節分 平太郎の熊野参詣 2-2

 

平太郎なにがしといふ庶民あり(御伝鈔・本願寺聖人伝絵『真宗聖典』P735)

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大泉寺 2007年(平成19年)10月17日 日本民俗学会年会の折撮影

 大泉寺は浄土宗。九条兼実の別邸花園院跡と伝わり、御流罪前の聖人夫婦生活地伝承地でもある。親鸞聖人伝承地見学があり木場明志氏が案内してくれた。

常陸の国那珂西郡大部郷に、平太郎なにがし…
或時、件の平太郎、庶務に駆られて熊野へ詣すべしとて…聖人へまいりたるに…

 

はたして無爲に参着の夜、件の男夢に告げて云わく、
証誠殿の扉をおしひらきて衣冠ただしき俗人仰せられて云わく、
汝何ぞ我を忽緒して汚穢不淨にして参詣するや、と。
爾時かの俗人に対座して聖人忽爾として見え給う

 その縁のお寺があり、その場面の摺物があることに驚いた。しかも浄土宗寺院。

もっとも驚いたのは「平太郎という庶民」がズーーと抱いてきた「庶民」像と違っていたこと。

 左の人物が「衣冠正しき俗人」=熊野権現、右が「忽爾として見え給う」た親鸞聖人。熊野権現(本地阿弥陀如来)に合掌する人物が、いうまでもなく「平太郎」。

御伝鈔には,汝・平太郎よ、どうして我・熊野神を忽緒(コッショ,軽んずる)して、汚穢不淨のまま,参詣するのか、と

なので、2-1にも書いたように,中学2年から長年ー庶民・汚穢不淨ーイメージで平太郎を想像していたので、浅野内匠頭みたいと思ってしまった。

 

この場面を摺った一枚で次のものもある。

飯田町の藩政期には船主だったであろう家に伝わったいたもの。

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祖師聖人、熊野権現、平太郎は平太良維房とあり、左に覚如上人真筆、花押とある凝ったものだ。

この話の元である「御伝鈔」は永仁3年(1295)覚如上人が染筆なさったのだから、そのことを教えてくれる貴重な参詣土産である。

 平太郞開基の真仏寺には聖人お田植え歌が伝わっており、その摺り物も同家の掛け軸仕立てに。

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私は二十四輩へいけないままにいることもあって、

すぐ近くのおうちのご先祖が、このような旅をなさっていたことに、自失の念にかられるーいつかは、いつまでもいつか

 

節分 平太郞

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 井原西鶴世間胸算用』「三 平太郞殿」に

毎年、節分の夜は,門徒寺に、定まって,平太郞殿の事讃談せらるるなり。聞くたびに、替らぬ事ながら、殊勝なる義なれば、老若男女ともに参詣多し。 

とある。

 西鶴の元禄期は、寺檀制度の確立、幕藩体制が安定してきた時期で、仏教各宗は、様々な活動を展開した。その中で女性妙好人の代表としての『妙好人千代尼』を書いたが、その頃に,節分には「平太郞殿事讃談」お説教がおこなわれていたというのである。

 

このことに詳しいのは、『真宗史料集成 第十巻 法論と庶民教化』(柏原祐泉編・解題、同朋社出版)で、そこには「節分夜平太郞縁起法談/空慧・浄慧」「常陸平太郞事跡談/無染衲子」の談義本2編が納められており、平太郞と節分や身近な行事を通し、真宗教義がわかりやすく語られている。

節分夜平太郞縁起法談

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節分夜平太郞縁起法談(『真宗史料集成第十巻』P740)

節分の夜は熬大豆を撒き,鰯の頭を窓に刺す。都人は~とあって、

真宗の行人は如来・聖人をおもんぜらる…。とある。

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同742頁

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節分目指して熊野参詣に向かう平太郞が、その途次、都においでる聖人に心得を聞きに寄る場面。領主佐竹季賢は熊野信心の人で、宿願があって毎年年越しの夜熊野で年籠りしており、その供として平太郞が熊野にむかうことになったことが分かる。P742

 

 同書は

願乗寺権律師浄恵述 宝暦十三年(1763)癸未稔臘月写之 釈恵実

 

常陸平太郞事跡談

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常陸 平太郞事跡談より。

事跡談は全漢字にふりがなを振り、上のような挿絵10葉、全5段の相当長い平太郞話である。

寛政8年(1796)丙辰年中冬 安堂寺町5丁目 田村九兵衛

大坂書肆 高麗橋壱丁目 北尾善七

 

真宗史料集成は編集委員に柏原祐泉・千葉乗隆・平松礼三・森龍吉氏を擁し、昭和49年~57年、全13巻の質量ともに最高・最大の史料集で、図書館などで読むことが出来るが、あるとき、『新編平太郞一代記』なる書籍がヨコノ書店という書店から出版されていることを知った。

 そのうちヨコノ書店が金沢にある書店名だと知り、2008年に探し歩いた。

umiyamabusi.hatenadiary.com

ようやく書店にたどり着き、一冊だけ残っていた『新釈平太郞一代記全』 を購入することが出来た。

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『新釈平太郞一代記 全』上32丁、下33丁。この書は136ページ。

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常陸平太郞事跡談』のさし絵と同じ。全10葉とも同じ場面で、事跡談と一代記と名は別だが同話だった。

 

『新編平太郞一代記』序文

信心定まる時、往生定まる」(御文一の15意訳)真宗の肝要は、この一語に定まり、三経一論の深意もこの一句につきる。
 然るに、この信心は当流では他宗と相異なり、他力廻向に依るものであって、我等凡夫の起こすところの信心ではないとする。(御文二の13)
 佛智の起こすところの信心であれば、菩薩聖者もはからう事が出来ない。いかにいわんや我等未代の凡夫をや。
 ここに宿善の同行に仏智を授け、他力信心のすがたを伝える如来の代官。即ち善智識との出遇が、後生の一大事として切望されるのである。
 実に「平太郎」は,開山聖人より口決面授を許された善智識の一人であった。(親鸞伝絵下の5)
 又、当山に残る法脉の文中に
「我祖御歳五十九寛喜三辛酉年(一二三一)常陸国那荷西郡大部郷庶民平太郎朝盛へ利他教化之流脉を相伝し給ふ。是れ在家へ御相伝之先立達なり」云々と明記されている。

家佛教として御同行の数も多いが、彼自信に関する記述は数少ない。今往古から伝わる古書が発見され、ヨコノ書店より出版の運びとなった事は我等「一念帰命」の同行信者の無上の喜びである。内容の真偽は後日の課題として「平太郎」をより知ることに依って日々の法喜法悦の増上縁ともなればと思う次第です。
 一読を願いつつも、いつか古文体調でなく何人も理解できる現代文であって欲しいと思う。
     選択寺   釈興隆
平成十五年六月初旬

 

 

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節分に平太郞話を語っているお寺がないのだろうか?と折々に聞いたことがある。

ともあれ、加越能の地では聞いたことがない。

そのうち、平太郞が歩いたラインのお寺ー滋賀県だったと思うがーでは、結構聞法の場が開かれている、と聞いた。

が、記録も取ってなければ,いつごろ誰に聞いた話だったのかも判然としない。

メモぐらい取って、そのうちとしておいたのだと思うのだが…

はっきりしているのは。平太郞話は人気があったということ、

熊野 修験・フダラク渡海・西国33観音など、人気がある熊野。

その熊野と門徒(平太郞)が、御伝鈔に確固とした位置を占めているのに、おやりになる方がいなかったようだ。

 

※→桜井徳太郎氏 五来重茂を悼むー後ほど



コロナ騒ぎで大人数の集まりは無理なのだから、本堂に数名程度でいいから、小さな聞法の場を…。

多く、広くー数多くの常説教場のように…考えるべきだろう。

その、一つの話の素材として、節分には平太郞

もっと展開すれば、真宗王国とい、われているところに山車やキリコの出る盛大な祭りが多いのかを、「

熊野平太郞」話は、解きほぐすカギとなる一話でもあるのだ…。