節分 平太郎の熊野参詣 2-1

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獅子岩(熊野市井戸町)1993年(平成5年)6月13日、日本宗教民俗学会研修旅行の折撮影
 

私が報恩講の晩、御伝鈔を拝読したのは、中学2年の時がはじめてだったーと記憶している。

父は準備その他で忙しく、国文の大学生だった叔父・前田暁賢がつきっきりで読み方を指導してくれたはずだ。

 

御伝鈔は巻子本の旧字体

「ほんがんじのしんらんーでんげのげー」と声を張り上げ、まもなく、レ点、一・二点、上下点のある箇所が出てくる。

あっちいったり、こっちいったりしなければならない。

漢文を習ったのは高2の時だから、未知との遭遇

本番では、返りきれなかった…らしい。

60年前のことなのに、外陣で叔父が見守り聞いている。ぼくは首を上げ下げしながら、いったりきたりしていて、どこへ戻っていいか分からなくなり、近くの字を読む。

おじさんの姿を目で追う。

ちょっとがっかりしながらもーうんうんとうなづいている叔父がいる。

 

というシーンが、一枚の写真のようにインプットされているのだ。

その部分ー

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金子大榮編『原典校註 真宗聖典 全』昭和61年第2版第5刷より

※あまり読みが遠くに飛ぶ箇所があるので,上下点があるのだと思い込んでいたが、一・二点ばかりだ。

 

平太郎熊野参詣 

ある年から下巻全部を拝読するようになり、

「だいごだーん、ショオーニン、故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々(せいせい)夢のごとし、幻のごとし。長安洛陽の栖(すみか)も跡をとどむるに嬾(ものうし)とて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまひき…

其比、常陸国那珂西郡大部郷に平太郎なにがしといふ庶民あり。…」

からはじまる、御伝鈔で最も長い段落、「熊野参詣」文の、所々がこころにとどまり、たとえば、

「平太郎という庶民あり」とか「平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし」とかの文言が、フーッと浮かぶようになった。

 

熊野の思い出 

熊野といえば、

住職資格を取得するための方法が見つけられず、大谷大の院に進んで資格を取れればと考えた。もちろん大谷の国史卒の父が導き出した方法だった。

入学後まもなく、院で指導教官になって下さった五来重先生が、「ロクサイネンブツ」を調べて見ないか?とおっしゃった。

時は大学闘争さなか、奨学金頼みでなんとか単位を取ろうと籍をおかせてもらった立場の者としては、あちこち調査に出かけないと調べることが出来ないという、ロクサイネンブツ調べの汽車賃捻出方法を思いつくわけも無く、

単位が取れたら珠洲へ帰り、出来れば教員になって家を継ぐことしか考えていないころに、初めて聞く「ロクサイ念仏」なんて世界に生涯関わっていけるはずがない、と、その話は霧散したのだけれど、

院に入ったといういうことは、何かテーマーを持って発表しながら深めていかなければならないということを、友・広岡君に教えられ、探し当てたテーマーが「一遍上人」だった。

いうまでもなく、中学生の頃から親しんできた「平太郎の熊野参詣」があったから、一遍上人の熊野夢告・熊野成道にたりついたのだが、聖絵はじめ,研究室の文献だけでなんとかなりそうだ、が強く後押しもした。

 

ゼミ(この言葉は知らなかった)内での最初の発表に、先生が質問なさる。

何か答えたのだろう。

「僕は(君が)言わんとしていることは分かったが、皆に分かるように説明しなさい…」とおっしゃり、用があるのでと席をはずされた。

あとで、広岡君が、一遍上人はやり尽くされている先生の専門だ、そこで何かしようたって(無理無理)…とアドバイスしてくれ、一遍と熊野を知ろうからはすぐ別れたが、熊野はベースとして流れて続けていった…。

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ゼミ発表レジメー本文はなく、こちらだけ残っていた。1969年(昭和44年)。8頁

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たぶん2回目のゼミ発表レジメ。全10頁

 

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五来重先生『熊野詣 三山信仰と文化』昭和42年(1967)11月淡交社刊。大学近くの書店で購入したはずで、先生のサイン入り本だった。


その他の「熊野」
 

○梅津次郎先生の博士取得記念だったか?何かの記念のお返し品が、(熊野の神勅)「烏」の栓抜きで,さすがだなぁと思ったこと。

長年ビールの栓抜きで使わせて頂いたが紛失…。

○新婚旅行で、初めて熊野(那智)へ行ったこと、

○教員2年目にカウンセラーという生徒指導内に出来た新たな係を兼ねたとき、カラスに苦しむ相談者が最初で、その生徒のカラス観をちょっと変え得たこと、

○カラスに関する文を、新聞文化欄に書いたことなどなど

 北國新聞(夕刊)昭和57年(1982)3月13日

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カラスを図案化した熊野牛王宝印(熊野那智神社

かつては太陽の象徴
不吉なイメージだけ残る
夕刊文化 北國新聞(夕刊)昭和57年3月13日(土)


 鴨川・鳳至川・鵜飼川など、鳥の名が冠せられている川が、能登などにある。瑞鳥(ずいちょう)もしくは神事にかかわる鳥の名であることが多い。
 ところが、十人十人が嫌いだというカラスの名を用いた烏川が、珠洲市の外浦に流れ込んでいる。

 

 小さいころから気になっていたので少し調べてみたが、この川には次のような話が伝えられている。
 文治元年(一一八五年)、当地へ流された平大納言時忠が安住の地を探し求めていた折、カラスが現れて川の上流へ導いた。時忠が身につけていた守り刀「烏丸」の精の案内だとして、居を川上の平地に定めたという。山中へ分け入っていく栄華を極めた一族の末路を想像するのは哀れであるが、ここに出てくるカラスは、嫌われもののカラスとは趣を異にする。

 

牧歌的な付き合い
 カラスは知能が高いと言われ、人家付近に住む。いわば私たちの生活圏に属しており、最も身近な鳥の一つである。それだけに子供の世界では「カラスはカアカア勘三郎」と語りかけ、夕焼け空に向かって飛ぶ姿に「カラスカラス勘左衛門手前の家が焼けるから、はよ行って水かけろ」と、はやし立てるなど、牧歌的な付き合いがあった。

 中村雨紅作詞の「タ焼け小焼」や野口雨情の「七つの子」も、愛すべき鳥となっている。

 その一方で「カラス鳴きが悪い」との、言葉に見られるように死を予兆する不吉な烏という強烈な印象があるのも事実である。
 所によっては、止まった家、尾の向いた方にととらえているところもあり、精神衛生上はなはだ具合が悪い。
 カラスを嫌いと感じるのは、つまるところ、死と重なるイメージに帰着するのであろう。

 

 時忠を道案内するカラスは、『日本書紀』に載るカラスの性格と酷似している。紀州熊野の山中で難儀していた神武天皇に、祖神天照大神が八咫(やた)鳥を遣わし、大和へ案内したという話である。

 それも道理で、平家は伊勢から出、太陽神(天照大神)の使いであるカラスを神勅としていた。

 

恩を返す孝鳥
 平家の守り神・厳島の弥山(みせん)では、今も夫婦烏によるトリバミノ神事を行っている。この神事は、熱田神宮の摂社や天照の父母イザナギイザナミをまつる滋賀県多賀大社でも執行され、正月行事の烏勧請(かんじょう)とともに、非日常の世界ては現在もカラスを霊鳥と意識している地方が少なくない。
 古墳壁画の天長船や、法隆寺玉虫厨子(ずし)宮殿背面の太陽図に、三本足のカラスが描かれたように、さらに太陽を金烏(きんう)と呼んだように、古くカラスは太陽の象徴だったのである。

 その源をたずねると、中国での母神・西王母に食を運び、漢の武帝に仙桃を届けるなど、神仙思想の中で活躍した鳥でもあった。朝、姿を現し、夕日に向かって消えていく姿が太陽と結びついたらしい。
 また「和名抄」では、親鳥に養われた恩を返す孝鳥とされる。これらの性格が生き続けていたなら、現在のカラスに対する思いは、よほど様子を異にしていたに違いない。

 

 三本足のカラスは熊野神の神勅として、熊野信仰の隆盛と共に全国に喧伝されていく。津々浦々に配られた牛玉(ごおう)宝印札には、カラスの図案化したものが用いられ,起請文・誓紙としても利用された。
 地方霊場でも牛玉宝印を出しており、能登石動山のものも熊野系と見られるが、誓紙に用いられたのは圧倒的に熊野牛玉であった。「長家図録集」(石川県穴水町歴史民俗資料館刊)に載る前田利長、長元連の二つの血判起請文も熊野のものである。

 江戸期には遊女が盛んに利用し、誓いを反故(ほご)にすると三羽の神勅ガラスが死ぬと信じられた。
 隠野(こもりの)を恵味し、霊魂の赴く地、六道世界があるとされた熊野との結びつき、これがカラスと死の連想を強めていく。

 

鳴き声で占い
 一方、伊勢(太陽神)と熊野信仰との分離、平家滅亡の中で「カラスは過去陰陽師で吉凶を占う」(「日蓮遺文)とされていた世界は、「神書には鳥も神の使者といへり、いとあやしきことなり」(「伊勢大神宮神異記」)と意識されるようになる。
 さらにおそらくカうスの鳴き声で占いをしたであろう熊野比丘尼(びくに)が 江戸中期には絵解きもせず、歌たけで国々を巡り歩くに至ったことや、山伏の地方定着化、明治初年の還俗(げんぞく)の過程で、カラス=霊鳥の物語りは、すっかり忘れ去られていった。そして、不吉さのみが今なお,日常の俗信の中に残されているのである。

 

○この他、一度、間違いなく熊野方面に行っている。

花の窟、徐福の何か,紀伊半島を走る電車ーこの三つが記憶にあるのだが、場面は電車のみ。花の窟,徐福は何か見たはずだ、と言葉だけの記憶。なかば夢に近い記憶しかない。

 

この機会に、いろいろ探してみた。

写真ファイルが見つかった。訪ねたのは、1993年(平成5年)6月13日。

日本宗教民俗学会研修旅行だったのだ。

 

その時の通信・案内文

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別の当日日程表を見ると、

史跡見学は午前8時半~12時。

午後1時から、新宮市福祉センターで5時まで研究発表。6時から新宮ユーアイホテルというところで懇親会・泊。

駆け足見学だったのだ。

学会も合同だと幹部さんたちは学会交流に力が入り、普段学会に顔出ししていない私などの回りにいる人は、おそらく初対面の人たちだったのだろう。その年は、住職2年目の46歳。記憶が衰えている年ではなく、寺の生活に馴染むために,ただただ忙しい頃だった。

 

と、ようやくうっすらとした記憶しか無い理由が理解できた。

 

と、ここまで書いて、本題の「平太郎の熊野参詣」、節分の平太郎話お説教に-。