千石~臼ヶ峰往来~散田古墳~西荒屋―9月24日(金)
24日久しぶりに外出。9時に羽咋、14時内灘に予定があるので、聖人の道を辿ろうと思った。個々については伝説の背景、常田富士男さんの旅の原稿などで何度も訪れているのだが、近年は近くさえ行っていない。想い出たどりだ。
神子原地区から見る千石・豆の木伝承地。
神子原福善寺さんの聖人像。ご住職は羽咋工業時代の先輩教員。お互いの変わりようにオオー!から立ち話。
臼ヶ峰往来。道標〈左子浦往来〉、尼谷地蔵
子浦往来。間もなく山頂公園。
35歳の聖人は、越後に向かわれる途中の3月22日、この碑の向かい側でお休みになったところ、夢に聖徳太子が現れ能登に教えを説いてから旅立たれるよう、懇願なさったと伝わっている。
越後を望んで居られる像。能登沖地震があったあとに訪れたときは、石灯籠の上部が落ちていた(ような)記憶がある。
越後方面
聖人
臼ヶ峰太子堂
臼ヶ峰口、庄鍋集落(鉱泉)
夜中に起きている生活が続いているので、仮眠場所を探した。
臼ヶ峰から志雄に向かい、その途中の散田(金谷)古墳あたりがいいだろうと、古墳そばへ寄った。
河北潟沿い西荒屋へ。故北西先生宅へよって手を合わせてきた。この日西荒屋蛭児神社祭礼らしく、猿の子・幟が立っていた。空には鱗雲、今はもう秋。
♪見ていて下さい 遙かな父さん いわし雲飛ぶ空の下 戦争知らずに二十歳になって 嫁いで母に 母になるの(「戦争は知らない」作詩・寺山修司)のメロディーが流れていく。
夕方ー高尾からの夕日:18時
金沢二十五天神第四番 願行寺の祇園摂社(現野町八阪神社)
今朝のコスモス
野町八阪神社の歴史・文化
朝刊に次の記事があった。見るなり二十五天神巡りを調査したとき訪ねたかつての山伏寺院だと思い、記憶を辿りながら書いた書物を調べて見た。
北國新聞朝刊 2021年令和3年9月16日(木)
金沢25天神、4番願行寺に関する論・文
④願行寺がこの八阪神社である。⑤の成学寺には芭蕉句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」があり、有名。成学寺が野町一丁目なので道を挟んである元(といっても明治2年までだが)願行寺も野町一丁目だと勝手に判断し、そのように書いてきた。
「金沢の天神信仰―鎮護神から学問神へー」は2001年(平成13年)北国文華(北國新聞社刊)夏・第8号に載った。
目次を見ると、このところお書きになったものを探している鈴木大拙記念館名誉館長岡村美穂子さんが書いておられる。当時大谷大学非常勤講師だったのだ。
Hear You have "A HONGAN"が出ているかと思ったが、そこは
あるとき、「先生、本願って何ですか」と聞きますと、
ちょうど昇ってきた太陽を指して、
「ほら、美穂子さん、本願が出たぞ」とおっしゃる。
とあった。
表紙絵に懐かしさを覚えたので、見ると「羽根万象」さんだった。しかも羽根万象美術館蔵である。
願行寺の祇園摂社
八阪神社の元については、最初の論文「天神・人神・藩祖の信仰ー都市型信仰の展開私論ー」に、やや詳しく書いた。
4 願行寺の祇園摂社(野町一丁目→寺町五丁目)
山号泉尾山。現在の八阪神社。
建物は寺院の名残りを留め、怒天神らしき画像を伝える。観行院が利家の尾張時代、大峯代参を務めていた関係で、越前・越中と従いながら大峯代参を継続。
寛文五年には、山伏頭として聖護院門跡に従い大峯入峯。
天和元年門跡より山号寺号を許可され、後、本山派の山伏頭を勤める。その一方、祇園社にも奉仕。
明治二年、山伏復飾。
東第六番「世の人のために仏は願行寺つとめぬ身にもたのも敷哉」
東第六番は、金沢には33観音巡礼札所が東・西にあり、願行寺は東33観音巡礼札所第6番だった。天神・道真の本地は観音菩薩で、自ずから25天神は観音霊場に含まれる。
天神・人神・藩祖の信仰ー都市型信仰の展開試論ー
『都市の民俗・金沢』昭和59年(1984年)2月 国書刊行会刊
天神十二時の歌
「天神十二時のうた」1989年(平成元年)3月 加能民俗 10-4 No126
十二時の歌は子~亥を和歌の始めに歌い込めたものである。
例 (酉) とりのねにゆめうちさめてひとりねの そのあかつきはものうかりけり
この年、加能民俗の会会員は県内149、県外51(大学なども含む)計200人もいた。
天神・地蔵と異界 都市金沢の宗教空間
『情念と宇宙 都市民俗学へのいざないⅡ』平成元年(1989年)5月 雄山閣出版刊
心の中にあった城下の境界
『おもしろ金沢学』2003年(平成15年)8月 北國新聞社刊
誰が執筆したのか分からない形で刊行された。執筆陣は25人。私は3編書いた。
『日本宗教民俗研究』第13号―特集天神信仰と天神祭― 2003年(平成15年)12月刊
民俗研究の先駆者ー四柳嘉孝氏(1922~2002)
今日(2021年9月15日)の北陸中日新聞朝刊。私のコメントも紹介された。
四柳嘉孝先生の論著を、『日本民俗誌集成 第12巻 北陸編2 石川県 福井県』(1997年11月30日 三一書房刊 本体23,000円)で、紹介した。原著は謄写・私家版。
『日本民俗誌集成 第12巻 北陸編2 石川県 福井県』目次。
現「加能民俗の会」を立ち上げた長岡博夫氏が石川県郷土資料館(現石川県歴史博物館)に寄贈なさった長岡文庫の郷土資料を全て閲覧し、旧珠洲・鳳至(奥能登)郡、鹿島・羽咋(口能登)郡、河北・石川郡、能美・江沼郡の4ブロックから一冊ずつの民俗誌を選んだ。奥能登は最初から四柳氏の論著のどれかにしようと決めていた。
謄写で図も多い著であるが、この分野では定評のある三一書房である。見事な作図、立派な本に仕上げてくださった。
コメントに四柳(嘉孝)民俗学を見直さなければーとあるのも、このような書が知られなければならない、との思いも込めたのである。
この書を選んだ理由(解題)。この頃、私個人も最も充実した調査・執筆を行っていた頃だったような気がする。
四柳氏の亡くなられた2002年には、県の埋蔵文化財センター職員研修で、「民俗学の成果と課題―考古学との接点を求めてー」と題した講演(講義)をしている。
私は埋文の評議員をしており、この時の館長は湯尻修平氏か谷内尾晋二氏で仲が良かった。仲がいいと会議以外でも会うことがあり、なんやかんや言っている間に、講演話になっていったのだろう。その時は三一書房で書いたことが生かされている。
三一書房の方も全体の編集委員が、サトちゃん、モリちゃんと呼び合っていた高桑守史さんだったので、私に回ってきたのだった。
今朝の新聞に「民俗学者」と紹介されていたことで、その頃を急に思い出した。
今年、日本民俗学会も加能民俗の会も辞めており、遠い昔々の物語だ。
同書、「民俗誌」文献目録」〔石川県〕の2頁目。
四柳嘉孝氏の著書が目白押し。
昭和26年に「能登半島のアエノコト分布と形態ー特に鳳至郡を中心としてー」
謄写版72枚(144頁)。Aとか31とあるのは、第33回北陸3県民俗学会福井大会(平成20年・2008年8月)の共通課題「北陸の稲荷信仰」(私は「「あえのこと」「地神」のお稲荷様」と題して発表)に発表する際、「「あいのこと」「あえのこと」に見る田の神の姿」で用いたレジメ資料の番号である。
書きついでに加えると、この時アエノコトに関するほとんど全ての論・著を網羅し終えた。となると、基礎資料としてのアエノコト(アイノコト)関係著作集があればいい、というより無くてはならないものだし、文化庁主任調査官で親しくしていた大島暁雄さんに相談した。結論は、何とかするが提案者の私が作業を進めること、ということだった。その頃4年後に控えた飯田高校百周年記念誌・伝説とロマンの里データー・文作り、真宗文化調査を進めており、アエノコトに集中しているイメージがわかないままに、この話は立ち消えになった。
昭和26年(1951年)『能登半島の生活慣習研究ー特に能登島・閨及び鳳至郡三井村を中心としてー』謄写版 206枚(412頁)。活字になるのを待っているようだ。
昭和35(1960)年『能登半島年中行事』私家版91頁
昭和47(1972)年『半島能登の味』北国出版社刊
四柳先生とは、平成11(1999)年5月に、一度席を同じくする機会があり、その時「民俗についてゆっくり話したいと思っている」とおっしゃられた。
様々な民俗史・誌を伺う絶好の機会が、手の届くところにあったのだが、自分の受け皿中身が整わず、伺うことがないままに終わった。
吾木香・吾亦紅ー重陽・白露の朝
9日朝の吾木香(ワレモコウ)。書斎「臥龍文庫」前
義母の蔵書を整理していたら、(私にとっては)見慣れない人の本があった。義母は今井邦子を師とし、『明日香』の編集に携わっていた。夏期休暇などに子ども達を連れて妻の実家へ行くと、孫を可愛がりながらも、寸暇を惜しんで『明日香』編集に携わっていた義母がいた。
見慣れぬ、三ヶ島葭子の名に惹かれ『三ヶ島葭子研究』をパラパラめくると、歌集「吾木香」とあって、
葭子の処女歌集「吾木香」は大正十年二月、東雲堂から出版された。生前に上梓された只一冊の歌集である。
とある。
知識欲が動いたのは「吾木香」の字である。ワレモコウについては,学生時代、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(実際は「さらば怪傑黒頭巾」だったが)に、理屈ポク鬱陶しい老学者か何かに「しわ寄せてたばこ吸うかやワレモコウ」と詠んだ句、こころは威張っていてもワレモコウ(秋)、人生の秋ですよ…と若者をすっきりさせた話を覚えており、ワレモコウという秋を代表する何かがあるのは10代から知ってはいた。
それが、蒲のような格好をしたものだということを知ったのは、最近、すぎもとまさとの歌「吾亦紅」によってである。YOUTUBEでは,吾亦紅にトンボが止まっている秋の夕暮の絵を用いていて、歌と画像が胸を打つ。
https://www.youtube.com/watch?v=ezrjjvb4TKY
ワレモコウに吾亦紅と吾木香があるのか、といった驚きである。それを知ったら、庄司薫はワレモコウの字をどちらを用いていたのか、調べなくてはおれなくなった。
書庫『臥龍文庫』で調べると、ワレモコウを使っていた。そのページ。
その頃は,お盆近くで、式台と呼んでいる玄関にワレモコウが飾られた。秋には早いけど、アブラゼミ・ヒグラシ、ほととぎすが1日の温度変化に合わせてジャンジャン鳴きまくっている季節混乱の年だ、ワレモコウが咲いても不思議ではない。
連れ合いに、あのワレモコウどこにあった?と聞くと、あきれたように「あれはガマです。ワレモコウは ♪マッチを擦れば、オロシガフイイテ…とあまり歌うので、家にもワレモコウ咲きますよ、と部屋に飾ったでしょうー!」という。
写真を探したら出てきた。全然違う。確かに玄関先で見つけたのは、因幡の白ウサギ話の絵でよく見たガマの穂だ。
そういうことがあって、ワレモコウを知ることが出来た。
重陽の節句、白露の日の朝、本堂後ろに茗荷に囲まれて咲いているワレモコウ…!
ところで、ここに出てくる歌人達のたちの師で、『明日香』主幹・今井邦子さんは『女歌の百年』(道浦母都子・岩波新書)にどのように扱われているか、と見ると、今井さんは取り上げられず、「Ⅴ「新しい女」への目覚め―原阿佐緒・三ヶ島葭子―」とあって三ヶ島葭子が紹介され歌集「吾木香」が出ていた。
吾亦紅の視覚世界もいいが、吾木香の「香」は、白色白光・西方・秋からの呼びかけ、恵みが感じられ、得も言えぬ。
重陽の朝の草花
ワレモコウ以外にも、次の草花が咲いていた。
水引
萩
国語科の授業改善と教材の開発-郷土資料の導入ー1988(昭和63)年
原典のみが活字である文を、カテゴリー「想い出の記」として残します。
33年前。
中等教育資料 7月号 昭和63年(1988)7月 文部省
『中等教育資料』7月号 通巻539 特集 授業改善と教材の開発 国語/数学/外国語
昭和63年(1988)7月1日発行 文部省
国語科の授業改善と教材の開発
一郷土資料の導入一
一
1 はじめに-実践研究に至る経過-
現代国語・古典が国語1・IIとして総合的に取り扱われるようになり、このことの個別論や総括がなされるのに充分な時が経過した。
社会が多様化し、専門の細分化が進む中で、後期中等教育が細分化の道を歩むべきなのか、むしろ総合化なのかの論議が交わされてきたが、豊かな情操をもった国際人を育てる観点から言えば、文化そのものである言語活動を教える方向性が、文化の継承者たる生徒に対して総合化で定着したのは時宜にかなったものであったと言えよう。
そして,この方向に沿った教科書を選ぶことになるのだが、生徒がどの程度の言語能力を有しているかを知っておくことが教科書選択の一つの目安となる。また、このことは生徒が今後出会う教材に対してどの程度違和感を抱くかを知る尺度ともなる。
結論を述べれば、あえて語彙の説明をしなくても当然知っているはずだと思われる基本語について、生徒(若者の一部として)の認識は曖昧である。
話題となった例を紹介したい。
蛙が一斉に鳴いている夕暮れ時、何の声かと聞いた都会育ちの学生がいた。
また、蛍は光を放ち続けて飛ぶものと思っていた人にも出会った。これはテレビの残像を実態とみなしていた例であり、前者も効果音を、現実風景そのものの音と信じていた例である。
これらの話は都会に育つとこういうこともあるのかといった感慨ですませることも出来るが、金沢の小学生が、県立歴史博物館の体験コーナーの唐箕〈とうみ〉から出てくる米を見て、これは米ではないと言い張ったという話を聞くに及んで、これは大変なことになっていると思った。彼らは郊外で稲穂を見ており、そこには食卓に供せられる真っ白な米が入っていると考えているのである。※資料館職員・宮山博光氏談
その一方で、子供らは動植物の珍種に対しては驚くほど該博な知識を有している。
すなわち、現生徒たちは主としてマスコミの影響によって生じた知識のドーナツ化現象ともいうべき状況の中で育ったため、生活からかけ離れた知識をあるべき知識と思っているところがある。
このような実状の中で、現実から離れた古典を含む総合国語を、実のあるものとして生徒に位置づけていくにはどうしたらよいか。
生活と風土をも視野に入れた血肉となる言語能力を育てていくにはどのような教材を与えればよいか。この問いが研究を始めるに至った動機である。
II 教科書の教材配列について
総合的な力をつけるために、各教科書とも苦労して編集している様子がうかがえる。
具体的には融合単元の設定であり、古文導入部の工夫である。工夫の跡は見られるといっても、それは旧来の現代国語・古典の分け方に比較してといった程度であって、交互に配列された作品をまとめれば、やはり現代文・古文・漢文になってしまい、旧枠をほとんど出ていない。
言うまでもなく、区分けの基準は近代国家の出発点である明治期におかれ、ここに画然とした時代区分を設ける以上、現代文とその他はそれぞれのグループを主張してしまう。そして一年生なら一年生の理解力に見合うようにこれらが交互に配列され、各分野の知識量が増えることはあっても、それぞれがつながりを持って育っていくというところにまではなかなかなっていかない。
自分の営んでいる生活を通して容易に入っていくことの出来る作品群を現代文と見なすなら、Ⅰに記したことからも推測出来るように、現生徒にとっての現代文は高度成長期以降のものである。
教科書の多くを占めている戦前育ちの作家による作品は、既に別の意味での擬古文になっている。というのは、一つは既に述べた基本語彙にかかわる点、もう一つは封建的身分制の残存による影が、作品の背後に見え隠れしているという点による。
換言すれば、言葉遣いこそ現代とほとんど変わらないが、作品を産み出す背景である生産基盤・社会生活を含む風土が、生徒たちには遠い古文世界のそれであるということである。
こうしてみると、明治で二極に分ける在り方は、そろそろ問い直されなければならない時期に来ているのではないだろうか。
より緻密な時代区分を行い、それぞれを有機的につないでいく作業がなされた時、総合はより内実を伴うものになると思われる。
そのためには教科書の再構築から始めなければならず、IVの古文導入実践方法などとも絡めて検討しなければならない。
Ⅲ 古典(古文)導入について
韻文などの古文的なものを含んでいるにもかかわらず、現代文に対しては無自覚であり、一方古文に対しては必要以上に身構えてしまう生徒が多い。
古文導入では何よりも抵抗感を取り除いてやることが大切である。
その意味では、導入部にユーモラスな「ちごのそら寝」や近代作家によって新たな生命を吹き込まれた「絵仏師良秀」などのなじみ易い説話を採用している教科書が多く、配慮がなされている。
多く扱われている「ちごのそら寝」では、古文には簡潔に状況と心理を描いたものがあることを教え、子供らしい素直な気持ちが活写されていることが理解出来れば充分であろう。さらに生徒がいにしえのちごを友とし、慌ただしい日々にあって忘れかけている心を思い起こすことが出来ればそれに越したことはない。またそれだけの強さを持っている作品である。
ただ生徒が「家が貧しくてちごに出され、かいもちぐらいのものでもあせって食べたがっている」などと、感動を持たないままに得心してしまわないように注意する必要がある。 これは比較的知識を有する生徒の陥り易いとらえ方で、教える側としては、当時のちごは名門の出であること、宵のつれづれとあっても八講会などの行事の続く折の宵であって、稲穂の実りを意味するかいもちは予祝行事か何かでないと口に出来ない珍しい食べ物であることぐらいは心に留めておかなければならない。それを踏まえないとちごの切実さがぼやけてしまう。
その点、本校生徒の一部の家では、アエノコト(田の神さま)や彼岸などでかいもちを特別に作る風が見られ、指導し易い。
だが、比叡の厳しい風土を実感として味わえないために、その人々の暖かい交流はぼやけてしまう。
作品の背景を充分に知り尽くすことは重要であろうが、導入部で古文を知識の彼方に追いやらないためには、この作品を扱う前の現代文に少年期にかかわるエッセーなどを採り上げ、生徒に時代を越えた共感まで味わわせたいものである。
総合国語の重要性と生徒の言語能力の隔たりそれを埋めるより効果的な方法として、地域に根ざした教材を開発し新たな編成を試みた。
Ⅳ 古文導入における自主教材
古文であっても、そこに描かれている舞台が生活の場であるなら、見知らぬ土地の現代文以上に身近な作品に感じられる。
本校生徒の通学区域が登場する古文には、出雲風土記・万葉集・梁塵秘抄・今昔物語集・撰集抄・平家物語・源平盛衰記・説話「をぐり」・芭蕉の句(句碑が所々に存在する)・数種類の近世紀行文・近世歌謡(祭礼時に歌われている)などがある。
これらの中には伝説として語り継がれているものも多く、原文は知らなくとも生徒には日常的な親しみがある。
また方言の中には長い生命を持つ語があり、特に音便を教える例に取り挙げるなら、古語の世界に抵抗なしに入っていけるものと思われる。
一方、近代以降では山口誓子・水原秋桜子・村上元三・半村良・森崎和江・高浜虚子・宮本常一といった作家による作品が挙げられる。
以上の作品からは、様々な組み合わせが考えられるが、一つの流れに沿って次のような導入教材を作り指導してみた。
簡単な解説、指導上の留意点を記しておく。配当時間は6時間である。
A 山口誓子「能登」(「天狼」のち「山口誓子全集」第5巻所収) 2時間
(解説) 誓子の曽祖父は本校のある珠洲市の若山町出身。誓子は祖父に育てられ、祖父の思い出を多く文章にしている。
それらの中でもこの作品は、祖父が長年の念願が叶い、能登を訪れることが出来た喜びを滋味盗れる文章で綴ったものである。曽祖父の家は能登に流された平大納言時忠筋にあたるといわれている旧家で、誓子自身もこのことを誇りとした文を表わしている。
(留意点) 祖父の話を通して、まだ見ぬ能登への憧れ、祖父に対する愛情が抑えた筆の中にも滲み出ているのを味わう。後年、筆者が当地へ訪れた折の句「その墓に(時忠の墓…筆者注)手触れてかなし星月夜」「ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」や、秋桜子の「章魚さげし人夕暮れの岩つたふ」・角川源義・地元作家の佳句を参考に挙げる。俳句については親しみ易い表現形式であることを触れる程度に留めておく。
B 「能登名跡志」(太田頼資著、18世紀後半成立) 1時間30分
(解説) 近世の紀行文。天下の書府といわれた加賀藩からは多くの文人が輩出した。著者もその一人。Aの舞台、若山から外浦にかけての紀行を読む。
(留意点) 簡潔な文の中に記すべきことは記している点を味わい、現代文との違いを老える。これはさほど大きなものでなく、歴史的仮名遣い、用言の活用、助詞・助動詞に違いがあることを理解させる。
文法については今後様々な作品を通して学んでいくとの指摘に留め、歴史的仮名遣いをやや詳しく扱う。
C 「平家物語」「源平盛衰記」の時忠配流の部分 1時間30分、感想1時間
(解説) 平家ではさりげなく触れられていることが、盛衰記では詳しく述べられており、哀調を帯びた名文となっている。
伝時忠の墓付近に誓子の記した「白波の打ち驚うかす岩の上に寝らえで松の幾夜経ぬらん」の碑が建つが、出典が盛衰記にあり、こう歌わざるを得なかった時忠の気持に触れることが出来るであろう。いうまでもなくA・Bにかかわる部分である。
(留意点) 読み味わうだけで充分である。参考として、千載集・山家集に載る時忠の和歌を挙げ、当時の教養人には作歌が必須の条件であったことぐらいは触れておいてもよいかも知れない。
ここまで扱ったあとで、Aの秋桜子の句における文語的なところを取り上げ、現代にもこういう形で文語が息づいていることにも留意させ、全体の感想を書く。
以上が、導入教材の一試みである。本校生徒の平均学力は県下高校の中程よりやや上で、学力幅は広い。この導入はやや高度かと危惧されたが、親しみ易いこともあって関心を示した。親しみは持っていても現地を知らない生徒も多く、スライドを使うなりの工夫はまだまだ残されている。
ただ、長い冬をくぐり抜け、陽光のさわやかな時期に扱う教材としては、寂しいのではないかといった思いは残る。
しかし、青い海と緑に囲まれた季節と風土を知っているものにとって、能登の紹介のされ方が、いつもサイハテであることの違和感を生徒自身が体で感じていることもあり、文化風土が実は古くから文人たちによって作られてきた面もあるのだということに、それとなく気づいてくれればという期待もある。
地域からの教材活用を導入部で行ってみた。さらに三年のまとめの段階で、それまで学んだ知識を総合化する営みも問うていかなければならないのではないか,とも考えている。 (文責 教諭 西山郷史)
石川県立飯田高等学校の実践研究について
石川県能登地方は郷土にかかる文学教材が豊かである。これは、実践研究者の努力があって幅広く発掘されているからであることは言うまでもない。
古典も現代文も研究調査が行き届いていることが、この実践研究からうかがうことができよう。このような教材開発と緻密な教材研究によって初めて総合国語の名にふさわしい有機的な教材の組み合わせが可能となるのである。
古文導入教材として現代文が効果的に組み合わせられ、文学における風土性が作品世界のリアリティを感じさせ、古典への親しみや学習意欲を喚起するものとなっている。
地域の独自性を深くとらえればとらえるほど、それが一層深まるのである。
(教科調査官 北川茂治)
執筆に至る経過
羽咋工業で3年、宇出津で4年、飯田高校9年目の1987(昭和62)年、県教委国語科指導主事の高沢幹夫先生から、新指導要領移行に向けての説明・研究会が7月2日・3日、鬼怒川温泉で行われるので、県代表として行かないかとの話が舞い込んだ。
今から思うと、その時、飯田高校に国語教師が6人いて年齢では上から4番目、県教委の研究会では羽咋工業時代に「和歌周辺における一つの論理」を発表し、同校の国語科教師4人で共同研究をしたことがあったけれど、その代表は先輩教師であり、どうして私に白羽の矢が立ったのだろうか…。鬼怒川での研究発表会場で高沢先生に疑問をぶつけてみたが、返答は能登地区から長い間代表が出ていないから、とおっしゃたような気がする。
実は、この話が入ってくる前に、大谷大学の国史学会では、地方で活躍している卒業生の講演という行事があるらしく、大学に残って教員をしていた先輩の豊島修さんの依頼で1日に話すことをすでに引き受けていた。
その日に、鬼怒川では、新指導要領に関わった委員のひとり、確か、お茶の水女子大教員の方の話があるのだが、開会時間に間に合わなさそうだったので、高沢先生にその旨伝え、事情が事情なので問題ないということで、参加したはずだった。
この会議が全国高校国語会議だったのか、他教科、あるいは東日本レベルだったのかの記憶さえないのに、途中から聞いたはずの講義の場面は覚えている。
というのも、午前中の京都では、豊島さんが「新興宗教」は差別語だから使わないようにと言ってきたので、そのような話はしない、と言っていて、午後の関東の講義には、「新興宗教」が何度も出てきたのである。
平安仏教も平安時代には「新興宗教」。こだわりすぎだと思ったが、何度も教員の差別語事件を起こしてきた大学では、敏感になるのは致しかたなかったのだろう。
それで、翌日はギュウギュウ詰めの会場で、2名ほどによる国語科教育の研究発表が行われ、各県の代表者が5分ぐらい新指導要領と関連、教材取り組みなどを次々に発表した。私は国語科教材における差別文・差別語-たとえば「こころ」の兄は「女の腐ったような…」と地域を舞台とした作品を取り上げ古文と現代文の融合を計る実践の2点について発表した。差別文・差別語の方は、組合の教研でも発表しており、(教研レポートが全国に行くのはいわゆる日教組=小・中教員の発表が中心で、高教組から選ばれることはまずなかったし、その発表内容も授業のやり方が中心だった)こちらの方が中身が濃いはずだった。
当時の手帳を見ると、7日に県の国語教育研究会があり、全国大会の様子を報告している。
そして、翌年、卒業式か入学式の準備で体育館にいたとき、校長が文部相の北川調査官から電話がかかっていると呼びにこられたので、何だろうと思いながら、校長室で電話を受け取った。
文部省の機関誌に去年発表した話を書いて欲しい。差別の方ではなく、後半の教材論を…と言うことだった。
翌年、その機関誌に載ったのがここに取り上げた文である。
宇出津以降、3度ほど異動打診があったが、詳しい内容は聞かずに奥能登・飯田の地に在って、能登は文化の先端地だと語り・書き続けてきたが、これも、その一つだったのだなぁー、と、昔を思い出しながら、あらためて感慨に浸っている。
1988(昭和63)年
この年 1、2年生担任。顧問・男子軟式テニス部北信越団体3位。。
執筆関係「想い出」サーカー部顧問(当時)『おもいで(サッカー部マネージャ・故板谷みどりさん』)、「日取りと行事」『三崎町寺家 二十三夜踊り』(三崎公民館)、「天神・地蔵と異界」(『情念と宇宙』雄山閣出版)、「能登の宗教風土と太鼓」(『たいころじー』創刊号)、「蓮如」伝承と北陸の真宗民俗」「久乃木村豊四郎の巡拝」「蓮如の言葉と和歌」など『蓮如さんー門徒の語る蓮如上人伝承ー』(加能民俗の会編著、橋本確文堂)、「「詣」に集う」(CERTAIN vol3、橋本確文堂)。
TV出演2回。
この時40~41歳。
それから3年後に教員を退職し、住職を継いだのだから、分からないものだ。。
その後
高沢幹夫先生
高沢先生は、指導主事の後、羽咋工業高校・七尾高校の校長を歴任された。工業と羽咋は人事交流がショッチュウあり、羽咋の同窓生達が両校で教育職にあった。その関係で羽工が初任の私などが可愛がられたのだと思う。
そして、6月頃から西山家の姻戚関係などを調べていて、父の従兄弟(故・朝倉一景)のところに、先生のオバが嫁いでいたことを知った。
故一景さんの伯母が当寺に嫁いでおり、戦死した父を一景さん兄妹は知らないような育ちだったので、伯母を頼って、兄妹で家に遊びに来ておられた。
先生も兄妹の母の家が隣で、そこで二人がいたため、子どもの頃、よく遊んだという。
人生には数々のドラマがあるが、このことを知った頃は、それぞれの記憶がちょっと交錯し合った程度で、もう酒を飲みながら想い出を語り合うこともできない年になっている。
句集『邑知潟』高沢木偶(幹夫)平成8年
慈悲心鳥蓮如の森を鳴き渡る
お取越紙漉きセンター休みなる
氷雨降る窓辺に仏具磨きけり
一如ー境界(論)を超えて
28日の親鸞聖人ご命日には、鐘をついている。
当寺は町の歓楽街とでも言うべき所にあるので、早朝は休んで居られる方が多い。
という理由で、7時頃に鐘をつく。
この地は、若山荘(1143~)飯田郷の西山地域にあり、西勝寺の山号・臥龍山も阿弥陀山・春日山・飯田城山の山続きによる。
飯田郷と直郷の境界に元飯田郷総道場があるのだが、
鐘を撞きながら、朝日が今日は、ちょっと南寄りの東から登っていることを実感する。
次のご命日は、お彼岸の真東からを過ぎ、ほんのちょっと北寄りから登るのだ。
そこで、レイラインの境界を越えるとか、
境界の象徴・キツネを最近見なくなったなーとか、鐘撞き堂から見えるところの境界に狐を祀った「森のミョウドウ」という祠があったが、どうなっているのだろうとか、
さらに鈴木大拙・岡本美穂子氏の Here you have a Hongan =太陽
のエピソード等を連想しながら、
二元論でつい考えてしまう事に対する懺悔ー究極の境界ー生死さえもない一如世界を思った。
「あるがまま」「自然法爾」には、境界はないはずなどと考えている日々に、書斎で全く読んだ記憶の無い『境界の日本史』を見つけた。
『境界の日本史』山川出版社 1997年刊
パラパラとめくっていると、かつての知人達が書いている文が出てきておどろいた。
前論文は石川県立歴史博物館学員員さん達(今は、全員退職なさっている)。
後者の小嶋さんは、当時、埋文センター。後、金沢学院大教授を経て現石川県考古学研究会会長さんの文である。
小嶋氏とは埋文の委員同士で、コロナ騒ぎがなければ、あと1、2回会えるかも知れないが、おそらく、このまま会わずに過ぎていくのだろう。
亡き人は無量の光明となって至るところで無明のこころを照らしてくれるが、
かつての知り合いも、そう変わらぬ光となって、ボヤーッと蘇ってくる。
キツネ・稲荷社・境界に在るもの
森のミョウドウ近くの家にある稲荷神画像
あえのことの田の神様(輪島市・実は稲荷神)
境界の屋敷神(稲荷)、家もだいぶ前に移り、小山になっている(輪島市)。
熊谷町稲荷神社秋祭り、昭和10年頃。熊谷町の1番地は川の上流・岩坂ダムの最奥地にある
橋本澄夫さん
『北陸の古代史』昭和49年11月27日 中日新聞北陸本社刊
当時橋本氏は県立中央高校教諭。題字:三上次男氏。
おくやみ 橋本澄夫さん
北國新聞朝刊:8月26日(木)
7月20日にお亡くなりになっていたのだ。
能登のご出身、もと高校教師などから、橋本さんのすごい専門性を意識せずに、おつきあいさせていただいた。
『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり 能登編』北國新聞社 1991年(平成3)10月。
当時、石川県立埋蔵文化財センター所長。七尾・金沢泉丘高教諭、県立郷土資料館、県教委文化財保護課勤務などを経て、昭和60年からセンター所長。
あとがきから
高校生を基準とし、実際に高校生に読み切ってもらえる本、というのが私の何年か前からの思いであった。
小説の類いを除けば、考古学や埋蔵文化財の知識を、対話形式で記述した書物は全国的にもあまり例がないと思っている。
その意味で、本書は一つの「実験的啓蒙書」だと考えている。
とあるように、橋本さんは高校二年生の甥の順一君と能登の遺跡めぐりのドライブをする設定で、構成されている。
知りたいあらゆることを、順一君が質問してくれて、いつも手元に置いておきたい本になっている。
『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり 金沢編』1993年(平成5)12月。
橋本さんには30代から可愛がってもらったが、このシリーズによって、実際にお会いした日々以上の対話があり、親しみを感じていた。
『市民の考古学-5 倭国大乱と日本海』甘粕健編 2008年(平成20)同成社刊。
県埋文センター理事・評議員・監事の発掘調査現地視察の折、橋本さんがお読み下さい、と視察バスの中でお配りになった本。エモイエズー格好良かった。
『能登のくに-半島の風土と歴史ー』北國新聞社 2003年(平成15)7月7日:能登空港開港日刊
「はじめに」の「海を結ぶ文化」フォーラム写真、右から3人目が橋本澄夫さん。
1991年10月22日 県埋文運営委員・地区委員などの研修。福井県朝倉氏遺跡資料館
前列向かって2人目、赤いネクタイ姿が橋本さん。その前の一番左が私。丁度30年前、この年の3月に、私は教員を退職している。
橋本さんに可愛がってもらったひとりとして、「おくやみ」欄の奥にある御生涯の一コマを記録させていただいた。(埋文評議員は今年度が最終年度)。
語り継がなければならない。
「おくやみ」の北島俊朗さんについては前のブログ。
この時が、橋本さんとお会いした最後となった。
多々良・飯林山福正寺(さん)
盆の何となく慌ただしい日々が、百日紅、蝉の鳴き声(アブラゼミに、ヒグラシの鳴き声が混じり合う)と共に過ぎゆこうとしてる23日、
谷内正遠さんの御実家(津幡町)へ、お参りに行ってきた。
その帰り、叔父の姻戚、多々良福正寺前ご住職がご逝去なさったとの報が入った。
満89歳の御生涯。親鸞聖人と同年齢を歩まれたのだ。
今朝(24日)、改めて多々良へお弔いに窺った。
なにか、書いた記憶があるので、その本を探し出すと、平成6年(1994年)に一文書かせていただいていた。
蓮如上人と多々良福正寺
『五百年の歴史を今に学ぶ 法統の響き 多々良の坊 飯林山福正寺』
編集:中瀬精一氏 平成6年(1994)6月4日発行
30日追記
いろいろな記憶が蘇る中で、昔、合鹿椀のすごい書籍をもらったことを思い出した。
書斎を探すと見つかった。日本の古本屋で探しても登録さえされていない本で、しかも「荒川浩和」氏のサインまで入っている。
上記の文を書いた、そのお礼に恵与くださったのだろう(この頃のことは何も覚えていない、というか記憶がドンドン去りつつある)。
古書店で購入。2018年8月27日刊