国語科の授業改善と教材の開発-郷土資料の導入ー1988(昭和63)年

原典のみが活字である文を、カテゴリー「想い出の記」として残します。

33年前。

 

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中等教育資料 7月号 昭和63年(1988)7月 文部省

中等教育資料』7月号 通巻539 特集 授業改善と教材の開発 国語/数学/外国語
  昭和63年(1988)7月1日発行 文部省
 

国語科の授業改善と教材の開発
一郷土資料の導入一

1 はじめに-実践研究に至る経過-

 現代国語・古典が国語1・IIとして総合的に取り扱われるようになり、このことの個別論や総括がなされるのに充分な時が経過した。
 社会が多様化し、専門の細分化が進む中で、後期中等教育が細分化の道を歩むべきなのか、むしろ総合化なのかの論議が交わされてきたが、豊かな情操をもった国際人を育てる観点から言えば、文化そのものである言語活動を教える方向性が、文化の継承者たる生徒に対して総合化で定着したのは時宜にかなったものであったと言えよう。
 そして,この方向に沿った教科書を選ぶことになるのだが、生徒がどの程度の言語能力を有しているかを知っておくことが教科書選択の一つの目安となる。また、このことは生徒が今後出会う教材に対してどの程度違和感を抱くかを知る尺度ともなる。

 結論を述べれば、あえて語彙の説明をしなくても当然知っているはずだと思われる基本語について、生徒(若者の一部として)の認識は曖昧である。
 話題となった例を紹介したい。
 蛙が一斉に鳴いている夕暮れ時、何の声かと聞いた都会育ちの学生がいた。
 また、蛍は光を放ち続けて飛ぶものと思っていた人にも出会った。これはテレビの残像を実態とみなしていた例であり、前者も効果音を、現実風景そのものの音と信じていた例である。
 これらの話は都会に育つとこういうこともあるのかといった感慨ですませることも出来るが、金沢の小学生が、県立歴史博物館の体験コーナーの唐箕〈とうみ〉から出てくる米を見て、これは米ではないと言い張ったという話を聞くに及んで、これは大変なことになっていると思った。彼らは郊外で稲穂を見ており、そこには食卓に供せられる真っ白な米が入っていると考えているのである。※資料館職員・宮山博光氏談
 その一方で、子供らは動植物の珍種に対しては驚くほど該博な知識を有している。
すなわち、現生徒たちは主としてマスコミの影響によって生じた知識のドーナツ化現象ともいうべき状況の中で育ったため、生活からかけ離れた知識をあるべき知識と思っているところがある。

 このような実状の中で、現実から離れた古典を含む総合国語を、実のあるものとして生徒に位置づけていくにはどうしたらよいか。
 生活と風土をも視野に入れた血肉となる言語能力を育てていくにはどのような教材を与えればよいか。この問いが研究を始めるに至った動機である。

 

II 教科書の教材配列について

 総合的な力をつけるために、各教科書とも苦労して編集している様子がうかがえる。
 具体的には融合単元の設定であり、古文導入部の工夫である。工夫の跡は見られるといっても、それは旧来の現代国語・古典の分け方に比較してといった程度であって、交互に配列された作品をまとめれば、やはり現代文・古文・漢文になってしまい、旧枠をほとんど出ていない。
 言うまでもなく、区分けの基準は近代国家の出発点である明治期におかれ、ここに画然とした時代区分を設ける以上、現代文とその他はそれぞれのグループを主張してしまう。そして一年生なら一年生の理解力に見合うようにこれらが交互に配列され、各分野の知識量が増えることはあっても、それぞれがつながりを持って育っていくというところにまではなかなかなっていかない。
 自分の営んでいる生活を通して容易に入っていくことの出来る作品群を現代文と見なすなら、Ⅰに記したことからも推測出来るように、現生徒にとっての現代文は高度成長期以降のものである。
 教科書の多くを占めている戦前育ちの作家による作品は、既に別の意味での擬古文になっている。というのは、一つは既に述べた基本語彙にかかわる点、もう一つは封建的身分制の残存による影が、作品の背後に見え隠れしているという点による。
 換言すれば、言葉遣いこそ現代とほとんど変わらないが、作品を産み出す背景である生産基盤・社会生活を含む風土が、生徒たちには遠い古文世界のそれであるということである。
 こうしてみると、明治で二極に分ける在り方は、そろそろ問い直されなければならない時期に来ているのではないだろうか。
 より緻密な時代区分を行い、それぞれを有機的につないでいく作業がなされた時、総合はより内実を伴うものになると思われる。
 そのためには教科書の再構築から始めなければならず、IVの古文導入実践方法などとも絡めて検討しなければならない。

 

Ⅲ 古典(古文)導入について

 韻文などの古文的なものを含んでいるにもかかわらず、現代文に対しては無自覚であり、一方古文に対しては必要以上に身構えてしまう生徒が多い。
 古文導入では何よりも抵抗感を取り除いてやることが大切である。
 その意味では、導入部にユーモラスな「ちごのそら寝」や近代作家によって新たな生命を吹き込まれた「絵仏師良秀」などのなじみ易い説話を採用している教科書が多く、配慮がなされている。
 多く扱われている「ちごのそら寝」では、古文には簡潔に状況と心理を描いたものがあることを教え、子供らしい素直な気持ちが活写されていることが理解出来れば充分であろう。さらに生徒がいにしえのちごを友とし、慌ただしい日々にあって忘れかけている心を思い起こすことが出来ればそれに越したことはない。またそれだけの強さを持っている作品である。
 ただ生徒が「家が貧しくてちごに出され、かいもちぐらいのものでもあせって食べたがっている」などと、感動を持たないままに得心してしまわないように注意する必要がある。 これは比較的知識を有する生徒の陥り易いとらえ方で、教える側としては、当時のちごは名門の出であること、宵のつれづれとあっても八講会などの行事の続く折の宵であって、稲穂の実りを意味するかいもちは予祝行事か何かでないと口に出来ない珍しい食べ物であることぐらいは心に留めておかなければならない。それを踏まえないとちごの切実さがぼやけてしまう。
 その点、本校生徒の一部の家では、アエノコト(田の神さま)や彼岸などでかいもちを特別に作る風が見られ、指導し易い。
 だが、比叡の厳しい風土を実感として味わえないために、その人々の暖かい交流はぼやけてしまう。
 作品の背景を充分に知り尽くすことは重要であろうが、導入部で古文を知識の彼方に追いやらないためには、この作品を扱う前の現代文に少年期にかかわるエッセーなどを採り上げ、生徒に時代を越えた共感まで味わわせたいものである。
 総合国語の重要性と生徒の言語能力の隔たりそれを埋めるより効果的な方法として、地域に根ざした教材を開発し新たな編成を試みた。

 

Ⅳ 古文導入における自主教材

 古文であっても、そこに描かれている舞台が生活の場であるなら、見知らぬ土地の現代文以上に身近な作品に感じられる。
 本校生徒の通学区域が登場する古文には、出雲風土記万葉集梁塵秘抄今昔物語集・撰集抄・平家物語源平盛衰記・説話「をぐり」・芭蕉の句(句碑が所々に存在する)・数種類の近世紀行文・近世歌謡(祭礼時に歌われている)などがある。
 これらの中には伝説として語り継がれているものも多く、原文は知らなくとも生徒には日常的な親しみがある。
 また方言の中には長い生命を持つ語があり、特に音便を教える例に取り挙げるなら、古語の世界に抵抗なしに入っていけるものと思われる。
 一方、近代以降では山口誓子水原秋桜子村上元三半村良森崎和江高浜虚子宮本常一といった作家による作品が挙げられる。
 以上の作品からは、様々な組み合わせが考えられるが、一つの流れに沿って次のような導入教材を作り指導してみた。
 簡単な解説、指導上の留意点を記しておく。配当時間は6時間である。

 A 山口誓子能登(「天狼」のち「山口誓子全集」第5巻所収) 2時間

(解説) 誓子の曽祖父は本校のある珠洲市の若山町出身。誓子は祖父に育てられ、祖父の思い出を多く文章にしている。
 それらの中でもこの作品は、祖父が長年の念願が叶い、能登を訪れることが出来た喜びを滋味盗れる文章で綴ったものである。曽祖父の家は能登に流された平大納言時忠筋にあたるといわれている旧家で、誓子自身もこのことを誇りとした文を表わしている。
(留意点) 祖父の話を通して、まだ見ぬ能登への憧れ、祖父に対する愛情が抑えた筆の中にも滲み出ているのを味わう。後年、筆者が当地へ訪れた折の句「その墓に(時忠の墓…筆者注)手触れてかなし星月夜」「ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」や、秋桜子の「章魚さげし人夕暮れの岩つたふ」・角川源義・地元作家の佳句を参考に挙げる。俳句については親しみ易い表現形式であることを触れる程度に留めておく。

 B 「能登名跡志」(太田頼資著、18世紀後半成立) 1時間30分

(解説) 近世の紀行文。天下の書府といわれた加賀藩からは多くの文人が輩出した。著者もその一人。Aの舞台、若山から外浦にかけての紀行を読む。
(留意点) 簡潔な文の中に記すべきことは記している点を味わい、現代文との違いを老える。これはさほど大きなものでなく、歴史的仮名遣い、用言の活用、助詞・助動詞に違いがあることを理解させる。
 文法については今後様々な作品を通して学んでいくとの指摘に留め、歴史的仮名遣いをやや詳しく扱う。

 C 「平家物語」「源平盛衰記の時忠配流の部分 1時間30分、感想1時間

(解説) 平家ではさりげなく触れられていることが、盛衰記では詳しく述べられており、哀調を帯びた名文となっている。
 伝時忠の墓付近に誓子の記した「白波の打ち驚うかす岩の上に寝らえで松の幾夜経ぬらん」の碑が建つが、出典が盛衰記にあり、こう歌わざるを得なかった時忠の気持に触れることが出来るであろう。いうまでもなくA・Bにかかわる部分である。
(留意点) 読み味わうだけで充分である。参考として、千載集・山家集に載る時忠の和歌を挙げ、当時の教養人には作歌が必須の条件であったことぐらいは触れておいてもよいかも知れない。
 ここまで扱ったあとで、Aの秋桜子の句における文語的なところを取り上げ、現代にもこういう形で文語が息づいていることにも留意させ、全体の感想を書く。

 以上が、導入教材の一試みである。本校生徒の平均学力は県下高校の中程よりやや上で、学力幅は広い。この導入はやや高度かと危惧されたが、親しみ易いこともあって関心を示した。親しみは持っていても現地を知らない生徒も多く、スライドを使うなりの工夫はまだまだ残されている。
 ただ、長い冬をくぐり抜け、陽光のさわやかな時期に扱う教材としては、寂しいのではないかといった思いは残る。
 しかし、青い海と緑に囲まれた季節と風土を知っているものにとって、能登の紹介のされ方が、いつもサイハテであることの違和感を生徒自身が体で感じていることもあり、文化風土が実は古くから文人たちによって作られてきた面もあるのだということに、それとなく気づいてくれればという期待もある。

 地域からの教材活用を導入部で行ってみた。さらに三年のまとめの段階で、それまで学んだ知識を総合化する営みも問うていかなければならないのではないか,とも考えている。                         (文責 教諭 西山郷史)

 

石川県立飯田高等学校の実践研究について

 石川県能登地方は郷土にかかる文学教材が豊かである。これは、実践研究者の努力があって幅広く発掘されているからであることは言うまでもない。
 古典も現代文も研究調査が行き届いていることが、この実践研究からうかがうことができよう。このような教材開発と緻密な教材研究によって初めて総合国語の名にふさわしい有機的な教材の組み合わせが可能となるのである。
 古文導入教材として現代文が効果的に組み合わせられ、文学における風土性が作品世界のリアリティを感じさせ、古典への親しみや学習意欲を喚起するものとなっている。
 地域の独自性を深くとらえればとらえるほど、それが一層深まるのである。
                           (教科調査官 北川茂治)

 

執筆に至る経過

羽咋工業で3年、宇出津で4年、飯田高校9年目の1987(昭和62)年、県教委国語科指導主事の高沢幹夫先生から、新指導要領移行に向けての説明・研究会が7月2日・3日、鬼怒川温泉で行われるので、県代表として行かないかとの話が舞い込んだ。

 今から思うと、その時、飯田高校に国語教師が6人いて年齢では上から4番目、県教委の研究会では羽咋工業時代に「和歌周辺における一つの論理」を発表し、同校の国語科教師4人で共同研究をしたことがあったけれど、その代表は先輩教師であり、どうして私に白羽の矢が立ったのだろうか…。鬼怒川での研究発表会場で高沢先生に疑問をぶつけてみたが、返答は能登地区から長い間代表が出ていないから、とおっしゃたような気がする。

 実は、この話が入ってくる前に、大谷大学国史学会では、地方で活躍している卒業生の講演という行事があるらしく、大学に残って教員をしていた先輩の豊島修さんの依頼で1日に話すことをすでに引き受けていた。
 その日に、鬼怒川では、新指導要領に関わった委員のひとり、確か、お茶の水女子大教員の方の話があるのだが、開会時間に間に合わなさそうだったので、高沢先生にその旨伝え、事情が事情なので問題ないということで、参加したはずだった。
 この会議が全国高校国語会議だったのか、他教科、あるいは東日本レベルだったのかの記憶さえないのに、途中から聞いたはずの講義の場面は覚えている。
 というのも、午前中の京都では、豊島さんが「新興宗教」は差別語だから使わないようにと言ってきたので、そのような話はしない、と言っていて、午後の関東の講義には、「新興宗教」が何度も出てきたのである。
 平安仏教も平安時代には「新興宗教」。こだわりすぎだと思ったが、何度も教員の差別語事件を起こしてきた大学では、敏感になるのは致しかたなかったのだろう。
  それで、翌日はギュウギュウ詰めの会場で、2名ほどによる国語科教育の研究発表が行われ、各県の代表者が5分ぐらい新指導要領と関連、教材取り組みなどを次々に発表した。私は国語科教材における差別文・差別語-たとえば「こころ」の兄は「女の腐ったような…」と地域を舞台とした作品を取り上げ古文と現代文の融合を計る実践の2点について発表した。差別文・差別語の方は、組合の教研でも発表しており、(教研レポートが全国に行くのはいわゆる日教組=小・中教員の発表が中心で、高教組から選ばれることはまずなかったし、その発表内容も授業のやり方が中心だった)こちらの方が中身が濃いはずだった。
 当時の手帳を見ると、7日に県の国語教育研究会があり、全国大会の様子を報告している。

 そして、翌年、卒業式か入学式の準備で体育館にいたとき、校長が文部相の北川調査官から電話がかかっていると呼びにこられたので、何だろうと思いながら、校長室で電話を受け取った。
 文部省の機関誌に去年発表した話を書いて欲しい。差別の方ではなく、後半の教材論を…と言うことだった。
 翌年、その機関誌に載ったのがここに取り上げた文である。
 宇出津以降、3度ほど異動打診があったが、詳しい内容は聞かずに奥能登・飯田の地に在って、能登は文化の先端地だと語り・書き続けてきたが、これも、その一つだったのだなぁー、と、昔を思い出しながら、あらためて感慨に浸っている。

 

1988(昭和63)年

 この年 1、2年生担任。顧問・男子軟式テニス北信越団体3位。。
執筆関係「想い出」サーカー部顧問(当時)『おもいで(サッカー部マネージャ・故板谷みどりさん』)、「日取りと行事」『三崎町寺家 二十三夜踊り』(三崎公民館)、「天神・地蔵と異界」(『情念と宇宙』雄山閣出版)、「能登の宗教風土と太鼓」(『たいころじー』創刊号)、「蓮如」伝承と北陸の真宗民俗」「久乃木村豊四郎の巡拝」「蓮如の言葉と和歌」など『蓮如さんー門徒の語る蓮如上人伝承ー』(加能民俗の会編著、橋本確文堂)、「「詣」に集う」(CERTAIN vol3、橋本確文堂)。

TV出演2回。

この時40~41歳。

それから3年後に教員を退職し、住職を継いだのだから、分からないものだ。。

その後

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高沢幹夫先生

高沢先生は、指導主事の後、羽咋工業高校・七尾高校の校長を歴任された。工業と羽咋は人事交流がショッチュウあり、羽咋の同窓生達が両校で教育職にあった。その関係で羽工が初任の私などが可愛がられたのだと思う。

そして、6月頃から西山家の姻戚関係などを調べていて、父の従兄弟(故・朝倉一景)のところに、先生のオバが嫁いでいたことを知った。

故一景さんの伯母が当寺に嫁いでおり、戦死した父を一景さん兄妹は知らないような育ちだったので、伯母を頼って、兄妹で家に遊びに来ておられた。

先生も兄妹の母の家が隣で、そこで二人がいたため、子どもの頃、よく遊んだという。

人生には数々のドラマがあるが、このことを知った頃は、それぞれの記憶がちょっと交錯し合った程度で、もう酒を飲みながら想い出を語り合うこともできない年になっている。

 

句集『邑知潟』高沢木偶(幹夫)平成8年

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慈悲心鳥蓮如の森を鳴き渡る

お取越紙漉きセンター休みなる

氷雨降る窓辺に仏具磨きけり