江口喜久男氏 塩谷利宗氏-伊藤修氏そして佐藤春夫(氏)
花ザクロ
数日事情があって家を空けており、帰った日に、久留米の「江口茂子」さんという方からはがきが届いていた。
今年2月3日に西帰した江口(喜久男君)の身内の方のようだ。
どうしたのだろう…。
江口(学生時代の呼び方で敬称略)が亡くなったことは、間もなく彼と親しかった名古屋の伊藤修君[※下に過去のブログ記事]から連絡があって知った。
彼がかなり前から、入退院を繰り返していたらしい程度の情報はあって、
アァー、オレの誕生日の2日前に逝ったか……、と思ったが、彼の久留米での境遇が見当が付かず、
ご家族はおいでるのだろうが存じ上げないこともあって、「一つ宿題」をかかえながら、能登の地で、学生時代の江口を偲んでいた。
「一つ宿題」というのは、かつて『北国文華』第十一号、平成14年(2002)北國新聞社刊に、「山から海へ…」というエッセーを書いたとき、導入部に江口氏の文章を引用したことがあり、その「山から海へ…」を昨年6月に出版した『とも同行の真宗文化』に載せたのだった。
それで、当然、江口に1冊送ろうと思ったのに…。
思っただけで、送った記憶が無い。
『とも同行の真宗文化』400ページ
無量山真宗寺『同心』No45 2007年12月刊 351頁
本人はいなくとも、江口の文を載せましたと送るべきか、
こんなときに、西山って何だ?となっても、かえって面倒をかけることになるかも知れない…
得意の優柔不断状態で、はや4ヶ月もすぎた。
それが、思いもかけない「はがき」。
見ると、茂子様は江口君のご母堂で、
(遺品整理していたら)
昨年送った『妙好人千代尼』が出てきた。
私(ご母堂)も句会に参加しており、
「少しよませて頂き,嬉しゅう御座居ました。」
「大変おそくなりましたが御礼申し上げます。」
とある。
江口とは、かろうじてFBでつながっていたので、その頃のメッセージを探した。
2020年6月22日
あなた(西山)がメッセージを送信
大桑氏も先行き、大谷の知り合いがほとんどいなくなった時に刷り上がってきた『とも同行の真宗文化』という本。
知り合いは江口など数名。
関心があれば送ります。
6月23日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
今活字が読めないのですが、少しすつ読連絡不要たいわ
24日6時42分
あなたがメッセージを送信
後半、少しずつ読むようにしたいわ。でいいのかな?
だったら字の大きい『妙好人千代尼』を送りますが?
『とも同行の真宗文化』は厚くて持つのも大変なので。
7月1日
あなたがメッセージを送信
『妙好人千代尼』を送っておきました。
3日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
本届きました(絵文字)ありがとう(絵文字)感謝申し上げます!
そういうことだったのだ。
もう活字が読めない。ならと、読みやすさに気を配った『妙好人千代尼』を送っていた。
そして、ここに来てご母堂が見つけなさった。
俳句をやっておられなかったら、お気づきにならなかったかも知れないし、奥様が俳句の本ですよとお伝えになったのかも知れない。
「ひとつ宿題」(江口の書いた文章を引用した本-を送ってもいいか?)
が解決した。
すぐに学生時代の江口の思い出を書いて、『とも同行の真宗文化』をお送りした。
今日、届くだろう。
江口とは、
学生時代、全学ストで校舎が封鎖されていた頃、
私たちは自主ゼミを計画し、封鎖中の研究室で勉強会をしたりしていた。
そのころ、江口と二人きりで夜遅くまで研究室で語り合ったことがあった。
また、私が間借りしていた上賀茂の下宿は私以外は同志社の学生ばかりで、その中の一人、法学部か経済学部だったかの吉田君が江口と明善高校の同級生だった。
吉田はフラメンコギターがうまく、サビーカスやパコ・デ・ルシアの曲を奏でる合間に、
同級生の江口の話をしてくれた。
ワンゲル部に所属していた江口は、
毎日、石ころを詰めたザックを背負い、一人でグランドを黙々と走っていたといい、ものすごい根性があった、というのが彼の評だった。
人々の中にいる江口、熊本真宗寺にいたころの江口は、人あたりがいいというか、秘めた根性を表にしなかった(ようだ)。
私は、吉田の話や研究室で知っている芯の強さがあるから
いつも笑顔でおれるのだろうと、
社会に出てからの江口を一種畏敬の念で、遠くから眺め続けていた。
話は飛ぶが、最初に送ってきた真宗寺の『同心』22号(1983年刊)巻頭言に、
(当寺では、青年中心に御遠忌などの仏事行事を計画しており)
特に久留米の江口君が呉服店の若主人という恵まれた生活の一切を擲って、妻子をともなってはせさんじてくれた
とある。
このお寺には、錚々たるメンバーが顔を出しておられ、石牟礼道子氏も同寺を拠点にしておいでる。
飯田高校国語教師だったころ、ゆとりの教育が叫ばれ教科書の中身ががらっと変わったことがあった。
その時、筑摩書房の教科書を採用したのだが、「もういっぺん人間に」(苦界浄土・石牟礼道子作)が教材に取り上げられており、判断材料の大きな理由にした。
話はそれるが、この教科書はユニークで、川端康成「雪国」も教材になっており、補助教材のような形で、THE Snow Country(雪国)と題する英文が付いていた。
教員経験者なら、たいてい知識にないことばが出てきて立ち往生したり、
試験当日になっても問題が出来ていない夢を見て目を覚ますことがあると思うのだが、
This is a Pen レベルの英語力しか無い私は、教員を辞めてからも時々,雪国の英文の前で立ち往生している夢を見たものだった。
一方、苦界浄土は胸打つ作品で、文章がわかりやすく、考えさせられて完結。
試験問題には、「感想をのべよ」しか作りようがないという、教材として見たときの痛し痒しがあった。
私にとって、教科書の作家は雲の上の存在であり、その人と日常的に接し,住職代務者にまでなっていた江口師は、同様の雲の上の存在となっていた。
『北国文華』に引用した文は、その頃のもので、
ハハァーと、合掌しながら書き写したものだったのである。
江口!
今は…、還相の菩薩だね…。
塩谷利宗氏 釋利宗
今日は、江口と仲良しだった飯塚の塩谷氏の祥月命日(8回忌)。
お逮夜日に、例年のごとく塩谷宅に電話を入れて偲び、
今年は、江口君の想い出を話し合った。
2006年4月
2010年5月
2014年7月
2014年10月
2018年8月
伊藤修氏
2011年4月
その頃、伊藤君はこのLPレコードにバンジョ-奏者として参加し、「日暮れのブルース」という曲を載せている。
初任の羽咋工業高校がある羽咋は、日本海に沈む夕景が素晴らしかった。
綺麗な夕焼けに出会うと、ハミングで、明るく軽快にを口ずさんだものだった。
「長い旅がいやになる」の歌詞カードに楽器、コーラスなど9人の演奏者の写真が紹介されている。Banjo伊藤修。
2010年8月
※福岡県立明善高校を検索したら、
久留米藩校の流れを汲む高校で、校歌の作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔による。
とある。
私の初任、羽咋工業高校校歌と作詩、作曲者が同じだ。(6月21日)
2017年2月
2017年6月