究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。

究其涯底(くごがいてい)、シンポ:真継伸彦氏、伊香間祐學氏たちと。

父方祖父母のお墓、去年別れた東条さんのお寺を訪ね、写真を下書きに保存して、文を書こうと下書きを開いたら、表題の下書きがあることに気づいた。
2014年10月1日に書いたものである。
覚えに残しておく。(2021年7月4日記)


本を整理していて、
真宗大谷派大聖寺教区「蓮如上人五百回忌御遠忌」記念
 大谷暢顯門首御染筆」とある、綺麗な包装紙に包まれてある字を見た。

そこにあるとおり、大聖寺教区でシンポジウムに参加したときに頂いたのだが、勝手に御染筆コピーだと思いこんでいた。
御染筆とあって複写の言葉がどこにもないのだから、御門首の字なのに、
ついこの前まで気づかなかった。
染みが出来はじめていて慌てて表装した。
染み抜きも施され、30日、写真のように綺麗な軸に仕上がってきた。


この大聖寺教区御遠忌には、真継伸彦氏たちとシンポジウムを行い、それをきっかけに真継氏が我が家に泊まり、御示談を聞くため、中島蓮浄寺さんで行われた御崇敬にお参りしたのだった。


それにしても、本の整理をしなかったらそのままになってしまったかも知れない大聖寺での御遠忌記念。
いつのことだったのだろう?
当時のパンフが見つかった。
2000年9月2日(土)だった。


この日、私が最後に待ち合わせ場所の喫茶店につき、初めての方々と顔を合わせた。
お互いに知らないのだから、誰が一番年寄りなのか、といった話題になり、
たぶん西山さんが年配ではないかと話し合っていたとおっしゃる。

真継伸彦、伊香間祐學、そして私。司会は伊勢谷功氏(私の教師修練の時の師である)がなさった。

聴衆の中に、大聖寺高校の社会科の先生、その他の教員が聞きに来ておられた。
真継伸彦氏の話が終わると、彼らは帰っていった。その時、私が話し始めていた。

私でも、あの「真継伸彦を見てこよう(の話を聞いてこよう)」となるよな…。

真継氏は、
蓮如上人御遺言にある、病気に対して加持祈祷などをしない、それを守って真宗が現代に到っている、ことを高く評価されていた。、

覚えているのは、これらぐらいで、御染筆をその時に頂いた記憶は消えていたのである。

包みに大聖寺教区とあるので、そうだったなのだが、

この2000年は、
能登教区教区会副議長、珠洲焼資料館館長、七尾市史専門委員民俗部会長などの職にあり、
それぞれに忙しかった。

歴博の特別展・若山庄の準備にも関わっており、定期的な8組坊守会講師、「臥龍の集い」という夜の勉強会も行っていた。
5月13日の金沢教区同朋大会の講師をはじめ、講義もそこそこあった。

原稿の方も
「共同体とお年寄り」『老熟の力』早稲田大学出版(400字詰め原稿用紙28枚)
「昭和38年から43年の飯田高校の歴史」『飯田高等学校90周年誌』(120枚)
書評「宗教民俗研究」(25枚)

連載「珠洲の風物詩」1〜5「季刊能登」(10枚)
珠洲焼」「御影道中」『日本民俗写真大系』8 (4枚)
「阿部判官伝承」『若山庄を歩く』県立歴史博物館(22枚)
他に数点の新聞記事を書いている。

1つの行事が終われば、次々と先を見なくてはならず、終わった行事の余韻に浸っている暇はなかったのだ。

そのうち、忘却の彼方。

門首の書かれた「究其涯底」には、以下のような説明書が入っている。

大谷暢顯門首御染筆
究其涯底
この句の出典は『仏説無量寿経』上巻の「嘆仏偈(たんぶつげ)」(真宗聖典十一頁)の一句てある。
「嘆仏偈」は、四言八十句からなり、阿弥陀如来が法藏菩薩である時に、その師仏である世自在王仏の徳を讃歎(さんだん)された偈文である。
仏は、深く甚深の道理を窮(きわ)め尽(つ)くし、真実を完全に悟っておられるということであり、仏は私ー人間ーの本当の姿の奥底まで見きわめておられるという意である。

大谷暢顕門首は一九九六年に真宗大谷派第二十五代を継承され、法名を釈浄如、雅号を愚岳という。

※7月4日追記 

暢顕門首門主職を辞され、2020年7月1日から暢裕門主が26代を継承された。