1993年頃撮影(1994年『図説中島町史』に「布引坂」の写真を使用)
山頂から能登島・島別所方面。2005年4月18日16時撮影。
能登の大橋
1995年に刊行した『中島町史 資料編上巻』執筆のため、何度も別所岳に行った。
その時、別所集落の奥に「能登の大橋」と呼ぶ橋があることを知った。
橋名は、長い地域歴史・文化を担った名が付いていることが多い。
「能登の大橋」ーそんな大仰な名を持つ橋が山奥とでもいうべきところにあるなどと、首をかしげながら、在所の人に案内してもらった。
下の写真の橋が「能登の大橋」だとおっしゃる。
昔からこの石橋を「能登の大橋」といってきたのだという。
しかも、この石は地蔵様で、踏んで渡るのは勿体ないので、たびたび起こすのだが,その都度私を踏んで渡ってくれと、倒れてしまうという。
橋は裏向きで、表に地蔵菩薩(線刻?種子?)が彫ってあるのだともおっしゃっていた。
覗いてシャッターを切ったが、地蔵さんかどうかは分からなかった。
中島町は様々な地蔵さん(板碑、宝篋印塔)の宝庫で、町史には、81体の地蔵(と呼ばれている物も含む)を調べ一覧表にした。
この大橋は81体には含めなかったが、全国的に地蔵が橋となって人々の川渡りの苦を代わって引き受ける(代受苦)話があり、
地蔵・橋なら、大橋を名乗って来たのは不思議じゃない、と今は思っている。
しかし、現今、この橋のことを知っている人がどれくらいおいでるのだろう…?
弁慶石
弁慶が投げ捨てていったと伝わる大石である。
里山海道「鹿島跨橋」のすぐ側にある。撮影2004年8月27日12時。
雨乞い石だった。
見附島
同日夕方、春勧化満座後、見附海岸に行った。
ここでも、見たことがない景色に出会った。
見附から赤崎にかけて、大きな船が並んで風よけをしているのだ。
波浪警報だったか、注意報だかが出ていたが、このような形で複数の大型船が待機しているのを見るのは初めて。
船の大きさを知るために撮った写真だが、あらためて見附二島の一つが昨年、消滅したことを実感する。鳥居の右横に島があったのだ。
黒峰
見附海岸の反対側は黒峰(宝立三山の一つ)。
石川県の公立高校で旧中学校時代からの校歌を歌っているのは飯田高校だけだが、
♪白雲棚引く宝立の峯 茂れる木立に黒ずみわたり…(作詩・鴻巣盛廣)
の、「茂れる木立に」の「に」を、長い間「茂れる木立は」と歌っていた。
ある時、どなただったかが原詩を確かめたら、「は」ではなく「に」であることに気づき、それからは原詩どおり「木立に」と歌うことになったのだけれど、百周年記念の時には、ずいぶん「いつから、「木立は」が「に」になったげ?」との声があった。