幽響院釋尼雅風(2020年4月20日)さん
幽響院釋尼雅風(東条厚子)さん
昨年4月20日に亡くなられ、コロナ騒ぎの最中ではあったが、30日に、静かに手を合わせてきた。
坊守会引率という形ではあったが、恵信尼公の里、飛騨への研修旅行が出来たのは東条さんのお声かけがあったからだとの思いが強い。
私はどこに引率するにしろ、必ず一度コース予定を作り、実際に行ってみることにしている。
越後も、信州も、どこかに記憶にとどまっているのは、旅行を提案して下さった東条さんを中心とする方々のおかげだったのだなあーと、しみじみと浸っている。
去年30日に、お子さんとお会いし「東条厚子インタビュー
Littl Stories」という綺麗な冊子をいただいた。
瀟洒なネーミングに驚き、
15ページにご本人の字で
節目節目でいろいろな方に出会い
私の道を造る礎石となった皆様
本当にありがとうございました。
とあり、
2020年1月に刊行されている。
ガンが進行していて、余命わずかなのを知っていて書かれたに違いない。
-本当にありがとうございました。
そして、研修会に、いつも着物姿で参加され、着物が大好きだった方が、着物を畳まれる写真を添えておられる。
冊子が出来てきたそのころ
1月の17日。合同4組坊守研修会・新年会が七尾であり、着物姿の東條さんはいつものように座が和むように振る舞っておられた。
その日の講義で、ちょっと首をかしげなさった話を、次の講義で説明し、考えようと思っていたただ中の4月に先立たれた。
30日に、冊子をいただいたのだが、ちゃんと目を通すことができなかったのである。
じっくり読み直してみると、中学校で英語の先生をなさっており、情緒障害児学級にも関わっておられていた。
そして、お嬢さん方に恵信尼公などと関係ある名や子供は仏様からのいただきもの・恵みであること意識した名を付けなさったという語りを読み、
あのころ(2010年)恵信尼公の里で、どんなにこころはずませておいでになったろうと想像しながら、
専慶寺さんへ寄った。
前門主の署名のある法名「幽響院釋尼雅風 釈浄如」が、一年の時を刻んでいた。
東條さんのお寺・専慶寺さんは湯川の山腹に建つ
本堂の後背部の山に墓地が見えた。32度程の暑い日だったが、墓地が見えるとふらふらと向かってしまうのは、病というしかない。
墓地からの光景は、この地に住み着いた人々の願いを伝える景観ともいえる。
青空がどこまでも広がっていた。
整備された墓地に、水輪らしきものが一つ。
2010年6月10日、七尾・鹿島合同4組坊守会研修旅行
2014年5月8日。庄川桜 ダムに沈んだ地にあった嘉念坊善俊開基の正蓮寺(1504年中野に復興したときから照蓮寺に改称)中野照蓮寺として堀端町に、高山別院照蓮寺は鉄砲町に法統をつなぐ。中野照蓮寺は真宗寺院の最も古い形を伝えている。撮影者西山
東條さんは着物姿。
このあと、私を集合写真の一人に入れ、東條さんがシャッターを切ってくれた。
二宮 石動山道標石 2021年令和3年7月2日(金)
二宮 石動山道標石
中能登町二宮 第9番石動山天平寺 読めなくなっているところは、本社に続き「迠従是五十八町」だった。能登国三十三観音を40年以上調査してきた中で、「国定公園石動山登リ口 七・一KM」とすぐ後ろに案内板が立っていたころもあった。山門が見えるお寺は、真宗大谷派畠山山長賢寺さん。
前田土佐守家七代当主直時
ところで、いつ誰がこの立派な道標を寄附したのだろうか?
そのことを書いた案内板は、見たことがない。
いろいろ調べて見ると、加賀藩二代藩主利長の弟・利政を祖とする前田土佐守家七代当主直時が、文政三年(1820)年に寄進したものである。二宮区有文書では「武運長久」を願ってとのみ記しているが、石動山伊須流岐比古神社文書には
奉寄附
石動山神社
道標石
右為武運長久、心願成就所、寄附如件
文政三年庚辰春三月
とあって、心願成就が見える。
文政3年は直時27歳。
加賀藩八家の一つ、土佐守当主(成立時1万1千石)が寄進した道標である。
土佐守家ゆかりの道標であることは私も初めて知ったが、
広く知られなければならない文化財であろう。
石材も笏谷石のように見える(この方面、疎い)。
能登はやさしや…
今は二宮口から石動山を目指す人はほとんどいないようだが、
元禄9年(1696)に御山(石動山)に参拝した加賀藩士浅加久敬(ひさのり)が、馬子の対応に感心して
このような馬子を育てる風土が、杵歌で唄われている
♪能登はやさしや土までも
なのか、
と紀行文『三日月の日記』に記した。
これが「能登はやさしや…」が記されたはじめであり、
さらに次代が下って土佐守の道標となると、
このあたりの歴史的深みは、
計り知れないと思うのだが……。(7月9日追記)
祖父・松谷明卿(1981年6月26日)
臥龍文庫前 7月2日
足元が分かっていない。
母はこの6月30日、満96才の誕生日を迎え、元気。
翌、7月1日朝日新聞(石川版)俳句欄に
電線に 並びかしまし 雀の子
が載って、意気揚々。
わからないことは聞いておかなくてはならない。
私が生まれたとき、当家には父母、祖母がいて、2年後に弟が生まれた。
祖母が1972年(昭和47年)9月15日に世を去るまでの23年間は5人家族だった。
父・外卿は七尾徳田・江曽妙楽寺・松谷家の三男に生まれた。
西山家には、1941年(昭和16年)7月4日、22歳の時に前坊守朝野の養子として西勝寺に入った。
朝野は、羽咋郡金丸随用寺に生まれ、旧姓朝倉。
昭和16年(1931年)1月9日に西山家を相続している。
父は、祖母を「おかあさん」と呼んでいた。
そして、私の記憶では、週の木曜日は父母と弟と親子水入らずで「ハナレ」で寝たが、他の日は祖母と二人で「ハッチョウマ」で寝た。
祖母のむかしがたり、子守歌を聞きながら、時には蛍が入ってくる部屋で、いつか眠りに入っていった日々の記憶なのだが、それは弟がほんの小さな頃だけだったのかも知れない。
しかし、その頃には、祖母が本当の祖母ではなく、だから-家族の中で孤立しないようー同じ部屋で寝なくてはならなのだろうと、口にはしなかったがそう思っていた。
そこで、船でしか行けないような遠い七尾のさらに奥の農村地帯に育った父を養子に迎えた祖母と、父はどんな関係だったのか?
生き字引の母も、正確なことは分からないという。
調べ出すと、朝野の兄・静雄が昭和16年10月20日から父が住職になるまでの間、当寺西勝寺の代務者になっている。
静雄氏は教如上人の由緒寺赤野井別院の輪番をしていたことがあり、昭和33年4月に、祖母・私たち兄弟と、静雄氏のお孫さん姉妹2人とで赤野井別院に数泊したことがある。
私が最年長11歳・小学5年生だった。
それとは別に祖母に連れられて京都付近へ何度か行ったことがあり、決まって本山前の油屋という旅館に泊まった。
檜の風呂があるいい旅館で、「金丸のおじいちゃん」も一緒のことが多く、親切にしていただいた。
今、思うに朝倉氏は、当時宗務役員か衆議会議員をしていたのだろう。
私たちが「おばあちゃん」と呼んでいた人が、本当の祖母ではないのなら、父方の祖父母がいるはずで、その祖母・冨尾は、父が11歳の時に世を去っている。
そして祖父・明卿は、1981年(昭和56年)6月26日、近くの山で遭難して亡くなった。
山探ししたが見つからず、夏になって発見されたはずだから、命日の6月26日は不明になった日なのだろう。
昭和56年というと、私は飯田高校で担任、野球部顧問、角川の地名辞典作りなどをしており、葬儀その他には全て参加しているはずだが、何一つと言っていいほど記憶に無い。
人身受けがたし…とあちこちで語っているのに、我が身のことについては知らないことが多すぎる。
祖父の命日を確認したのはついこの間のことで、これまで、お墓参りにも行っていない。
祖母・冨尾については命日さえ、まだ分からない。
とりあえずお参りからだ…
26日は行けなかったので、7月2日に手を合わせてきた。
能登国33観音第8番江曽観音堂 並んだ奥に妙楽寺住職家墓がある。
能登国33観音を調べだしたのも、父の実家に札所があること、早くに御詠歌を調べて見せてくれた、伯父・円明の影響があったのだろう。
今、このお寺の住職は、円明伯父の孫が継承している。
※先日、金石の人からこの本が手に入らないかと電話があったが、今は古書でしか手に入らない。
究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。
究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。
父方祖父母のお墓、去年別れた東条さんのお寺を訪ね、写真を下書きに保存して、文を書こうと下書きを開いたら、表題の下書きがあることに気づいた。
2014年10月1日に書いたものである。
覚えに残しておく。(2021年7月4日記)
本を整理していて、
「真宗大谷派大聖寺教区「蓮如上人五百回忌御遠忌」記念
大谷暢顯門首御染筆」とある、綺麗な包装紙に包まれてある字を見た。
そこにあるとおり、大聖寺教区でシンポジウムに参加したときに頂いたのだが、勝手に御染筆コピーだと思いこんでいた。
御染筆とあって複写の言葉がどこにもないのだから、御門首の字なのに、
ついこの前まで気づかなかった。
染みが出来はじめていて慌てて表装した。
染み抜きも施され、30日、写真のように綺麗な軸に仕上がってきた。
この大聖寺教区御遠忌には、真継伸彦氏たちとシンポジウムを行い、それをきっかけに真継氏が我が家に泊まり、御示談を聞くため、中島蓮浄寺さんで行われた御崇敬にお参りしたのだった。
それにしても、本の整理をしなかったらそのままになってしまったかも知れない大聖寺での御遠忌記念。
いつのことだったのだろう?
当時のパンフが見つかった。
2000年9月2日(土)だった。
この日、私が最後に待ち合わせ場所の喫茶店につき、初めての方々と顔を合わせた。
お互いに知らないのだから、誰が一番年寄りなのか、といった話題になり、
たぶん西山さんが年配ではないかと話し合っていたとおっしゃる。
真継伸彦、伊香間祐學、そして私。司会は伊勢谷功氏(私の教師修練の時の師である)がなさった。
聴衆の中に、大聖寺高校の社会科の先生、その他の教員が聞きに来ておられた。
真継伸彦氏の話が終わると、彼らは帰っていった。その時、私が話し始めていた。
私でも、あの「真継伸彦を見てこよう(の話を聞いてこよう)」となるよな…。
真継氏は、
蓮如上人御遺言にある、病気に対して加持祈祷などをしない、それを守って真宗が現代に到っている、ことを高く評価されていた。、
覚えているのは、これらぐらいで、御染筆をその時に頂いた記憶は消えていたのである。
包みに大聖寺教区とあるので、そうだったなのだが、
この2000年は、
能登教区教区会副議長、珠洲焼資料館館長、七尾市史専門委員民俗部会長などの職にあり、
それぞれに忙しかった。
県歴博の特別展・若山庄の準備にも関わっており、定期的な8組坊守会講師、「臥龍の集い」という夜の勉強会も行っていた。
5月13日の金沢教区同朋大会の講師をはじめ、講義もそこそこあった。
原稿の方も
「共同体とお年寄り」『老熟の力』早稲田大学出版(400字詰め原稿用紙28枚)
「昭和38年から43年の飯田高校の歴史」『飯田高等学校90周年誌』(120枚)
書評「宗教民俗研究」(25枚)
連載「珠洲の風物詩」1〜5「季刊能登」(10枚)
「珠洲焼」「御影道中」『日本民俗写真大系』8 (4枚)
「阿部判官伝承」『若山庄を歩く』県立歴史博物館(22枚)
他に数点の新聞記事を書いている。
1つの行事が終われば、次々と先を見なくてはならず、終わった行事の余韻に浸っている暇はなかったのだ。
そのうち、忘却の彼方。
御門首の書かれた「究其涯底」には、以下のような説明書が入っている。
大谷暢顯門首御染筆
究其涯底
この句の出典は『仏説無量寿経』上巻の「嘆仏偈(たんぶつげ)」(真宗聖典十一頁)の一句てある。
「嘆仏偈」は、四言八十句からなり、阿弥陀如来が法藏菩薩である時に、その師仏である世自在王仏の徳を讃歎(さんだん)された偈文である。
仏は、深く甚深の道理を窮(きわ)め尽(つ)くし、真実を完全に悟っておられるということであり、仏は私ー人間ーの本当の姿の奥底まで見きわめておられるという意である。
大谷暢顕門首は一九九六年に真宗大谷派第二十五代を継承され、法名を釈浄如、雅号を愚岳という。
※7月4日追記
宝達山周辺
宝達山からの夕日-2007年8月25日 B地点
金沢のホテルから、宝達山が見えた。ホテルは一向一揆の時の富樫政親が拠った高尾城のすぐ側にある。
高尾城と宝達山は呼応しあう位置にあったのだと、朝焼けからしばらく眺めた。
カメラは車の中なので、ノートにスケッチしてみたが、絵も下手。
やっぱりカメラでないとピンとこない。時間はたっぷりあるので一枚写した。
A地点近く 撮影2021年6月26日
宮島峡 小矢部市 C地帯
能登一の高山・宝達山は熊野信仰の地で地図のC地帯は熊野三山(滝を含む)であり、近くに俊寛僧都の墳もある。
以上2枚 撮影2006年10月21日
気多社 羽咋市 E地点
また、Dの気多社いらずの森には古墳がある。その羨道口は宝達山に向いており、平国祭(おいで祭り)は随身門を通って1週間の平国行程を終えるのだが、
この随身門は、写真のように宝達山の遙拝所になっている。
正面が宝達山 撮影2008年2月2日
気多社随身門 2008年2月2日
大穴持像石神社 D地点
気多社のすぐ東(300m)に鎮座する大穴持像石神社の正面は白山である。宝達はやや左にある。 撮影2008年2月2日
大穴持像石神社には地震石がある。撮影2008年2月2日
能登一ノ宮気多神社は、宝達の乾に位置し、遙拝所だった。
このこと一つをとっても、古代聖・霊山として宝達があったことになる。
Cには竜宮もある。
その宝達と加賀領主だった富樫が築いた高尾城が艮、巽の位置にあって、朝焼け・夕焼け、月・星を眺め合う光景が、当時の人々にあった。
絵がうまい下手など、ぶっとぶロマン世界だ。
法藏館書店の『とも同行の真宗文化』、鈴木大拙『真宗とは何か』佐藤平顕明訳
昨年6月に、『とも同行の真宗文化』を出版した。能登半島の先端で出版することが出来るのか?を問う試みでもあったのだが、印刷・製本は金沢の印刷屋さんにお願いし、あとは全て自分でやった。
発行所は臥龍山西勝寺内の自分の部屋『臥龍文庫』。
ISBN(International Standard Book Number)は『妙好人千代尼』の時に取得しており(『妙好人千代尼』のISBNは法藏館)それを用いた。
折角作ったのだし、「真宗文化」に関心がある人の目に付くようにしたいと思い、七尾きくざわ書店、穴水コメリ書店、飯田いろは書店、そして京都法藏館書店に少しずつ置いて頂いた。
先日、法藏館書店さんから連絡があり、20冊ようやく売れた、とのこと。
この本は一頁19行49字、400字詰め原稿用紙にして970頁のテキストのような本なので売れなかったら、残部を引き取るという条件で無理に置いて頂いたのだった。
それで、並べていただいたので、法藏館の書物を数冊購入しようと、綺麗な新装版シリーズを今一度検索した。
このシリーズは
『新装版 近代日本の親鸞 その思想史』『新装版 正信偈講話』上・下 『新装版 観経のこころ 観経の背景にある』の4冊を購入している。
金子大栄『新装版 親鸞の人生観 教行信証真仏弟子章』、細川巌『新装版 唯心鈔文意を読む 信は人に就く』を求めようかと思い、元本がないか調べたらあった。
何度か、こういうことをしているが、装丁で印象がガラリと違うのが面白い。
江口喜久男氏 塩谷利宗氏-伊藤修氏そして佐藤春夫(氏)
花ザクロ
数日事情があって家を空けており、帰った日に、久留米の「江口茂子」さんという方からはがきが届いていた。
今年2月3日に西帰した江口(喜久男君)の身内の方のようだ。
どうしたのだろう…。
江口(学生時代の呼び方で敬称略)が亡くなったことは、間もなく彼と親しかった名古屋の伊藤修君[※下に過去のブログ記事]から連絡があって知った。
彼がかなり前から、入退院を繰り返していたらしい程度の情報はあって、
アァー、オレの誕生日の2日前に逝ったか……、と思ったが、彼の久留米での境遇が見当が付かず、
ご家族はおいでるのだろうが存じ上げないこともあって、「一つ宿題」をかかえながら、能登の地で、学生時代の江口を偲んでいた。
「一つ宿題」というのは、かつて『北国文華』第十一号、平成14年(2002)北國新聞社刊に、「山から海へ…」というエッセーを書いたとき、導入部に江口氏の文章を引用したことがあり、その「山から海へ…」を昨年6月に出版した『とも同行の真宗文化』に載せたのだった。
それで、当然、江口に1冊送ろうと思ったのに…。
思っただけで、送った記憶が無い。
『とも同行の真宗文化』400ページ
無量山真宗寺『同心』No45 2007年12月刊 351頁
本人はいなくとも、江口の文を載せましたと送るべきか、
こんなときに、西山って何だ?となっても、かえって面倒をかけることになるかも知れない…
得意の優柔不断状態で、はや4ヶ月もすぎた。
それが、思いもかけない「はがき」。
見ると、茂子様は江口君のご母堂で、
(遺品整理していたら)
昨年送った『妙好人千代尼』が出てきた。
私(ご母堂)も句会に参加しており、
「少しよませて頂き,嬉しゅう御座居ました。」
「大変おそくなりましたが御礼申し上げます。」
とある。
江口とは、かろうじてFBでつながっていたので、その頃のメッセージを探した。
2020年6月22日
あなた(西山)がメッセージを送信
大桑氏も先行き、大谷の知り合いがほとんどいなくなった時に刷り上がってきた『とも同行の真宗文化』という本。
知り合いは江口など数名。
関心があれば送ります。
6月23日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
今活字が読めないのですが、少しすつ読連絡不要たいわ
24日6時42分
あなたがメッセージを送信
後半、少しずつ読むようにしたいわ。でいいのかな?
だったら字の大きい『妙好人千代尼』を送りますが?
『とも同行の真宗文化』は厚くて持つのも大変なので。
7月1日
あなたがメッセージを送信
『妙好人千代尼』を送っておきました。
3日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
本届きました(絵文字)ありがとう(絵文字)感謝申し上げます!
そういうことだったのだ。
もう活字が読めない。ならと、読みやすさに気を配った『妙好人千代尼』を送っていた。
そして、ここに来てご母堂が見つけなさった。
俳句をやっておられなかったら、お気づきにならなかったかも知れないし、奥様が俳句の本ですよとお伝えになったのかも知れない。
「ひとつ宿題」(江口の書いた文章を引用した本-を送ってもいいか?)
が解決した。
すぐに学生時代の江口の思い出を書いて、『とも同行の真宗文化』をお送りした。
今日、届くだろう。
江口とは、
学生時代、全学ストで校舎が封鎖されていた頃、
私たちは自主ゼミを計画し、封鎖中の研究室で勉強会をしたりしていた。
そのころ、江口と二人きりで夜遅くまで研究室で語り合ったことがあった。
また、私が間借りしていた上賀茂の下宿は私以外は同志社の学生ばかりで、その中の一人、法学部か経済学部だったかの吉田君が江口と明善高校の同級生だった。
吉田はフラメンコギターがうまく、サビーカスやパコ・デ・ルシアの曲を奏でる合間に、
同級生の江口の話をしてくれた。
ワンゲル部に所属していた江口は、
毎日、石ころを詰めたザックを背負い、一人でグランドを黙々と走っていたといい、ものすごい根性があった、というのが彼の評だった。
人々の中にいる江口、熊本真宗寺にいたころの江口は、人あたりがいいというか、秘めた根性を表にしなかった(ようだ)。
私は、吉田の話や研究室で知っている芯の強さがあるから
いつも笑顔でおれるのだろうと、
社会に出てからの江口を一種畏敬の念で、遠くから眺め続けていた。
話は飛ぶが、最初に送ってきた真宗寺の『同心』22号(1983年刊)巻頭言に、
(当寺では、青年中心に御遠忌などの仏事行事を計画しており)
特に久留米の江口君が呉服店の若主人という恵まれた生活の一切を擲って、妻子をともなってはせさんじてくれた
とある。
このお寺には、錚々たるメンバーが顔を出しておられ、石牟礼道子氏も同寺を拠点にしておいでる。
飯田高校国語教師だったころ、ゆとりの教育が叫ばれ教科書の中身ががらっと変わったことがあった。
その時、筑摩書房の教科書を採用したのだが、「もういっぺん人間に」(苦界浄土・石牟礼道子作)が教材に取り上げられており、判断材料の大きな理由にした。
話はそれるが、この教科書はユニークで、川端康成「雪国」も教材になっており、補助教材のような形で、THE Snow Country(雪国)と題する英文が付いていた。
教員経験者なら、たいてい知識にないことばが出てきて立ち往生したり、
試験当日になっても問題が出来ていない夢を見て目を覚ますことがあると思うのだが、
This is a Pen レベルの英語力しか無い私は、教員を辞めてからも時々,雪国の英文の前で立ち往生している夢を見たものだった。
一方、苦界浄土は胸打つ作品で、文章がわかりやすく、考えさせられて完結。
試験問題には、「感想をのべよ」しか作りようがないという、教材として見たときの痛し痒しがあった。
私にとって、教科書の作家は雲の上の存在であり、その人と日常的に接し,住職代務者にまでなっていた江口師は、同様の雲の上の存在となっていた。
『北国文華』に引用した文は、その頃のもので、
ハハァーと、合掌しながら書き写したものだったのである。
江口!
今は…、還相の菩薩だね…。
塩谷利宗氏 釋利宗
今日は、江口と仲良しだった飯塚の塩谷氏の祥月命日(8回忌)。
お逮夜日に、例年のごとく塩谷宅に電話を入れて偲び、
今年は、江口君の想い出を話し合った。
2006年4月
2010年5月
2014年7月
2014年10月
2018年8月
伊藤修氏
2011年4月
その頃、伊藤君はこのLPレコードにバンジョ-奏者として参加し、「日暮れのブルース」という曲を載せている。
初任の羽咋工業高校がある羽咋は、日本海に沈む夕景が素晴らしかった。
綺麗な夕焼けに出会うと、ハミングで、明るく軽快にを口ずさんだものだった。
「長い旅がいやになる」の歌詞カードに楽器、コーラスなど9人の演奏者の写真が紹介されている。Banjo伊藤修。
2010年8月
※福岡県立明善高校を検索したら、
久留米藩校の流れを汲む高校で、校歌の作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔による。
とある。
私の初任、羽咋工業高校校歌と作詩、作曲者が同じだ。(6月21日)
2017年2月
2017年6月
開慧眼-エゲンがシャリに生死無し。林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』と大地原豊氏
七十二候 芒種 第3候 梅子黄(うめのみきばむ)
文類偈 慧眼
このところ、お朝事(朝の勤行)に「文類偈」を戴いている。
「文類偈」に親しんでいこうとの思いからなのだが、
ふと「智光明朗開慧眼」の「慧眼」が眼にとまった。
「文類偈」は「正信偈」と同じく七言120句の偈で、840文字の中の2文字がバッと眼に焼き付いたのだ。
「正信偈」は親鸞聖人50代頃の作であるのに対し、「文類偈」は83才の作とされている。
正信偈(正信念仏偈) 顕浄土真実教行証文類
もっというと、親鸞聖人52才の元仁元年(1224)に
親鸞、当年を末法に入って683年と「教行信証」に記す。(「教行信証」草稿本完成説あり。)(『真宗聖典』(大谷派))
とあり、
大谷派ではこの年を立教開宗の年としているのである。
末法の世に生きる人々が行える「行」を明らかにした行巻をようやく書き終える事が出来た、その感動が、正信の歌(偈)となって筆にあらわされた。
文類偈(念仏正信偈) 浄土文類聚鈔
「文類偈」は、浄土真宗の教行証が完成し、それを顕わされた総合辞典(顕文類)をふまえ、この世に生きる「我ら凡夫」に、より思いが伝わるように推敲を凝らされた歌といえるのではないだろうか。
その年頃には、聖人は御和讃という当時の流行歌・今様を用いた信心の歌をも次々と作っておいでるのである。
「とも同行」と共にのお思いが、すでにわかりやすく書かれた「正信偈」をさらに練ったおことばであらわされたのが、「念仏正信偈」なのだろう。
正信念仏偈が「正信偈」なら、念仏正信偈が「念仏偈」であれば、違った印象の偈であったろうが、何か深いわけがあって、当派では「文類偈」の伝統なのだろう。
慧眼
そこで、ようやく慧眼にもどるが
「慧眼」が出る「文類偈」の箇所は、本願の働きをあらわす十二光によって
「能破無明大夜闇 智光明朗開慧眼」とあらわしておられる。
そのところを「正信偈」では、
「一切群生蒙光照 本願名号正定業」とお教えくださっている。
今年になって文類偈をお勤めしだしたので、分からないところも多く、語句を調べようと思っても、手頃な書物に出会えない。
文類偈に触れている解説書も、その多くが、正信偈と内容はほとんど同じ-程度の説明しかないのだ。
今挙げた箇所も、正信偈は凡夫全てに届き、
文類偈は闇にさまよう私を相手にして下さっている、
と私には思えるのだが…。
「慧眼」の思い出
ここで、話題は真宗を離れる。
この「慧眼」が目にとまったのは、学生時代に読んだ数多くの書物の中に、ひときわこころに残り、一時期座右の銘としていたことばに「慧眼が這裡に生死無し」があったことを、それこそ「慧眼」と共に記憶の彼方から蘇ったのだ。
書名も筆者もはっきりと覚えている。
林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ』である。
同世代の学生の読書量に圧倒された。
なかでもLes Thibault(『チボー家の人々』)の翻訳がまだ無い時代に、原文で読み進めているのだ。
青春の悲しみを書いていた部分に「慧眼が這裡に生死無し」があった。
当時の私は、この句を、悟りを開くほどの理知・智慧があれば、様々な苦しみを超越することが出来ると受け取り、
エゲンを智慧の眼、「慧眼」だと思っていた。
後輩の前で、
ボソーッと「エゲンガシャリニショウジナシ」とつぶやいて、格好いいと思っていたこともあったような気がするのだが、そのうち気障なのでつぶやくことも無くなり、慧眼は記憶の底に沈んでいたのだった。
それが、50年以上経って、「文類偈」とともに蘇ったのだ。
『我が命月明に燃ゆ』を本箱から取り出し、その部分を見た。
林尹夫『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』
「慧玄が這裏に生死無し」とあった。
慧眼では無く、慧玄だったのだ。這裡も、這裏だった。
大地原 豊氏
『我が命月明に燃ゆ』は、7月28日午前2時頃、夜間索敵哨戒の為、美保基地から緊急出動し室戸岬沖で米軍夜間戦闘機から攻撃を受け、戦死した林尹夫さんの日記(満18才~21才)であるが、
付記に尹夫氏の2編の論・研究ノート、「回想に生きる林尹夫」(兄、林克也)、
親友・大地原豊氏の文が載っている。
「若き二人のフィロロ-ゲンよ」 大地原 豊
大地原?
ついこの前、大地原豊氏の名を見た。
何かで「諸法集要経」という書を見たいと思い、調べていたら出会ったのが京大サンスクリット学教授としての大地原氏だった。
京大教授、サンスクリット版「諸法集要経」とくれば、中島出身の大地原誠玄氏と関係があると見るのが自然だろう。
確証はないものの親子だろうと見当を付け、調べるが分からない。
誠玄氏が法名で「豊」が本名かも知れない-いつかはっきりすることがあるだろうと思いながら
とりあえず、『我が命月明に燃ゆ』・林尹夫・慧眼…で頭がいっぱいになっていることもあって、
書斎整理を続けた。
「中外日報」平成5年(1993)12月3日、6日号
積み上げてあるコピーの中に、大地原氏についての2枚があった。
共通見出しは、「インド研究に大きな恩恵」。
東洋医学の重要史料『スシュルタ本集』を古代インドのサンスクリット原典から初めて日本語に完訳した大地原誠玄先生。
執筆 多留内科クリニック院長 多留淳文氏
12月3日版見出し-
日本語完訳で読解、石川出身の大地原氏、生家は西善寺と分かる、残る先生の書の忠魂碑、能登の過疎化で東京都内に支院も。
12月6日版見出し-
学問上で父子対話・令息が京都帝大へ、墓所に礼拝し顕彰誓う、学問的連続性に意義・梵語原文の動植物名ラテン語学名に同定。
豊氏はご子息であり、誠玄氏の関係者その他が委しく記されている。
誠玄氏は戦時中能登に疎開しておられ、蔵書の一部があるお寺にあることは知っている。
この新聞記事によって、ずいぶんいろんなことが分かってきた。
豊氏には、身近なところでは中央公論社版・世界の名著1『バラモン経典・原始仏教』24編のうち、「ミリンダ王の問い」(大地原豊訳)がある。