清水脩ー前半 「山に祈る」(♪満天の星) 

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「山に祈る」(清水脩作詩・作曲)、「月光とピエロ」(堀口大学作詩・清水脩作曲)ジャケット。1970(昭和45)年8月29日レコーディング、VICTOR STERO 2000円 ※スキャナーがA4までなので部分欠

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同。裏面

11日のブログに

合唱組曲「山に祈る」…「山小屋の夜」-満天の夜ーのところ

 ※新たに作詞・作曲清水脩について記す。

と書いた話に進める。

 

「山に祈る」を聞いたのは、中学生の時の音楽の授業だった。レコードをちゃんとした演奏器で聞くなんてのは音楽授業ぐらいなもので、もっぱらラジオから流れる「潮来笠」「北帰行」などの歌詞を書き写して、がなり歩いていた年ごろだったので、レコード鑑賞の時間は、かなり無理して過ごしていた。

いわゆるポピュラークラシックなどを聴いたのだろうが、何を聞いたのかはもう覚えていない。ただ、その中で「山に祈る」は鮮明に覚えているのだ。

あの時、岸田照子先生は、

 

春先のポカポカした日差しの中で梅の枝を折りながら、そろそろ山から帰ってくる誠のことを思っていた。

そこに、一通の電報が届いたのです…。~

お母さんは、小さな声で、ま・こ・と…、と呼ぶのです。

子供が遭難した、普通なら、ま!こ!と!!!-大声で呼ぶと思うでしょうが、本当に悲しいときには、小さな声でしか呼びかけることが出来ない。

そこを、しっかり聞いて下さい…

 

もちろん、60年ほど前のある授業の一生徒の記憶。どこかで想い出を整理し直している部分があるかも知れないが、このようなことをおっしゃったのである。

 

大学時代、私は下宿仲間に誘われ、橋幸夫舟木一夫を歌うつもりでグリークラブ(男性合唱団)にいた。清水脩の合唱組曲「月光とピエロ」を定演でうたった。

同じ大学に混声合唱団もあった。その合唱団は組曲「山に祈る」を歌った。グリークラブ無伴奏である。「山に祈る」は、ピアノ伴奏、母役のナレーター、進行役ナレーターと合唱以外にも重要な役割を担う人たちがいて、一度聞いたフル変奏がそうであったように、ずーーと混声合唱用に作られた曲だと思っていた。

その時のスピーカから流れていた進行ナレーターが、選ばれた部員だけに当然情景を深め、素晴らしかったのだが、その声・響きにどこか懐かしさまで感じてよくあるナレーターレベルを越えて胸に迫っていた。

演奏を終え、部員が並んで観客を送り出す時にだった(はず)かに、どんな人がナレーター役だったのか確かめたところ、

メンバーの中に中学・高校(大学も)の1年後輩の郡楽さんがおり、彼女がナレーターだったのである。

僕は流れてくる声のどこかに、ずーっと、珠洲の響きを聞いていたのだ。

 

そのようなことがあって写真ジャケットのレコードを購入したが、ある年齢から哀しすぎて聞くことが出来なくなり、仕舞われてしまったが、雪の星空に会うと、

♪満天の星ーが、決まって流れていく。

 

今日は旧暦12月2日。ほぼ新月。晴れれば「満天の星」だ。

 

LPジャケット解説

清水脩(1911~)
明治44年大阪天王寺真宗大谷派寺院に生まれ大阪外語大学フランス語科を卒業、昭和12年大谷派東本願寺研究生として、東京音楽学校専科作曲部に入学。橋本国彦・細川碧に作曲を師事、昭和14年卒業と同時に同校教務嘱託兼フランス語の講師を勤めた。そして同年毎日新聞作曲コンクールに「花に寄せたる舞踊組曲」が一位に入賞して以来、作曲家として、すぐれた作品が次々と世に発表されていった、そして同年音楽之友社に入社し、のちに編集部長となったが、20年に退社。昭和36年よリカワイ楽譜取締役社長として現在に至っている。その間日本の合唱曲の楽譜出版に力を入れ、今日の日本の合唱曲の隆盛の一助をなした功績は高くかわれている。又昭和21年には全日本合唱連盟の設立に参画し、主事、常任理事を経て、昭和38年には四代目理事長に就任、本年は創立20年記念事業を華々しく推進している。ちなみに全日本合唱連盟は、2000有余の団体と15万人の合唱人口を抱え、全国9地区、59府県支部連盟の組織をもち、アジアは申すに及ばず、世界にもその類例の少ない大所帯を把握している。彼は又指揮者としてもアマチュァ合唱団は勿論、昭和19年にはNHK東京放送合唱団の常任指揮をはじめ、大阪・東京にある殆どのプロ合唱団にも関係して、自身の作品は無論のこと、日本の合唱普及に力を至している。その反面訳詞・作詞(ペンネーム竜田和夫)の他、随筆にもすぐれた才能を示し、音楽随想「書き落した楽章」「合唱の素顔」の著の他合唱新聞・合唱誌に毎回のように掲載されている。
 そして作曲の面においても非常に広範囲にわたり、歌劇「修禅寺物語」・「俊寛」・「大仏開眼』の他オペレッタ交響曲、箏独奏曲に多数の作品がある。然し何といっても合唱曲は質・量ともにその中心をしめているといっても過言ではない。演奏時間一時間を越える交声曲伝教大師讃歌をはじめ、出版されたものだけでも159曲に及び、小品の仏教讃歌、校歌を含めると250に及び、合唱編曲で出版された250曲を加えると優に500曲になる。
この多数の創作合唱曲は大きく三つの方向に分けることが出来る。①オリジナル合唱曲これには大曲が多く、交声曲又は合唱組曲がその中心となっている。②日本民謡・古謡・わらべ唄を素材とした合唱曲。③仏教讃歌に分けることが出来る。その主な作品としては昭和14年組曲「高原の歌」(女声)16年の「汗をうたえる」(混声)、23年の「秋のピエロ」(男声)をはじめとし「日本の花」12曲(混声)「野ぶどう」(女声)「宮城野ぶみ」(女声)「農民の歌」混声)交声曲「若者の歌」(混声と男声)「青い照明」(男声)組曲「童話、(女声)組曲「山に祈る」(男声と混声)イソップ物語「網にかかった鷹」(混声三重合唱)合唱のための物語「鼻長き僧の話」(混声)「大手拓次の三つの詩」(男声)交声曲「歎異抄」全十章(混声)「火の国水の国の譚」(女声)「阿波祈祷文」(男声)の他、日本民謡として「そ一らん節」(混声と男声)「最上川舟唄」(男声と混声〉「八木節」(男声)「アイヌのウポポ」(男声)等がある。その他音楽賞という賞は殆んど受賞しておリ、音楽のあ
らゆる面に驚異的活躍をしている。(解説・山本金雄)

1970年8月29日レコ-ディング

 

「山に祈る」初演から今日まで
山の遭難と交通戦争による悲報は、増える一方である。
それに取材した文学や音楽作品の数も多い。しかし、山の遭難事件を唱って、これほど感動的な作品に仕上げた例はないだろう。まさに"山"の決定版である。
 作品が最初に書かれたのは1960年3月。この種の劇的合唱曲のさきがけとなった。この曲が誕生するにあたっては、産婆役を演じたダーク・ダックスのことに触れないわけにはいかない。ダーク・ダックスは、その第1回のリサイタル以来、例年、新作を委嘱制作し、リサイタルの柱にしていた。この基本方針は、いまなお続けられ、数多くのポピュラー名作を生み出している。曲のよさもさることながら、その企画力が卓抜で、ダーク・ダックスが今日なお、着実な人気を維持している理由のひとつはそこにある。
作品が完成する半年前の59年秋のある日、ダークのリーダー喜早哲は、荻窪清水脩氏宅にかけ込んだ。長野県警本部編集の「山に祈る」という小冊子を手に持って。この小冊子は、相い次ぐ山の遭難事件に業をにやした同県警本部が、遭難者の遺族たちの手記を集めて編集し、遭難防止を訴えたものであったが、ダークの4人が、たまたま演奏旅行途上でこれを見つけ、これは作品になる、と意気込んで、早速、清水脩氏の門をたたいたのであった。清水氏も大いに同感し、小冊子の巻頭にあった上智大学山岳部の飯塚揚一君の日誌と、同君の母親の手記が選ばれた。※1960年刊
清水氏は、構成、作詞、作曲の一切を引受け、制作にとりかかった。春日俊吉著「山岳遭難記」や上智大学山岳部誌「モルゲンロート」などを読み、飯塚君と同じパーティにいて難を免かれた同山岳部の部員たちから、当時の模様などを、さらにくわしく聞いた。「雪山登山とその遭難について、できるだけ嘘のないものを書きたいと思ったからである。しかし、これは音楽物語であるために、いくらか誇張されたところもあるし、フィクションもある。また私自身の、山への思慕も盛った」と清水氏はのべている。
そして初演は、60年3月23日、神戸国際会館で行なわれた。翌24日が京都、25日が大阪、そして東京は29日の日比谷公会堂だった。
合唱はもちろんダーク・ダックス、母親役のナレーターは夏川静江、伴奏は十川千江子クワルテットを中心とする小編成の管弦楽であった。ダーク・ダックスの力演もさることながら、夏川静江の名演に、客席はもとより、バンド・リーダーの十川までが涙ながらの演奏だったのを、私は大阪毎日ホールの舞台で見た。
私はこのときの感動が忘れられず、この曲を大編成の合唱で上演することを思い立った。そして清水氏にお願いし、ピアノ伴奏の男声合唱用に書きかえて頂いたのが、この曲である。この曲の初演は、その年の7月、同じ大阪毎日ホールで、クローバー・クラブによって行なわれた。
ところが、この初演は決して成功したとはいえなかった。
マチュア団体のことでもあり、ホールの照明係との打合せなどが十分でなく、演奏中途で舞台が真暗になってしまって合唱団が立往生したり、客席で幼児が泣き声を立ててムードをこわしたり、曲がいよいよ大詰めに近づいて悲しみがクライマックスに達したとき、突如、舞台のそでから花束をかかえた子供が舞台上に現れて、満場の失笑を買うなど、まさにメチャメチャになった。わざわざ東京からかけつけて来られた清水氏も、思わず頭にきて席を立たれ、指揮台の私は、それを押しとどめることもできなかった。
このいきさつについては、その後、清水氏の随筆集「合唱の素顔」にくわしく書かれ、私はそれを読み返すたびに、いまだに冷汗をかく思いがする。
こんな失敗談はあったが、作品自体はその後、全国各地で熱狂的な歓迎を受けた。まもなく楽譜が出版されるや、どの男声合唱団も競うようにこの曲をとりあげ、またたく間に、邦人合唱曲中のスタンダード・ナンバーに定着した。
混声合唱団からの強い要望もあって、その後、混声用にも書き直されたくらいである。朗読役には、夏川のほか、加藤道子、最近では中畑道子の演技が目立っている。
曲は、「山の歌」からはじまり「リュックサックの歌」「山小屋の夜」「山を憶う」「吹雪の歌」「お母さん、ごめんなさい」にいたる6曲に分れ、明るい曲調から、次第に死に近づく暗い調子に移ってゆく。朗読は母親で、合唱が遭難学生を演ずることはいうまでもない。母親の朗読は、厳密にいえば、息子の手帳を読む部分と、母親自身の語りの二つの部分にわかれていることに注意しなければならない。演技も、当然ながら、この二つを分けて演ずる必要があるわけだ。曲中の男声の科白や朗読は、合唱団員が担当することと、曲の終りでは、舞台の照明を次第に暗くしてゆき、最後の和音と同時に真暗にすることを作曲者は提案している。作品自体が、あまりにもドラマティックなため、音楽が朗読の陰にかくれてしまうことを指摘して、音楽そのものの弱さを批判する向きもないではないが、私はそうは思わない。ここまでくれば、作品はすでに音楽でも朗読でもないのである。そこにあるのは「山に祈る」という強大な作品があるだけだ。朗読だけでもダメ、音楽だけでもダメ。この両者が有機的に結びついて、1個の強大な作品を形成しているのである。作曲者自身がいうように、これは音楽物語なのである。  日下部吉彦

 

作詞・作曲家清水脩氏についてはこのブログで何度か書いたことがある。

2015-08-12
祠堂経・お説教-子ども正信偈、月光とピエロ-
8月10日、11日お説教に羽咋地内12組のお寺にお話しに行ってきた。
知り合いの方がいて、ご縁があってお話しさせていただける。
このお寺では、ラジオ体操の後、正信偈の練習をなさっているそうで、そのお勤めがあった。大きな声で、ハキハキと清々しかった。
でかけると、このような得がたい光景に会える。
私の方は、色々お話ししたのだが、恩徳讃の作曲者・清水脩の関係から、月光と教えに話を持って行こうと、考えてみた。
というのは、清水脩氏は真宗寺院の出身で、世界で初めて合唱組曲というジャンルを提唱された。その組曲が「月光とピエロ」であり、「山に祈る」である。
この日7回忌を迎える、山で遭難した教え子を思っていたら(10日に、家へ行って手を合わせてきた)、季節は夏山・冬山の違いがあるものの、「山に祈る」のメローディーが、ふっと浮かんだりしていたのである。それで、亡き人を偲ぶ祠堂経、お盆でもあるので、そのあたりを組み合わせてお話しした。
法話を聞きにおいでた方々は、「月光とピエロ」「山に祈る」、どちらも聞いた事がないとおっしゃる、-中学校時代の同級生も来ていて、「山に祈る」を一緒に音楽の時間に聞いたろう、(彼女は)覚えていないという-ので、ちょっとさわりの部分を歌った。
「ピエロ」の方は♪月の光の照る辻で…(「月夜」)から辻、さらに邑知潟の月、月愛三昧までの展開を考えていたのだが、辻からどこにつなげるつもりだったのか、今もって浮かんでこない。
お話しするときは、一応イメージを作って、頭の中で語って見ている。そこでは「辻」があったはずだったのに、子どもさんも…法話を聞く、と聞いたとき、「月と兎」などと考えたあたりから、どこかへ飛んでいった。
しかも、スローテンポの「月夜」をしみじみ歌うより、つい「泣き笑いして我がピエロ、秋じゃ、秋じゃと歌いけり…」(「秋のピエロ」)の部分を歌ってしまった。
しかも、マイクを付けていたので、自分でもビックリするくらいの音量が広がり、動揺してしまった。

 

2015-08-21
半島に刻む 戦後70年の記憶 能登民俗学調査40年 庶民の胸中 歴史に
北陸中日新聞2015年(平成27年)8月21日(金)

変な時間に寝て、0時過ぎには目が覚めた。掃き掃除に出ようと思ったら音を立てて雨が降っている。新聞を見た。
士郞(記者、高校生の時3年間担任)の文はやさしい。
「温厚でやさしい方だが、~(になると)厳しい表情を見せる。」いい。どこかで使おう。
昨日は、勉強会で清水脩作曲、作詞堀口大学「月光とピエロ」を本願力と凡夫におきかえて、考えてみた。そして、歌ってみた。皆さん、困っていた。
温厚でやさしい皆さんも、歌が二回目になると、厳しい表情をお見せになった(※書いた時は二回目の意味を知っていて、たぶんたわむれ気分で書いているはずだが、6年後の今日は思い出せない-2021-01-12)。
少し前には、『歎異抄』第二章の、親鸞聖人の敬語「こころにくくおぼしめしておはしましてはんべるらんは…」を、お話ししていたので、「お見せになった」となる。

それにしても秋だ。

 

前半はここまで。

後半は清水脩氏から、真宗の歌ー交響曲蓮如」。北川博夫、土岐善麿氏、歎異抄へとつなぐ。