二宮 石動山道標石 2021年令和3年7月2日(金)

 二宮 石動山道標石

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中能登町二宮 第9番石動山天平寺 読めなくなっているところは、本社に続き「迠従是五十八町」だった。能登国三十三観音を40年以上調査してきた中で、「国定公園石動山登リ口 七・一KM」とすぐ後ろに案内板が立っていたころもあった。山門が見えるお寺は、真宗大谷派畠山山長賢寺さん。

 

前田土佐守家七代当主直時 

ところで、いつ誰がこの立派な道標を寄附したのだろうか?

そのことを書いた案内板は、見たことがない。

いろいろ調べて見ると、加賀藩二代藩主利長の弟・利政を祖とする前田土佐守家七代当主直時が、文政三年(1820)年に寄進したものである。二宮区有文書では「武運長久」を願ってとのみ記しているが、石動山伊須流岐比古神社文書には

 奉寄附
石動山神社
道標石
右為武運長久、心願成就所、寄附如件
文政三年庚辰春三月

 とあって、心願成就が見える。

文政3年は直時27歳。

加賀藩八家の一つ、土佐守当主(成立時1万1千石)が寄進した道標である。

土佐守家ゆかりの道標であることは私も初めて知ったが、

広く知られなければならない文化財であろう。

石材も笏谷石のように見える(この方面、疎い)。

 

能登はやさしや…

今は二宮口から石動山を目指す人はほとんどいないようだが、

元禄9年(1696)に御山(石動山)に参拝した加賀藩士浅加久敬(ひさのり)が、馬子の対応に感心して

このような馬子を育てる風土が、杵歌で唄われている

能登はやさしや土までも

なのか、

と紀行文『三日月の日記』に記した。

これが「能登はやさしや…」が記されたはじめであり、

さらに次代が下って土佐守の道標となると、

このあたりの歴史的深みは、

計り知れないと思うのだが……。(7月9日追記)