山田知子さんーご西帰

今日22日、山田知子さんのお身内から、「山田知子は昨年五月に亡くなりました」と記した、寒中見舞いをいただいた。

山田さんとは仲がよかった。25年前の1996年(平成8年)8月20日に東京書籍から『相撲の民俗史』(東書選書)をお出しになり、8月19日に「謹呈」されている(発行日の前に本が届くのはよくあることである)。

そして、その後、2005年12月5日ブログで『相撲の民俗史』に触れた。

 引用する。

『相撲の民俗史』『能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察~』など

 

能登の法事相撲に関して詳しく調査した報告書がある。

これを探すのだが見つからない。

寒い。春になったら…とも言っておれない。

この機会にどこにどういう風に本を詰めたのかを知ろうと

本箱周辺をうろついた。
「唐戸山相撲史」(昭和46年:平岡克明著)のコピーが出てきた。
「すまひ・角力・相撲」(平成3年:石川県立歴史博物館)が出てきた。


この話題になるなら紹介しなければと思っていた『相撲の民俗史』(1996:山田知子著:東書選書)も、すぐに出てきた。

山田さんは、相撲研究者、
特に民間相撲の研究者なので、当然唐戸山相撲の調査においでている。
その時、羽咋にいるのだけど、出てお出でよ、と電話が入った。


能登と口能登ではものすごく遠いのだ、と電話で説明したのだが、
ちょっとでておいでよ、とおっしゃるくらいだから、距離感が全然分かっていないようだった。


その後、京都から、羽咋とそちらでは遠いのねえー、
能登同士だからすぐ近くかと思っていた、と…電話が入り、
地図で確かめて能登は広いことを実感されたようだった。

相撲の民俗史 (東書選書)

相撲の民俗史 (東書選書)

 




見つからない報告書は
ガリ版で黄色い表紙だった、能登出身の日体大の何とかという若い先生が関わっていて…
とドンドン記憶が蘇ってくるのに見つからない。


宗教書の方に紛れ込んでいた。
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能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察』
平成5年9月25日、日本体育大学体育史研究室発行。著者:谷釜了正、下谷内勝利。
思っていた通り、労作である。

 『能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察』の著者・谷釜さんは、その後日体大の学長になられ、特に体育系のいじめ、パワハラなどの絶滅に力を注がれたと聞いている。

 

山田さんは、この後の話になるのだが、蔵書を抱えきれないので、西山さんの所だったらおけるだろう、と英文ブリタニア百科か何かを運んでこられたことがあった。

まだ見ていない襖の下張と同様、いつか英文で調べる日が来るかも知れないと、かなり長い間物置にあったのだが、だいぶ前に他の雑誌類とともに処分している。

だから、1度は当家というか当寺にきておいでるはずなのだ。

最終肩書きは大谷大学名誉教授のはずである。

 

元気そのものの頃の出会いなので、いつまでも元気なもの、と思い込んでいた。

5月なら大桑さんが先立たれてまもなくのことだったのだ。

『相撲の民俗史』カバーに記されている紹介を加え、山田さんを偲びたい…。

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 山田知子-京都生まれ。現在(※1996年現在)、大谷大学短期大学部教授(体育学)。奈良女子大学を卒業後、奈良帝塚山短期大学を経て、一九六九年より大谷大学に勤務。当時文学部国史学科の主任教授であった五来重博士(一九九三年に逝去)に出遇い指導を受け、五来博士主催の「日本宗教民俗学研究所」で宗教民俗学を研究。●主たる論文(共著)「きたえる」竹内京一編『体育への誘い』海青社、「我が国における相撲の発生に関する研究」『大谷大学研究年報』三十四集、「相撲と民俗」田中義広編『祭りと芸能の研究Ⅱ』錦正社、「稲荷信仰と古墳」五来重編『稲荷信仰の研究』山陽新聞社、「鳳来寺三河尾張の薬師信仰」五来重編『薬師信仰』雄山閣、「土俵まつりと修験道」寒川恒夫編『相撲の宇宙論平凡社

 

 

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私が相撲史をひもといてみようと思ったのは、「もうひとつのみかた」
ができるということがわかったからである。
それは、民俗の中に残されて来た祭儀相撲に見られる「足踏み」に焦
点をあてて、その源をたずね、歴史を遡っていくと、相撲は、古代
より悪霊を鎮め追い払う呪術に発生し、農耕の豊凶を占う年占とな
って力を競い合うようになり、次第に競技化が進行していったが、
本来の呪術性ゆえに、雨乞いや地鎮などに用いられ、また朝廷の節
会の行事となり、あるいは、社寺の勧進の手段として行われてきた
ことも明らかになってくる。そして、この伝統を継承するというい
まの大相撲での力士の揃い踏みや横綱の土俵入りも、もとは天下国
家の悪魔祓いをする一種の宗教行事だったこともわかってくるはず
である。(はじめにより)


紹介文にある著書。

「相撲と民俗」田中義広『祭りと芸能の研究Ⅱ』錦正社ー今、雪に閉じ込められている建物にあるので取りに行けない。

「稲荷信仰と古墳」五来重『稲荷信仰の研究』山陽新聞社

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『稲荷信仰の研究』昭和60年5月27日 山陽新聞社刊 9800円

 

五来重先生が当寺に泊まって行かれた、昭和60(1985)年6月15日、お土産としていただく。先生を含め14名最上稲荷教務部の執筆による970ページに及ぶ大著。これらの方々が、五来重門下の俊英たちだったのだ、新たな感慨を覚える。

 

鳳来寺三河尾張の薬師信仰」五来重『薬師信仰』雄山閣

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『民衆宗教史叢書 第12巻 薬師信仰』昭和61(1986)年11月20日雄山閣出版刊 5800円

執筆者14人。私も「能登の薬師信仰」を執筆した。山田さんと同じ本に書いているなんて…。

先生も含めて5人程度親しいというか、顔が浮かんでくる方々がおいでる程度。

この時の肩書きは「石川県立飯田高校教諭」。

 

「土俵まつりと修験道」寒川恒夫編『相撲の宇宙論平凡社

 

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『相撲の宇宙論』1993年11月26日 平凡社刊 2200円。執筆者6名

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この本も、山田さんからいただいていた。あらためて有り難うございました。




『蓮如上人と伝承』ー1995年1月17日 5時46分後ーの由緒地

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蓮如上人と伝承』おやまブックレット1(1998年12月25日刊)「三 最初の御文」本文末の挿入写真、P18。平成8年(1996)9月2~3日能登教区第10組住職研修旅行・引率の時の写真。右は故安宅山師。下の写真は別院・教務所からの強い要望があって載せた。20021年1月17日朝日一面にボランティアについての分析考察があり、その始まりの写真と言えるだろう。

16年前のあの日のその時刻、今と同じ部屋ので同じベッドに寝ていた。

ベッドが下の方からユウーウラリと揺れ、どこかに運んで行かれるような重い気分で目が覚めた。

阪神淡路大震災(災害名は2月14日統一)の発生である。

近所の人が大型トラックで神戸に荷物を運んでいて、神戸の町並みが眼下に見える山の駐車場で、いつものように明け方しばし仮眠を取ろうとしていたとき、ぐらーっときてあちこちで火がのぼり初めた。もう、慌てて引き返してきた、と、現実ではない話をするように話すのを聞いて、想像が追いつけない出来事が起こっているのだ、と思っていた。

私は、その年の 9月から16回に亘って、金沢別院の機関誌「おやまごぼう」(隔月刊、162号~177号)に「蓮如上人と伝承」を連載した。

連載を終え、金沢別院に一冊も出版物がないのはどうかと提案し、1998年12月25日、すなわち蓮如上人のご命日、生母が6歳の上人を本願寺に残して去った日に、『おやまブックレット1 蓮如上人と伝承』を発行した。

この年は上人の500回忌でもあり、連載も500回忌に向けて始まった企画だったのである。

第3回が「最初の御文」で、そこでは、震災を踏まえ、次のように書いた。

 

※元のブックレットでは、多くの語-長禄〈ちょうろく〉、留守職〈るすしき〉、応玄〈おうげん〉のように-にふりがなを振ってある。

三 最初の御文
上人は、長禄元年(1457)、43歳で本願寺留守職を継承し、本願寺第八世となられた。弟の応玄上人との間で継承を巡っての争いもあったとされるが、二俣におられた叔父・如乗の力添えがあって、上人に落ち着いたといわれている。
上人の生きられた時代は、天災・飢饉が相続き、世は疲弊の極にあった。応仁の乱が起こるのは継承から10年後のことであるが、上人が27歳の時には、どうにもならなくなった数万の民衆が、16カ所に陣を構えて京を包囲し、徳政(貸借契約の破棄)を勝ち取るほどの激しい一揆も起こっている。
「母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸いつつ、臥せるなどもあり…」(『方丈記』)といった状景があちこちで見られたに違いない。

このような状況の中で、上人の御一生である85年間に、世を立て直したいとの願いを込めた年号の改元が、15回も行われている。
このこと一つを取ってみても、世はまさに末法であり、人々の不安につけこみ、かえって人々を苦しめる似非宗教の横行もあったのである。
そして、継承からわずか3年後の寛正元年(1460)にも、大飢饉・疫病が流行した。『碧山日録』によれば、地方から「人民相食む」とのうわさが伝わり、ある僧が、せめてもの供養にと立てて歩いた卒塔婆の数が、都だけで8万2 千本にも達したという。 別の僧が、大釜で炊いた粥を人々に分け与えたが、衰弱しきった胃腸は熱い粥を受け入れることができず、粥に飛びついた人は次々と命を落としていった。そして、それは釜の向きが悪かったせいだ、という話が人々の口に登り出すのである。まさに、親鸞聖人が「かなしきかなや道俗の、良時吉日選ばしめ、天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす」(『正像末和讚』)とお嘆きになられた、その通りの人心も荒廃した世となっていた。
 おびただしい死者によって鴨川の流れまで変わってしまったその頃、上人は京都大谷に在って、惨状を目の当たりにしておられたはずである。何を思い、何をなさっておられたのであろうか。

 

天災といえば、平成7 年1 月17日早朝に起きた阪神淡路大震災は、様々のことを語りかけている。多くの若者がボランティア活動を行うという明るい話題もあった。

その中で、二人の子供を一瞬に失い、駆けつけてくれたボランティアの若者たちに感謝しながらも、同世代である彼らにどうしても会うことができずに仮説トイレに身を潜めて泣く父親の姿があった。
家の下敷になった子が、迫り来る猛火のもとで、「お母さんはどうだった。逃げられたの、よかったね。僕はいいから、お父さん逃げて…」が最後の言葉になった、と語る父親の姿も報道された。報道は過ぎ去っていく。しかし、「お父さん逃げて…」の声が、落ち着きを取り戻すに従って、より
鮮明に耳の奥底から聞こえ始めてくる親がいる。子供を助けることができなかった、という懺悔は、「悪人」の責めを自らに課し続けていくことになるのであろう。

 

上人は、全てを失い途方に暮れている多くの人々を目の当たりにして、かけがえのない命の輝きを甦えらすには、真実の教えによってしか成し遂げられないことを、改めて感じ取られたはずである。祖師聖人が明らかにされた我々「悪人」が救われる教えを、どのようにしたらわかりやすく伝えることができるのか。それこそ身悶えしながら問われたに違いない。

その答えが、寛正の大飢饉の翌年3月に表された最初の御文ということになろう。
金森道西(俗名弥七)の求めによって書かれたとされているが、「罪の軽重をいはず…在家止住のやからは…平生業成…」とお書きになった一字一句は、どこまでも深くて重い。

上人と出会える身近な人々に対しては自らの言葉で、弥七のように遠い所で救いを求めている人々には「文」を用いて、と、弥陀の願いが、ここに「御文」という形で世に登場したのである。 

 

時系列を見れば分かるが、連載を終え、わずか9ヶ月でブックレットを完成させている。

金沢教区若手スタッフとの読み合わせや、ロゴマークの制定など…。写真挿入の位置は印刷所にお願いしたが、原稿の打ち出し、系図の線引きも含め、出版社がやる仕事のほとんどを、筆者である私が行った。

 

写真参考 2021年1月17日(日)朝日新聞一面

阪神・淡路大震災26年 災害ボランティア根付く のべ480万人 不足の被災地も

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災害ボランティア データー

 

私の執筆方法は歴史民俗というもので、文献・史資料を調べ上げ、現地を歩き、聞き取りを行う。

それで、この連載においても、北陸はいうまでもなく、三河方面、近畿、竜野あたりまで、上人の足跡を訪ねた。

神戸に入ったのは、震災から1年と1ヶ月、平成8年(1996)2月15、6日のことだった。

この時は、2月12日に山科・赤野井別院などを歩き、13・14日は本山教導研修。

15日、姫路・竜野各地を訪ね、神戸湊川公園で宿。神戸へはこの時、初めて行ったのだけれど、私にとっては、それまでの神戸は、「

にほんのうたー別れた人と(兵庫)ー」とラグビー神戸製鋼がすべての街だった。

三の宮駅に降り立ったとき、町中に火のニオイが染み込んでいた。記録にニオイは残せないが、メモには「駅員さんが親切だった」と書いてある。そこに被災から一年の、現地の人々の思いが「一言」=「親切」に込めてニオイと共に残したのだった。

翌日訪ねた、有馬温泉、名塩教行寺、蓮如池~出口光善寺、崩れた石垣、復興への萌しを秘めて春に向かおうとしている、そのような「蓮如上人伝承地」を通りすぎた、との印象だった。

 

ブックレット(絶版で手に入らない)を読み直してみると、

写真を24枚挿入しているが、この調査行時に撮った写真は使っていない。

神戸近辺で使用する一枚は、御文が最も残っている名塩教行寺近くの「蓮如池」だった。しかし、池は、山を切り開いての宅地造成さなかの中にコンクリート囲まれた四角い池になっており、元の景観をとどめておらず、使えなかったのである。

 

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蓮如池 名塩

このブックレットはブックレットシリーズの中で、唯一絶版になっており、どんな写真を使ったかは史料価値があると思われるので、目次と共にあげておく。写真は○(所在地名で町から始まる地は、金沢教区内)。

一 布袋丸と真宗再興 ○鹿子の御影(二俣町本泉寺) ○蓮如上人絵伝ー鹿子御影、母公遺訓-(四十万町善性寺)

二 北陸門徒との出会い ○山田光教寺跡 蓮如上人腰掛け石(加賀市山田町) ○御満足の木像(珠洲市正院町高福寺)

三 最初の御文※本文

○金森御坊(守山市道西坊) ○阪神淡路大震災ボランティア(平成7年、同朋大学学生)

四 聖人一流の…

○お手植えの大イチョウ津幡町笠池ゲ原)

五 女人と御文

嫁脅し肉付き面(福井県金津町吉崎寺版)

 六 笹の伝承

○チマキ笹(加賀市動橋町篠生寺)

七 梅・松など

○五色の梅(木越町福千寺) ○数珠掛け・袈裟掛け松(加賀市山代温泉専光寺)

八 動物と龍女

○蛇骨(岡崎市土呂旧跡)

九 特産・名品

○白水(加賀市八日市町)

一〇 十字名号から六字名号へ

○鹿島の森(吉崎坊舎跡地から望む)

一一 名号の様々

○柱の名号(氷見市一刎八幡神社) ○虎斑の名号(加賀市山中町下谷道場)

一二 木像よりはえぞう…

○八万法蔵の御文(四十万町善性寺)

一三 和歌

○御筺の和歌(※刷り物-おもかげを代々の筺に残しおく 弥陀たのむ身のたよりともなれ 蓮如上人 加州尾山御坊御筺ー)

一四 由緒値を訪ねた人

石山寺 蓮如堂(大津市) ○豊四郎の巡拝帳(※江州石山寺、江州金森御坊・道西遺跡因宗寺)

一五 蓮如

蓮如忌(吉崎御坊) ○御影道中・民家での蓮如

一六 上人の問いかけ

親鸞聖人・蓮如上人連座御影(彦三町長徳寺) ○劇団 座・アート「れんにょさん」(平成10年3月金沢市文化ホールで上演)

 

おやまブックレット

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既刊おやまブックレット。金沢別院ホームページより。

蓮如上人と伝承』1に始まるブックレットは、現在5まで刊行されている。

刊行時『蓮如上人と伝承』の頒価は300円だった。後、2001年4月1日2刷発行時に350円になった。

手頃なので、門徒会研修(12組など)終了時などに配布したり、延べ1000部近く購入したと思う。

3年後に第2号「一向一揆という物語」をお書きになった大桑さんは昨年4月14日に先立たれた。

残ってうろうろしている私の冊子が絶版?なのは、どうかなと思う。

引用した「3 最初の御文」を見ても、そんなに問題なさそうだし、何よりもこの小冊子を持って、伝承地を散策できる。

案外、身近なところに上人由緒地があり、その身近さを通して教えの導入も期待できるのではないか。

今は、集まっての聞法がしにくく、皆で由緒地を訪ねることも出来ない-

こういう、今の時こそ

先達になってくれる一冊、だと思う。

 

売り切れたのは2018年9月金沢大谷婦人会ひじり支部でお話したときだから、もう丸2年以上経っている。

 

臥龍文庫から復刻も悪くないなァーと思いながら、1年以上待ったのだけれど、何もしなけりゃー…小さな旅の道案内ーもへちまもない。

 

雪もやみそうだし、今日は、一般の正月じまいの二十日正月加賀藩には25日の寺正月があって、正月じまいは5日遅い)。

 

一歩先へ動いてみようか…。

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蓮如上人と伝承』

 

 

 

 

清水脩 後半 清水脩氏と真宗の歌・交響曲「蓮如」。北川博夫氏、土岐善麿氏、歎異抄

ブログより 2017-01-24
真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉-交声曲『蓮如』と北川博夫氏
平成11年10月16日・17日、当寺で「蓮如上人500回御遠忌法要」を厳修した。

その時のアトラクションに、北川博夫・辰彦氏、越中おわら道場を招待し、演奏して頂いた。

その時のポスター

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そこには、「◎「交響曲蓮如』」・「心の故郷ー童謡ー」(CD)から数曲ずつ
[出演]声楽家・北川博夫氏(両CDのソリスト)その他」と印刷し、紹介している。

 

北川氏は、『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』(CD)【交声曲「蓮如】以外にも、暁烏敏(作詞)・立野勇(作曲)「十億の人に」、深沢富子(作詞)・渋沢沢兆(作曲)「源三さん」を独唱しておいでる。
当寺では、その「源三さん」を、ご子息の北川辰彦氏(近年、レシピ・アン?音楽と料理で幸せのおもてなし?、BSフジなどでもご活躍中)がお歌いになった。

深く印象に残っている。

 

交声曲「蓮如
※『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉より

土岐善麿作詞・清水脩作曲によるもので・蓮如上人四百五十回御遠忌〔昭和24年)を記念して制作されました。
蓮如上人〔1415~1499〕は本願寺第8代留守職で、宗祖親鸞聖人の教えを当時の民衆に広く伝えられ、今日の教団の基礎を築かれた方です。
上人は、現在真宗門徒が日常的にお勤めしている「正信偈・和讃」による勤行形式を定められ、また、御門徒に多数の「御文」をお書きになり、親鸞聖人の教えをわかりやすく説かれました。
 この交声曲「蓮如」(作詞 土岐善麿、作曲 清水 脩)は、
1、Introduction 2、一念の信 3、げにやただ 4、かくては消えん 5、本尊は 6、ものをいえ 7、げにわれやさき 8、みあとしのべば 9、念仏の合唱
の9章からなる作品で、1948(昭和23)年に東京、京都、大阪で相次いで演奏され、京都では、5月3日に本山御影堂において、朝比奈隆指揮、関西交響楽団、独唱中山悌一、砂原美智子、岩崎成章により演奏されました。
 また、翌1949(昭和24)年、蓮如上人四百五十回御遠忌期間中の4月23日には、京都松竹座において、御遠忌を記念して「日本宗教音楽演奏会」が開催され、交声曲「蓮如」は新作交声曲「平和」とともに演奏されました。当時の『真宗』誌によると、近代音楽に真正面から取り組んだ仏教音楽の荘厳さと迫力が、満員の聴衆に多くの感銘を与えたと伝えています。

交声曲『蓮如』作詞 土岐善麿、作曲 清水 脩、指揮 蒔田尚昊
○木場澄江 ※ソプラノ ○市川和彦 ※テノール ○北川博夫 ※バリトン
○東京混声合唱団 ○キングレコード御遠忌記念オーケストラ

1 Introducdon
2 一念の信
一念の信を得て 今 安養にいたる 穢身ながく絶ち 法柑すみやかに証す
十方の衆生のため 仏はまさに正覚をとりたまえり 一向専念無量寿佛 一向専念無量寿佛 われは他力の行者なり 信楽歓喜限りなし
3 げにやただ
げにやただ たのむまことの かしこさに いまやすらぎの 心えて この身このまゝ 大慈悲の 浄きみ国に いたるとき おしてる光 あまねくも み法のすがた まのあたり
4 かくては消えん
かくては消えん 法の灯 ふたたびたかく いまぞかかげよ 仏のみ名を 称うるばかりと 母のさとしを 幼なごころに いそしみたまえる  みいのち尊と をみなはまして 罪も深きに 雪つむあたり よしや吉崎 うちしく法の 法のむしろに 集いて 救けたまえや 摂めたまえと いたわりたまえる 朝宵かしこ
5 本尊は
本尊は掛け破れ 聖教は読み破れ 人間は 唯 電光朝露 稲光の影 朝の露のみ 夢まぼろしの 夢幻の間の はかなき一夜の 楽しみぞかし いくとせ いかに苦しくとも つばさたゆまぬ 鷺の森 松の緑のいろそいて 越えゆく奥は山科や 六十路 七十路 道遠し
6 ものをいえ
ものをいえ ものをいえ ものをいうこそ うれしけれ
ものをいえ ものをいえ ものをいうこそ うれしけれ
信も不信も ものをいえ いざおのづから いざこころのそこも ひらくべし ものをいわぬぞ おそろしき ただものをいえ ものをいえ ものをいえ ものをいえ さとしもつきず 

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむや うき世をさながらに 安養浄土 今ここに 五つの不思議 無碍光の 功徳をあおぐ あらたさよ
7 げにわれやさき
げに げにわれやさき ひとやさき 今日ともしらず 明日ともしらず あしたには紅顔の 花のよそほい かがやけど 夕べには 白骨の くちゆぐ野辺の 露しずく 夜半のけむりの あともなし
8 みあとしのべば
み跡しのべば 春の花 無常の風に 散りみだれ み文ひらけば 秋の月 真如のかげの さやけしや かの本願の名号は 清浄の業と説かれたり 他力とは 阿弥陀一仏 帰命とは 信楽本願 行住坐臥に 念仏を 申さるべきばかりなり 南無阿弥陀 南無阿弥陀
9 念仏の合唱
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

〈用語読み〉

例えば仏はブツ、ホトケといずれで歌われているのか? 読みを記す。
2 安養 あんにょう、穢身 えしん、法相 ほうしょう、仏 ほとけ、正覚 しょうがく 信楽 しんぎょう 歓喜 かんぎ 
3 心 こころ
4 救け たすけ 攝め おさめ 朝宵 あさよい
5 聖教 しょうぎょう 稻光 いなずま 間 あいだ 一夜 ひとよ
6 安養浄土 あんようじょうど 無碍光 むげこう 功徳 くどく
7 信楽 しんぎょう


土岐善麿
私が大谷大学大学院に入学したのは1969年4月。まもなく親しくなった友に連れられて、講義を終えた梅津次郎先生についていき、先生のおごりで大学近くの喫茶店に度々行った。その梅津先生と一緒に歩いておられた土岐善麿氏を見たことがある。大谷では国史に属したが、大学では国文を学んだ関係で、土岐善麿の名は聞き知っており、伝説の人物のように思っていた。その実物に出会えるとは…。京都のすごさ、立ちすくんでしまうような感覚も覚えた。この詩は、いわば土岐氏蓮如理解の集約なのだろう。しかし、この本の解説以外には、他の作詞家も含め、真宗と音楽関係者として語られていないのではないか。
真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉』を、今一度見直す必要があるのではないだろうか。
ついでに、三条の古本屋で新村出にあったことがある。名は知っていても顔は知らない。古本屋のおばさんが新村出だと教えてくれた。

以下、カンタータ蓮如関係の人物を調べ紹介する。清水脩は、一時期グリークラブにいたときから「月光とピエロ」(『真宗の音楽』にも採られている)、「恩徳讃」などで身近な方だった。この作品の指揮者・蒔田尚昊は名を読むことも出来ない。いい機会なので、関係者のプロフィールを以下に記す。

 

作詞・土岐善麿(1885~1980)
明治18年東京都真宗大谷派等光寺に生まれる。早稲田大学卒業、文学博士、紫綬褒章受章する。《阿難》《ああこのよろこび》《降誕讃歌》カンタータ蓮如》など仏教音楽作品多数を発表する。特にカンタータ蓮如》は蓮如上人450回御遠忌記念演奏会に上演され今も最も記憶に残る大作として多くの人々の語り草として記憶に残っている。
出典・『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉プロフイール)
○とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人国語学者東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院に生まれる。東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。
卒業の後、読売新聞記者となった1910年(明治43年)に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの、1912年(明治45年)に啄木が死去。啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年(大正6年)に東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。
翌1918年(大正7年)に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、1940年(昭和15年)に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。
戦後再び歌作に励み、1946年(昭和21年)には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い。紫綬褒章受章。
第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている。 出典・ウキペディア
明治43年出版の第一歌集『NAKIWARAI』は日常生活の哀感をローマ字三行書きで歌って歌壇の注目を集め、石川啄木に大きな影響を与えた。それを契機に交流を始め、雑誌「樹木と果実」の創刊を計画したが果たすことはできなかった。
 貧困と病によって倒された石川啄木の葬儀を生家の西浅草・等光寺で行い、遺骨も一時埋葬、遺族の擁護、全集発刊につとめるなど友情を尽くした土岐善麿は、その68年後の昭和55年4月15日、下目黒の自宅で心不全により死去した。94歳。啄木の26歳に比して、なんと長寿であったことか。自身の会葬御礼に記した歌がある。〈わがために一基の碑をも建つるなかれ 歌は集中にあり 人は地上にあり〉。
〈死後二年の啄木を、事につけては思う心。〉との解説がある歌〈石川はえらかつたな、と おちつけば、しみじみとして思ふなり、今も。〉。
土岐善麿はローマ字綴りの一首三行書きによって、石川啄木とともに歌壇の新しいホープとして注目され、啄木死後、遺稿歌集『悲しき玩具』発行に尽力した。「一念」とのみ刻された一メートルばかりの黒御影の細い石柱が立っている。香立てに「土岐」の文字があるばかり。浅草・東本願寺近くにある善麿の生家、等光寺裏墓地の門扉のすぐ先にあるその墓碑の清楚さに、達観した人柄が偲ばれて心が洗われた。本堂前に啄木の歌碑がある。〈浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出て来しさびしき心 啄木〉。出典・文学者掃苔

 

作曲・清水脩(1911~1986) しみずおさむ
明治44年大阪四天王寺に生まれる。大阪外国語学校仏語部、東京音楽学校(現・東京芸大)卒業・全日本合唱連盟理事長、日本宗教音楽協会創立に参画する。日本プロ合唱団連合会委員長、日本合唱協会代表等要職歴任。紫綬褒章受章。作品としてオペラ《修善寺物語》《俊寛》、合唱曲《月光とピエ鱒ほか、舞台音楽、交響曲室内楽、歌曲、箏、雅楽器曲など多岐にわたる。仏教作品として交声曲《蓮如》《平和》《歎異抄》《阿糞齢など多数。
受賞曲としては、昭和14年第8回音楽コンクールで管弦楽曲《花に寄せたる舞踏組曲》第1位・同25年管弦楽曲《インド旋律による4楽章》文部大臣賞受賞など、その他多くの作品で受賞・出典・『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉)

 

指揮者・蒔田 尚昊(まいた しょうこう、1935年3月13日~ )
日本の作曲家。別名、冬木 透(ふゆき とおる)。満州国の首都新京出身。エリザベト短期大学作曲科卒業後、同短期大学宗教音楽専攻科修了。TBS(当時ラジオ東京)に入社して効果を担当しつつ、国立音楽大学作曲科に編入。合唱曲、特に児童合唱のための作・編曲が多い。また、宗教曲(キリスト教)も書いている。映画・テレビの音楽を担当する際は、冬木透の名前を使っている。この分野では、『ウルトラセブン』に始まるウルトラシリーズや、NHK連続テレビ小説鳩子の海』などが知られている。特に『帰ってきたウルトラマン』の防衛隊・MATのテーマで流れる男性コーラス「ワンダバ」は、その後のウルトラシリーズの防衛隊音楽に大きな影響を与えた。また、『ウルトラマンA』第51話「命を吸う音」では、バイオリン教室の先生役で出演している。クラシック音楽にも精通しており、その流用も多く行った。『ウルトラセブン』の最終回ではシューマンのピアノ協奏曲を流用したほか、フィンランドを舞台としたアニメ『牧場の少女カトリ』の劇伴使用曲は、そのほぼ全曲がフィンランドの作曲家シベリウスの作品からの編曲であった。

 

木場 澄江(こば すみえ、ソプラノ)
ソプラノ声楽家東京藝術大学音楽学部声楽科卒。二期会を経て、ウィーン国立音楽大学に留学。修学後は、演奏活動、多数CD録音の他、ミュンヘンでの「手工芸メッセ」では開幕に際し、ミュンヘン市長、クリスティアン・ウーデを始め、バイエルン州政治家他に日本歌曲を歌唱、また「札幌-ミュンヘン姉妹都市交流」の日本代表を務める。
フランスのファッション雑誌「Marie claire」(マリ・クレール)2002年3月号(ドイツ、スイス、オーストリア版)に「ドイツで活躍する女性音楽家」として取り上げられ、2006年には、ドイツ開催のサッカーワールドカップ写真展「参加国の人々」Faces - Peaceful Colours of Cultures“で日本人代表に選ばれ、2週間に渡りポツダム広場に大写真が掲げられた。クラシック以外にも、ワーナーミュージックのアニメ音楽CDの録音もある。


市川 和彦(テノール
三重県出身。東京藝術大学卒業。第23回日伊声楽コンコルソ入選・同26回入賞。藝大「メサイアテノールソロでデビュー。「メサイア「第九」をはじめモーツアルトベートーヴェンストラヴィンスキーブルックナー・オルフ・ドヴォルザークブリテンヴェルディ・グノー・サンサーンス他の宗教曲のソリストを数多く務める。オペラでは、藤原歌劇団「椿姫」「カルメン」「トスカ」「蝶々夫人」「ルチア」「イル・カンピエッロ」「イタリアのトルコ人」「ロメオとジュリエット」、日本オペラ協会よさこい節」「祝い歌が流れる夜に」「あだ」「ペトロ岐部」「死神」「那須與一」「修禅寺物語」「瀧廉太郎」「キジムナー時を翔ける」、新国立劇場「建・TAKERU」「蝶々夫人」「ナブッコ」「カルメン」「マノン・レスコー」「ドン・キショット」「魔笛」「トゥーランドット」「トスカ」「ドン・カルロ」「オテッロ」「黒船―夜明け」、四国二期会・栃木県民オペラ・国民文化祭(千葉・栃木・三重)・静岡県民オペラ・豊島区・尚美学園びわ湖ホールオーチャードホールサントリーホール・札幌室内歌劇場・新日本フィル・神奈川フィル・東響他にて「トゥーランドット」「椿姫」「魔笛」「カルメン」「シチリアの夕べの祈り」「スティッフェーリオ」「天国の歌姫」「岩長姫」「那須与一」「贄のうたげ」「ミナモ」「エフゲニー・オネーギン」「チャルダーシュの歌姫」「メリー・ウィドウ」「ひかりのゆりかご」「君と見る夢」他のオペラ、オペレッタに多数出演。慶応義塾大学・日本女子大学混声合唱団「コール・メロディオン」常任ヴォイストレーナー池上本門寺コーラスグループ「水」指揮者。玉川大学芸術学部パフォーミング・アーツ学科非常勤講師。 出典・ウキペディア

 

北川博夫バリトン
武蔵野音楽大学声楽科卒業、同専攻科修了。東京混声合唱団入団。1974年ウィーン国立音楽大学声楽科入学。発声、リート、オラトリオ、オペラ各クラスで3年間研鑚を積み、1977年、同大学最優秀首席で卒業。オーストリア政府より文部大臣賞と奨学金を受ける。在墺中、伝統あるORF(オーストリア放送合唱団)のオーディションに合格。定期演奏会ザルツブルグ音楽祭などの演奏会に正団員、ソリストとして活動。帰国後、リサイタル、オペラ、レコーディング(CM)、オラトリオ、第九などのソロ活動により好評を博す。
一方、多く合唱団の指導に当たり、国技館5000人の第九」では、音楽総監督故石丸寛のアシスタント・コンダクターを務める。他にプロ合唱団東京混声合唱団のソロ、東京カンマコーアのソロや指揮、早稲田大学グリークラブ定期演奏会の指揮など、アマチュア合唱団8団体の音楽監督、指揮者として活躍している。ウイーン国立音楽大学声楽科首席卒業。

出典・北川博夫指揮者35周年記念 KGC合唱団演奏会(能登のうみやまブシ 20170119)

 

ブログから

2017-01-24
真宗の音楽』 蓮如上人、千代女、暁烏敏、源三さん

清水脩作曲 蓮師道歌 蓮如上人御詠 ○東京混声合唱
(1)かたみには 六字の御名(みな)をとゞめおく なからん世(よ)には 誰ももちいよ
(2)真実の 信心ならではのちの世の  たからとおもう 物はあらじな
(3)ほとけには 花たてまつるこゝろあれや ついにめぐらん 春のゆうぐれ  
(4)つくづくと おもいくらして入(い)りあいの 鐘のひゞきに 弥陀ぞこいしき
(5)たかい山 深き海にも限りあり  弥陀の功徳を 何にたとえん
※(1)誰 原歌 たれももちゐよ (2)明応6年5月18日 83歳ご詠 (3)慈願寺正本 (4)文明3年7月16日 加州二俣坊にて御文(此歌は後醍醐天皇御子八歳の宮御歌なるを、それは君ぞこひしきとあり、これは弥陀ぞ恋しきとかへられ侍れば、可為御詠也。実悟) (3)以外は実悟集所収 ※『蓮如上人遺文』稲葉昌丸法藏館参照

 

清水脩氏が四天王寺真宗寺院生まれであることまでは知っていて、勉強会で話したりするのだが、寺号は知らないでいた。
この機に調べた。鑪山佛足寺(真宗大谷派大阪市天王寺区北河堀町)という。
四天王寺エリアにあって、仏教根源に関わる寺号のお寺である。山号の読みは金銅仏あるいは仏具、建物の金具を作る「たたら」、仏の初期の出現、仏足石歌を思わせる佛足寺である。

 

北川博夫氏の歌

十億の人に 作詞 暁烏 敏  作曲 立野 勇   歌  北川 博夫
 十億の人に 十億の母あれど わが母にまさる母  あらめもや

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暁烏敏のお寺・明達寺境内ある「十億の…」碑

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崇信学舎前の「十億の…」碑。金沢浅野川天神橋 学舎近く。

※♪アサヒスタイニー あ! 
のコマーシャルは北川さんが歌ったとの話がある。また、アの高さは、G(ゲー)H(ハー)A(アー)の「ア」。グリーの練習では音取りに音叉を用いるが、そのアと同じだとも聞いた。都市伝説ならぬ、音楽伝説かも知れない

暁鳥敏(1877~1954)
明治10年石川県真宗大谷派明達寺に生まれる。真宗大学(現大谷大)卒業。宗教家清澤満之に師事、「浩々洞」同人として精神主義運動に参加する。昭和26年大谷派宗務総長に就任。明治30年代日曜学校生徒のため讃仏歌を多く発表《讃仏の伽陀》として刊行。
著作に《暁烏敏》全集27巻『歎異抄講話』ほか、詩集、歌集が多数あり、讃仏歌に《十億の人に》《三帰》《前進》などがある。蔵書5万余を金沢大学へ暁鳥文庫として寄贈する。(『真宗の音楽 はるかなる願いの讃歌』〈蓮如上人五百回御遠忌記念〉より)

 

源三さん 作詞 深沢富子 作曲 渋谷沢兆 歌 北川博夫
(1) 父に別れた その日から まことの親を 昼も夜も 尋ね歩いて 十余年 はじめてきこえた 呼び声に 心はればれ 仰ぐ空 ようこそようこそ 源左さん
(2) 私がつくった 罪科(つみとが)に  私が苦しむ そのままを 背負ってくれる 牛(でん)は弥陀 仏のいのち 恵まれて 不思議な力 湧いてくる ようこそようこそ なむあみだ一
(3) 光に遇いて 導くも 土に生き抜く その姿 胸にあふれる 幸せを 人にもわかつ 無碍(むげ)のみち 山根の里に 咲き匂う ようこそようこ白蓮華

 

渋谷 沢兆(しぶや たくちょう、1930年(昭和5年)4月10日 - )
日本の作曲家。熊本県出身。文教大学講師。諸井三郎、清瀬保二に師事する。多くの歌曲、校歌を作曲する。また、コロムビアレコードで、学芸レコードの制作にも携わる。
弦楽四重奏「ピアノプレリュードアルバム」、ないしょのはなし、南の島の子守歌
北海盆歌の主題と変奏、川越市立名細中学校校歌、三島市立山田中学校校歌など。

 

恩徳讃

清水脩作曲「恩徳讃」については、次のブログ記事。

2019-09-05
『恩徳讃ものがたり』海谷則之氏著、 無常講式(後鳥羽天皇作) umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

清水脩ー前半 「山に祈る」(♪満天の星) 

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「山に祈る」(清水脩作詩・作曲)、「月光とピエロ」(堀口大学作詩・清水脩作曲)ジャケット。1970(昭和45)年8月29日レコーディング、VICTOR STERO 2000円 ※スキャナーがA4までなので部分欠

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同。裏面

11日のブログに

合唱組曲「山に祈る」…「山小屋の夜」-満天の夜ーのところ

 ※新たに作詞・作曲清水脩について記す。

と書いた話に進める。

 

「山に祈る」を聞いたのは、中学生の時の音楽の授業だった。レコードをちゃんとした演奏器で聞くなんてのは音楽授業ぐらいなもので、もっぱらラジオから流れる「潮来笠」「北帰行」などの歌詞を書き写して、がなり歩いていた年ごろだったので、レコード鑑賞の時間は、かなり無理して過ごしていた。

いわゆるポピュラークラシックなどを聴いたのだろうが、何を聞いたのかはもう覚えていない。ただ、その中で「山に祈る」は鮮明に覚えているのだ。

あの時、岸田照子先生は、

 

春先のポカポカした日差しの中で梅の枝を折りながら、そろそろ山から帰ってくる誠のことを思っていた。

そこに、一通の電報が届いたのです…。~

お母さんは、小さな声で、ま・こ・と…、と呼ぶのです。

子供が遭難した、普通なら、ま!こ!と!!!-大声で呼ぶと思うでしょうが、本当に悲しいときには、小さな声でしか呼びかけることが出来ない。

そこを、しっかり聞いて下さい…

 

もちろん、60年ほど前のある授業の一生徒の記憶。どこかで想い出を整理し直している部分があるかも知れないが、このようなことをおっしゃったのである。

 

大学時代、私は下宿仲間に誘われ、橋幸夫舟木一夫を歌うつもりでグリークラブ(男性合唱団)にいた。清水脩の合唱組曲「月光とピエロ」を定演でうたった。

同じ大学に混声合唱団もあった。その合唱団は組曲「山に祈る」を歌った。グリークラブ無伴奏である。「山に祈る」は、ピアノ伴奏、母役のナレーター、進行役ナレーターと合唱以外にも重要な役割を担う人たちがいて、一度聞いたフル変奏がそうであったように、ずーーと混声合唱用に作られた曲だと思っていた。

その時のスピーカから流れていた進行ナレーターが、選ばれた部員だけに当然情景を深め、素晴らしかったのだが、その声・響きにどこか懐かしさまで感じてよくあるナレーターレベルを越えて胸に迫っていた。

演奏を終え、部員が並んで観客を送り出す時にだった(はず)かに、どんな人がナレーター役だったのか確かめたところ、

メンバーの中に中学・高校(大学も)の1年後輩の郡楽さんがおり、彼女がナレーターだったのである。

僕は流れてくる声のどこかに、ずーっと、珠洲の響きを聞いていたのだ。

 

そのようなことがあって写真ジャケットのレコードを購入したが、ある年齢から哀しすぎて聞くことが出来なくなり、仕舞われてしまったが、雪の星空に会うと、

♪満天の星ーが、決まって流れていく。

 

今日は旧暦12月2日。ほぼ新月。晴れれば「満天の星」だ。

 

LPジャケット解説

清水脩(1911~)
明治44年大阪天王寺真宗大谷派寺院に生まれ大阪外語大学フランス語科を卒業、昭和12年大谷派東本願寺研究生として、東京音楽学校専科作曲部に入学。橋本国彦・細川碧に作曲を師事、昭和14年卒業と同時に同校教務嘱託兼フランス語の講師を勤めた。そして同年毎日新聞作曲コンクールに「花に寄せたる舞踊組曲」が一位に入賞して以来、作曲家として、すぐれた作品が次々と世に発表されていった、そして同年音楽之友社に入社し、のちに編集部長となったが、20年に退社。昭和36年よリカワイ楽譜取締役社長として現在に至っている。その間日本の合唱曲の楽譜出版に力を入れ、今日の日本の合唱曲の隆盛の一助をなした功績は高くかわれている。又昭和21年には全日本合唱連盟の設立に参画し、主事、常任理事を経て、昭和38年には四代目理事長に就任、本年は創立20年記念事業を華々しく推進している。ちなみに全日本合唱連盟は、2000有余の団体と15万人の合唱人口を抱え、全国9地区、59府県支部連盟の組織をもち、アジアは申すに及ばず、世界にもその類例の少ない大所帯を把握している。彼は又指揮者としてもアマチュァ合唱団は勿論、昭和19年にはNHK東京放送合唱団の常任指揮をはじめ、大阪・東京にある殆どのプロ合唱団にも関係して、自身の作品は無論のこと、日本の合唱普及に力を至している。その反面訳詞・作詞(ペンネーム竜田和夫)の他、随筆にもすぐれた才能を示し、音楽随想「書き落した楽章」「合唱の素顔」の著の他合唱新聞・合唱誌に毎回のように掲載されている。
 そして作曲の面においても非常に広範囲にわたり、歌劇「修禅寺物語」・「俊寛」・「大仏開眼』の他オペレッタ交響曲、箏独奏曲に多数の作品がある。然し何といっても合唱曲は質・量ともにその中心をしめているといっても過言ではない。演奏時間一時間を越える交声曲伝教大師讃歌をはじめ、出版されたものだけでも159曲に及び、小品の仏教讃歌、校歌を含めると250に及び、合唱編曲で出版された250曲を加えると優に500曲になる。
この多数の創作合唱曲は大きく三つの方向に分けることが出来る。①オリジナル合唱曲これには大曲が多く、交声曲又は合唱組曲がその中心となっている。②日本民謡・古謡・わらべ唄を素材とした合唱曲。③仏教讃歌に分けることが出来る。その主な作品としては昭和14年組曲「高原の歌」(女声)16年の「汗をうたえる」(混声)、23年の「秋のピエロ」(男声)をはじめとし「日本の花」12曲(混声)「野ぶどう」(女声)「宮城野ぶみ」(女声)「農民の歌」混声)交声曲「若者の歌」(混声と男声)「青い照明」(男声)組曲「童話、(女声)組曲「山に祈る」(男声と混声)イソップ物語「網にかかった鷹」(混声三重合唱)合唱のための物語「鼻長き僧の話」(混声)「大手拓次の三つの詩」(男声)交声曲「歎異抄」全十章(混声)「火の国水の国の譚」(女声)「阿波祈祷文」(男声)の他、日本民謡として「そ一らん節」(混声と男声)「最上川舟唄」(男声と混声〉「八木節」(男声)「アイヌのウポポ」(男声)等がある。その他音楽賞という賞は殆んど受賞しておリ、音楽のあ
らゆる面に驚異的活躍をしている。(解説・山本金雄)

1970年8月29日レコ-ディング

 

「山に祈る」初演から今日まで
山の遭難と交通戦争による悲報は、増える一方である。
それに取材した文学や音楽作品の数も多い。しかし、山の遭難事件を唱って、これほど感動的な作品に仕上げた例はないだろう。まさに"山"の決定版である。
 作品が最初に書かれたのは1960年3月。この種の劇的合唱曲のさきがけとなった。この曲が誕生するにあたっては、産婆役を演じたダーク・ダックスのことに触れないわけにはいかない。ダーク・ダックスは、その第1回のリサイタル以来、例年、新作を委嘱制作し、リサイタルの柱にしていた。この基本方針は、いまなお続けられ、数多くのポピュラー名作を生み出している。曲のよさもさることながら、その企画力が卓抜で、ダーク・ダックスが今日なお、着実な人気を維持している理由のひとつはそこにある。
作品が完成する半年前の59年秋のある日、ダークのリーダー喜早哲は、荻窪清水脩氏宅にかけ込んだ。長野県警本部編集の「山に祈る」という小冊子を手に持って。この小冊子は、相い次ぐ山の遭難事件に業をにやした同県警本部が、遭難者の遺族たちの手記を集めて編集し、遭難防止を訴えたものであったが、ダークの4人が、たまたま演奏旅行途上でこれを見つけ、これは作品になる、と意気込んで、早速、清水脩氏の門をたたいたのであった。清水氏も大いに同感し、小冊子の巻頭にあった上智大学山岳部の飯塚揚一君の日誌と、同君の母親の手記が選ばれた。※1960年刊
清水氏は、構成、作詞、作曲の一切を引受け、制作にとりかかった。春日俊吉著「山岳遭難記」や上智大学山岳部誌「モルゲンロート」などを読み、飯塚君と同じパーティにいて難を免かれた同山岳部の部員たちから、当時の模様などを、さらにくわしく聞いた。「雪山登山とその遭難について、できるだけ嘘のないものを書きたいと思ったからである。しかし、これは音楽物語であるために、いくらか誇張されたところもあるし、フィクションもある。また私自身の、山への思慕も盛った」と清水氏はのべている。
そして初演は、60年3月23日、神戸国際会館で行なわれた。翌24日が京都、25日が大阪、そして東京は29日の日比谷公会堂だった。
合唱はもちろんダーク・ダックス、母親役のナレーターは夏川静江、伴奏は十川千江子クワルテットを中心とする小編成の管弦楽であった。ダーク・ダックスの力演もさることながら、夏川静江の名演に、客席はもとより、バンド・リーダーの十川までが涙ながらの演奏だったのを、私は大阪毎日ホールの舞台で見た。
私はこのときの感動が忘れられず、この曲を大編成の合唱で上演することを思い立った。そして清水氏にお願いし、ピアノ伴奏の男声合唱用に書きかえて頂いたのが、この曲である。この曲の初演は、その年の7月、同じ大阪毎日ホールで、クローバー・クラブによって行なわれた。
ところが、この初演は決して成功したとはいえなかった。
マチュア団体のことでもあり、ホールの照明係との打合せなどが十分でなく、演奏中途で舞台が真暗になってしまって合唱団が立往生したり、客席で幼児が泣き声を立ててムードをこわしたり、曲がいよいよ大詰めに近づいて悲しみがクライマックスに達したとき、突如、舞台のそでから花束をかかえた子供が舞台上に現れて、満場の失笑を買うなど、まさにメチャメチャになった。わざわざ東京からかけつけて来られた清水氏も、思わず頭にきて席を立たれ、指揮台の私は、それを押しとどめることもできなかった。
このいきさつについては、その後、清水氏の随筆集「合唱の素顔」にくわしく書かれ、私はそれを読み返すたびに、いまだに冷汗をかく思いがする。
こんな失敗談はあったが、作品自体はその後、全国各地で熱狂的な歓迎を受けた。まもなく楽譜が出版されるや、どの男声合唱団も競うようにこの曲をとりあげ、またたく間に、邦人合唱曲中のスタンダード・ナンバーに定着した。
混声合唱団からの強い要望もあって、その後、混声用にも書き直されたくらいである。朗読役には、夏川のほか、加藤道子、最近では中畑道子の演技が目立っている。
曲は、「山の歌」からはじまり「リュックサックの歌」「山小屋の夜」「山を憶う」「吹雪の歌」「お母さん、ごめんなさい」にいたる6曲に分れ、明るい曲調から、次第に死に近づく暗い調子に移ってゆく。朗読は母親で、合唱が遭難学生を演ずることはいうまでもない。母親の朗読は、厳密にいえば、息子の手帳を読む部分と、母親自身の語りの二つの部分にわかれていることに注意しなければならない。演技も、当然ながら、この二つを分けて演ずる必要があるわけだ。曲中の男声の科白や朗読は、合唱団員が担当することと、曲の終りでは、舞台の照明を次第に暗くしてゆき、最後の和音と同時に真暗にすることを作曲者は提案している。作品自体が、あまりにもドラマティックなため、音楽が朗読の陰にかくれてしまうことを指摘して、音楽そのものの弱さを批判する向きもないではないが、私はそうは思わない。ここまでくれば、作品はすでに音楽でも朗読でもないのである。そこにあるのは「山に祈る」という強大な作品があるだけだ。朗読だけでもダメ、音楽だけでもダメ。この両者が有機的に結びついて、1個の強大な作品を形成しているのである。作曲者自身がいうように、これは音楽物語なのである。  日下部吉彦

 

作詞・作曲家清水脩氏についてはこのブログで何度か書いたことがある。

2015-08-12
祠堂経・お説教-子ども正信偈、月光とピエロ-
8月10日、11日お説教に羽咋地内12組のお寺にお話しに行ってきた。
知り合いの方がいて、ご縁があってお話しさせていただける。
このお寺では、ラジオ体操の後、正信偈の練習をなさっているそうで、そのお勤めがあった。大きな声で、ハキハキと清々しかった。
でかけると、このような得がたい光景に会える。
私の方は、色々お話ししたのだが、恩徳讃の作曲者・清水脩の関係から、月光と教えに話を持って行こうと、考えてみた。
というのは、清水脩氏は真宗寺院の出身で、世界で初めて合唱組曲というジャンルを提唱された。その組曲が「月光とピエロ」であり、「山に祈る」である。
この日7回忌を迎える、山で遭難した教え子を思っていたら(10日に、家へ行って手を合わせてきた)、季節は夏山・冬山の違いがあるものの、「山に祈る」のメローディーが、ふっと浮かんだりしていたのである。それで、亡き人を偲ぶ祠堂経、お盆でもあるので、そのあたりを組み合わせてお話しした。
法話を聞きにおいでた方々は、「月光とピエロ」「山に祈る」、どちらも聞いた事がないとおっしゃる、-中学校時代の同級生も来ていて、「山に祈る」を一緒に音楽の時間に聞いたろう、(彼女は)覚えていないという-ので、ちょっとさわりの部分を歌った。
「ピエロ」の方は♪月の光の照る辻で…(「月夜」)から辻、さらに邑知潟の月、月愛三昧までの展開を考えていたのだが、辻からどこにつなげるつもりだったのか、今もって浮かんでこない。
お話しするときは、一応イメージを作って、頭の中で語って見ている。そこでは「辻」があったはずだったのに、子どもさんも…法話を聞く、と聞いたとき、「月と兎」などと考えたあたりから、どこかへ飛んでいった。
しかも、スローテンポの「月夜」をしみじみ歌うより、つい「泣き笑いして我がピエロ、秋じゃ、秋じゃと歌いけり…」(「秋のピエロ」)の部分を歌ってしまった。
しかも、マイクを付けていたので、自分でもビックリするくらいの音量が広がり、動揺してしまった。

 

2015-08-21
半島に刻む 戦後70年の記憶 能登民俗学調査40年 庶民の胸中 歴史に
北陸中日新聞2015年(平成27年)8月21日(金)

変な時間に寝て、0時過ぎには目が覚めた。掃き掃除に出ようと思ったら音を立てて雨が降っている。新聞を見た。
士郞(記者、高校生の時3年間担任)の文はやさしい。
「温厚でやさしい方だが、~(になると)厳しい表情を見せる。」いい。どこかで使おう。
昨日は、勉強会で清水脩作曲、作詞堀口大学「月光とピエロ」を本願力と凡夫におきかえて、考えてみた。そして、歌ってみた。皆さん、困っていた。
温厚でやさしい皆さんも、歌が二回目になると、厳しい表情をお見せになった(※書いた時は二回目の意味を知っていて、たぶんたわむれ気分で書いているはずだが、6年後の今日は思い出せない-2021-01-12)。
少し前には、『歎異抄』第二章の、親鸞聖人の敬語「こころにくくおぼしめしておはしましてはんべるらんは…」を、お話ししていたので、「お見せになった」となる。

それにしても秋だ。

 

前半はここまで。

後半は清水脩氏から、真宗の歌ー交響曲蓮如」。北川博夫、土岐善麿氏、歎異抄へとつなぐ。

 

うちんとこ(の雪)、こんなねん…(おらっちゃのとこ(の雪)、こんなげ…)。。1月10日(日)

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10日朝4時20分。すでに新聞配達員さんの足跡あり。木は泰山木-昨秋剪定してあった。

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8時半。除雪車作業中。

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8時40分。今朝は4時から、昨日は4時50分から。何度か開いた通り道。

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9時半。時には晴れ間が。予報では9時過ぎに一旦緩むとのことだが…。大雪警報は変わらず。

今朝は、昨日の反省に立ち、朝4時から雪よけに出る。一通り私が開け、連れ合いがつなぐ。

昨日は、4時50分に出た。

雪明かりだけー、電灯を用意し玄関灯をつけ、一メートル幅ほどの径を作る。

雪がズンズンと降るときは、空中が淡い橙色に見えるが、昨日の朝は、途中で星が一面に、三日月も見えたりしていたので、いわゆる寒波が通り過ぎるのかと思っていた。

が、次々と吹雪、しんしんが押し寄せ続いた。

 

当寺の庭(大庭と呼んでいる)周りに建物があるため、どうも吹きだまりになるようで雪が多い。

前は海を隔てて立山北アルプス)、後ろは城山・宝立山。このあたりの冬風は北風ではなく北西風。

そのような位置にあるため、新潟(高田)あたりが大雪になると、私たちのところも大雪になる。

その場合、能登雪といい、加賀雪になることもあるのだが、今回はその区別を越えた広い範囲で雪が降っている。閑話休題(さて)

 

道路との間、約20メートールを開けないとちょっとした孤立状態になるので、通れるようにしなければならない。

まず新聞配達の方のために、と電灯を持ち、準備万端ー小式台前というか玄関前を一掻き二掻きしたところに、膝上からモモにかけて(という体だったが)ラッセルをかきながら、いつもは5時台にとどけられるH新聞配達の方が、新聞を運んでこられた。

いやぁーとか、ご苦労さんです、とかなんだか、思わぬ時間に思わぬ人に会った感もろだしで交歓し、作業を進める。

数十分してほぼ道路につながった頃、いつもは4時台に届くT新聞さんが、もう一カ所からラッセル漕ぎに入ろうとしたので、こっち-開いてますよーと声かける。

 

昨日の朝がそういう具合だったで、気合いをいれて、今朝は50分も早く出たのに、いつもは4時台に届くはずの新聞が、もう配られていた。

まぁーラッセルとまではいかないものの、かき分けかき分けお届けになったようだ。

なんと、

二日間やったら、ママさんダンプの使い方がわかってきた。

今まで、「ママさん」なんか使えるか、おれは(オヤジ)スコップだーを通してきたが、昨年秋に、笹を抜いていて腕の肘を痛めた。その痛みが取れず、長い時間スコップを振り回すことができない。

で、ママさん頼み。じっくり使ってみたのだ。

昨日聞いた捨て場を作るーも、暗いし誰も見ていないので、安心して何度もコケながら(これは運動不足で足が弱っている)ミニ捨て場作りにも挑戦することができた。

 

ものごころ付いた頃から、雪とたわむれ続けてきた雪国育ち。

どうしても気分が高まる。

「白い想い出」

♪雪が降ってきた ほんの少しだけれど 積もりそうな雪だった…

山崎唯作詞・作曲 歌 ダークダックス、鮫島有美子など

「比叡おろし」

♪風は山から降りてくる レタスのかごをかかえて 唇はくびれていちご 遠い夜の街を越えて来たそうな うちは比叡おろしですねん あんさんの胸を雪にしてしまいますえ (松岡正剛 作詞・作曲 歌 小林啓子、小室等など)

寒い朝

♪北風吹き抜く 寒い朝も こころ一つで暖かくなる…

(佐伯孝夫作詞 吉田正作曲 歌 吉永小百合・和田弘とマヒナ・スターズ)

「ユキコの灯」

♪ 白銀けむる アルプスの 小屋にやさしい 娘ひとり その名はユキコ ともす灯に 夢もゆれるよ 夜空遠く

(横井弘作詞 岩代浩一作曲 歌 中曽根美樹・ポニージャックス)

合唱組曲「山に祈る」…「山小屋の夜」-満天の夜ーのところ

 ※新たに作詞・作曲清水脩について記す。

降る雪の変化によって、胸にながれる歌も様々に変化する

そうなってくると もはや

至福の時だ。

 

今、10時半。

テレビの大雪情報テロップは、「現在珠洲82㎝」でながれている。

西谷啓治先生のふるさと

昨年、没後30年、生誕130年を迎えた西谷啓治先生(以下敬称略)について、ブログでは次のように触れてきた。

2010-02-15 能登・知人関係本など
『宗教と非宗教の間』

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『宗教と非宗教の間』岩波現代文庫

西谷啓治氏は隣の能登町宇出津出身。
1度か2度講義を聞いた(ような)記憶がある。
※2021年1月7日確認。

西谷啓治大谷大学講義、昭和39年~62年度。私が在籍していたのは昭和44年~47年なので「聞いた(ような)記憶」は間違いではない。ちなみに『西谷啓治著作集第24巻大谷大学講義Ⅰ』には、この時期の第八講(昭和46年度第7回講義・6月28日-体・心-純粋経験)、第九講(同年度第16回講義・12月6日-魂-生-仏教の立場)が所収されている。

20160629 書物

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西谷啓治随聞』佐々木徹、1990年法蔵館

西谷啓治氏は能登町宇出津出身。私の周りにも親戚の方がおられるなど、身近な方なのだが、近年は話題に上がることも少なくなったようである。新たに触れるつもりで、古本で購入。

(中略) 

その頃は、『とも同行の真宗文化』を本にする詰め段階で、西谷先生に目を向けるようになったのは、12月に入ってからだった。
西谷氏に「戸坂潤の思い出」の文があることに気づき、目を通した。ことばにはならないところに友を思う気持ちがにじみ出ているいい文だ。
戸坂を知るには『回想の戸坂潤』(勁草書房1976年)があるが、14人の執筆者に西谷の名がなく、元の三一書房本(1948年刊)に載る戸坂蘭子(潤氏ご息女)の「断片」、久野収氏の回想「戸坂さんの偉さ」はお二人の辞退により所収されていない)があり、西谷氏の文はかなり早く手に入れていた『戸坂潤全集』第三巻・月報4(昭和41年勁草書房刊)に載っているにも関わらず、1ヶ月ほど前まで気づかずにいた。

能登の風光

『宗教と非宗教の間』(西谷啓治上田閑照編 岩波現代文庫、2001年刊)より

現在、私(西谷啓治氏)のうちにある故郷のイメージや感じには、いくらか特殊なところがある。それは幼い日の或る思い出に由来している。
私は四、五歳の頃、珠洲の鵜島にあった宗玄という家に何日か泊まっていた。それは大きな酒造りの家で、私の母の姉がそこの主婦であった。その林泉造りの庭や、土蔵や土間にあった巨大な桶など、今でもはっきり覚えている。何よりも珍しかったのは、家のなかの土間をどうどうと水が流れていることだった。家の外に清例な谷川があって、その水が家のなかに引かれていたのだが、或る日、その谷川で魚をとっていて、足を切り、男衆の背に負われて飯田の医老に行ったことも記憶に残っている。
飯田に行く街道は、家の前を通っていた。道の片側はすぐ砂浜で、その浜は飯田の方までずっと続き、反対の方向は、伝説で名高い恋路の浜に続いていた。浜の向こうには静かな海が開け、遠くに水平線が見えた。

浜は広々として、とても清らかな感じだった。人気もなかったが、それ以上に、人間臭さの全くない、古い言葉でいえぱ「俗塵」から抜け出たような、澄んだ清らかさが感ぜられた。その浜には桜貝が沢山あるので、私も拾いにつれて行かれた。桜貝は、その透き通るような薄い殻が淡紅色に染まっていて、紅玉のように美しく、しかも宝石の堅さをもたぬ、非常に華奢な小貝である。砂の上にあっても、どことなく地上のものではないような、気高い清らかさがある。そして砂浜自身の澄んだ清らかさも、同じように、何となく地上のものではないような一種の感じを含んでいたのである。そういう砂浜のイメージ、また自分がそこで桜貝を拾ったことの想い出は、幼い心の底に刻まれて残った。
自然の景色が地上のものでないようだと言えば、おかしく聞こえるかも知れない。しかし、後になって、天の橋立や和歌の浦などに行った時にも、同じ感じを経験した。それで考えたのだが、昔の日本人が特別に好い景色として選んだ所、或いは歌枕と称して賞でた所は、どこか地上のものならぬ、その意味で幽玄ということにも通ずるような、深い清澄の感じを喚び起こす場所だったのではないか。それが、自然美に対する昔の日本人の感覚、古代から続いていた感覚だったのではないか。例えば赤人の「田子の浦にうち出でて見れば」という富士の歌にも、「藍辺をさしてたつ鳴きわたる」という和歌の浦の歌にも、そういう感じが籠っている。大伴家持の、

 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

でも、似たような感覚がその底にあると思う。
家持は、「能登の島山、今日見れば、木立繁しも、幾代神ぴぞ」とも歌っているが、その「幾代神びぞ」という感覚である。それは、現代の人々が普通にいい景色だといっている以上の感じだが、鵜島の浜の景色は、私のおさな心にも、そういう感じを与えたのである。

 数年前、久方ぶりにまた鵜島を通ったが、浜の風光はもうすっかり変わっていた。その代わり、鵜島から先の奥地が、とてもよかった。現代の世界にみなぎっている喧騒や慌しさは影をひそめ、一足とびに太古の悠久と静けさに返ったような気がした。昔の中国の詩人も、「山静かにして太古に似たり」と言ったが、そういう感じを喚び覚ます風光は、日本ではもう見出しにくくなっている。しかし能登には、まだあちこちにそれが残っている。
例えば須々(須須)神社のあたり、贄(仁江)の海岸、それから私の若い時に毎夏の遊び場であった九十九湾なども、古代の風光の跡をまだ残している。
しかし最も大きな感銘を経験したのは、同じ数年前の旅行の帰り途にであった。その時、バスは松波から小木に向けて波打ち際を走っていた。好く晴れた天気で、雲一つない五月の空は青く澄み、海も明るい紺碧の色を湛えていた。そしてその海の向こうに、雪をかぶった立山山脈の尾根が、半天に蜿蜿(えんえん)と連なっているのが見えた。尾根から下の部分は、青く霞んで見えず、尾根の部分だけが青空のうちに夢のように淡く浮かんでいた。その山と海と空と、それら全体の風光は、やはり地上のものとは思えない神秘な美しさであった。中国の伝説には、蓬莱山とか桃源郷とかいうような、神仙の住む土地の幻想があり、似たような神話的幻想は、古代ギリシアその他にもあったが、それが忽然として現実に現われたような感じであった。
その時に接した風光は、私の心の中で、子供の時に接した鵜島の浜の風光と重なり合い、それが、故郷の土地を代表する最高のイメージになっている。そしてそのイメージを取り巻く全体として、故郷を思う私の気持の基礎になっているのは、文明や文化の毒に災いされずにまだ多く残っている、古代的な(という意味は原日本的な)風光の跡である。故郷に対する私の最大の願いは、それらの貴重な風光が、土地開発の途上で破壊されることなく、かえってより清純な形で護持されることにある。

 ソウゲン 宗玄 『加能郷土辞彙』(日置謙著)より

珠洲郡直郷に属する集落。元禄十四年(1701)の「郷村名義抄」に、『此村先年は鵜島村の内にて御座候処、明暦二年(1656)に別村に相立、同村忠左衛門と申百姓家名を宗玄と甲候に付、村名に罷成候由申候』とある。
又『能登名跡志』に『宗玄村に則ち宗玄忠左衛門といふ古き百姓あり。此者故あつて宗玄の一名あり』。同書に、『宗玄村端に切通しというて、岩山を切抜きて往来する也。昔遙かの山を越えて往来せしを、御郡奉行に黒川五左衛門といふ人、此所を切抜き往来安く成りしと也。』などゝ記する。

西谷啓治氏の伯母が嫁いでいた宗玄家は現在株式会社・宗玄酒造(明和5・1768年宗玄忠五郎開業)になっている。その酒造の8代目社長・杤平一男さんが、若い頃当寺に下宿しておいでたことにより、宗玄の祭りの日には、大きな酒蔵の二階に私たちだけのためにしつらえられた板張りの間へ、毎年「よばれ」に行った。啓治氏が「土蔵や土間にあった巨大な桶など、今でもはっきり覚えている。」と書いている場所へ、私も子供頃訪ねていたのだった。

また、高校時代からの友人N君(今年はコロナ騒ぎでかなわなかったが、毎年少なくとも7月20日には会って、近況・思い出を語り合う時を過ごしている)が、何年か前に、「祖母の実家が宗玄だと」言っていた。

つい先だってこの「奥能登の風光」を読み、

「おいおい! 西谷啓治という著名な哲学者の伯母が宗玄に嫁いでいるぞ…」と電話を入れた。Nの祖母は西谷先生の伯母のこじゅうとさんにあたるようだ。

7月には会えなかったので、これを幸いと、12月25日に「奥能登の風光」のコピーやその他を持って、穴水のN宅へ寄り、話し込んできた。

N夫人も「鵜島」の人で、ともかく宇出津・遠島山公園にある「西谷啓治記念館」へ行ってこようと約束したのだが、大雪。

西谷啓治が私たちの新たな共通話題になるには、もう少し時が必要。

 それに近所のK子さん-2年後輩-の母の実家へ、西谷家から嫁いでおり(K子さんの祖母が、啓治氏の叔母にあたる)、K子さんが京都で過ごした学生時代には、西谷家へよく出入りしたという。

先に書いた「西谷啓治氏の真宗」などの話や、宗玄家からの親戚が今も医者をしている話などが、K子さんから啓治氏末っ子の敏子さんに伝わり、この『西谷啓治 思索の扉』を送ってくださったのである。

K子さんはとは、当寺を会所として開かれている推進員勉強会で顔を合わせている。

これも「法縁」なのだろう。

 西谷啓治 思索の扉』に載る文 

 人から人へ
追悼集『渓聲西谷啓治』(一九九二年、燈影舎)は上下二巻から成り、上巻の回想篇には五十七名の文章が、下巻の思想篇には九篇の論文が収められている。また、創文社から刊行された同じく追悼集『情意における空』(一九九二年)には、告別式での梶谷宗忍老師の引導法語、上田閑照先生の挨拶のほか、八篇の論文、二十六篇の追憶が掲載されている。その一々をここに詳しく紹介することはできないが、『漢聲西谷啓治』上巻の最後のところに、ご家族から見た西谷先生の日常の姿が綴られている。そこには、ともに生活した者にしかわからない先生の一面、とくに奥様との関係についてものべられている。奥様は、私の訪問の際にも、お茶やお菓子を運んでこられても、同席して話されるようなことはまずなく、すぐに引っ込んでしまわれ、あとは先生のお話が時間を超越して無限につづくという感じだったが、そういうかたちで影のように、先生の研究生活を支えてこられたのだと思う。
(「西谷啓治随想集 青天白雲」京都哲学選書第16巻解説 投影舎、2001年7月)

海二つ
この夏の終り(1986年8月)、私は能登半島をめぐる小さな旅に出かけた。主として、宇ノ気町の西田記念館と、西谷先生の生地・宇出津(うしつ)を訪ねるためである。(略)
宇出津では西谷先生の生家や、小学校、資料館等を、猪谷一雄氏と小林篤二氏の案内で訪ねた。猪谷氏は宇ノ気町町役場に勤務、哲学講座の世話をされ、小林氏は宇出津小学校の校長職を退かれたあと、町史の編集委員をしておられる。
西谷先生は、小学校へ上がるとまもなく、両親と共に東京へ移られたから、今も残る古く大きな家で過ごされたのは、ごく幼い時期だけである。しかし、その心にふるさとの風光がしるした跡は決して小さくないと思われる。資料館に展示されている先生の色紙の一つに、こんな歌が書かれてあった

  そうそうと海あり
 能登は君が生(あ)れ
 君が一生(ひとよ)をすごせしところ

 この歌の「君」が誰をさすか、つまびらかではないが、この歌の響きには、能登の海と終生離れてはありえなかった、先生ご自身の感慨がこめられていると思われる。能登から東京へ、そしてさらに京都の地へ移られてからも、故郷の海を渡る風の音は、遠く近く聞こえていたにちがいない。

能登の海は、半島の北西と東南とでは大きく異なる。日本海側は、曽々木海岸に見られるように波風荒く、その果ては遠く大陸にまで達しているが、富山湾側は、穏やかな海原がひろがる。

宇出津は内海に面しているので、少年の日の西谷先生が泳いだり眺めたりされたのは、静かでやさしい海である。

誰をも包みこむような先生のお人柄は、この海にはぐくまれ育ったと言えるかもしれない。
しかしまた、半島を吹き抜ける風は、二つの海を一つにして吹く。激しい嵐は、海に暮らす者の心に、自然の厳しさを刻みつける。西谷先生の寛いお心は、背後に、そんな海をもつているとも言えるであろう。
西谷先生が初めてヨーロッパへ赴かれたのは、一九三六年三月のことである。それまで和服だったが、この時初めて洋服をあつらえた。
長途の船旅を経て、はじめパリに、ついでハイデッガーに師事すべく、フライブルクに住まわれる。二年の留学の間に、先生は西洋の思想を深く主体的に学ばれ、その一つの成果が『根源的主体性の哲学』のなかに収められた「ニイチェのツァラッストラとマイスター・エックハルト」であることは、周知のところである。二人の西洋の思想家についてのべながら、すでにこの論文において、東洋と西洋とをその根底において結ぶ、後年の先生の立場は明確である。
そのような立場が可能になったみなもとには、遠くどこまでもひろがる海の体験があった。しかもその海は、小さな入江に面した宇出津という小さな町を離れない。洋の東西を結び、歴史を超えるような思索であればこそ、それは同時に、その「人」が生きてきたふるさとの今ここを離れない。夏の終りの、私の小さな旅は、そのことの確認の旅でもあった。
(西谷啓治著作集第一巻『月報』、創文社、1986年12月)

 ※小林篤二氏より。

私が能都町史編纂委員をしていた昭和頃54年~57年頃(当時は鳳至郡能都町)、委員の大先輩・小林篤二先生から、謄写刷りの「我と汝としての人間関係」京都大学名誉教授・大谷大学教授・能都町宇出津在籍 西谷啓治(B5判11枚)を頂いた。

 この「我と汝としての人間関係」について、小林先生は、

新年恒例の「講書始」儀が 昭和四十四年一月七日午前十時半から皇居仮宮殿の西の間で行われた。京都大学名誉教授・大谷大学教授の西谷啓治氏は「我と汝としての人間関係」という題で、天皇・皇后両陛下の前で御進講した。(仏教タイムス七八四号)

 を引用して説明なさっている。

矢田敏子さんの、父の思い出

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西谷啓治著作集』第26巻 月報13 1995年8月 ※月報3ページに載る執筆者は(西谷啓治先生四女)。 

能登

『渓聲 西谷啓治 上 回想篇』平成5年京都宗教哲学会編 一燈園燈影会発行

 

能登

一九九一年九月三日、父母の納骨の日、能登半島はまるで真夏のような日差しだった、
字出津の小学校裏の高台にある先祖の墓の前には、宇ノ気でのセミナーを終え合流して下さった方々、地元の所縁の方々など、思いがけず多くの人々が集まって下さっていた。
宇出津の隣町、鵜川に生まれた祖母は、西谷のこの墓は

海を見渡すいい場所にあると口癖のように言っていた。けれども、今は木が繁り、建物がたち、海を見るのは難しくなっていた.
読経の後、お墓の後ろの石を移動し、まず姉達が京都から持ってきた父の遺骨を、サラサラと土にかえした。それは人の死に関する厳粛な別れの儀式に違いなかったのだが、なにかごく普通の事を行なっている感じだったのが私には不思議だった。明るく照りつける光と海からの風のせいだったのだろうか,
その時、突然「おーい、おーい」父の呼び声を聞いた気がした。私たちが、幼い頃から聞き慣れている母のことを呼ぶ声だった。「ほら、また」と母は、この声に何度も立っていったものだった。「おーい、おーい」今度は、何してるんだ、早くしろよという風に、少し調子の違った声だった。私は思わず、それまでしっかり両手に握っていた小さな母のお骨の壺を父の遺骨の上にさっとあけてしまった。もちろん、一緒に納骨しようと持ってきたのだったけれど、父の声を聞いた気がして、慌ててしまった自分がおかしかった。
ふっと軽くなっていく心地で、私は、能登へ連れてきてもらった何度かの旅の事を想い浮かべていた。最初は、まだ学校にもいかない幼い頃、たしか母に連れられてだったと思う。父とは、二人で旅をしたことなんて数える程しかないが、それでも能登へは、二度来たことがある。一度目は私の小学六年の時、二度目は、母の死去の翌年、父が故郷に招かれた折に同行した時である。
幼い頃から甘えたでどう仕様もなく、母のひっつきむしだった私。そんな私を、丁度夏休み中だったので、多分教育的見地から、父と一緒に行かせる事にしたのだろう。これが一度目の旅行。金沢で泊めて頂いたのは、大きなお寺だった。父は先に出かけてしまい、私はお寺の方に町中を案内してもらったが、最後に連れていってもらったのは、講堂みたいなところだった。一番後ろにそっと腰掛けて、前方を見ると、みんな少し前かがみの姿勢で、びくともしないで座っていた。その人々の前に、父がいた。何かしゃべっているらしかったが、私にはよくわからなかった。内容がというより、エー、エー、がやたら多くて、聞き取れなかったからだ。その時の父の話しぶりが私には全く意外な印象だったのを今でも億えている。家にいると、大きな声で歌ったり、時にはお腹の底から出てくる様なすごい声をはり上げることもあった。夕食後、父も一緒に、というより父が先にたってお茶碗を叩いてリズムをとり、みんなで大声で歌をうたい、祖母から叱られたりした事もあった。だから、とぎれとぎれの話しぶりは、小学生の私には、想像外の事だったのだ。
今にして思うと、私が父の講演をじかに聞いたのは、後にも先にもこの時だけだ。もっとも母も、父が話をするのをその場で聞いた事は殆どなかった様だ。三十年ほど前、父母が二人で半年ばかりドイツに滞在した事があった。その時、父が大学で学生を前に話をするのを、初めて、そばで聞いたらしい。折角の機会だったのに、母は聴衆の学生が机をガタガタさせるのではないかとその事ばかり気になって、碌々話も聞けなかったそうだ。今ならさしずめブーイングというところだろうか。ドイツの学生はおもしろくないとそんなことをすると教えられて、母はハラハラしたらしかった。
父に連れられての能登行きだったが、一緒に遊んでもらった記憶はほとんど残っていない、小さな船に乗せてもらって海に出た時でも、周りにいる人達と話に夢中で、議論ばかりしていて、ちっとも構ってくれなかった。けれども旅先で、外にいる父を見て、父親像が少し変わったのは事実だ。家では、席の暖まるひまもなく、くるくると動きまわっている母に比べて、お昼過ぎまで寝ているし、何をやっているのか、私にはよく分からない父だった。ともかく、この旅行を契機に、父は私を一人前のように扱ってくれる様になり、私にとっては、母を通しての父ではなくなった。
この頃のことで思い出すことがある。ある冬の夜、私が未来の都市を計画するという様な社会科の宿題でもたもたしていた時、父もこたつで横にあたりながら、一緒にいろいろ考えてくれた。歴史博物館とか、海の上に町をつくる事とか、次から次へと。話し振りだけでなく、今でも内容までしっかり憶えているくらいだから、余程感心して聞いたのだろう。けれどもそんな時、感心してきく反面、まるで自分の宿題のように熱の入ってくる父の話に、早く終わらないかなと願ったことも度々だった。話は一旦始まると、止めどもなく続き、小学生のこちらの都合なんかちっとも考えてくれなかった。話だけでなく、遊びの時でも、しばしばそんな具合になった、お正月には、よくトランプをしたが、父だけでなく、みんなが本気になってやるものだから、ビリの私は、結局ベソかきかき母の所へとんていく羽目になった。

二度目の能登行きは、母の一周忌も済ませた一九八五年の秋、十月の初旬だった。一緒にというより私が付いて行くという感じだったが、小木に住む父の従弟(能登といえば、まずこのおじだったのに、父と連れ立つ様に他界してしまった)が準備万端整えて下さっていた。父は、先々で話に熱が入り、しかもいつものように夜八時を過ぎるとますます元気になった。久しぶりの故郷だからだろうか、ゆったりと寛いだ面持ちだった、床につく前に、ふと父の旅行カバンの中を見ると、底に丁寧に包まれた紙袋があった。
前日の支度の時には、確か無かったものだった。「あれ、これは」私が包みを取り出すのに気付いて、父はまるでいたずらの現場を見つけられたようなドキマギした表情をうかべた。袋の中身は思いがけないもの、母の小さなお骨壺だった。すでに九月のお彼岸、相国寺の新しいお墓に母の納骨は済ましていた。だが、能登の先祖代々のお墓に納めようと、小さな分骨の壺が吉田の家に置いてあった。一瞬、父は秘かに能登のお墓に納骨してしまおうと持ってきたのだろうかと驚いたが、どうもそうではないらしかった。私に見つけられるなんて予想もしてなかった感じだったので、とうとう、どうして、とは尋ねないままになってしまった。能登半島のあちこちを訪ねながら母の影を感じ、母の声をきいた。まるで、私にとっては、三人の旅のようだった。その小さな包みは、一緒に吉田の家に戻り、結局六年間そのままだった。

 

照りつける日差しのなか、父母の納骨は無事了った。みんなは、墓地から小学校の横の坂道を下り始めた。その時、生前、あんな淋しい処にあるお墓へはいるのはどうも、と言っていた母の言葉が浮んだ。たぶん母も父と一緒なら仕方ないと思うだろう。それに、父は父で、母のほうが自分より先に逝ってしまうなんて、思ってもみなかったことなのだった。だから能登での納骨はこういう風になった。これでよかったのだろう。
         (西谷啓治の四女、京都市在住)

 

 

見附(見月)島の月ー宝立公民館

西谷啓治氏の「奥能登の風光」に出てくる、先生の思い出の地、鵜島・宗玄などは藩政期の村名である。この村々は藩政期初頭頃までより広い「宝立(ほうりゅう)」名を通称にしていた。

宝立地区は九条兼実法名・円照が実質支配した若山荘の中心エリアで、宝立山・黒峰城を擁し、藩政期には「宗玄」「鵜島」「黒丸」「鵜飼」「春日野」などの海岸部、その他計九か村からなっていた。「奥能登の風光」に出ている家持の歌は、このエリア鵜飼にある、月の名所・見附島が意識されている(はずである)。

長浜の浦に比せられる、月の名所を有する宝立公民館から、3月頃に、見附島の月にまつわる話を依頼されている。

メンバーの希望では、私が書いた『妙好人千代尼』と重ね、「千代尼の月」に関する話を…ということである。

その話をそれとなく聞いたのが、昨年10月だった。

それから、今日までに「西谷啓治」の鵜島・宗玄-宝立、万葉集が急浮上したのだ。

K子さんは、西谷さんが親戚に交じると、話(議論)ばかりしていて、もう集まると話しーぱなしだった、の印象しかない、と言っていたが、

宝立公民館の郷土・歴史・文化を愛する方々は、知人・懐かしい人々が登場人物となって華を添える「西谷啓治」話に、どれほど興味を示し、語り合いことになるのだろうかー

と、『妙好人千代尼』の著者・私には申し訳ないが、

月の宝立は、「奥能登の風光」に決まり。

さらに、三々五々、西谷啓治記念館、宇出津散策も待っている。


 

 

西谷啓治(先生)の真宗

昨年12月2日堺市の戸次公正さんから『節談説教』23号をいただいた。

同氏の「「説教」と私の学びへの回想」に西谷啓治氏が取り上げられている。

西谷氏は私が4年間つとめた宇出津高校のある宇出津の出身で、汽車(気動車)で通った宇出津駅から宇出津高校へ行く途中-町の中心部にー子供の頃過ごした家(あと)があり、私が親しくさせて頂いていた、いわば身近な方々に啓治氏の親戚、関係者がおいでになった。

昭和54年頃から数年間『能都町史』専門委員だったこともあり、町史の中心者だった小林篤二先生からは「西谷啓治」の名をいつも聞いていた。

啓治氏は小学校1年の時東京に移るが、1年の時の担任が篤二先生の母・かよ先生だった、という具合である。

 

ただ、真宗関係の西谷氏については、ようやく、「西谷啓治著作集」24巻~26巻(大谷大学講義集)を古書店から購入し終え、書き込みのひどい本にホワイトを塗ったり、消しゴムで消したりし終え、そのうち-と思っていたところに、『節談説教』が届いたのである。

 

と、同時期に、西谷啓治氏の関係者がより身近にいることも分かってきて、年が明けてからは、先生の4女・敏子さんと連絡しあえるまでになっている。

「西谷」世界がドンドン広がり、今降っている雪のごとくに次々積もりつつある。

切りがないので、「西谷啓治(先生)の真宗」を書いて、

引き続き「西谷啓治先生のふるさと」を書くことにする。

 

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『節談説教』第23号 令和2年11月刊 「「説教」と私の学びへの回想」(戸次公正)所収

そこには、次のようなことが書かれている。 

以上、述べてきましたように、私(戸次氏)の仏法との遭遇の歩みは、これらの教えを説き語る、「説教」との邂逅でもあります。
ここに来て、はじめて、曽我量深師の講話集が、あえて「曽我量深説教集」および「曽我量深説教随聞記」として法蔵館から刊行されていることの意義に思いを致すものであります。とりわけ、『説教集』によせた、西谷啓治先生の書いておられる「刊行のことば」には胸をうたれ共感するものがあります。ここにその文を引用しておきます。

「曽我量深説教集」刊行のことば
私(西谷啓治氏)が初めその言葉を西村氏(法蔵館主)に言った時、私はそういう歴史的背景のことを失念して、現代の社会で普通に使われているような、そして宗教学や一般宗教史でsermonとかPredigtけとかの訳語にもなっているような、一般の日常語としてそれを使ったのであった。その歴史的事情に気が付いてから、説教という言葉の代りになる言葉を捜したが、なかなか見付からない。「説法」とか「法語」とかは、今では仏教的な術語として残り、過去のものには使えるが、現代人の耳に現代語として昵んだものにはなりにくい。「法談」もそうである。現在よく使われる「法話」という言葉も、何となくよそよそしい。堕落する心配もない代りに、活生も欠けているという感じである。どれも西村氏が抱いている説教という言葉への執念を覆すには足りない。結局、思い切って説教という言葉を取り上げたらどうか、ということになった。曽我先生のこの書なら、却って、この言葉にまつわり付いている「業」のようなものからこの言葉を救い出せるような、そういう方向に作用するであろう、この書はそういう力をもっている、と信ぜられるからである。
そもそも或る言葉が、長い伝統のなかで人間の手垢によごれ、鼻持ちならぬ人間的な臭みをもってくるのは、それだけその言葉が基本的だからであり、根本語としての力をもっているからである。
例えば他力・本願とか極楽・往生という言葉などもそうである。現在、そういう言葉はすべて、それにこびりついている垢を洗い落とし、臭気をはらい去るべきものになっている。それらはすべて、洗い直され清められることを待っている。
言葉の清めは、結局、心の清めである。根本語を洗い直す作業は、仏教の心を、また仏教者の心を洗い直すという作業と別ではない。そこに現在の仏教が直面している重大な課題があるのではないか。心の洗い直しがなされない限り、仏教の根本的な言葉のどれ一つとっても、活ける言葉としては使えない。そのことは、仏教にとって、生死に係わる重大なことではないだろうか。
大体そういうような感覚のもとに、曽我先生のこの書に敢えて説教集という名が付けられた。この「刊行のことば」はそのことを言わんがためである。
昭和五十年十月十六日       西谷啓治
*西谷啓治師の「刊行のことば」(『曽我量深説教集』1 法蔵館)より 

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『曽我量深説教集1』 編集 西谷啓治・訓覇信雄・松原祐善、刊行のことば 西谷啓治 昭和50年法蔵館

 

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親鸞の世界 鈴木大拙 曽我量深 金子大栄 西谷啓治』昭和39年東本願寺出版部刊

この文に出会い、

西谷啓治真宗」がもう少し語られなければならないのでは、と、より思うようになった。

鈴木大拙真宗

西谷啓治真宗

五来重真宗ーなどである。

 

『法道仙人飛鉢伝説と海の道』『犀星映画日記』

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『法道仙人飛鉢伝説と海の道』嶺岡美見著 2020年12月 岩田書院

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「久里」42号 神戸女子民俗学会 2020年10月刊

 

著者の嶺岡さんとは一面識もないのだが、かつて、田中久夫さんを通して法道関係で一度手紙のやりとりをしたことがあった(はず)。

その嶺岡さんから、著書が届いた。

一度のいきさつについて、2013年9月19日のブログに
久里25、28、32号(神戸女子民俗学会)、御影史学論集31号(御影史学研究会)

を書いていた。引用する。

今年の7月、この二つの学会を指導なさっている田中久夫先生から、
法道仙人のことを書いている若い人がいるので、感想を…
の手紙と共に「久里」32が届いた。
このように、一人一人に気配りされながら指導なされているのだなァ…の感慨と、
そういう先生に学べる教え子の幸せを想像しながら
特に法道仙人を調べたこともないので、お送りするものもないのだが、
『伝説とロマンの里』の方道仙人(能登では、方道)のところと、
能登のくにー半島の風土と歴史ー』の「ユートピア半島ー能登の風土と地名ー」の部分を、筆者の勤務先にお送りした。
その後、その嶺岡美見さんが書かれた論文が載る「久里」2冊と「御影史学論集」が届いた。
飛鉢伝承を中心に調べておいでるとのこと。
能登石動山の「イワシガ池」ー氷見灘浦の漁師とのことー」「久里」25号
「越後柏崎の鰯と飛鉢の法との関わり」「久里」28号
「伊予の方道仙人」「久里」32号
「空飛ぶ鉢ー浄蔵の飛鉢説話成立背景をめぐって」「御影史学論集」31号
ここにあらためて、このことを書いてみて、
中能登町の桜井憲弘氏と、氷見市の小境卓治氏にお伝えしなければと思ったのと同時に
飛鉢伝承を収載(「里人の仰ぐ白き峰」)し、名著と讃えられた『百万石の光と影 新しい地域史の発想と構築』(浅香年木遺稿集第1集、1988年4月能登印刷出版部刊)の浅香年木さんを思い出した。
この頃から、地域史という概念が定着しだしたはずだ。

昨年、筆者から出版記念会への招待文が届いたが、田中さんの名がなかったので、何かの間違いにして、ほとんど気にもとめないでいた。

しかし、こうして高価で内容も濃い本が届いたので、いそいでお祝いを差し上げ、このブログ記事を引っ張りだし、こまかい事情を知った。

そこで、一つの疑問がわいた。年齢、研究者つきあいーどこにも接点がなさそうな

田中氏と、私がどこで知り合うことになったのか?である。

 

田中氏は関西大学の方で、史資料・文献を駆使なさる学風で、私の師・五来重先生に近いところがあるが、より文献の割合が高い方との認識がある。

すごく好きな学問系統のかただ。

 

接点を探して、ウィキペディアで「田中久夫」を調べた。 

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田中 久夫(たなか ひさお、1934年(昭和9年) - )は、日本の民俗学日本史学者神戸女子大学名誉教授。御影史学研究会代表。

1961年関西大学文学部史学科卒、64年同大学院博士課程満期退学。1989年「祖先祭祀の研究」で関西大学文学博士神戸女子大学助教授教授、2005年退任、名誉教授。

著書

1 皇后・女帝と神仏、2012
2 海の豪族と湊と、2012
3 山の信仰、2013
4 生死の民俗と怨霊 2014
5 陰陽師と俗信 2014

共編[編集]

 

この日のブログにはほかの本紹介もしていて、ここに引用したのは、その一部である。

 

接点が見えた。ゴシックにした『地蔵信仰と民俗』(オリエントブックス)があって、私はその翌年、すなわち1990年に同じオリエントブックスシリーズで『蓮如真宗行事』を出させていただいている。

当時は飯田高校の教員で、翌年退職することになるとは夢にも思っていない頃だった。住職になってからは予定を立てにくい暮らしとなり、日本民俗学会年会にも顔を出すことがなくなったと記憶しているのだが、確か、珠洲焼資料館館長に就いていた頃、一度田中さんが訪ねてこられたはずだ。

そして、8年後に職を辞退したとき、先生は民俗の拠点が一つ失われ残念だ、とおっしゃった。不思議な反応だったので、記憶に残っている。

 

今年も賀状が届き、『法道仙人飛鉢伝説と海の道』をよろしくと書いてあり、「うまいのが書けました」と書き込んでおいでる。

お元気なのだ。

 

能登を発信することを目的にこのブログを始めた2005年11月、

その20年前(1985・昭和60年6月)に我が家に泊まられ、狼煙の先端で「海の修験研究は100年かかりますよー」とおっしゃって行かれた五来重先生の言葉を忘れないようにとタイトルに、能登の海伏・山伏、さらに海山節も含めて「能登のうみやまブシ」にしたいきさつがある。

空飛ぶ法道から泰澄・伏行者の修験者・海の道へとつながるこの本の世界は、

私にとっても興味津々のテーマなのだが

今の私は、35年前の私とはすっかり変わり、

足下だけを見ていこうとしている。

 

小さな物語に結びつきそうな、本が届いた。

 

『犀星映画日記』

 

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『犀星映画日記』室生洲々子編 発行者・勝井隆則 2020年10月亀鳴屋刊

 すてきな本を次々出しておられる「亀鳴屋」から、またしても楽しい本が出版された。

社長の勝井さんから。

室生洲々子氏は室生犀星記念館名誉館長。

数え日のころ

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2020年12月25日

『とも同行の真宗文化』を送った友だち・知人の数人に、このような読み方をしてくれたかたがいるよー、と11月26日の富山新聞、12月10日の北國新聞などの記事を送った。

その返事。

太田さん(学生時代の姓で書く)は、小堀たちとひたすら書道室で墨をするか書いていた。

それが、今、この字だ。

住職として、字を書かなくてはならないときがある。想像できない世界だが、色紙を頼まれたこともある。

-字は個性ーといいわけをいいつつ書く。

小堀は小堀遠州の子孫で滋賀県遠州ゆかりの寺庵を守っている。

 書が 身体になっている存在が 知り合いにいる尊さを思う。

まさに歌仙の書だ。

 

大学祭のシンポの折、会場にいて,何か納得できず、共通語と方言について発言したことがあった。

その後、シンポを企画してた一人だったはずの野村さんが、寄ってきて「方言にこんなに深い問題意識を持っている人がいるなんて…」のようなことを言った。

文集に一文を書いたときも、そこまで見抜けるの?と,驚く感想を言った。

それから50年、『妙好人千代尼』を送ったとき、読み込み抜いた感想を送ってくれた。

思索し尽くしたような内容でありながら、日常そのままが深い感性世界をお持ちのようなのである。

50年ぶりに静岡を訪ねたとき、無理をお願いして,野村さんに沼津を案内してもらった。いっぺんに沼津が好きになった。

今度も

「今の時代、民族文化を継承し、みつめ直していくことが、とても大事なことだと思います。南天と千両の実が庭を彩っています。」とあって、南天の写真絵はがきをいただいた。

 

宮城島さんは一筆箋一枚ごとに、綺麗で強い字でひとつづつのまとまりを書いてくださる。わかりやすさ典型の一つだ、と思えるようになってきた。

 

太田さんたちが書にいそしんでいた頃、こちらは準硬式野球、グリー、ギター弾き語り、バイト、なによりも138単位で卒業できるのに180単位近く習得したくらい、勉学・読書にいそしんでいた(ことにしておこう)。自分を主人にする思い出は、降る雪や小鳥の声、渡る風などに乗って、美しく変化する。

 

※ここでタイトルをどうしようか考えた。はがきの宛名面、彼女の名の上に「数えびのころ」とある。???だ。ひよっとしたら「数え句」?

などと思いながら調べるとみつかった。

「数え日」今年もあといく日と、指折り数えるほど暮れが押し詰まること。また、その押し詰まった日。《季 冬》「―の欠かしもならぬ義理ひとつ/風生。

 

 

2021(令和3)年元旦 光景

 

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元旦 午前5時20分の様子。5時間前には左の鐘撞き堂で親子が,特に子供たちが

撞きに来た。それぞれの家族で間を取り、素手の人には、使い捨てのビニール手袋を渡してコロナ対策を取った。雪が降る中、手袋なしの子が多く、元気だなァーといたく感心した。ビニール手袋に手が入らずに困っている子、撞き方もわからない子にとって、吹雪の中での、もう難行苦行の体だった。 

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6時15分 蓬莱飾り 広間

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岩田崇さんからいただいた灯り 本式台 6時20分

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本堂荘厳 6時20分

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お内仏 文明14年 前ご本尊・厨子

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まもなくお昼。昔取った杵柄

久しぶりの元旦の雪。

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今年は、3日に飯田町太子講をこの上の二間を使って行うので、飾りは早めに座敷に移動。

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茶の間