中瀬精一著『百姓覚えた者はない』【知人】【能登町】

序文を書かせていただいた『百姓覚えた者はない』の書評は
アクタス」の9月号に載った。


時の流れの早さを思う。
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この表紙の子供を背負った母親。
ほぼ同じアングルの写真が表紙に用いられている本がある。 
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今村充夫著『加賀能登の年中行事』

この2冊の表紙の流れが実に面白い。
見たとおり『百姓…』が先で、あとの本が時間的にあと、。
母親の背に負われた子が、次のシーンでは背から落ちそうだ。
この表紙を見る度、あっ!と声が出てしまう。
落ちる…!
でも、しっかり背にくくっているから
安心しての深いお辞儀なのだろう。



『百姓覚えた者はない』に取り上げられているのは次のような言葉。
筆者は古諺<こげん>俗語とおっしゃている。


「雪荒れ7日」
「冬の空と牛の睾丸<きんたま>は黒がよい」
「夏樏<かんじき>に冬馬鍬<まんぐぁ>」
「雪道と鱈汁<たらじる>は後がよい」
「冬の口は瓢<ふくべ>もいらぬ」
「朝虹を見たら川渡りするな」
「早稲の穂型ができると蜩<ひぐらし>が鳴く」
「後生はめんめ」
阿闍梨<あじゃり>が死んでも寺絶えん」
阿弥陀経とずべる道は早いがよい」
「おらの貰った日」
「この世(現世)に要る者はあの世(未来)にも要る」
(以上一部 おらの貰った日)
「馬鹿は世を持つ世帯持つ」
「従兄弟と犬の糞は何処にでもある」
「世にほこ(おご)ればあたたき(鏡もち)の皮をむく」
「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」
「姑の十八と盆の窪はみたことがない」
「貧乏人に子があり山柿に種がある」
「男には家を建てさせ、女には子を産ませろ」
「ホッとしたなら死喃<しのう>どどに」
「持たぬ苦は止み易い」
「白米の市は二度立たぬ」
「怠くらの節句働き、山椒の働きの真似ならぬ」
「跛<びっこ>もヨテ(得手)引く」
「あしめと褌<ふんどし>は向こうから外れる」
「見んと知らぬが極楽や」
「女房と縞<しま>は好きずき」
「世帯嫌いの奉公好き」
「ダラ(馬鹿)と煙は横座へゆく(わらべ歌)」
「昔の例<ため>しごとは今の喋<しゃべ>りごと」
「『したじ』(汁)は旨うても『ご』(具)に替えん」
「塩したものと女には余りものはない」
「ひとり息子は仇に向かう」
「木っ端も味噌で食う」
「貧乏しょうとて気ァ長い 痩せた馬てて毛ァ長い」
「楽は楽の味知らん」
(以上二部 見んと知らぬが極楽や)
「三十過ぎての男の意見、彼岸過ぎての麦の肥」
「卯辰の雨」
「おやっ様の山と貧乏人の髭は何ともなしに生える」
「雀の巣も苦でたまる(出来る)」
「百姓覚えた者はない」
「でかけりゃでかい風が吹く」
「田んぼほど伊達<だて>こく(化粧する)嬶<かかあ>ほしい」
「西風と雇人<やといど>は日一杯」
「死んでゆく者には田植えも山のくちもない」
越中夕立ち能登ひでり」
「只手を措くな」
蚯蚓<みみず>の心配」
「銭取り病か死に病か」
「照った揚げ句は降る、降った揚げ句は照り」
(以上三部 百姓覚えた者はない)



当意即妙の言葉が生活に生きており、それは円滑な共同体の日々に欠かせないものだった。
その言葉にまつわる出来事、蘊蓄(うんちく)、
それらが楽しげに綴られている。もちろん 現代に相応しくない語には配慮がなされている。
 

それにしても、同じ能登に住みながら、
知らない譬えの多いことにあらためて驚かされる。
漢字さえ読めない言葉がゴロゴロ転がっているのだ。


それはそれとして、この時、次のように書かせていただいた。
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序文「優れた語り部の尊い一書」(PDF)
中瀬さんの序文…偉い。