小さな小さな旅ー猿鬼ー宮・大箱ー
写真が語るものー退職、父の還帰、日本宗教民俗学会発足の頃-
例年なら、春勧化(はるがんけ)の準備にいそしんでいる頃だが、御門徒宅の地域御座(おざ)である春勧化は、待ち焦がれた春の息吹を感じながら行う、どこかこころ弾む行事であるがゆえに、密閉・密集・密接のいわゆる3密は避けられず、中止せざるを得なくなった。
そのぶん時間があるので、ボツボツといろんなものを整理している。
上にあげた写真は、メンバーから日本宗教民俗研究会関係だということは見当が付いていたが、いつの何の写真かは分からないままでいた。
これに違いないと、昔のdeskdiary見ながら写真裏に書き込んでおいたのが
平成元年12月16日(土)、1C・3E授業の後、京都へ。
だった。
この年、内浦6校の執行委員を引き受けており毎週木曜ごとに金沢で執行委員会、校務分掌は進学(主として補習担当)、クラブは22・23日のテニスインドア大会で団体2位、(ちなみに翌年2月17・18日上越リージョン・プラザでの北信越大会では、飯田4:0富山、4:2三条、4:2県工、2:4?で3位)、引率顧問でなく一緒に練習・試合をするタイプだったので、なんやかんやとめちゃめちゃ忙しかったはずなのに、12月16日(土)の18時からの宗教民俗学会会議に参加している。
その日のことが整理中の「日本宗教民俗学研究会通信 第0号」(1989年12月16日)に載っていたので、引用する。
○日本宗教民俗学研究会の発足経過について
以前から御案内がありました「日本宗教民俗学研究会」の発足について、去る12月16日(土)午後6時から、アバンティホール会議室において、御賛同を頂いた28名のうち、次の会員の方が出席して、当会の発足次第(案)について、第一回目の検討をいたしましたので、御通知致します。
〔出席者〕日野西真定、伊藤芳江、山田知子、斉藤寿始子、栖川隆道、豊島修、西山郷史、木場明志、中川義晶、大森恵子各氏の10名
この時、役員が決められ、次の人が役員になっておられる。
会長 五来重 幹事(世話人)日野西真定、吉田清、豊島修、木場明志、大森恵子、
会場設営係 山田知子、斉藤寿始子 会計係 中川義晶 記録係 大森恵子
フーンだが、記憶にないとはいえ、当方のメモ書きと通信の記録があるのだから参加していることは間違いない。
写真には日野西氏(以下敬称略)、豊島、木場、大森、山田、中川が写っており、斉藤さん(実際は斎藤)と吉田さんは分からない。
これもさらに、かつてだが、大谷大学の児童文化クラブ員で斎藤先生に習っていた方に、この写真を見てもらったのだが斎藤さんは入っていないという。
それに、名畑先生が2列目に立っておいでるのに、私がスーツを着て一列目に座っているのは、偉そうだなァーの疑問はあったのだけど、
よく遠くから来たなぁーと歓待され、「能登の人」だけで通ることがあったので、この時も能登先端の人の威力で前に座ったのだろう、と納得していた。
じっくり、宗教民俗学研究会通信を見ていくと、ナ、ナ、ナーンと
日本宗教民俗学研究会第一回大会で発表しているではないか!
発足からほぼ1年半後の1991年6月15日(土)である。
~たら、ればはないのだが、これが翌年の6月だったら、14日(木)郷土史クラブを引率して加賀市へ、15日授業の後、テニス北信越大会の打ち合わせ。16~18日北信越大会。
団体戦で飯田3:0富山東、2:1長野伊那弥生ヶ丘、2:0羽咋、決勝2:0県工と、石川国体強化校を破って優勝していた時なのだ。
会場が能都(当時は能都)町テニスコートだったので、女子の方の決勝審判を飯田高校の一年生テニス部員がしていた。男子が先に優勝が決まったので、彼らは審判席でたまらず万歳をして、本部席の他校監督たちから笑顔の顰蹙を買ったものだった。
その翌年の同時期、大谷大学多目的ホールというところで、研究発表をしていたのだ。
あらためて写真を見てみよう。
前列右から(敬称略)、田中義廣 、中澤成晃、鈴木昭英、日野西眞定、豊島修、西山郷史、?
二列目 ?、根井浄、名畑崇、?、大森恵子、?、?、中川義晶
三列目 ?、?、?、?、本林靖久、山田知子、?、木場明志、岩田博(岩田書院社長)
分からない人も多いとはいえ、この時の写真に間違いない。
プログラム3が〔記念撮影〕となっている。
一列目に座っている理由もはっきりしたし、よく見れば、12月にしちゃ涼しげな服装の人が多いじゃないか。
ちなみに、前列右端の田中義廣さんはまつり同好会を主催しておられ、「まつり」「祭り通信」を発行なさっていた。祖母が日本最初の女医、あるいは女医が建てた病院だとかといい、名古屋のお医者さんだった。
気が合って一度、日銀のパリ支店長の逆、パリ銀行の日本支店長とか言う人と若きフランス人二人ほど、パリの音楽学校ピアノ科を主席で卒業し、帰国してまもなくだという鮫島有美子氏の妹が泊まっていったことがある。
外国人は派手な生活をしているのだろうと思っていたのが、ビールの飲み方からして質素なのに驚いたものだった。
ちなみにのちなみにで、我が家に泊まって行かれたビックスリーはこの田中さん、五来重先生、真継伸彦氏としている。
研究発表のプログラムを見ると私だけ手書きになっている。
日々がそのまま流れていたら、北信越大会で優勝したメンバーに、全中で優勝したメンバーが二年生となっていて、さらに強力な布陣を擁するテニス部顧問なままだったら、この日、そこにいなかったはずだ。
こはいかに?
この年の2月13日、風邪気味だった父の熱が下がらず、義父の七回忌で連れ合いの里・東京赤羽から帰るのを待って、父は七中時代の同級生神野さんの経営する病院(神野病院改め恵寿病院)に検査入院した。
前々から神野さんは父に、70になったのだし一度検査に来いよ、と言っていたその約束もあって、楽しみながら入院したのだった。
2月15日授業を終え、上越市で行われるテニスインドア大会個人戦に出場する東崎・稲谷君を車に乗せ、総体の飯田高校宿にしている金沢の「みな美」旅館に向かった。
途中病院に寄って見舞ったら、確か血液検査中だとのこと。17日午前中で試合を終え、高岡あたりから風雪が激しくなる中、鵜川中出身の二人を鵜川で降ろし、家に着いたのが午後9時。
当時、公立高校では特色ある学校作り事業ということをやっており、飯田高校は夜・中央公民館を主会場に、教員の公開講座をやっていた。
その人選。テーマなどを私がやっていたため、翌18日はその会議ため雪道を金沢へ(会場はノートに書いてない)。
この日、新潟、青梅付近は列車が通らず、飯田からは馬渡の坂を車が登れず、海岸通りへ迂回して午後の会議に。
帰りに病院へ寄り、若い担当医に詳しく様子を聞くと、半年くらい入院しなければならないのではないか?とおっしゃる。
半年!
4日後の、22日から昼・夜の春勧化が始まる。
校務分掌ーこの時は進学係、
テニスと郷土史のクラブ顧問、
それに1月だけで「法住寺縁起について」30枚『北陸の民俗』、「オザ」に見る農民の宗教活動」21枚、「奥能登地方にみるアエノコト行事」26枚、以上『人づくり風土記 石川』、緊急調査諸職の原稿見本「ホウライ飾り」12枚を書き上げ、
日本宗教民俗研究会から木場氏を通して「真宗と宗教民俗」の依頼も入っていた。
翌19日、授業を終え、帰宅してから6ヶ月の重みに耐えられるか?
ギリギリの現状に父の代わりの僧としての仕事、
七尾への見舞いーなど
そのような今後引き受けていかなければならないことを考え、来し方を本堂阿弥陀様の前で思い、
19年の教員生活を退くしか方法がないのでは、との結論に達した。
その後、人事異動に影響が出ない頃に退職の意思を伝えるとすれば、を調べると3月1日がギリギリらしく、
26日、弟に辞める旨を電話した。
「どっちでもいいけど することあるがか?」
「本、読んどってもいいもんな」と応答している。
自分を納得させるのに「本」を使っている。
3月1日。県教委に退職願いを提出。
同日病院へ行き、父にその旨を伝えた。
いつ寝ているか分からないような私の日々を知っているだけに、
父は「寺もヒマやぞ」と、一言だけ言葉にした。
8日(金)誰も知らないが、私にとって最後の卒業式。
9日(土)父の実家・江曽のいとこと見舞う。家へ帰るぞ!と、ベッドから降りよう
としたので、もう少し見てもらってからね…と慰める。
翌10日(日)には弟が東京から見舞い、夜行で帰る。
この日は午前中お年忌、金大の合格者発表日だったため、16時半頃合格者たちが学校に報告に来、その生徒たちと対応。
ところが、翌11日、朝6時に病院にいる母から電話が入り、父の容態がおかしいという。
連れ合いと七尾を目指すが、やはり馬渡は雪で上がれず、海沿い道に出て七尾へ向かい、途中の公衆電話から年休願いを教頭さんにしたのだが、すごく不服そうだったので、この日が入試当日だったのだと今の今まで思っていたのだが、11日は準備日だった。
病院へ着いたとき、父はすでに息を引き取っていた。
示寂7時2分。
弟は上野について、まもなく父の西帰を知らされトンボがえり。
写真に戻る。
6月15日は、教員ではなかったのだ。それどころか、父の100日法要3日前。
13・14日は、輪島へ通い、宗教法人の住職として必ず有していなければならない資格・防火管理者の講習を受けていた。
発表タイトルを考え送っている余裕などなかった。そのことが手書きのタイトルに表れている。
ノートを見ると木場氏の依頼の後、4月11日(木)に豊島さんから原稿の催促を頂いている。
その日は父の月忌命日のお参り、本山収骨をどうすればいいかを教務員から聞き、責任役員任命のための印を総代さんから集める、などで、申し訳ないが豊島さんの願いを記憶に留めておけないような環境変化だったのだ。
この時、ちゃんと原稿をお渡ししていたら、宗教民俗研究会は私の中に、もっと大きく生き続けていただろう。
その後は、調査する立場から、調査対象の中に身を置くことになって、お寺行事の季節の調査は出来ず、いくつかの市町村史調査も、おのずから宮・まつり・コト関係調査に比重が移っていった。
そのころよく使った、語り部・古老そのものに、今の自分がなっている。
今年で、ちょうど満30年を迎える「写真が語るもの」である。
ところで、初期のメンバーにはどういう人たちがおいでるのか、2号(1990年1月)以下に載る例会参加者を見ていくと、
栖川隆道、須田勝嶄仁、根井浄、横山俊夫、吉田清、石川稔子、山香茂、上別府茂、木村至宏、本林靖久、菊地武、平野寿則といった方々の名が見え、9号に
これも何と、私が例会に参加している。
1990年8月例会で、この年の夏期休暇中は連日の補習、郷土史クラブは秋の学校祭に向けて珠洲市の狛犬調査、テニスは4日から8日に開かれた仙台インターハイに鳥毛兄弟チーム引率。途中東京で『蓮如と真宗行事』(オリエントブックス)を出版することになっていた木耳社に寄っている。
この本は日本民俗学167号(昭和61年9月)に載った「真宗と民間信仰の研究ー能登のコンゴウ参り習俗を通してー」を軸にしたもので、オリエントブックスに『生と死の民俗史』を出しておいでた新谷尚紀氏が間に入られて一冊になったもの。
仙台から帰った7日に150冊届いていた。
例会は25日だったようだ。
1990年8月例会の記事
2、研究発表
西山郷史氏によって同著『蓮如と真宗行事』(木耳社、1990年8月、1700円)の研究・編集上の苦心談を語ってもらい、つづいて「法住寺縁起について」と題して、配付資料(別紙)にもとづいて、能登吼木山法住寺縁起の開創由来を主として発表。その後出席者から活発な質疑が行われた。遠方の会員である同氏の研究姿勢と精力的な調査研究に深い感銘を受けた(豊島)
これも驚きだった。例会にどんな人たちが参加してるのだろう?10号あたりまで見てみよう、との気を起こさなかったら、こんなことがあったことは、記憶から消えたままになっていたはずだ。
そういえば、かすかな記憶に(法住寺の)白山信仰が近世初頭だと思う、と話したとき、日野西さんが平安まで行くんじゃないと言ったことがあった。
そんなシーンが現実にあったとは思われず、あれはなんだろう、と思っていたそれが、この会だったのだ。
今頃になって、いろんなことがつながりだしている。
diaryを見ると、翌日、北陸三県民俗の会が福井県立博物館で開催され、発表・シンポをこなしていた。
22、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉓―豊四郎順拝113~118 文化六年-1809 武州・下総
親鸞聖人御直筆
本尊面向阿弥陀如来
摂取山
光増寺
114 関宿中戸 常敬寺
下總國葛飾郡關宿中戸村
中戸山西光院常敬寺
鎌倉将軍惟康親王御建立
亀山院後宇田院兩帝勅願所
高祖聖人御孫唯善上人開基
具如別録
月番 圓乗筆
八月五日
115 上幸嶋庄一ノ谷 妙安寺
總州上幸嶋庄一ノ谷村一谷山大法院妙安寺ハ
祖師聖人第六之御遺弟開基成然上人江
御付属之 御真影百四十余年之御安座其後
三村前橋ニ二百年之余御移転又前橋より
御本山江御遷堂被為在是則一ノ谷最初安置の
旧跡殊ニ成然上人文永二乙丑年十月十日遷化之
寶物ホ數多畧之
役者
116 猨嶋郡三村 妙安寺
下總國猨嶋郡三村
一谷山最頂院妙安寺
関東二十四輩第六之御直弟
成然上人旧跡上州前橋妙安寺
兼帯所也
巳八月七日 輪番
117 長須 阿弥陀寺
御朱印地 總州長須村
屈施龍山 稱名院阿弥陀寺
高祖聖人御旧跡也
左へ御旅之御願御筆
宝物数多
八月七日 役僧
118 野田 西念寺
二十四輩山第七野田
西念御房開基也
下總国邊田村
八月八日 執事
21、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉒―豊四郎順拝105~112 文化六年-1809 信州
104-2 飛州高山 御坊
飛州高山
御坊
文化六年
巳 五月三日
役者
105 信州小松 安養寺
信州
小松安養寺
開基西念坊道祐
祖師聖人御旧跡
蓮如御留逗之地
文化五巳 五月十日 月番
憶念寺
106 信州松本栗林郷 大寶山高綱院正行寺
信州松本栗林郷
大寶山高綱院正行寺
祖師聖人御舊跡
寶物縁起別記
巳ノ五月十一日 當山 知事
※本願寺派
107 信州松本 北林山福野 極楽寺
信州松本城下
北林山福野極楽寺
祖師
御旧跡
蓮師
宝物略之
當番
巳五月十一日 善福寺
※深志2丁目
108 信州松本 木曽山義仲院 長称寺
信州松本城東
木曽山義仲院長称寺
高祖聖人五年 御逗留
御舊跡
役寺
巳 五月十一日 □□寺
※大谷派 女鳥羽2丁目
109 松本 大寶山 佐々木正行寺
信州松本城下大寶山
佐々木正行寺佐々木四郎高綱
則 聖人御直弟子也宝物略之
當番
御坊 妙勝寺
※大谷派
110 信州更級郡塩崎関 向鳥山康楽寺
信州更級郡塩崎関
向鳥山康楽寺は開基
木曽太夫廣前時の旧跡なり
一 開山聖人御木像 六十三歳御自作
一 元祖色□尊像 日本一□
一 御本傳横巻四軸 宗門御繪傳のはしめ
右之外寶物令畧者也
年月仝前 當番 役寺
※本願寺派
111 松本新田 本誓寺
本願寺御門跡院家信州松本新田本誓寺
宗祖聖人御建真弟是信上人相承也
一 本尊瀬踏弥陀如来 太祖聖人御安置
御當家御判物葵 御紋附宮殿等 御寄附
一 太祖聖人等身尊像 満八十歳御自筆
一 石摺十字御名号 太祖聖人御真筆
二十四輩十嗣
右外別記 寂林山 知事
112 信州 紫阿弥陀堂
信州紫阿弥陀堂
十字御名号
親鸞聖人御筆
其外宝物有 別当 吉池主計
※上高井郡高山村高井 一茶ゆかりの里一茶館に、コピー送付。問い合わせ。
高山村なかひら地 大字中山 高山五大桜の一つがあり、その下に紫阿弥陀堂があった。一茶館には父のみとり日記(多くが「終焉日記」としている)原本がある。
西谷啓治氏の歩み-写真二点
今日2月12日(金)、西谷啓治氏のお嬢さん・矢田敏子さんから、写真集などをいただいた。多謝…。
西谷啓治氏は,一言で言うと1900年(明治33年)2月27日 - 1990年(平成2年) 11月24日)は、日本の哲学者(宗教哲学)。京都学派。京都大学名誉教授、文化功労者。
ここに転載したのは、敏子さんから送って頂いたイースタンブッディストに掲載された写真。
敏子さんの文より
写真集は,三十年前、父が逝くなりました折に作って頂いたものです。
父は晩年、大拙先生から引き継いでイースタンブッディストという英文雑誌の編集をしておりました。
その関係で、雑誌の追悼特別号を発行して下さいました。
「なかなかいいものできあがっている思っております」とお書きになっておられるように,20葉の写真は、子供の頃から、Heidegger(ハイデッガー)と語り合っている72歳の時の写真など、どれもが貴重な写真ばかりだ。
その中から、7ページの写真2葉を選んで,ここに載せた。
上の写真は,私が生まれた年(早生まれ)。
柳宗悦さんがおいでる。
敬称略で、前列左2人目から、古田紹欽、西谷啓治、鈴木大拙、柳宗悦
下の写真 32年後である。
左から 西谷啓治、古田紹欽,鈴木大拙、源Ryoen?、岡村美穂子、湯川秀樹。
ええ!湯川秀樹!
岡村氏は鈴木大拙館(金沢市本多町)の名誉館長のはずだし、→"HONGAN”(近々のブログで)
イースタンブッディストは学の大成―大拙と大谷大学― (otani.ac.jp)
『大門素麺』『古代越中の万葉料理』経沢信弘さん 春のあえのこと 供物・食材 20210209
あえのこと見学のついでに、経沢信弘さんが寄って行かれた。
前においでたとき、経沢さんが出版なさった『大門素麺』(2019年4月 桂書房刊)を手に入れにくいといっていた、それを覚えておいでになり、『古代越中の万葉料理』(2017年5月 同書房刊)と共にくださった。
綺麗で、万葉・考古・英文にいたる幅広く深い内容。たとえば万葉の赤米の再現のために種子島宝満神社の赤米神事に足を運び、器を家持時代の遺跡発掘品から選ぶといったように、一品一品、一枚一枚がとてつもなく貴重なページになっている。
『古代越中の万葉料理』、P4有澤善允氏「氷見海岸」。
P44
宝住池Ⅴ遺跡は太閤山カントリークラブ地内遺跡群。P62~63
P46~47には「訳」。
とある。
昨日(2月9日)、「塩釜の行方」「塩釜の行方と真浦 塩竈神社」の二本を書いており、引き続き塩竈神社に出会うとは思わなかった。
してみると、釜があったのは,末社境内だったのだろうか?
「藻塩」を代表例として選んだのは、来月13日(土)小木公民館で講義する柱の一つに藻塩~揚浜塩田を考えていることもある。しっかり勉強しよう。
大伴家持の春巡行の鵜飼について(同書、P78部分)
大門素麺 0kado Somen
砺波市大門は身近だけど、さらに蛸島素麺、輪島素麺、おさよと粉ひき歌(麦屋節)など、さらに身近な世界が待っていた。
経沢さんは大阪その後、ニューヨークで4年料理修業に出かけられ、帰国後「割烹まる十」店主として,広く深く活躍なさっておいでる。
あえのこと
塩釜の行方 真浦 塩竈神社
1月31日のブログに
かつてこの地(珠洲市真浦町)にあった塩釜が、仙台の塩竈神社境内に移されてあった。
その塩釜に出会ったのは偶然で、テニス部の鳥毛兄弟、同じ日置中出身の机谷・鴨谷ペアたちと仙台インターハイに行った折、試合後、松島・瑞巌寺・塩竈神社を見学した。その時、塩竈神社境内の目立つ所に、真浦にあった塩釜が仙台の地にあるいわれを書いた説明札と共に展示されていたのである。
数年前、当時の珠洲塩田村館長の横道さんが、塩竈神社へ見に行ったのだが、見当たらなかったとのこと。なら、せめて写真を…と探すのだが見つからない。
塩釜が錆びるのは早く、引率したのは1990年(平成2年)で、もう31年も経っている。
やっぱり写真だけでも…だ。
〈追記〉
1990年(平成2年)8月6日撮影 塩竈神社の写真が見つかった。宮城県塩竈神社境内
説明板
煎熬(せんごう)用平釜
この釜は石川県能登半島 (揚浜式塩田)で 昔使われていたもので 濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです。
とある。真浦も、真浦観光センターーホテルニューまうらーにも一言も触れていないが、ニューまうらの入り口で見たか、その頃には経緯をたどれたので、説明板に書いてあった、と記憶がかぶさっていたもののようだ。
でも、写真が出てきてよかった。非常に大きな平釜である。すでに錆による劣化が進んでおり、下の方も崩れていく寸前のようだ。ーどうなったのだろう。
引き続き、「ホテルニューまうら」を知るため、次のメモを引用した。
【メモ】ホテルニューまうら=1963(昭和38)年開業。北陸鉄道の子会社「真浦観光センター」が運営。地元食材を生かした「あえのこと料理」、「波の花」が見られる海岸近くのロケーションなどが人気を集めた。プロが選ぶ日本旅館100選に何度も入賞した。ピークの91年は年間6万5000人が利用。バブル崩壊や能登沖地震、ナホトカ号重油流出事故などで客足が減り2000年12月廃業した。(北陸中日新聞」2020年6月21日より)
このメモの本文が、北陸中日新聞の次の記事である。
往時の姿 追憶誌で後世に
珠洲で38年営業 ホテルニューまうら
2020年6月21日 05時00分 (6月21日 11時07分更新)
珠洲市真浦町で二〇〇〇(平成十二)年まで三十八年営業し、能登観光ブームを支えた「ホテルニューまうら」の往時を紹介する追憶誌が完成した。ホテルOBらでつくる「まうら友の会」発行。全国から観光客が押し寄せた状況も分かる。編集した元社長の星場与一さん(88)=中能登町西馬場=は「自分を育てていただいたホテルを後世に伝えたい。皆さんの協力で仕上がった」と感謝する。(室木泰彦)
開業当時、映画「忘却の花びら」で隣接する輪島市曽々木海岸がロケ舞台となり能登ブームの契機に。曽々木と真浦間にトンネルも開通し、ホテルも奥能登の誘客を支えた。
星場さんは一九八九〜九八年に社長、その後二〇〇〇年まで取締役を務めた。施設改良、宿泊客に定置網の陸揚げ見学を楽しんでもらう企画、十年連続で修学旅行で訪れた愛知県立安城東高校との交流、防災研修など、ホテルの歩みを写真や新聞記事などで紹介している。
星場さんの社長時代は宿泊者数などの営業実績も掲載。バブル崩壊で観光客が減った厳しい現実もうかがえる。御陣乗太鼓演奏、団体客出迎えや新入社員歓迎式、改装工事、OB友の会(真志会)発会など写真も多数掲載。一八年に跡地にホテルを後世に伝える看板を設置したことも伝えている。
七〇〜九一年に支配人だった中井敏雄さん(78)=金沢市上荒屋=は八〇年から手書きのミニ新聞を月一回発行した。毎月六百部で百七十五号まで発行。ホテルだけでなく能登全体の観光情報も掲載し、全国の関係者に配布しホテルPRに貢献した。「東京や大阪、名古屋などに行くと新聞を作る人として顔パスだった。反響がうれしかった」と振り返る。中井さんは追憶誌に写真など貴重な資料を提供した。(以下略)
記憶が頼りだけのブログ記事を元社長藤岡與一さんに送った。
すると、翌日すぐにお電話があり、貴重な『追憶誌』と、観光センター(ホテルニューまうら)にあった塩釜の写真送って下さった。
塩竈神社で、真浦にあった塩釜だ!と思ったのは、私は、「重要有形民俗文化財能登の揚浜製塩用具」の調査員をしており、角花家の製塩技術指定にも関わり、塩釜を見る機会がかなりあった。
その中でも、ニューまうらにあった釜は優品で深く記憶に刻まれていたのだった。
「追憶誌」には、さらなる歴史が載っていた。
この文を書くまで、昭和20年製造。26年まで真浦海岸で使用、平成5年ニュー真浦玄関右に展示。
そして、塩竈神社へ。テニス部員と能登の塩釜があることを知り、撮影。
のはずだったが、仙台インターハイは平成2年。
その頃のホテルは、御陣乗太鼓の初めてのビデオを作り販売したり、利用客が6万人近くの最盛期のころだった。
となれば、仙台にあったのは別なところからものになる。良く写真を比較してみると、やはり違うようだ。
塩田地域に大きな平釜があり、そのうちの何点かが展示され、塩の歴史を語った。その例の塩釜たちだった、ということになる。
節分 平太郎の熊野参詣 2-2
平太郎なにがしといふ庶民あり(御伝鈔・本願寺聖人伝絵『真宗聖典』P735)
大泉寺は浄土宗。九条兼実の別邸花園院跡と伝わり、御流罪前の聖人夫婦生活地伝承地でもある。親鸞聖人伝承地見学があり木場明志氏が案内してくれた。
常陸の国那珂西郡大部郷に、平太郎なにがし…
或時、件の平太郎、庶務に駆られて熊野へ詣すべしとて…聖人へまいりたるに…
はたして無爲に参着の夜、件の男夢に告げて云わく、
証誠殿の扉をおしひらきて衣冠ただしき俗人仰せられて云わく、
汝何ぞ我を忽緒して汚穢不淨にして参詣するや、と。
爾時かの俗人に対座して聖人忽爾として見え給う
その縁のお寺があり、その場面の摺物があることに驚いた。しかも浄土宗寺院。
もっとも驚いたのは「平太郎という庶民」がズーーと抱いてきた「庶民」像と違っていたこと。
左の人物が「衣冠正しき俗人」=熊野権現、右が「忽爾として見え給う」た親鸞聖人。熊野権現(本地阿弥陀如来)に合掌する人物が、いうまでもなく「平太郎」。
御伝鈔には,汝・平太郎よ、どうして我・熊野神を忽緒(コッショ,軽んずる)して、汚穢不淨のまま,参詣するのか、と
なので、2-1にも書いたように,中学2年から長年ー庶民・汚穢不淨ーイメージで平太郎を想像していたので、浅野内匠頭みたいと思ってしまった。
この場面を摺った一枚で次のものもある。
飯田町の藩政期には船主だったであろう家に伝わったいたもの。
祖師聖人、熊野権現、平太郎は平太良維房とあり、左に覚如上人真筆、花押とある凝ったものだ。
この話の元である「御伝鈔」は永仁3年(1295)覚如上人が染筆なさったのだから、そのことを教えてくれる貴重な参詣土産である。
平太郞開基の真仏寺には聖人お田植え歌が伝わっており、その摺り物も同家の掛け軸仕立てに。
私は二十四輩へいけないままにいることもあって、
すぐ近くのおうちのご先祖が、このような旅をなさっていたことに、自失の念にかられるーいつかは、いつまでもいつか
節分 平太郞
毎年、節分の夜は,門徒寺に、定まって,平太郞殿の事讃談せらるるなり。聞くたびに、替らぬ事ながら、殊勝なる義なれば、老若男女ともに参詣多し。
とある。
西鶴の元禄期は、寺檀制度の確立、幕藩体制が安定してきた時期で、仏教各宗は、様々な活動を展開した。その中で女性妙好人の代表としての『妙好人千代尼』を書いたが、その頃に,節分には「平太郞殿事讃談」お説教がおこなわれていたというのである。
このことに詳しいのは、『真宗史料集成 第十巻 法論と庶民教化』(柏原祐泉編・解題、同朋社出版)で、そこには「節分夜平太郞縁起法談/空慧・浄慧」「常陸平太郞事跡談/無染衲子」の談義本2編が納められており、平太郞と節分や身近な行事を通し、真宗教義がわかりやすく語られている。
節分夜平太郞縁起法談
節分の夜は熬大豆を撒き,鰯の頭を窓に刺す。都人は~とあって、
節分目指して熊野参詣に向かう平太郞が、その途次、都においでる聖人に心得を聞きに寄る場面。領主佐竹季賢は熊野信心の人で、宿願があって毎年年越しの夜熊野で年籠りしており、その供として平太郞が熊野にむかうことになったことが分かる。P742
同書は
願乗寺権律師浄恵述 宝暦十三年(1763)癸未稔臘月写之 釈恵実
常陸平太郞事跡談
事跡談は全漢字にふりがなを振り、上のような挿絵10葉、全5段の相当長い平太郞話である。
寛政8年(1796)丙辰年中冬 安堂寺町5丁目 田村九兵衛
大坂書肆 高麗橋壱丁目 北尾善七
真宗史料集成は編集委員に柏原祐泉・千葉乗隆・平松礼三・森龍吉氏を擁し、昭和49年~57年、全13巻の質量ともに最高・最大の史料集で、図書館などで読むことが出来るが、あるとき、『新編平太郞一代記』なる書籍がヨコノ書店という書店から出版されていることを知った。
そのうちヨコノ書店が金沢にある書店名だと知り、2008年に探し歩いた。
ようやく書店にたどり着き、一冊だけ残っていた『新釈平太郞一代記全』 を購入することが出来た。
『常陸平太郞事跡談』のさし絵と同じ。全10葉とも同じ場面で、事跡談と一代記と名は別だが同話だった。
『新編平太郞一代記』序文
信心定まる時、往生定まる」(御文一の15意訳)真宗の肝要は、この一語に定まり、三経一論の深意もこの一句につきる。
然るに、この信心は当流では他宗と相異なり、他力廻向に依るものであって、我等凡夫の起こすところの信心ではないとする。(御文二の13)
佛智の起こすところの信心であれば、菩薩聖者もはからう事が出来ない。いかにいわんや我等未代の凡夫をや。
ここに宿善の同行に仏智を授け、他力信心のすがたを伝える如来の代官。即ち善智識との出遇が、後生の一大事として切望されるのである。
実に「平太郎」は,開山聖人より口決面授を許された善智識の一人であった。(親鸞伝絵下の5)
又、当山に残る法脉の文中に
「我祖御歳五十九寛喜三辛酉年(一二三一)常陸国那荷西郡大部郷庶民平太郎朝盛へ利他教化之流脉を相伝し給ふ。是れ在家へ御相伝之先立達なり」云々と明記されている。家佛教として御同行の数も多いが、彼自信に関する記述は数少ない。今往古から伝わる古書が発見され、ヨコノ書店より出版の運びとなった事は我等「一念帰命」の同行信者の無上の喜びである。内容の真偽は後日の課題として「平太郎」をより知ることに依って日々の法喜法悦の増上縁ともなればと思う次第です。
一読を願いつつも、いつか古文体調でなく何人も理解できる現代文であって欲しいと思う。
選択寺 釈興隆
平成十五年六月初旬
節分に平太郞話を語っているお寺がないのだろうか?と折々に聞いたことがある。
ともあれ、加越能の地では聞いたことがない。
そのうち、平太郞が歩いたラインのお寺ー滋賀県だったと思うがーでは、結構聞法の場が開かれている、と聞いた。
が、記録も取ってなければ,いつごろ誰に聞いた話だったのかも判然としない。
メモぐらい取って、そのうちとしておいたのだと思うのだが…
はっきりしているのは。平太郞話は人気があったということ、
熊野 修験・フダラク渡海・西国33観音など、人気がある熊野。
その熊野と門徒(平太郞)が、御伝鈔に確固とした位置を占めているのに、おやりになる方がいなかったようだ。
※→桜井徳太郎氏 五来重茂を悼むー後ほど
コロナ騒ぎで大人数の集まりは無理なのだから、本堂に数名程度でいいから、小さな聞法の場を…。
多く、広くー数多くの常説教場のように…考えるべきだろう。
その、一つの話の素材として、節分には平太郞
もっと展開すれば、真宗王国とい、われているところに山車やキリコの出る盛大な祭りが多いのかを、「
熊野平太郞」話は、解きほぐすカギとなる一話でもあるのだ…。
節分 平太郎の熊野参詣 2-1
獅子岩(熊野市井戸町)1993年(平成5年)6月13日、日本宗教民俗学会研修旅行の折撮影
私が報恩講の晩、御伝鈔を拝読したのは、中学2年の時がはじめてだったーと記憶している。
父は準備その他で忙しく、国文の大学生だった叔父・前田暁賢がつきっきりで読み方を指導してくれたはずだ。
御伝鈔は巻子本の旧字体。
「ほんがんじのしんらんーでんげのげー」と声を張り上げ、まもなく、レ点、一・二点、上下点のある箇所が出てくる。
あっちいったり、こっちいったりしなければならない。
漢文を習ったのは高2の時だから、未知との遭遇。
本番では、返りきれなかった…らしい。
60年前のことなのに、外陣で叔父が見守り聞いている。ぼくは首を上げ下げしながら、いったりきたりしていて、どこへ戻っていいか分からなくなり、近くの字を読む。
おじさんの姿を目で追う。
ちょっとがっかりしながらもーうんうんとうなづいている叔父がいる。
というシーンが、一枚の写真のようにインプットされているのだ。
その部分ー
※あまり読みが遠くに飛ぶ箇所があるので,上下点があるのだと思い込んでいたが、一・二点ばかりだ。
平太郎熊野参詣
ある年から下巻全部を拝読するようになり、
「だいごだーん、ショオーニン、故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々(せいせい)夢のごとし、幻のごとし。長安洛陽の栖(すみか)も跡をとどむるに嬾(ものうし)とて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまひき…
其比、常陸国那珂西郡大部郷に平太郎なにがしといふ庶民あり。…」
からはじまる、御伝鈔で最も長い段落、「熊野参詣」文の、所々がこころにとどまり、たとえば、
「平太郎という庶民あり」とか「平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし」とかの文言が、フーッと浮かぶようになった。
熊野の思い出
熊野といえば、
住職資格を取得するための方法が見つけられず、大谷大の院に進んで資格を取れればと考えた。もちろん大谷の国史卒の父が導き出した方法だった。
入学後まもなく、院で指導教官になって下さった五来重先生が、「ロクサイネンブツ」を調べて見ないか?とおっしゃった。
時は大学闘争さなか、奨学金頼みでなんとか単位を取ろうと籍をおかせてもらった立場の者としては、あちこち調査に出かけないと調べることが出来ないという、ロクサイネンブツ調べの汽車賃捻出方法を思いつくわけも無く、
単位が取れたら珠洲へ帰り、出来れば教員になって家を継ぐことしか考えていないころに、初めて聞く「ロクサイ念仏」なんて世界に生涯関わっていけるはずがない、と、その話は霧散したのだけれど、
院に入ったといういうことは、何かテーマーを持って発表しながら深めていかなければならないということを、友・広岡君に教えられ、探し当てたテーマーが「一遍上人」だった。
いうまでもなく、中学生の頃から親しんできた「平太郎の熊野参詣」があったから、一遍上人の熊野夢告・熊野成道にたりついたのだが、聖絵はじめ,研究室の文献だけでなんとかなりそうだ、が強く後押しもした。
ゼミ(この言葉は知らなかった)内での最初の発表に、先生が質問なさる。
何か答えたのだろう。
「僕は(君が)言わんとしていることは分かったが、皆に分かるように説明しなさい…」とおっしゃり、用があるのでと席をはずされた。
あとで、広岡君が、一遍上人はやり尽くされている先生の専門だ、そこで何かしようたって(無理無理)…とアドバイスしてくれ、一遍と熊野を知ろうからはすぐ別れたが、熊野はベースとして流れて続けていった…。
その他の「熊野」
○梅津次郎先生の博士取得記念だったか?何かの記念のお返し品が、(熊野の神勅)「烏」の栓抜きで,さすがだなぁと思ったこと。
長年ビールの栓抜きで使わせて頂いたが紛失…。
○新婚旅行で、初めて熊野(那智)へ行ったこと、
○教員2年目にカウンセラーという生徒指導内に出来た新たな係を兼ねたとき、カラスに苦しむ相談者が最初で、その生徒のカラス観をちょっと変え得たこと、
○カラスに関する文を、新聞文化欄に書いたことなどなど
北國新聞(夕刊)昭和57年(1982)3月13日
かつては太陽の象徴
不吉なイメージだけ残る
夕刊文化 北國新聞(夕刊)昭和57年3月13日(土)
鴨川・鳳至川・鵜飼川など、鳥の名が冠せられている川が、能登などにある。瑞鳥(ずいちょう)もしくは神事にかかわる鳥の名であることが多い。
ところが、十人十人が嫌いだというカラスの名を用いた烏川が、珠洲市の外浦に流れ込んでいる。
小さいころから気になっていたので少し調べてみたが、この川には次のような話が伝えられている。
文治元年(一一八五年)、当地へ流された平大納言時忠が安住の地を探し求めていた折、カラスが現れて川の上流へ導いた。時忠が身につけていた守り刀「烏丸」の精の案内だとして、居を川上の平地に定めたという。山中へ分け入っていく栄華を極めた一族の末路を想像するのは哀れであるが、ここに出てくるカラスは、嫌われもののカラスとは趣を異にする。
牧歌的な付き合い
カラスは知能が高いと言われ、人家付近に住む。いわば私たちの生活圏に属しており、最も身近な鳥の一つである。それだけに子供の世界では「カラスはカアカア勘三郎」と語りかけ、夕焼け空に向かって飛ぶ姿に「カラスカラス勘左衛門手前の家が焼けるから、はよ行って水かけろ」と、はやし立てるなど、牧歌的な付き合いがあった。中村雨紅作詞の「タ焼け小焼」や野口雨情の「七つの子」も、愛すべき鳥となっている。
その一方で「カラス鳴きが悪い」との、言葉に見られるように死を予兆する不吉な烏という強烈な印象があるのも事実である。
所によっては、止まった家、尾の向いた方にととらえているところもあり、精神衛生上はなはだ具合が悪い。
カラスを嫌いと感じるのは、つまるところ、死と重なるイメージに帰着するのであろう。
時忠を道案内するカラスは、『日本書紀』に載るカラスの性格と酷似している。紀州熊野の山中で難儀していた神武天皇に、祖神天照大神が八咫(やた)鳥を遣わし、大和へ案内したという話である。
それも道理で、平家は伊勢から出、太陽神(天照大神)の使いであるカラスを神勅としていた。
恩を返す孝鳥
平家の守り神・厳島の弥山(みせん)では、今も夫婦烏によるトリバミノ神事を行っている。この神事は、熱田神宮の摂社や天照の父母イザナギ・イザナミをまつる滋賀県多賀大社でも執行され、正月行事の烏勧請(かんじょう)とともに、非日常の世界ては現在もカラスを霊鳥と意識している地方が少なくない。
古墳壁画の天長船や、法隆寺玉虫厨子(ずし)宮殿背面の太陽図に、三本足のカラスが描かれたように、さらに太陽を金烏(きんう)と呼んだように、古くカラスは太陽の象徴だったのである。その源をたずねると、中国での母神・西王母に食を運び、漢の武帝に仙桃を届けるなど、神仙思想の中で活躍した鳥でもあった。朝、姿を現し、夕日に向かって消えていく姿が太陽と結びついたらしい。
また「和名抄」では、親鳥に養われた恩を返す孝鳥とされる。これらの性格が生き続けていたなら、現在のカラスに対する思いは、よほど様子を異にしていたに違いない。
三本足のカラスは熊野神の神勅として、熊野信仰の隆盛と共に全国に喧伝されていく。津々浦々に配られた牛玉(ごおう)宝印札には、カラスの図案化したものが用いられ,起請文・誓紙としても利用された。
地方霊場でも牛玉宝印を出しており、能登・石動山のものも熊野系と見られるが、誓紙に用いられたのは圧倒的に熊野牛玉であった。「長家図録集」(石川県穴水町歴史民俗資料館刊)に載る前田利長、長元連の二つの血判起請文も熊野のものである。江戸期には遊女が盛んに利用し、誓いを反故(ほご)にすると三羽の神勅ガラスが死ぬと信じられた。
隠野(こもりの)を恵味し、霊魂の赴く地、六道世界があるとされた熊野との結びつき、これがカラスと死の連想を強めていく。
鳴き声で占い
一方、伊勢(太陽神)と熊野信仰との分離、平家滅亡の中で「カラスは過去陰陽師で吉凶を占う」(「日蓮遺文)とされていた世界は、「神書には鳥も神の使者といへり、いとあやしきことなり」(「伊勢大神宮神異記」)と意識されるようになる。
さらにおそらくカうスの鳴き声で占いをしたであろう熊野比丘尼(びくに)が 江戸中期には絵解きもせず、歌たけで国々を巡り歩くに至ったことや、山伏の地方定着化、明治初年の還俗(げんぞく)の過程で、カラス=霊鳥の物語りは、すっかり忘れ去られていった。そして、不吉さのみが今なお,日常の俗信の中に残されているのである。
○この他、一度、間違いなく熊野方面に行っている。
花の窟、徐福の何か,紀伊半島を走る電車ーこの三つが記憶にあるのだが、場面は電車のみ。花の窟,徐福は何か見たはずだ、と言葉だけの記憶。なかば夢に近い記憶しかない。
この機会に、いろいろ探してみた。
写真ファイルが見つかった。訪ねたのは、1993年(平成5年)6月13日。
日本宗教民俗学会研修旅行だったのだ。
その時の通信・案内文
別の当日日程表を見ると、
史跡見学は午前8時半~12時。
午後1時から、新宮市福祉センターで5時まで研究発表。6時から新宮ユーアイホテルというところで懇親会・泊。
駆け足見学だったのだ。
学会も合同だと幹部さんたちは学会交流に力が入り、普段学会に顔出ししていない私などの回りにいる人は、おそらく初対面の人たちだったのだろう。その年は、住職2年目の46歳。記憶が衰えている年ではなく、寺の生活に馴染むために,ただただ忙しい頃だった。
と、ようやくうっすらとした記憶しか無い理由が理解できた。
と、ここまで書いて、本題の「平太郎の熊野参詣」、節分の平太郎話お説教に-。
伝説の風景ー節分ー鬼(猿鬼・鬼神)、能登を訪れた人々ー常田(ときた)富士男さん
日本の鬼門守護神(須須神社)が鎮座する珠洲岬近くの浜を歩く常田富士男さんと「加賀・能登むかし話の旅」(金沢ケーブルテレビネットで放映)の進行役・アナウンサー増林さん。
後ろの山が山伏山。山頂に須須神社奥宮がある。右端は三崎の一つ相崎。2013年(平成25年)3月14日撮影。
常田さんは「まんが日本昔ばなし」で、市原悦子さんとともにナレーションを担当なさった。加賀・能登むかしばなしの時は、まず伝説の地を訪ね、そして語るというやり方で、常田さんは一話ごとに、むかしばなしの里を歩けることを本当に楽しんでおられた。
月に2話ずつ、1年間で24話の放送で、私は能登の14話分を選び、文を書き、いわゆる監修・担当した(1話長太狢・輪島は別の方が担当)。七尾でイベントもあったので、常田さんは少なくとも15回は能登各地をたずね、歩かれたことになる。
常田さんはその年から5年後の2018年、7月18日にご逝去・81歳。
今日は節分。
能登の「鬼」譚の一部を訪ねよう。
能登には、猿鬼、鬼神大王、鬼界ヶ島など、鬼譚がゴロゴロある。
まず
七尾の猿鬼から。
猿鬼が恐れていたシュケンとは、大きな白犬だった。元々は、白犬を連れた修験者のことだったと思う。
2013年(平成25年)8月23日(金)北國新聞
4月から放送が始まっていたのだが、私の住む珠洲は、ケーブルテレビの系列が違っていたため、作品を見たのはこの9月15日が初めて…。感動した。
旧鳳至郡の猿鬼 柳田・輪島
『地産地消文化情報誌 能登 2015年冬号 18号』 より。
ユートピア半島に生きる「鬼」ー鬼とは?
平成10年1998年2月1日(日)北國新聞朝刊・文化
本文
時に激しく、時にヒタヒタと波打ち寄せる能登には、数多くの寄り神・仏の伝承がある。
神仏が寄り来たるのは、そこに姿を留め人々を救いたいという願いがあってのことである。
もともと日本列島そのものが、東方海上の理想郷であった。
中でも能登は、羽咋が磐衝別命〈いわつくわけのみこと〉と犬が協力して作り上げたユートピアであり、
鹿島は神仙思想・常世〈とこよ〉と通じ合う地と意識されていた。
このことを物語るように七尾の東海岸には、常世と往来したといわれる少彦名〈すくなひこな〉神を祀る聖地が多い。
鳳凰が訪れた鳳至(ふげし)には、極楽国に生息するという鵠〈こう〉の巣(高洲)山もあり、
真珠が採れた珠洲(すず)は、輝きに満ち溢れる珠の洲であった。
能登はまさに古代人の憧れの凝縮した半島であり、
神仏の目当てとなるべき地だったのである。
一方、艮〈うしとら=東北〉の方角が魔軍の侵入口(鬼門)であると考えていた古代の都人は、自らを守るために幾重にも防御ラインをひいた。
平安京の北にあたる鞍馬山には最強の毘沙門天が置かれ、艮には比叡山。
白山・気多〈けた〉・須須〈すず〉の神々がその延長線上にあった。
強訴の度ごとに都に向かった白山神、
将軍地蔵と結びついた気多神、
第六魔天軍と戦った珠洲の神軍は、
さまざまな性格を有する神が担った一つの役割である。
鬼とは、人が感得できないオン(隠)であり、元々はかなり広い概念であった。
それが舞楽・散楽の面と結びついて赤鬼・青鬼のイメージとなっていく。
鬼門があるならば、門の外には鬼が住む。
都中心の見方からは、
ユートピア越の国は、ままならぬ「鬼」の跋扈(ばっこ)する地とされたのである。
確かに能登では、重要な節目に当たる日に、アマメハギや太鼓の打ち手などが、面を付けたり顔に海草を垂らして鬼となる。
しかし、これらの鬼は、なまけ続けているものを奮い立たせたり、敵からムラを守ったという伝説を生み出している。
忌み嫌われるどころか、感謝の対象だったのである。
そういえば、一寸法師も桃太郎も、鬼の試練を乗り越えて、はじめて一人前の若者となった。
さらに猛々(たけだけ)しい猿である猿鬼(猿神)も各地に生きている。
能登島伊夜比咩〈いやひめ〉神社に伝わる「猿鬼の角」は伝承のみとなっているようだが、
地域興しに貢献している当目の猿鬼(柳田村)、
彼岸の「お出で祭り」に撒かれる猿の尻をかたどった桃団子(羽咋市酒井町日吉神社)、
旧卯月申の日の行事であった青柏祭(七尾市)、
七日正月行事である片岩の叩き堂行事(珠洲市)などは、
神や修験者によって退治された猿が祀り上げられ、節目ごとに思い出されている。
名こそ鬼であるが、こうしてみると、
先祖が子孫の住む地を訪れるとされる来訪神の性格と極めてよく似ている。
しかも、それらは荒々しさゆえに、大地を刺激し、エネルギーをみなぎらせ豊穣をも約束していくのである。
ユートピアに生きた鬼は、当目の鬼のように最後は救われていく。
有名な吉崎の嫁脅しも。孤独の深さに耐えきれず、鬼となった老婆に救いの声が届いたというエピソードである。
理想郷とは、こうした誰もが抱えている鬼を認め、うなずき合える世界
-すなわち共生世界-なのだろう。
ならば、「鬼は外…」は、
どこかに私の鬼門を育てようとする「こころ」との、決別の一歩を宣言する叫びでなければなるまい。
平成10年(1998)2月1日(日曜日)-節分の2日前-
節分-あまめはぎ ※皆月7日年越しの日のアマメハギ
伝統行事が育てるもの-2004年(平成16年)2月10日(火)北國新聞夕刊「舞台」
石川県には六件(※2004年当時)の国指定無形文化財がある。
その最初の行事が「アマメハギ」で、
門前町五十洲〈いぎす〉は1月2日、
同町皆月は6日、
内浦町秋吉〈あきよし〉は節分と、
それぞれ重要な節目の前の晩に行われる。私が出会わせていただいたのは、皆月の「アマメハギ」である。
これは異形の面を着けた一行が、
「なまけもんはおらんかー」と
「アマメ(囲炉裏〈いろり〉に当たりすぎると出来る一種の低温やけど)」を剥〈は〉いで回る行事で、
猛々〈たけだけ〉しいアマメハギに、
幼子〈おさなご〉は怯〈おび〉え、怖〈こわ〉がって泣きじゃくる。
「アマメハギ」と子供、の印象が強いせいか、
意外に思ったのだが、
子供がいるいないに関わらず、一行は全戸を訪れる。
「どうやって入りゃいいげ…」
「今晩はー、アマメ来たぞー!、かな」
「ほんで、いいがでないか」。
形相〈ぎょうそう〉はいかめしいものの、
高校生を中心とした面々のやりとりは優しい。迎える家では、儀礼の後で、たいてい
「○○君けエー、でこーなって」と言葉掛〈が〉けをなさる。
「アマメ」に威〈おど〉かされて涙ぐんでいた子供が、今、
「ハグ」役割を担〈にな〉う少年になって回っている。そのことに対する喜びと、
寒空〈さむぞら〉の元を歩む、みんなの宝物である少年に対する慈〈いつく〉しみが、
つい言葉掛けとなって溢〈あふ〉れ出る、
といった趣だ。
一行の足下〈あしもと〉を皎々〈こうこう〉と照らす冬の月が、
心の中にも灯りを点〈とも〉し出す。伝統行事の持つ世界は、限りなく深い。
地鳴り 読者投稿欄 2004年2月17日(火)
一週間後に、この記事を読んで加賀市の福田久也さん(68才)という方が、読者欄に
「繰り返し読み、…心温かくなった。」と投稿なされた。
※最初の写真 プロはこう撮る。
でも、どこの海岸なのか分からない。
データーとして写真から読み取れるようにする(ー私)、
二人の語りから物語り・伝説を楽しむ(ー放送)、それぞれの目的の違いがよくあらわれている、なぁー!
能登の「むかし話の旅」先は
第1巻 1,3,5,7,9、11、12話
第2巻 13、15、17、19、21、22、23話。
→節分行事の様々と「平太郎」談義は、ブログ「能登のうみやまぶし」で。