16年前のあの日のその時刻、今と同じ部屋ので同じベッドに寝ていた。
ベッドが下の方からユウーウラリと揺れ、どこかに運んで行かれるような重い気分で目が覚めた。
「阪神淡路大震災」(災害名は2月14日統一)の発生である。
近所の人が大型トラックで神戸に荷物を運んでいて、神戸の町並みが眼下に見える山の駐車場で、いつものように明け方しばし仮眠を取ろうとしていたとき、ぐらーっときてあちこちで火がのぼり初めた。もう、慌てて引き返してきた、と、現実ではない話をするように話すのを聞いて、想像が追いつけない出来事が起こっているのだ、と思っていた。
私は、その年の 9月から16回に亘って、金沢別院の機関誌「おやまごぼう」(隔月刊、162号~177号)に「蓮如上人と伝承」を連載した。
連載を終え、金沢別院に一冊も出版物がないのはどうかと提案し、1998年12月25日、すなわち蓮如上人のご命日、生母が6歳の上人を本願寺に残して去った日に、『おやまブックレット1 蓮如上人と伝承』を発行した。
この年は上人の500回忌でもあり、連載も500回忌に向けて始まった企画だったのである。
第3回が「最初の御文」で、そこでは、震災を踏まえ、次のように書いた。
※元のブックレットでは、多くの語-長禄〈ちょうろく〉、留守職〈るすしき〉、応玄〈おうげん〉のように-にふりがなを振ってある。
三 最初の御文
上人は、長禄元年(1457)、43歳で本願寺留守職を継承し、本願寺第八世となられた。弟の応玄上人との間で継承を巡っての争いもあったとされるが、二俣におられた叔父・如乗の力添えがあって、上人に落ち着いたといわれている。
上人の生きられた時代は、天災・飢饉が相続き、世は疲弊の極にあった。応仁の乱が起こるのは継承から10年後のことであるが、上人が27歳の時には、どうにもならなくなった数万の民衆が、16カ所に陣を構えて京を包囲し、徳政(貸借契約の破棄)を勝ち取るほどの激しい一揆も起こっている。
「母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸いつつ、臥せるなどもあり…」(『方丈記』)といった状景があちこちで見られたに違いない。
このような状況の中で、上人の御一生である85年間に、世を立て直したいとの願いを込めた年号の改元が、15回も行われている。
このこと一つを取ってみても、世はまさに末法であり、人々の不安につけこみ、かえって人々を苦しめる似非宗教の横行もあったのである。
そして、継承からわずか3年後の寛正元年(1460)にも、大飢饉・疫病が流行した。『碧山日録』によれば、地方から「人民相食む」とのうわさが伝わり、ある僧が、せめてもの供養にと立てて歩いた卒塔婆の数が、都だけで8万2 千本にも達したという。 別の僧が、大釜で炊いた粥を人々に分け与えたが、衰弱しきった胃腸は熱い粥を受け入れることができず、粥に飛びついた人は次々と命を落としていった。そして、それは釜の向きが悪かったせいだ、という話が人々の口に登り出すのである。まさに、親鸞聖人が「かなしきかなや道俗の、良時吉日選ばしめ、天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす」(『正像末和讚』)とお嘆きになられた、その通りの人心も荒廃した世となっていた。
おびただしい死者によって鴨川の流れまで変わってしまったその頃、上人は京都大谷に在って、惨状を目の当たりにしておられたはずである。何を思い、何をなさっておられたのであろうか。
天災といえば、平成7 年1 月17日早朝に起きた阪神淡路大震災は、様々のことを語りかけている。多くの若者がボランティア活動を行うという明るい話題もあった。
その中で、二人の子供を一瞬に失い、駆けつけてくれたボランティアの若者たちに感謝しながらも、同世代である彼らにどうしても会うことができずに仮説トイレに身を潜めて泣く父親の姿があった。
家の下敷になった子が、迫り来る猛火のもとで、「お母さんはどうだった。逃げられたの、よかったね。僕はいいから、お父さん逃げて…」が最後の言葉になった、と語る父親の姿も報道された。報道は過ぎ去っていく。しかし、「お父さん逃げて…」の声が、落ち着きを取り戻すに従って、より
鮮明に耳の奥底から聞こえ始めてくる親がいる。子供を助けることができなかった、という懺悔は、「悪人」の責めを自らに課し続けていくことになるのであろう。
上人は、全てを失い途方に暮れている多くの人々を目の当たりにして、かけがえのない命の輝きを甦えらすには、真実の教えによってしか成し遂げられないことを、改めて感じ取られたはずである。祖師聖人が明らかにされた我々「悪人」が救われる教えを、どのようにしたらわかりやすく伝えることができるのか。それこそ身悶えしながら問われたに違いない。
その答えが、寛正の大飢饉の翌年3月に表された最初の御文ということになろう。
金森道西(俗名弥七)の求めによって書かれたとされているが、「罪の軽重をいはず…在家止住のやからは…平生業成…」とお書きになった一字一句は、どこまでも深くて重い。上人と出会える身近な人々に対しては自らの言葉で、弥七のように遠い所で救いを求めている人々には「文」を用いて、と、弥陀の願いが、ここに「御文」という形で世に登場したのである。
時系列を見れば分かるが、連載を終え、わずか9ヶ月でブックレットを完成させている。
金沢教区若手スタッフとの読み合わせや、ロゴマークの制定など…。写真挿入の位置は印刷所にお願いしたが、原稿の打ち出し、系図の線引きも含め、出版社がやる仕事のほとんどを、筆者である私が行った。
写真参考 2021年1月17日(日)朝日新聞一面
阪神・淡路大震災26年 災害ボランティア根付く のべ480万人 不足の被災地も
私の執筆方法は歴史民俗というもので、文献・史資料を調べ上げ、現地を歩き、聞き取りを行う。
それで、この連載においても、北陸はいうまでもなく、三河方面、近畿、竜野あたりまで、上人の足跡を訪ねた。
神戸に入ったのは、震災から1年と1ヶ月、平成8年(1996)2月15、6日のことだった。
この時は、2月12日に山科・赤野井別院などを歩き、13・14日は本山教導研修。
15日、姫路・竜野各地を訪ね、神戸湊川公園で宿。神戸へはこの時、初めて行ったのだけれど、私にとっては、それまでの神戸は、「
にほんのうたー別れた人と(兵庫)ー」とラグビー神戸製鋼がすべての街だった。
三の宮駅に降り立ったとき、町中に火のニオイが染み込んでいた。記録にニオイは残せないが、メモには「駅員さんが親切だった」と書いてある。そこに被災から一年の、現地の人々の思いが「一言」=「親切」に込めてニオイと共に残したのだった。
翌日訪ねた、有馬温泉、名塩教行寺、蓮如池~出口光善寺、崩れた石垣、復興への萌しを秘めて春に向かおうとしている、そのような「蓮如上人伝承地」を通りすぎた、との印象だった。
ブックレット(絶版で手に入らない)を読み直してみると、
写真を24枚挿入しているが、この調査行時に撮った写真は使っていない。
神戸近辺で使用する一枚は、御文が最も残っている名塩教行寺近くの「蓮如池」だった。しかし、池は、山を切り開いての宅地造成さなかの中にコンクリート囲まれた四角い池になっており、元の景観をとどめておらず、使えなかったのである。
このブックレットはブックレットシリーズの中で、唯一絶版になっており、どんな写真を使ったかは史料価値があると思われるので、目次と共にあげておく。写真は○(所在地名で町から始まる地は、金沢教区内)。
一 布袋丸と真宗再興 ○鹿子の御影(二俣町本泉寺) ○蓮如上人絵伝ー鹿子御影、母公遺訓-(四十万町善性寺)
二 北陸門徒との出会い ○山田光教寺跡 蓮如上人腰掛け石(加賀市山田町) ○御満足の木像(珠洲市正院町高福寺)
三 最初の御文※本文
○金森御坊(守山市道西坊) ○阪神淡路大震災ボランティア(平成7年、同朋大学学生)
四 聖人一流の…
五 女人と御文
六 笹の伝承
○チマキ笹(加賀市動橋町篠生寺)
七 梅・松など
○五色の梅(木越町福千寺) ○数珠掛け・袈裟掛け松(加賀市山代温泉専光寺)
八 動物と龍女
○蛇骨(岡崎市土呂旧跡)
九 特産・名品
一〇 十字名号から六字名号へ
○鹿島の森(吉崎坊舎跡地から望む)
一一 名号の様々
○柱の名号(氷見市一刎八幡神社) ○虎斑の名号(加賀市山中町下谷道場)
一二 木像よりはえぞう…
○八万法蔵の御文(四十万町善性寺)
一三 和歌
○御筺の和歌(※刷り物-おもかげを代々の筺に残しおく 弥陀たのむ身のたよりともなれ 蓮如上人 加州尾山御坊御筺ー)
一四 由緒値を訪ねた人
○石山寺 蓮如堂(大津市) ○豊四郎の巡拝帳(※江州石山寺、江州金森御坊・道西遺跡因宗寺)
一五 蓮如忌
一六 上人の問いかけ
○親鸞聖人・蓮如上人連座御影(彦三町長徳寺) ○劇団 座・アート「れんにょさん」(平成10年3月金沢市文化ホールで上演)
おやまブックレット
『蓮如上人と伝承』1に始まるブックレットは、現在5まで刊行されている。
刊行時『蓮如上人と伝承』の頒価は300円だった。後、2001年4月1日2刷発行時に350円になった。
手頃なので、門徒会研修(12組など)終了時などに配布したり、延べ1000部近く購入したと思う。
3年後に第2号「一向一揆という物語」をお書きになった大桑さんは昨年4月14日に先立たれた。
残ってうろうろしている私の冊子が絶版?なのは、どうかなと思う。
引用した「3 最初の御文」を見ても、そんなに問題なさそうだし、何よりもこの小冊子を持って、伝承地を散策できる。
案外、身近なところに上人由緒地があり、その身近さを通して教えの導入も期待できるのではないか。
今は、集まっての聞法がしにくく、皆で由緒地を訪ねることも出来ない-
こういう、今の時こそ
先達になってくれる一冊、だと思う。
売り切れたのは2018年9月金沢大谷婦人会ひじり支部でお話したときだから、もう丸2年以上経っている。
臥龍文庫から復刻も悪くないなァーと思いながら、1年以上待ったのだけれど、何もしなけりゃー…小さな旅の道案内ーもへちまもない。
雪もやみそうだし、今日は、一般の正月じまいの二十日正月(加賀藩には25日の寺正月があって、正月じまいは5日遅い)。
一歩先へ動いてみようか…。