『恩徳讃ものがたり』海谷則之氏著、 無常講式(後鳥羽天皇作)

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『恩徳讃ものがたり』7月4日、林智康師からいただく。『花すみれ』をお送りしたのでそのお礼。「恩徳讃」が『日本の唱歌』に載っているとあるので、古本を購入。「無常の思いを超えて」とあるところから「白骨の御文」と後鳥羽天皇の「無常講式」を扱っておられるので、その方面も調べて見た。


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『白骨の御文説教』藤岡了空師著、明治41年法藏館。パラッと見たところでは無常講式には触れていない。『御文聞記第二巻』広瀬惺氏著真宗大谷派能登教務所刊。『存覚法語』『無常講式』に触れておいでる。


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日本の唱歌(上)~(下)。下の最後に「恩徳讃」(親鸞聖人作、清水脩作曲)が載る。他の仏教聖歌は御詠歌、札打和讃、往生和讃、四弘誓願を載せている。


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唱歌集には慈鎮和尚の「はるのやよい」も載っている。解説がいいので紹介。

 歌詞は慈鎮和尚の個人の歌集『拾玉集』に「今様」と

 

して掲載されている作品。慈鎮和尚は鎌倉初期の歌人であるから、随分古い歌をもってきたわけであるが、春夏秋冬のそれぞれの興趣を簡潔に歌いあげたもので、『徒然草』の第十九段、「折節の移り変り」を思わせる、千古の傑作である。他の歌詞と比べても、少しも古臭さを感じさせない。渋沢秀雄氏は、日本民族が幾世紀に亘って培ってきた仏教の諦観「もののあわれ」のフィルターを心のレンズにかけて、月・雪・花を写した芸術写真と評している。歌詞には多少異同があり、第一節の第四行は、人によっては「かからぬ峰ぞなかりける」とし、第二節の第四行は「名乗りして」とする。第三節の第二行の「半ばは」の「は」は削ってあることもある。
 歌詞に比べると曲の方は見栄えがしないが、まだ洋楽に親しまなかった、当時の雅楽人が、西洋の歌はドで終るものなのだとか、第一行・第二行・第四行は、大体同じような旋律に作るものだとか心得て、恐る恐る試作したものであったろう。また、次ぺージにあげたような節でも歌われることもあったようで、この節は、讃美歌の「悔改」という曲にも採られた美しい日本的旋律である。上段の曲は明治二十九年の『新編教育唱歌集』(第二集)に再び採録されたが、あまりよい出来ではなく、歌詞が泣きそうな曲であるが、伊沢修二が第一高等学校の唱歌の教官だったころの追憶談に、第一高等学校の体操の教官に松岡某という人がいて、日ごろ唱歌を歌うなどは、柔弱で何ら教育の上に役に立たないと言ってい た。ところがかれが生徒を引率して行軍をしたところ、その帰路生徒一同大いに疲労したが、誰からはじめるともなく、この曲を歌い出し、一同これに和したところ、いつの間にかやすやすと帰校できた。松岡某大いに感心し、自分の不明を伊沢にわびたと書うことであるが、この歌の歌いやすさからそういう効果もあったのだ。この歌は、二二(九の間違い)ぺージにあげた越天楽今様の節でも歌われたもので、断然その方がよかった。

慈鎮和尚(一一五五―一二二五)は、在世中の名は慈円、慈鎮はその諡名である。関白藤原忠通の息に生まれ、九条兼実らの弟、名門の出で、天台座主の職をつとめた。和歌としては、「おほけなく憂き世の民に覆ふかな……」が百人一首にも取られて有名である。当時の芸能人たちのパトロンの役をもつとめ、『平家物語』の成立に力があったことが『徒然草』に見える。自分自身、『愚管抄』という歴史評論を俗語をまじえて書いており、多才の人だった。

 

 

 無常講式(後鳥羽天皇作)[ウィキペディア]より

後鳥羽天皇御作無常講式
第二段
擧世如浮蝣。于朝死于夕死別者幾許哉。
世こぞって蜉蝣かげろうの如し。朝あしたに死し、夕べに死して別れるものの幾許いくばくぞや。
或昨日已埋 槽涙於墓下之者。
或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。
或今夜欲送 泣別棺前之人。凡無墓者人始中終、如幻者一朝過程也。
或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。
三界無常也。自古未聞有萬歳人身。一生易過。在今誰保百年形體。
三界無常なり。古いにしえよりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に在ありて誰か百年の形體を保たん。
實我前人前。不知今日不知明日。後先人繁本滴末露。
實まことに、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴しずく、末の露つゆよりも繁し。
指厚野爲獨逝地築墳墓、爲永栖家。燒爲灰埋爲土。人成之終之資也。
厚野を指して獨り逝地に墳墓を築き、永く栖家となす。燒けば灰となり埋めて土となる。人の成りゆく終りの資すがたなり。
嗚呼。撫雲鬢戲花間朝。百媚雖難別、先露命、臥蓬下。夕九相皆可捨爛一兩日過者悉傍眼。
ああ、雲鬢を撫でて花の間に戲たわふるは、朝あしたに百媚と別れ難しといえども、露の命を先立ちて蓬の下に臥す。夕ゆうべに九相みな捨つべし、爛れて一兩日を過ぐる者、悉く眼を傍そはむ。
臭三五里行人皆塞鼻。便利二道中白蠕蠢出。手足四支上青蠅飛集。
臭くして三五里を行く人、みな鼻を塞ぐ。便利二道の中より白き蠕むし蠢き出で、手足四支の上に青蠅飛び集まる。
虎狼野干馳四方、置十二節於所々。鵄梟鵰鷲啄五藏、投五尺腸於色々。肉落皮剥但生髑髏、日曝雨洗、終朽成土。
虎狼・野干は四方に馳せて、十二節を所々に置きて鵄・梟・鵰・鷲は五藏を啄くらひて、五尺の腸はらわたを色々に投ぐ。肉は落ち皮は剥げ、ただ生なましき髑髏、日に曝し雨に洗はる。終に朽ちて土と成んぬ、
雲鬢何収。華貌何壞。眼秋草生。首春苔繁。白樂天云、「故墓何世人。不知姓與名。和爲道頭土。年々春草生云云。」
雲鬢何いずくにか収まる。華の貌かんばせ、何いずくか壞るる。眼には秋草の生おひ、首には春苔の繁し。白樂天の云く、「故墓、何れの世の人ぞ、姓と名を知らず、和して道の頭ほとりの土となして、年々に春の草生ふと」[1]云云。
西施顔色今何在。春風百草頭云云。
西施の顔色、今や何いずくに在る。春の風、百草の頭ほとりに有るべしと、云云。
再生汝今過壯位。死衰將近閻魔王。欲往先路、無資糧。求住中間、無所止。
再び生れて、汝いま壯さかりなる位を過ぎたり。死し衰ろえて將に閻魔王に近ずかんと。先路に往かんと欲するに資糧なく、中間に住とどむを求むるに所止なし。
一切有爲法如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。
一切の有爲の法は夢幻ゆめまぼろしの泡の影の如し。露の如く電いなびかりの如し、かくの如きの觀をなすべし。南無阿彌陀佛
契而尚可契菩薩聖衆之友。憑尚可憑者彌陀本誓之助也。
契ちぎりても、なお契るべきは菩薩聖衆の友、憑たのみても、なお憑むべきは弥陀本誓の助たすけなり。
凡夫友一期程也。未伴于六道之旅。今生亦富貴之間也。
凡夫の友は一期ほどなり。未だ六道の旅には伴ともなわず。今生もまた富貴の間なり。
貧賤時誰隨哉。今面見亂世。實佛外憑誰。
貧賤の時、誰か随はんや。今、まのあたりに乱世を見るに、まことに仏より外に誰をか憑むべき。
昔清涼紫震金扉。采女竝腕巻玉簾。
昔は、清涼紫震の金の扉とぼそに、采女腕を並べて玉の簾を巻く。
今民煙蓬巷葦軒。海人埀釣僅成語。
今は、民煙みんえん蓬巷ふうこうの葦の軒に、海人あまびとびとと釣を埀れ、僅わずかに語かたらいを成す。
月卿雲客身切生頸於他郷之雲。槐門棘路人落紅涙於征路之月。
月卿雲客の身は、生頸を他郷の雲に切られ、槐門棘路の人、紅涙を征路の月に落とす。
彼孟甞君三千客。但是一生友也。
彼の孟甞君が三千の客、ただこれ一生の友なり。
漢明帝二十八將。未爲二世之徒。
漢明帝の二十八将、未だ二世の徒なり。
呉王得一天。落時獨落。秦王靡四海。死時獨死。
呉王の一天を得、落ちし時は独り落つ。秦王の四海を靡なびかしし、死する時は独り死す。
上陽人獨老。李夫人獨病。千萬人無代病。
上陽人は独り老い、李夫人は独り病み、千万の人、病に代わるもの無し。
然則、蕭々夜雨打窓之時。皎々殘燈背壁之下。爲十二縁之觀、悲生死無常。
しかれば則ち、蕭々しょうしょうたる夜の雨 窓を打つ時、皎々こうこうたるの残の灯ともしみ壁を背ける下にして、十二縁の観をなして、生死の無常を悲しむ。
欣九品之迎。唱彌陀之名號。
九品の迎えを欣ねがいて、弥陀の名号を唱えよ。
天帝二十五億人。天女五衰夕皆捨去。轉輪聖王八萬四千後宮。一期終一不從。
天帝二十五億の人、天女五衰の夕べには皆捨てて去ぬ。転輪聖王の八万四千の後宮、一期の終りには一ひとりも従がわず。
仰願觀音・勢至二十五菩薩。普賢・文殊四十一地賢聖。臨命終夕。捧蓮臺來草菴。
仰ぎ願わくは、観音・勢至二十五菩薩、普賢・文殊四十一地賢聖、臨命終の夕べに、蓮台を捧げて草菴に来り。
一期生之後導淨土、移玉臺。
一期の生の後、浄土に導きて、玉台にうちに移したまえに。
此身萬劫煩惱根也。
此の身は万劫煩悩の根たり。
厭可為金剛不壊之質。妻子珍宝及王位臨命終時不随者。
厭て金剛不壞の質すがたとなすべし。妻子珍寶および王位、臨命終時には隨わざるものなり。
唯戒及施不放逸。今世後世爲伴侶。
ただ戒とおよび施と放逸せざると、今世後世に伴侶になる。
此依諸功徳。願於命終時。見無量壽佛無邊功徳身。我及餘信者。既見彼佛已。
この諸の功徳に依て、願はくば命終時において、無量寿仏 無辺功徳の身を見たてまつらん。我および余に信ずる者、既に彼の仏を見たてまつりおわりて、
願得離垢眼。往生安樂國。
願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。
  南無阿彌陀佛

無常式   陰岐法王御筆
  正月九日  帝王崩御同月廿日
    建長元年七月十三日於雲林院書寫了