開慧眼-エゲンがシャリに生死無し。林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』と大地原豊氏

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七十二候 芒種 第3候 梅子黄(うめのみきばむ)

 

文類偈 慧眼

このところ、お朝事(朝の勤行)に「文類偈」を戴いている。
「文類偈」に親しんでいこうとの思いからなのだが、
 ふと「智光明朗開慧眼」の「慧眼」が眼にとまった。
 「文類偈」は「正信偈」と同じく七言120句の偈で、840文字の中の2文字がバッと眼に焼き付いたのだ。
正信偈」は親鸞聖人50代頃の作であるのに対し、「文類偈」は83才の作とされている。

 

正信偈正信念仏偈)  顕浄土真実教行証文類
 もっというと、親鸞聖人52才の元仁元年(1224)に

親鸞、当年を末法に入って683年と「教行信証」に記す。(「教行信証」草稿本完成説あり。)(『真宗聖典』(大谷派))

 

とあり、
大谷派ではこの年を立教開宗の年としているのである。

末法の世に生きる人々が行える「行」を明らかにした行巻をようやく書き終える事が出来た、その感動が、正信の歌(偈)となって筆にあらわされた。

 ♪ 帰命無量寿如来 南無不可思議光…


文類偈(念仏正信偈)  浄土文類聚鈔
「文類偈」は、浄土真宗の教行証が完成し、それを顕わされた総合辞典(顕文類)をふまえ、この世に生きる「我ら凡夫」に、より思いが伝わるように推敲を凝らされた歌といえるのではないだろうか。
 その年頃には、聖人は御和讃という当時の流行歌・今様を用いた信心の歌をも次々と作っておいでるのである。
 「とも同行」と共にのお思いが、すでにわかりやすく書かれた「正信偈」をさらに練ったおことばであらわされたのが、「念仏正信偈」なのだろう。

 正信念仏偈が「正信偈」なら、念仏正信偈が「念仏偈」であれば、違った印象の偈であったろうが、何か深いわけがあって、当派では「文類偈」の伝統なのだろう。

 

慧眼
そこで、ようやく慧眼にもどるが
 「慧眼」が出る「文類偈」の箇所は、本願の働きをあらわす十二光によって
「能破無明大夜闇 智光明朗開慧眼」とあらわしておられる。
 そのところを「正信偈」では、
「一切群生蒙光照 本願名号正定業」とお教えくださっている。

 

今年になって文類偈をお勤めしだしたので、分からないところも多く、語句を調べようと思っても、手頃な書物に出会えない。
文類偈に触れている解説書も、その多くが、正信偈と内容はほとんど同じ-程度の説明しかないのだ。

今挙げた箇所も、正信偈は凡夫全てに届き、

文類偈は闇にさまよう私を相手にして下さっている、

と私には思えるのだが…。


「慧眼」の思い出
ここで、話題は真宗を離れる。
この「慧眼」が目にとまったのは、学生時代に読んだ数多くの書物の中に、ひときわこころに残り、一時期座右の銘としていたことばに「慧眼が這裡に生死無し」があったことを、それこそ「慧眼」と共に記憶の彼方から蘇ったのだ。

書名も筆者もはっきりと覚えている。
林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ』である。

同世代の学生の読書量に圧倒された。
なかでもLes Thibault(『チボー家の人々』)の翻訳がまだ無い時代に、原文で読み進めているのだ。
青春の悲しみを書いていた部分に「慧眼が這裡に生死無し」があった。

当時の私は、この句を、悟りを開くほどの理知・智慧があれば、様々な苦しみを超越することが出来ると受け取り、

エゲンを智慧の眼、「慧眼」だと思っていた。

後輩の前で、

ボソーッと「エゲンガシャリニショウジナシ」とつぶやいて、格好いいと思っていたこともあったような気がするのだが、そのうち気障なのでつぶやくことも無くなり、慧眼は記憶の底に沈んでいたのだった。

 

それが、50年以上経って、「文類偈」とともに蘇ったのだ。
『我が命月明に燃ゆ』を本箱から取り出し、その部分を見た。

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   林尹夫『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』

 

「慧玄が這裏に生死無し」とあった。
慧眼では無く、慧玄だったのだ。這裡も、這裏だった。

 

大地原 豊氏
『我が命月明に燃ゆ』は、7月28日午前2時頃、夜間索敵哨戒の為、美保基地から緊急出動し室戸岬沖で米軍夜間戦闘機から攻撃を受け、戦死した林尹夫さんの日記(満18才~21才)であるが、

付記に尹夫氏の2編の論・研究ノート、「回想に生きる林尹夫」(兄、林克也)、

親友・大地原豊氏の文が載っている。

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      「若き二人のフィロロ-ゲンよ」 大地原 豊

 

大地原?
ついこの前、大地原豊氏の名を見た。
何かで「諸法集要経」という書を見たいと思い、調べていたら出会ったのが京大サンスクリット学教授としての大地原氏だった。
京大教授、サンスクリット版「諸法集要経」とくれば、中島出身の大地原誠玄氏と関係があると見るのが自然だろう。

確証はないものの親子だろうと見当を付け、調べるが分からない。

誠玄氏が法名で「豊」が本名かも知れない-いつかはっきりすることがあるだろうと思いながら
とりあえず、『我が命月明に燃ゆ』・林尹夫・慧眼…で頭がいっぱいになっていることもあって、
書斎整理を続けた。

 

中外日報」平成5年(1993)12月3日、6日号
積み上げてあるコピーの中に、大地原氏についての2枚があった。

共通見出しは、「インド研究に大きな恩恵」。

東洋医学の重要史料『スシュルタ本集』を古代インドのサンスクリット原典から初めて日本語に完訳した大地原誠玄先生。

執筆 多留内科クリニック院長 多留淳文氏

12月3日版見出し-

日本語完訳で読解、石川出身の大地原氏、生家は西善寺と分かる、残る先生の書の忠魂碑、能登の過疎化で東京都内に支院も。

12月6日版見出し-

学問上で父子対話・令息が京都帝大へ、墓所に礼拝し顕彰誓う、学問的連続性に意義・梵語原文の動植物名ラテン語学名に同定。

 

豊氏はご子息であり、誠玄氏の関係者その他が委しく記されている。

誠玄氏は戦時中能登疎開しておられ、蔵書の一部があるお寺にあることは知っている。

この新聞記事によって、ずいぶんいろんなことが分かってきた。

 

豊氏には、身近なところでは中央公論社版・世界の名著1『バラモン経典・原始仏教』24編のうち、「ミリンダ王の問い」(大地原豊訳)がある。

 

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