金沢二十五天神第四番 願行寺の祇園摂社(現野町八阪神社)

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今朝のコスモス

野町八阪神社の歴史・文化

朝刊に次の記事があった。見るなり二十五天神巡りを調査したとき訪ねたかつての山伏寺院だと思い、記憶を辿りながら書いた書物を調べて見た。

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北國新聞朝刊 2021年令和3年9月16日(木)

 

金沢25天神、4番願行寺に関する論・文

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④願行寺がこの八阪神社である。⑤の成学寺には芭蕉句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」があり、有名。成学寺が野町一丁目なので道を挟んである元(といっても明治2年までだが)願行寺も野町一丁目だと勝手に判断し、そのように書いてきた。

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「金沢の天神信仰―鎮護神から学問神へー」は2001年(平成13年)北国文華(北國新聞社刊)夏・第8号に載った。

目次を見ると、このところお書きになったものを探している鈴木大拙記念館名誉館長岡村美穂子さんが書いておられる。当時大谷大学非常勤講師だったのだ。

Hear You have "A HONGAN"が出ているかと思ったが、そこは

あるとき、「先生、本願って何ですか」と聞きますと、

ちょうど昇ってきた太陽を指して、

「ほら、美穂子さん、本願が出たぞ」とおっしゃる。

とあった。

表紙絵に懐かしさを覚えたので、見ると「羽根万象」さんだった。しかも羽根万象美術館蔵である。

 

願行寺の祇園摂社

八阪神社の元については、最初の論文「天神・人神・藩祖の信仰ー都市型信仰の展開私論ー」に、やや詳しく書いた。

4 願行寺の祇園摂社(野町一丁目→寺町五丁目)
山号泉尾山。現在の八阪神社
建物は寺院の名残りを留め、怒天神らしき画像を伝える。

観行院が利家の尾張時代、大峯代参を務めていた関係で、越前・越中と従いながら大峯代参を継続。

寛文五年には、山伏頭として聖護院門跡に従い大峯入峯。

天和元年門跡より山号寺号を許可され、後、本山派の山伏頭を勤める。その一方、祇園社にも奉仕。

明治二年、山伏復飾。
東第六番「世の人のために仏は願行寺つとめぬ身にもたのも敷哉」

東第六番は、金沢には33観音巡礼札所が東・西にあり、願行寺は東33観音巡礼札所第6番だった。天神・道真の本地は観音菩薩で、自ずから25天神は観音霊場に含まれる。

 

天神・人神・藩祖の信仰ー都市型信仰の展開試論ー

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『都市の民俗・金沢』昭和59年(1984年)2月 国書刊行会

 

天神十二時の歌

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「天神十二時のうた」1989年(平成元年)3月 加能民俗 10-4 No126

十二時の歌は子~亥を和歌の始めに歌い込めたものである。

例 (酉) とりのねにゆめうちさめてひとりねの そのあかつきはものうかりけり

この年、加能民俗の会会員は県内149、県外51(大学なども含む)計200人もいた。

 

天神・地蔵と異界 都市金沢の宗教空間

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『情念と宇宙 都市民俗学へのいざないⅡ』平成元年(1989年)5月 雄山閣出版

 

心の中にあった城下の境界

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『おもしろ金沢学』2003年(平成15年)8月 北國新聞社

誰が執筆したのか分からない形で刊行された。執筆陣は25人。私は3編書いた。

 

天神として祀られた藩主―加賀・能登越中天神信仰

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『日本宗教民俗研究』第13号―特集天神信仰天神祭― 2003年(平成15年)12月刊