今日22日、山田知子さんのお身内から、「山田知子は昨年五月に亡くなりました」と記した、寒中見舞いをいただいた。
山田さんとは仲がよかった。25年前の1996年(平成8年)8月20日に東京書籍から『相撲の民俗史』(東書選書)をお出しになり、8月19日に「謹呈」されている(発行日の前に本が届くのはよくあることである)。
そして、その後、2005年12月5日ブログで『相撲の民俗史』に触れた。
引用する。
『相撲の民俗史』『能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察~』など
能登の法事相撲に関して詳しく調査した報告書がある。
これを探すのだが見つからない。
寒い。春になったら…とも言っておれない。
この機会にどこにどういう風に本を詰めたのかを知ろうと
本箱周辺をうろついた。
「唐戸山相撲史」(昭和46年:平岡克明著)のコピーが出てきた。
「すまひ・角力・相撲」(平成3年:石川県立歴史博物館)が出てきた。
この話題になるなら紹介しなければと思っていた『相撲の民俗史』(1996:山田知子著:東書選書)も、すぐに出てきた。
山田さんは、相撲研究者、
特に民間相撲の研究者なので、当然唐戸山相撲の調査においでている。
その時、羽咋にいるのだけど、出てお出でよ、と電話が入った。
奥能登と口能登ではものすごく遠いのだ、と電話で説明したのだが、
ちょっとでておいでよ、とおっしゃるくらいだから、距離感が全然分かっていないようだった。
その後、京都から、羽咋とそちらでは遠いのねえー、
能登同士だからすぐ近くかと思っていた、と…電話が入り、
地図で確かめて能登は広いことを実感されたようだった。
見つからない報告書は
ガリ版で黄色い表紙だった、能登出身の日体大の何とかという若い先生が関わっていて…
とドンドン記憶が蘇ってくるのに見つからない。
宗教書の方に紛れ込んでいた。
『能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察』
平成5年9月25日、日本体育大学体育史研究室発行。著者:谷釜了正、下谷内勝利。
思っていた通り、労作である。
『能登・唐戸山における仏事満座の相撲~唐戸山神事相撲圏の形成に関する歴史民俗学的考察』の著者・谷釜さんは、その後日体大の学長になられ、特に体育系のいじめ、パワハラなどの絶滅に力を注がれたと聞いている。
山田さんは、この後の話になるのだが、蔵書を抱えきれないので、西山さんの所だったらおけるだろう、と英文ブリタニア百科か何かを運んでこられたことがあった。
まだ見ていない襖の下張と同様、いつか英文で調べる日が来るかも知れないと、かなり長い間物置にあったのだが、だいぶ前に他の雑誌類とともに処分している。
だから、1度は当家というか当寺にきておいでるはずなのだ。
最終肩書きは大谷大学名誉教授のはずである。
元気そのものの頃の出会いなので、いつまでも元気なもの、と思い込んでいた。
5月なら大桑さんが先立たれてまもなくのことだったのだ。
『相撲の民俗史』カバーに記されている紹介を加え、山田さんを偲びたい…。
山田知子-京都生まれ。現在(※1996年現在)、大谷大学短期大学部教授(体育学)。奈良女子大学を卒業後、奈良帝塚山短期大学を経て、一九六九年より大谷大学に勤務。当時文学部国史学科の主任教授であった五来重博士(一九九三年に逝去)に出遇い指導を受け、五来博士主催の「日本宗教民俗学研究所」で宗教民俗学を研究。●主たる論文(共著)「きたえる」竹内京一編『体育への誘い』海青社、「我が国における相撲の発生に関する研究」『大谷大学研究年報』三十四集、「相撲と民俗」田中義広編『祭りと芸能の研究Ⅱ』錦正社、「稲荷信仰と古墳」五来重編『稲荷信仰の研究』山陽新聞社、「鳳来寺と三河・尾張の薬師信仰」五来重編『薬師信仰』雄山閣、「土俵まつりと修験道」寒川恒夫編『相撲の宇宙論』平凡社。
私が相撲史をひもといてみようと思ったのは、「もうひとつのみかた」
ができるということがわかったからである。
それは、民俗の中に残されて来た祭儀相撲に見られる「足踏み」に焦
点をあてて、その源をたずね、歴史を遡っていくと、相撲は、古代
より悪霊を鎮め追い払う呪術に発生し、農耕の豊凶を占う年占とな
って力を競い合うようになり、次第に競技化が進行していったが、
本来の呪術性ゆえに、雨乞いや地鎮などに用いられ、また朝廷の節
会の行事となり、あるいは、社寺の勧進の手段として行われてきた
ことも明らかになってくる。そして、この伝統を継承するというい
まの大相撲での力士の揃い踏みや横綱の土俵入りも、もとは天下国
家の悪魔祓いをする一種の宗教行事だったこともわかってくるはず
である。(はじめにより)
紹介文にある著書。
「相撲と民俗」田中義広編『祭りと芸能の研究Ⅱ』錦正社ー今、雪に閉じ込められている建物にあるので取りに行けない。
五来重先生が当寺に泊まって行かれた、昭和60(1985)年6月15日、お土産としていただく。先生を含め14名最上稲荷教務部の執筆による970ページに及ぶ大著。これらの方々が、五来重門下の俊英たちだったのだ、新たな感慨を覚える。
執筆者14人。私も「能登の薬師信仰」を執筆した。山田さんと同じ本に書いているなんて…。
先生も含めて5人程度親しいというか、顔が浮かんでくる方々がおいでる程度。
この時の肩書きは「石川県立飯田高校教諭」。