かたつぶり どこでしんでも 我家かな

6日(土)、当寺の祠堂経お参りの後、大坊へ出向き正福寺さんで、金沢大谷婦人会の方々に真宗初期の法宝物の解説をさせていただいた。

珠洲市文化財に載る「蓮如上人草案御文」の説明文は、真宗史研究者として業績を残された正福寺前住職・篠原映之氏がお書きになったものだが、説明するにあたって草案御文が4個所に広がっているとの記載があり、草案御文が載っている『能登教区教化センター落慶記念 能登真宗展』(昭和54年能登大谷学場刊)の解説を読み、その他の法宝物(全75点)を見ていたら、面白い句があった。

 それで、かたつむりどこで死んでも家の中、いいなぁ―と大きな声で働いている場へ一人言をいいに行き、

もどって確かめ直すと、「―我家かな」だった。

鮎は瀬にすむ 小鳥は森に わたしゃ六字(南無阿弥陀仏)の うちにすむ(長門のお軽)を思っての、いいなぁ!「我家」である。

「家」には「法喜充満」。

どちらがいいかな?

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かたつぶり どこで死んでも わが家かな

鳳渺は開神院了栄。その遺墨。

開神院は、第24代講師。著書に「観経玄義分内申録」三巻、「観経序文義癸巳記」三巻など多数。

文政二年(1819)羽咋郡大笹願行寺芳岡了法の第五子として生まれ、弘化元年(1844)門前町広岡満覚寺了長の嗣子となる。安政五年(1858)同寺住職となった。明治8年近江愛知川宝満寺に移住した。(『能登教区教化センター落慶記念 能登真宗展』より)。

子の開導院了賢も講師。

大笹願行寺姓は芳野である。間違いだと思うが、近くの覚龍寺住職姓が芳岡で、昭和44年に還帰された良音師は、四高・京都帝大を出られ、第六高等学校教授、バンドン工業大学教授、湊川女子短大教授などを歴任。「釈尊無量寿経親鸞聖人とを貫くもの―無量寿経の成立史的研究」で宗祖700回御遠忌記念論文募集で本山賞授与。七尾大谷学場長、嗣講の学階を贈られているというから混乱があるのかも知れない。

節談説教の大家・広陵顕純師の御自坊が満覚寺で、私は相当前からあんなに多くのお話しを覚え語ることができるのは、講師家の流れを汲んでいる方だからだと思っていた。

「学」の話になると極めて謙虚なお方で、話題がそちらへ行ったことが無い。

 

一方の栗山・芳岡氏からは2013年遍照岳を訪れた際にお寄りし『土田の歴史』(芳岡良音著)を戴いた関係でもあり、

お聞きすればすぐ分かることなので、体の空く11日過ぎに、能登の先学の地を訪ねようかと、書きながら思っている。

 

真宗人名辞典』(法藏館刊)には、「出自―能登願行寺芳野良法の5男、母は村松氏」と載る。

一件落着だが、母・村松氏は標左右衛門家?と新たな疑問。

そこまで知ってどうなる?だね。

 

句を挙げて、

「かたつぶり」は最近出会わないなぁ・・・の二行でおわるはずだったのに。

令和元年「蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上」(太田浩史師)5月3日(金)の記事より

 

 

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1986年(昭和61年)5月5日。この日は朝4時50分お宿浄念寺さんで晨朝勤行。間もなく出発。今庄大門・朝6時28分の様子。この子たちももう40歳くらいになっているのだ。
 

 

私が蓮如上人御影道中にまじって5月3日から5日にかけてお共したのは、1986年(昭和61年)のことだった。

飯田高校に勤めていたころのことで、思い切ってその年の連休について歩いたのだった。

どこで合流したのだったか?

福井別院の印象があるので、思い出せるはずもない33年前をたどろうと、先日・6月20日太田浩史さんからいただいた「蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上」の5月3日を読んだ。

全てが素晴らしい記録であり、歴史・民俗論なのだが、

この日の話は胸を打つ。

引用して、多くの人の目にとまってもらいたい。

蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上

5月3日

○福井別院
私の住む越中西部から江戸時代にたくさんの真宗門徒が相馬地方、今の福島県浜通りに移民した。
二〇一一年三月、東目本大震災と原発事故に苦しむ人々の支援に、私たちの南砺市は九名の救援隊を派遣することにした。
それは同地の真宗移民が南砺市一円から最も多く出ているからだった。
三月二十四日、支援物資を積んだ救援隊の車三台はおそるおそる無人となった飯舘村を突っ切って南相馬市に入った。
屋内避難指示が出ているので街に住民の姿はなく、見かけるのは自衛隊、消防、警察の関係者のみであった。
さっそく私は市役所の職員に遺体安置所となった体育館に案内された。私は福島に行く前から、こういう時一番役に立つものは何かを考えていた。
思い悩んだ末持っていったのは蓮如上人真筆の六字名号だった。
体育館で若い自衛隊員にそれを掲げてもらい、正信偈をあげた。すると何十人もの自衛隊員と消防隊員が整列して合掌した。
彼らがみんな自分の珠数をもっていたのが印象的だった。
放射性物質の危険を犯して毎日冷たい海岸から遺体を引き上げては運んでいたのは、二十代の若者たちである。
珠数を持った時だけ涙をながし、またまなじりを決して海岸にもどっていった。

※~※は西山追記

※あの地震の時、私は親戚の葬儀で鹿西町金丸というところにいた。夜は七尾でホテルをとった。そこで始めてテレビに映る津波の様子を見た。信じられなかった。その晩長野でも大きな地震があり、ホテルが揺れた。

親鸞聖人聖人750回御遠忌は、追悼法要に変更となり、何人ものキャンセルが出る中、それを埋めるべく急遽私も団体の一員として本山に向かった。

草津インターで待ち合わせのため、バスが入った時、多くの若い自衛隊を乗せた車両や警察車両が任務交替のため、インターを出入りしていた。

それを見た瞬間、どこかで信じたくなかったことが現実となり、あまりにも若い人々が災害の前線で働いている姿を見て、涙があふれて止まらなくなった。

太田氏の現実とは、隔たりが大きいものの、2011年3月22日の記憶がバーッと蘇った。※


私以外にもう一人遺体安置所に僧侶がいた。
地元の曹洞宗の住職で、避難勧告に従わず毎日やってきて読経するのだという。
曹洞宗の寺院数は一万五千、東北は特に多い。
西本願寺派は二万、合計すると日本の仏教寺院の半数をしめる。曹洞宗本願寺ともに教団のルーツは越前にある。


道元蓮如がこの地で教線を飛躍させた。
考えてみれば越前という土地は宗教的にものすごい力をもっている。仏法者には教学者型と教育者型があると思うが、道元蓮如に見るように越前には教育者型が多い。

 

江戸時代には福井の城下から香月院深励が出た。
学識抜群で千三百人の門弟を誇った深励は一見教学者型に見えるが、実はやさしい表現の法話で庶民教化にいそしんだ教育者型の側面が強かった。

 

現代では松原祐善師がその典型。
昔私の寺のすぐ近所に結核の療養所があって、そこに一時祐善師が療養しておられたので、私の父が近所の僧侶を語らって見舞いかたがた教えを聞きに行った。
すると祐善師が語ったのは昭和二十三年六月二十八日の福井地震の話だった。
祐善師は福井の友人の家にいて建物の下敷きになった。
午後四時過ぎの発災なのですぐ夜になった。
真暗闇の中で身動きできない恐怖。
ところが近くで同じように下敷きになっていた友人が、自分のことを指し置いて「松原がんばれ、松原がんばれ、松原がんばれ」と朝まで連呼し続けたのだという。
祐善師にとってきわめて重要な宗教体験だった。
私が大谷大学に入った時の学長が松原祐善師だった。
背広姿で長靴をはき、風呂敷包みを抱えた祐善師が校内を歩いていると、学生が「おはようございます」と挨拶する。
祐善師は立ち止まり、姿勢を正してから丁寧に頭を下げ、「おはよう」と言つてから頭を上げると、相手の学生は遠くに行ってしまっている、そんな教育者型の仏法者だった。

 

ある年の学園祭の時である。弓道部員だった私は、弓道場を利用して親鸞聖人の原始教団の時代の念仏道場を再現しようと思い立った。
聖人の役は松原学長をおいて考えられない。
そこで私は学長室に頼みに行った。
あっさり断られるかと心配したが、祐善氏は目を輝かせて、「その役、ぜひこの松原にやらせていただきたい」と、向こうの方から歎願された。
当日、祐善師は黒衣・墨袈裟・安城型念珠、つまり安城の御影の姿で道場に現れた。
そして板の間に座る学生に向かって、「何でもこの松原に尋ねなさい」と言われた。
すると一人の学生が、
「私には悩みがあるんです。口には言えないけれど、とても大きな悩みなんです。いても立ってもいられず、ほんとうにどうかなってしまいそうです。どうしたらいいんでしょう」と泣きそうに言った。
すると祐善師、念珠をつかんだ手を学生の方にかざし、「その悩みは」と厳かに口を開いた。
「もっと大きな悩みによって消える」。

※私が大学受験した年は、後で団塊世代と呼ばれるくらい急に増えた受験生に対処すべく、受験界も混乱しきってた。難しいといわれていた特別奨学金貸与も試験に受かっても進むコースによって貸与されなかったり、受験日が間に合わなくて、後になった試験日で○×式問題で答えさせた大学もあったのである。

そんな中、私は大谷大の二次試験を受けた。かなり面接重視のだった印象がある。その時の面接官が、私の履歴を見て、突然、君は西山君の息子か彼とは同級生なのだ。西山君は本当によく出来た。試験はどうだった―○○ぐらいのできです。じゃあ、君はここへ来たまえ・・・のような話で面接を終えたのである。

 面接の途中から、優秀な西山君は父が養子に入るきっかけとなった、大学を終えてまもなく伝染病でなくなった四教という人の話だと気づき、優秀な人だったらしいことは義理の祖母から聞いたことはあったが限られた面接時間中に、違うのですともいい出せずに終わった。

 それから3年後。私は大谷へ行き、太田氏が書いている面接官だった松原先生を見た。真宗学を学びたいとの思いはあったが、面接の時、

ここへ来たまえ。

はい受かったら大谷でお世話になりたいと思います。と、結果的にウソを言ったことがバレるのをおそれて、先生の姿を見かけると出会わないように隠れた。その時点で、真宗学は遠いままに終わった。

それから、何年かして私が飯田高校で教務主任をしているころ、京都の大谷高校から石川県立高校の教員となった松原という先生が、飯田高校に赴任してきた。

 

その方が松原家の跡継ぎだったのである。

 あまりに劇的な流れで、思いだすと疲れる。ただ、松原学を学ぶのはこれから、ということだけははっきりしている。※

 

 

 

 

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祠堂経会、梅ぼり、安居―七月一日

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中庭に糸とんぼが飛んでいた。写っても写らなくてもエイ、とシャッターを切った。見事に写っていた。

 

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梅の実を取った後の梅の木・葉

 


七月に入った。

半期の大きな節目だから、鬼の牙・歯固め、修験系では茅の輪くぐりなどがあるはずだが、夏至知らずに時が流れたように、年中行事がないノッペリ国が、さらに進んでいる。

梅ぼり

梅雨の最中に、例年梅ぼり(「ぼる」はもぎ取るぐらいの意、方言)をする。

30日は大雨警報がまだ出ていたが、雨雲も通り過ぎたのであちこちに水たまりがある中、梅ぼりをした。

 

祠堂経案内、ポスター貼り

当寺の祠堂経は、7月4日(木)~8日(日)

 

寺檀制の原点、田休み期の重要行事である。

御布教は藤田秀明師。金沢から5日間お出で願う。

「他国坊主に国侍」を踏襲している(のだろうな)。

 1週間前に案内をあちこちに貼っていただく。

祠堂経・永代経

祠堂経は永代経とも言うが(その方が多いかも知れない)、

『考信録』(安永3年・1774、玄智著)に

今時永代経ト称シテ檀越ヨリ若干ノ銭財ヲ出スレハ、僧侶コレヲ常住ニ納メテ忌日コトニ読経スルコト差降種々ナレトモ大途ハ同シ。

是諸宗一統ノ事トミユ。

案スルニ永代ト云ヘハソノ際限アルヘカラス。

大院名刹ハ且ク論セス。

小寺艸菴ノ類ハ変事無時、永代ノ法固必スヘカラス。僅二五十年百年ヲ歴レハ其式廃退スルモノ触目ミナ是ナリ。

施主ノ素志何クンカアルヤ。

些少ノ施財ヲ利シテ永代ノ事ヲ保任スルコト軽卒ノ至
ト云ヘシ。

今家ニハ古ヘコノ事ナカリシニヤ。

旧記二永代経ノ名ヲ撿セス。

祠堂経ト称スルヲ正ト云ヘキカ

 紀州称永代経日定座定座名出統記卅四・三左

(『『真宗資料集成 第九巻 教団の制度化』、『日本民俗大辞典』上の項立ては永代経で、祠堂経無し)

とあるように、他宗の永代経を真宗では祠堂経を名告った経緯があるようだ。

妙好人千代尼』(法藏館刊)には

報恩講・祠(し)堂(どう)経(きよう)(永代経)

小見出し

  真宗の定期的な仏事・法座は、親鸞の命日に向けて営まれる「報恩講」と田休み期の「祠堂経(永代経)」が中心です。
 報恩講は、長いところでは本山のオシッチャさん(七昼夜)に合わせて七日間営まれてきました。そこでは、親鸞作の「正信偈」「和讃」、覚如(かくによ)作の「御伝鈔」「報恩講式」、存覚(ぞんかく)作「歎徳(たんどく)文(もん)」、蓮如作の「御文」が拝読されます。親鸞の命日が旧暦の十一月二十八日(新暦一月十六日)ですから、報恩講は、収穫後、あるいは田仕事の準備期の仏事になります。
 一方、田休み期にはどこのお寺でも「祠堂(しどう)経(きょう)(永代経)」を営んでいます。この仏事には「経」が付いてはいますが、経典名ではなく仏事名です。
 祠堂・永代経は大切な大きい行事なのに行事名が統一されていません。真宗故実書『考信録』(玄智、一七七四)には、このことについて、そう大きくはない寺が永代に続くというのは言い過ぎで、祠堂経がいいのではないかとしています。真宗の祠堂は本尊、祖師親鸞の在(まします)す堂、いわば、寺庵・道場ですので、それがいつまでも続き、子々孫々が教えを聞くことが出来るようにの願いが「永代経」なのでしょうから、仏事名はどちらでもいいのでしょう。
  ただ、この行事が始まったのが、千代尼が生まれた元禄ごろだったと見て、ほぼ間違いありません。仏事名の揺れも、真宗独自の仏事ではなく、通(つう)仏教、全宗派が関わる、いわゆる寺檀制度(一寺一家制)の確立と共に行われるようになった行事だからです。
  家族が同じ寺に参り、揃(そろ)って田仕事をし、家の墓に入る。それが家だとすると、このような家がほぼ出来あがったのが元禄ごろだったのです。千代が生まれたのは元禄十六年(一七〇三)ですから、寺檀制度確立期と重なります。
  それまではどうだったのでしょうか。家に嫁いだり、婿に入っても、実家の師匠寺の門徒から離れることはありませんでした。一家に複数の師匠寺があったのです。これを半檀家制または複檀家制といいます。
  半檀家だと、共同作業が多い農作業の効率が悪いため、幕府・藩が指導して一寺一家制を進めていきます。また、宗教面からは、幕末以前の最後の内戦・島原の乱(一六三七~三八)のようなことが起こらないよう、一神教を禁止します。
 祠堂経(永代経)は、長いところでは一ヶ月間、「浄土三部経」を順に勤めます。一ヶ月のお参りがあれば必ず親の命日があります。親があってこそ、受けがたき人身(にんじん)を受け、聞き難い仏法を聞くことができるのですから、その恩に報いるため、どんなことがあっても親の命日には寺参りをします。また、寺参りをすることで、神以外を認めない一神教徒ではないことを表明する役割も、祠堂経(永代経)にはあったのです。
 祠堂経や報恩講、彼岸などの仏事には必ず布教僧によって説教が語られます。そこでは、釈迦の悟(さと)り、親鸞の承元の法難、蓮如の旅などの三十五歳の節目の話が熱く語られていたのでしょう。(同書、P87~P90)

 と書いた。

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コンゴウ参り

今日は7月を盆月にしている地域の盆始めの日。

コンゴウ地帯ではコンゴウ参り(7日盆、30,1日が多い)がある。そのうちの一カ寺、

石動山麓、藤井徳蓮寺さんへお話しに行く予定。

『花すみれ』7―法話Ⅰ 妙好人を生きる―千代尼

今日(29日・土)、『花すみれ』7月号が届いた。

執筆の話があった時、昨年刊行させていただいた『妙好人千代尼』の関係の話だろうと思って、「妙好人を生きる―千代尼」のタイトルで書いた。

この5日に刈谷市でお話ししたのは、その本を読んだので・・・のご依頼だったから、てっきり『花すみれ』もその線での話だと思っていた。

担当の方とのやりとりでは、著書が執筆の直接理由というわけではなさそうだったが、ともかく素敵な本となって届いた。

表紙が、芬陀利華(妙好人)菩薩とでもお呼びしたくなる格調高い画(畠中光享氏)である。

 

私もささやかな文のまとめに「すみれが花咲き、香ってくるような法縁(ほうえん)の場(ば)がいたるところにあります。今(いま)、現在(げんざい)のご縁(えん)を大切(たいせつ)にし、いただいてまいりたいものです。」

 

と書いた。

『花すみれ』の中に、「うつむいた 所(ところ)が台(うてな)や すみれ草(ぐさ)」(千代尼)を取り上げ、「すみれが花咲き、香ってくるような・・・」と関連づけたのだが・・・、どうだろう、読む人は気づいて下さっているだろうか?

 

 

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表紙絵。蓮華手菩薩(畠中光享氏)。左手に蓮華を持つ(同氏解説p28)。偶然かも知れないが芬陀利華(=妙好人)持つ菩薩は、妙好人の本地が描かれているようで、尊い

 

 

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6-1。写真は今年5月

 

 

 

ふりがなを多くしているのは、ブラジルの門信徒さんにも読んでいただいているので・・・とのこと。

聞法一路はすべての人が正客なので、振り仮名は多ければ多いほどいいなぁ、と雨の音を聞きながら、いただいている。

 

 


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この絵を見ると自然に微笑みがもれる。「~聞法一路~」もいい。「月刊花すみれ」の封筒。


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このスタンプ代わりが可愛い

 

木町(東山1丁目)藤嶋山圓長寺さん―6月26日(水)朝

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このような記事が。2019年7月3日(水)北國新聞朝刊・金沢版


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真宗大谷派 東山1丁目 藤島山圓長寺

金沢へ来る観光客が最も多く訪れる東山にこのお寺がある。昔は「木町」と言ったところである。

庫裡後ろの通りが、浴衣のなどを着てそぞろ歩きしている写真に用いられる「東の廓」で、日中は混んでいて車では来にくい。

 

学生時代以降だと思うのだが、金沢へ来るとこのお寺の庫裡・座敷で休んだ。時には泊まることもあり、朝から三味線や、それに合わせて羽歌を練習する声がしていたものだった。

分野は違うが、眼にみえない努力をそれとなく感じていた空間があった。

 

今回は、朝7時前に訪ねた。

さすがに静かで、店が開いていない時間帯なら気兼ね無しに寄れることを知ったが、朝早く目が覚める年ごろになったから気づいたのだ。

 

案内板の文

 

心の道
  圓長寺
  藤嶋山と号し、真宗大谷派に属する。

 開山は、越前国藤島村(福井県福井市)超願寺の僧・
道清によるもので、天正十四年(一五八六)、大鋸屋
町に創建したことが当寺の起こり。その後、慶長元年(一五九六)、当地において建立した。
由来によれば、加賀藩三代藩主・前田利常が卯辰山周辺に鷹狩りを行った際、たびたび小休止所としてこの寺を利用したと伝えている。その縁により没後、利常の位牌を守り、現在も安置されている。そのため剣梅鉢の袈裟使用などが許されている。
 六角造りの一切経蔵は、慶応元年(一八六五)閏五月御輪堂として建立され、現在も一切経が大切に保管されている。

 

 

 

 

加賀国主・富樫政親が拠った高尾城―一向一揆530年―

昨年加賀の一向一揆530年だった。

特に何の行事もなく530年は過ぎたが、

石川県埋蔵文化財センターが公益財団になってから、昨年が20周年だったことがしばしば評議員会の話題に上るので、その先の埋蔵文化財時代から背負い気になる「高尾城」に対する埋文としての統一見解のようなものがあるのかないのかを、

昨日開かれた評議員会の折、訪ねた。

県内には金沢城始め、利家が最初に拠った七尾城址一向一揆最後の砦となった鳥越城址など重要な城跡が各地にあるが、一向一揆との争いで敗北し、以降「門徒の持ちたるような国」を一世紀近く現出することになった戦国国主富樫正親、彼が最後に拠った「高尾城」は、極めて需要な城であるのに、ほとんど話題になることも無かったような気がする。

その理由は、高尾城址にかつての県教育センター(現石川県教員総合研修センター)があることによる。

 

教育委員会と深く繋がっている埋文と、保護されて残っていなければならない城跡に、委員会関係の建物があり、短絡的に考えれば、教育センターを建てるために重要な城跡を破壊したー

ブラックユー―モアにもならない現実があるのである。

 

私はかつて『おもしろ金沢学』(北國新聞社刊)に「心の中にあった城下の境界」を書いたことがあり、境界に富樫政親終焉地伝承がかなりあることに触れたが、

「高尾城」は書くことが出来なかった。

それは、教育委員会の建物の為に遺跡が破壊されたのであったらどう県民に説明がつくのか、黙っていよう・・・といった感覚だったのである。

ところが、今年1月25日に大著『一向一揆の研究』を著しなさった3人(笠原一男氏・昭和37年6月30日、山川出版社刊、井上鋭夫氏・昭和43年3月30日吉川弘文館刊、北西弘氏・昭和56年2月28日春秋社刊)の、最後の方・北西弘先生が還帰なされた。

それを機に、気になっていた高尾城のことを、いろんな文献で見ていくと、

 高尾城の保存問題
「一四八八年、一向一揆に攻め滅ぼされた富樫政親が最後に拠った高尾城は金沢市高尾町、旧鶴来道に面する通称城山に位置した。一九七〇年から翌年にかけて北陸自動車道建設のための土取り場にされ全く発掘調査もされないまま大部分破壊された。土取りに反対の声が少数ながら出されたが、道路公団・行政側に押しきられてしまい、文化財保護行政に大きな禍根をのこした。現在、県教育センター。」

「今から十五年前(昭和48年)、高尾城が北陸自動車道土砂取りで崩される時に、北國新聞社に電話しまして、「何とかならないのか」と電話機にしがみついて訴えた」

「井上鋭夫 一九三二年 加賀市生、一九七四年没。新潟大学教授などを経て、晩年は金沢大学法文学部教授。今日の一向一揆研究の基礎をつくった権威者の一人であり、高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名。」

(以上『加賀一向一揆500年 市民シンポジウム・私にとって一向一揆とは』平成元年6月30日能登印刷・出版部刊)

「十分な調査がなされないまま昭和45年土砂採取によってジョウヤマ部分が破戒されたことは非常に残念である。」(『石川県中世城館調査報告書Ⅰ(加賀Ⅰ・能登Ⅱ)』平成14年3月31日・石川県教育委員会)   

などの文献記事に出会った。

 

北陸道という道路工事があって、高尾山から土砂が運ばれ、井上鋭夫氏の阻止運動があったが、間に合わず、その跡地に教育センタ―(現・石川県教員総合研修センター)が建ったということらしい。

そういう認識があったので、敢えて埋文の関係者がどのように認識しておられるかを訪ねたのである。

 

その場で、評議員の佐々木達夫氏(金沢大学名誉教授・考古学)、平口哲夫氏(金沢医科大学名誉教授・考古学)から、当時の県考古学研究会の動き、そのことに触れた会報を教えていただき、前述「高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名」の図式にまとめられても、ご本人が困る事情があったことにも気づかせていただいた。

 

今、高尾城を調べるというより、過去にいろんなことがあったにしろ、ともあれ重要な遺跡であるから、現状はどうなのか、会議の後、見に行ってきた。

 

高尾城跡には、何も(案内板など)なかった。

見晴台に行く標識も地元の公民館が整備したものらしい。

一向一揆を巡っての論議が沸騰してから30年。

客観的に整備・紹介される時期に来ていると思う。

 

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一向一揆研究。高尾城問題の先に井上氏の本が刊行されていた。笠原本昭和37年6月30日、井上本昭和43年月30日刊、北西本昭和56年2月28日刊行。

 

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高尾城址見晴台への道、案内標識。桜が綺麗らしい


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高尾城址より日本海


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国道から見た高尾山


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北西先生の御自坊26日朝

 

 

高尾城を訪ねる前に、シンポを始めその後もズーッと真宗史の中心を担っておられる大桑斉先生のお寺におじゃまし、翌26日、帰り道の途中に北西先生の御自坊へもお寄りした。

 

 

 

参考

以下加賀一向一揆500年 市民シンポジウム・私にとって一向一揆とは』平成元年、6月30日発行 能登印刷・出版部より
「今から一五年前にお亡くなりになった金沢大学の井上鋭夫先生(※1)が、一九六八年(昭和四三)まで新潟大学にお勤めで、『一向一揆の研究』という大著を出されました。私はその井上先生の若かりし日の学生でした。新潟県から始まって、北陸各県を、夏休みになると、七月半ばに山の中に入って、山からおりてくると九月になっているというような、かなりハードな調査を、毎年のように私は先生にお伴して歩いていました。(P25)」

「一九六八年(昭和四三)、ちょうど二〇年前に井上先生(※)が、いわば北陸の百姓の持ちたる国の本拠地金沢・尾山御坊にある金沢大学に赴任されて間もないころ、ちょうど加賀一向一揆の勝利の記念碑とも言うべき、高尾城の保存問題(※)、破壊の問題に直面されたようでした。ここに書いてあるようなことを、放送で話されたか、書かれたかして、大変地元で強い反発を受けた。そういう話を井上先生から、うかがったことがあるんです。」(藤木久志・基調講演、P29)
※高尾城の保存問題
一四八八年、一向一揆に攻め滅ぼされた富樫政親が最後に拠った高尾城は金沢市高尾町、旧鶴来道に面する通称城山に位置した。一九七〇年から翌年にかけて北陸自動車道建設のための土取り場にされ全く発掘調査もされないまま大部分破壊された。土取りに反対の声が少数ながら出されたが、道路公団・行政側に押しきられてしまい、文化財保護行政に大きな禍根をのこした。現在、県教育センター。(P29)
○三十七歳 自分が今から十五年前、高尾城が北陸自動車道土砂取りで崩される時に、北國新聞社に電話しまして、「何とかならないのか」と電話機にしがみついて訴えたことを思いだしていました。まだ学生でした。(高田実・問題提起)P81 
※シンポは1988年15年前は1973年昭和48年
○昭和五十二年、いつの間にかあの山が、赤土の山に変わってしまった。(荒木孝三)P180
※1井上鋭夫
一九三二年 加賀市生、一九七四年没。新潟大学教授などを経て、晩年は金沢大学法文学部教授。今日の一向一揆研究の基礎をつくった権威者の一人であり、高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名。

○井上鋭夫『一向一揆の研究』 はしがき 2頁 昭和四十二年十月八日発行より
「思えば初和二十二年、「近世社会生成の一過程―加賀一向一揆の政治形態とその農村との関係―」という題名で、私が卒業論文にとりくんだのは、生家が吉崎に近く、数百年の本願寺門徒として「蓮如さま」に親しんだということのほかに、当時、社会経済史学と無縁の姿勢をとりつづけている仏教史学にあきたらなかったところもあったのかも知れない。」

[ウィキペディア・参照]井上 鋭夫(いのうえ としお、1923年2月18日~1974年1月25日は、日本の歴史学者。文学博士。「一向一揆」研究の権威。
石川県生まれ(※)。1942年9月、第四高等学校卒業。1948年東京大学文学部国史学科卒。跡見学園を経て、1951年新潟大学人文学部助手となり後に同学部助教授、教授を歴任。1968年に金沢大学法文学部教授。1971年に「中世末期における一向一揆の研究」で東京大学から文学博士の学位を授与される。
中世・近世の生活、宗教、合戦、日本海文化の総合的研究をすすめながら史料の編纂につとめ、多数の著書がある。研究誌及び一般誌への寄稿も多い。
著書
本願寺』至文堂、1962年(講談社学術文庫、2008年)
一向一揆の研究』吉川弘文館、1968年
蓮如 一向一揆(日本思想大系17)』(笠原一男共著)岩波書店、1972年
『山の民・川の民―日本中世の生活と信仰』平凡社、1981年など

 

『石川県中世城館調査報告書Ⅰ(加賀Ⅰ・能登Ⅱ)』石川県教育委員会平成一四年三月三一日発行より
高尾城跡(多胡城、富樫城)
標高一九〇m、比高一四〇mの山城。金沢御堂と手取谷を繋ぐ街道沿いに位置する交通の要衝でもある。高尾集落の背後に位置し、同集落を見下すことができる。
 長享二年(一四八八)加賀守護富樫民終焉の城郭として、また、一向一揆支配出発の地としてよく知られるところである。しかし十分な調査がなされないまま、昭和四五年土砂採取によってジョウヤマ部分が破壊されたことは非常に残念である。
 かつてはこのジョウヤマが富樫政親の居城とされており、コジョウの存在はほとんど知られていなかった。現在コジョウと呼ばれている場所には、切岸・竪堀・畝堀・堀切・虎口が完全な形で現存しているが、ジョウヤマと呼ばれている場所は、大部分が破壊され、郭の一部が残存しているにすぎない。
 コジョウは基本的には単郭で、郭はあまリ削平されておらず、ほとんど自然地形である。東側と南側は堀切e1・e2・e3で遮断されているのに、ジョウヤマとの間には強固な遮断線は設けておらず、さらにジョウヤマの方向に虎口を開いている。ジョウヤマとコジョウは、強い結び付きを持っていたことを物語っている。特に注目したいのは、ほぼ全周を巡る角度の鋭い高切岸と、腰郭の直下に設けられた凹凸に加工された遺構である。凹凸に加工したのは腰郭を横移動する敵兵の動きを阻止するためで、性格は畝堀と同じである。横移動を阻止された敵兵は、さらに高切岸によって行く手も阻まれたわけで、高切岸と凹凸遺構がセットで構築されたことを物語っている。
 コジョウの遺構は、大規模な堀切・竪堀と単純な構造ながらも虎口が残っており、明らかに一六世紀末の遺構である。コジョウの郭の削平はあまりなされておらず、ほとんど自然地形のままで、居住性はほとんど窺えない。軍事的緊張が極度に高まった結果急速築城され、軍事的緊張が解消された結果廃城になったと考えられる。
 ジョウヤマに高尾城があったのか、別の地点にあったのか、いずれにしろ、現存しているコジョウと富樫政親の高尾城とは別々の城郭である。
 コジョウに残る高切岸と、凹凸遺構は日谷城(加賀市)や黒谷城(山中町)にも見られ、両城とも一向一揆の城郭である。ということは、天正八年(一五八○)柴田勝家軍来攻に備えて、一揆軍が金沢御堂の出城として急速築城したという仮説も成り立つであろう。(佐伯哲也)
参考文献 宮本哲郎「金沢市高尾城跡」『石川考占』第230号一九九五

『おもしろ金沢学』より北國新聞社、2003年8月25日発行)
心の中にあった城下の境界(西山執筆)

城下町金沢は、尾山御坊の寺内(じない)町から始まり、幾多の変遷を経て、寛文六年(一六六六)に城下町造りが完成した。区画された町とは別に、人々は、どのあたりまでを城下と意識していたのであろうか?
心の中の金沢を訪ねる。

天神と地蔵

加賀藩主前田家は、三代利常の頃から、天神・菅原道真の子孫であることを正式に名乗った。今、天神は学問の神さまである。だが、藩主前田家と、それを取り巻く家臣団にとっては、天神はいくさ神であり、敵を打ち破る猛々(たけだけ)しい神だった。それを証明するように、金沢に伝わっている初期の天神画像は、「怒り天神」系のものが多い。
元和元年(一六一五)から整えられていった寺町、小立野、卯辰の寺院群は、軍事的防御ラインであると共に、仏神の力によって精神的な恐れ(魔)をも防ぐ場所でもあった。むしろその方の期待が大きかったかも知れない。そのため、そこには、藩主以下を守ってきた天神も祀(まつ)られ、より強力な結界が張り巡らされていく。
天神の縁日は二十五日で、金沢には、それにちなんだ二十五天神巡礼札所がある。第一番が野町玉泉寺で、寺町、野町、片町、中央通り、三社町、長田、中橋町、広岡町、本町、此花町、瓢箪町、浅野本町、山の上町、東山、卯辰町、橋場町、桜町を巡って第二十五番天神町椿原天満宮にいたるもので、城から三㌔㍍未満の円周内に整えられた。
この巡礼札所は全国的に見ても、最も早い時期に成立したもので、宝暦二年(一七五二)には、俳人仲間によって金沢二十五天神巡りが行われている。この範囲が城下の内、と意識されていたのであろう。
この二十五天神を結ぶラインは、藩主の信仰と関わる金沢独特の境界であるが、この世とあの世の境が意識される墓地に、六地蔵が祀られているように、境界に安置されたのは地蔵が多い。もともと塞(さえ)の神・道祖神(どうそじん)などと呼ばれた結界石を、地蔵が肩代わりするケースが多く、金沢には、地蔵の縁日、二十四日に由来する二十四巡礼札所と、その倍の四十八巡礼札所が成立した。先に出来た二十四巡礼札所は寺町から犀川を越えた片町までの範囲に集中している。犀川は、本来、塞(さい)川であった可能性が強い。

倉ヶ岳・高尾・黒壁

金沢と野々市境にある倉ヶ岳(五六五㍍)は、加賀国領主の居城・高尾城の背後にあって、山頂付近に倉ヶ岳城址、大池、小池がある。近くの倉ヶ岳集落には、一〇本もの杣(そま)道が通じているといい、天文一五年(一五四六)に現在の金沢城の地に尾山御坊が築かれるまで、麓の野々市・金沢一帯からは霊山と仰がれていた。倉ヶ岳には、霊山伝説とでもいうべき特有の伝承が伝わっている。
一四八八年(長享二年)、一向一揆との闘いに敗れた加賀国領主・富樫政親(まさちか)は、居城の高尾城から倉ヶ岳に落ち延びたものの、追跡してきた一揆方の水巻新介と一騎打ちの末、馬もろとも大池に墜ち、戦死したという。政親の亡くなった旧暦六月九日には、池に朱塗りの鞍が浮かび、人びとは決して池に足を入れてはならない、とされていた。
鞍は神の象徴で、鞍が出現するのは神の示現を意味する。大池は雨乞いなどと関わる聖なる池であって、神に祀りあげられた政親の話が加わることにより、具体的な、忘れてはならない聖地として、語り継がれてきたのである 
この倉ヶ岳の艮(うしとら)・鬼門(きもん)にあたるのが伏見川の上流、三小牛町にある黒壁である。鬼門は、古代中国で生まれた概念で、冬になると北方から侵入してくる異民族に対する恐れが元になっている。
中国の都市造りを真似(まね)た日本でも、艮の方角に強力な仏神を安置した。例えば、平安京では、鞍馬山が艮に当たり、そこには毘沙門(びしゃもん)天を祀っている(訂正・比叡山)。畿内からは、越(こし)の国が艮にあたり、艮の延長線上に、白山、気多(けた)、須須(すず)神社の強力ないくさ神を配置した。
黒壁には、そのような地が持つ様々な要素が凝縮されている。『三州奇談』や『亀の尾の記』は、黒壁は魔魅(まみ)の住む所であり、山に慣れたキコリたちでさえ、日暮れともなると近寄らず、また異人に逢って命を失う者が多かった、と記す。また、利家が金沢城に入城した際、一向一揆の拠点・尾山御坊のあった本丸が魔所だとして、黒壁へ移し込めたとの伝承もある。境界は、修験者の格好の修行場でもあった。京都の鞍馬山と同じように、黒壁にも山伏が出入りした。現在、ここには、観音の化身とされ、天狗を祀る九万坊大権現・天台宗薬王寺があり、商売繁盛の信仰を集めている。
また、高尾では、時々、隠火(人魂)がさまよう様子が見られたといい、それは、政親の亡霊とも、前田に滅ぼされた一向一揆指導者の「坊主火」であるともいわれていた。

山人と里人のふれあい、椀(わん)貸し伝説

山と里の接点を語る伝説の代表に「椀貸し伝説」がある。里人が儀礼に必要なお椀を、境界(穴が多い)で頼んでおくと、それが用意される。ところが、約束の日にお椀を返さなかったり、数が減っていたりしたことから、椀貸しは途絶えてしまう、という話で、山人と里人の物々交換の様子を伝える話とされている。金沢近辺で「椀貸し伝説」があるのは、医王山の大池、竹又の椀貸し田、犀川上流東布瀬の椀貸し淵、梅田の膳貸し穴、脇原・北方の間の天狗カべ、才田山の御亭(おちん)山、御経塚(おきょうづか)などで、これだけ多くの「椀貸し伝説」がまとまってある所は珍しい。里人にお椀を貸しに来た使いが、才田・御経塚では狐だと伝え、才田には蓮如上人のお手植松・盤持(ばんも)ち石も伝承されている。
蓮如上人が境界に登場するあたりは、いかにも一揆国らしいが、ここに記したような、城下以前の歴史を語る話が、さりげなく顔を見せているのが金沢である。こうしてみると、加賀藩三〇〇年の歴史も、長い金沢の歴史の通過点でしかなさそうだ。金沢は奥深い。

 

八組坊守会-25日(火)

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遠くに海、七ツ島が見え、ウグイス、浜千鳥?が鳴き

さまざまなあじさいが、あちこちに咲いているお寺で

坊守会。

何ヶ寺に一頭の割合で、ご本尊台座に「獅子吼」を見ることが出来る。

会所の獅子は正面に向いて―仏法広まれ!!と(獅子)吼している顔立ちの整った出色の像で、写真に収めさせていただいたのだが

露出その他失敗で、暗くて分からない写真になった。

あじさいからして色合いがおかしい。

 

仏法広まれ・・・と書いたが、加賀に獅子吼高原があるのでそこからの連想で、

弥陀の観賞呼び声を聞け・・・の大音声ととらえた方がいいかも知れない―そのあたりはじっくりと・・・。

 

写真は獅子吼はこのような例もありますよ、の意味で能登地区の他のお寺のもの。

 

「妙好人を育む 別院・風土」高岡教区大三組第二小会 第4回同朋のつどい テーマ 別院のある暮らし 於城端別院善徳寺   

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血染めの御名号。1997年5月30日撮影。10字と6字の名号で特に6字には血書の跡が見て取れた。


 

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このような立派なチラシが用意されていた。

法話が始まる1時間前に見た。

 

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 キーワードが妙好人

鈴木大拙師は、数え60から真宗を世界に広めたいとの願いを持たれ(『鈴木大拙 真宗入門』佐藤平訳)、まず英文で(於けるニューヨーク、アメリカン・ブッディスト・アカデミー)真宗入門を講義なされた。どれほど高邁な理論であろうとも、法のみ、あるいは実践不可能な行であれば、教にはならない。

末法に唯一残ったというか仏教の根源が表にあらわれ生き続けたのが、凡夫の救い=真宗だった。

その行者の代表が「妙好人」、と考えたのが大拙の60過ぎだったようだ。

その妙好人は、赤尾の道宗にはじまり石見の才一によって理想の一つの完成と捉えた論が載るのが『日本的霊性』である。

上は『日本的霊性』(角川ソフィア文庫)の目次。

ならば、道宗さんのお寺を何を置いても訪ねなければなるまい。

朝7時過ぎに珠洲を出発して一端城端別院を通り過ぎ赤尾へ向かった。

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 散居村展望台より

 

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 小栗栖(こぐりす)地内

 

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 赤尾山道善寺・上新屋

弥七御書がある。

 

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上梨白山宮

このFB友だちで白山大好きの方がおいでるので、一枚。石碑には「こきりこの(里?)」と刻まれている。

だいぶ前のことだが、ここを通った時、舞台を組んで「こきりこ節」踊りを踊っておいでるのに出会ったことがある。

 今年の5月11日~12日に白山宮御開帳三十三年式年大祭が行われていたのだ。

三十三年は白山本地(十一面)観音との関わりによる。

 

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 漆谷・慰霊碑

碑文

殉難の記

昭和十五年の新春は奇しくも雪の無い

穏な日和で迎えたのであるが、一月二十四日から

降り始めた雪は連日連夜止むことなく

降りしきり住民は屋根雪おろしに明け

暮れる毎日であった。一月二十八日の午後雪始末の

一段落した上の村の人たちは念佛道場の

雪降しのためかんじきを履き丈余の雪を

かき分けながら村中谷にさしかかったところ

大音響とともに表層雪崩が発生し

一瞬にして民家四戸と十三名の尊い

生命を奪ってしまった 嗚呼時過ぎて

五十年今もなお痛恨の極みであるが

ここに亡き十三名の冥福を祈って碑を建て

常磐に慰霊の誠を捧げる

 平成二年清秋

 

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 漆谷道場

「血染めの名号」がある。

天正元年(1590)、本願寺織田信長に対していた時、諸国の門徒に檄文を送った為、越中、加賀、能登に大規模な一向一揆が発生した。五箇山門徒一揆に参加する人達は漆谷念仏道場に集結し、寺宝である蓮如上人真筆の無碍光仏・六字と十字の名号・正信偈文4幅に血判(43名)を押して出陣したと伝えられている。

能登教区十組門徒会の方々をを引率して訪れた時(1997年5月30日)、「血染めの名号」を拝見したはずだったが、あれから22年この場所にたどり着くのがやっとだった。

 アルバムに当時の写真があった。

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1997年5月30日、能登教区第10組門徒会研修旅行引率の折、今杉が切られている。

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血染めの御名号。1997年5月30日撮影。10字と6字の名号で特に6字には血書の跡が見て取れた。

この年、続いてメインの目的地である道宗さんのお寺に寄った。

そこで坊守さんが正座し、やわらかく由来を解説し語って下さった。門徒会の幹事や手伝いは元高校校長さんたちだったが、語りの素晴らしさにこぞって感動し、絶賛なさった。もちろん、引率していた私もである。

それから、8組、紫会などの坊守会研修でも道宗さんのお寺を訪ね、お話しに聞き入ったものだった。

当時の写真を拡大したりして見ていると、薪に寝る有名な道宗像の上部に、道宗の法名がかかっており、「永正十三年五月二十日 行徳寺釈道宗」と読める。

ご命日にお参りしていたことになる。

何という偶然、その日別院でお話ししたのだから、そのことを知っていたら切り口も変わっただろうな、と少し残念気分。

が、このことがきっかけで、お話しなさっている写真も含め貴重な写真に出会えたのだから、行ってきてよかった。

次世代の方も素晴らしい方だった。

 

 

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午後 講義(城端別院)

その後、大福寺さんで勉強会、懇親会。

桜ヶ池クワガーデン泊
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二十一日朝、城端の景観。

 

帰り、引用した『真宗入門』の訳者・佐藤平(顕明)さんと深い関係がある松扉さんのお寺にお寄りし、先人を偲んだ。

尾田武雄さんのブログより―南砺市大福寺でのつどい

 

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が、太田浩史氏の計らいで城端別院善徳寺で講演会をされた。その後で先生を囲む会が大福寺で開かれた。万葉料理研究家で最近『大門素麺』の著書を出された経沢信弘らと共に参加した。能登と砺波のつながりなど談論風発で楽しい夜であった。知識の豊富な先生に多くを教わり、また元気が湧いてきた。

※ここから西山の記事
向かって左から
谷中秀治さん、尾田武雄さん、西山、太田浩史さん、寺本信一(青嶺)さん、経沢信弘さん、塚本昌紀さん
後ろの法然聖人は著名な人の作(この説明ならちっちゃな子でも書ける。ひとしきり皆が話題にしておいでたのをボーと聞いていてメモしなかった) 

会のはじめの方には、とやま民俗学会でのご活躍が著しい加藤享子さんも和に加わっておいでた。

 

谷中秀治さん 

 

谷中秀治 (Hideji Taninaka)bass プロフィール
 
1959年 富山生まれ
22才コントラバスを始め、地元ミュージシャンと活動。
1987年渡米、ニューヨークで活動。
JVCジャズフェスティバル
Heinekenジャズフェスティバル、
オランダRotteldamジャズフェスティバル
などの他、NYのジャズクラブなどでも演奏活動。
11年間ジャズの他、即興音楽、民族音楽にも出会う。
1998年帰国後、富山を拠点に、ジャズの他、
アンデスグループ「WAYNO」、
地元富山のグループ「アペラッチャコ」と
活動を続けている。
主な共演者
マルウォルドロン、ホレスパーラン
渡辺香津美本田竹広田村翼
エブリンブレイキー、デレックベイリー
ハンベニック、ウィリアムパーカー
ロイキャンベル、ゼインマッセイ、
富樫雅彦坂田明、板橋文男、林栄一
ジュニアマンス、藤井貞泰、山本剛、
梅津和時、八尋知洋etc
 
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行本清喜氏のブログより。

声も素敵な方だった。

 

尾田武雄氏


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明治の妙好人砺波庄太郎の御講です。
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著書

umiyamabusi.hatenadiary.com

 太田浩史さん

太田さんはブラジルに報恩講御布教で2週間出向かれ、帰った翌日から蓮如上人御影道中御上洛の随行教導(布教師)として5月2日から9日、吉崎から京都まで随行なさった。

ご本人に叱られるかも知れないが、ものすごい行である。わたしも5月3日~5日にかけて歩いたことがあるので、大変さと自然の中を歩く感動がほんの少し理解出来る。お説教をなさりながら・・・となると想像を絶する。

その記録をA5100頁に「蓮如上人御影道中上洛随行記」としてまとめられ、この集まりにお配りになられた。出だし部を少し読んだだけだが出色の記録である。

さまざまな分野で活躍なさっているその一端。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

寺本青嶺(信一)氏

薩摩琵琶演奏家、師匠

寺本靑嶺(てらもとせいれい)□. 金沢市出身(1943年生まれ)。京都在住の折、. 当時の京都琵琶協会会長(故)平井春嶺氏に師事. して、薩摩琵琶正派を学ぶ。現在は「奏拳の会」. を主宰し後進の指導にあたり、各地で演奏活動を. 行っている。

 

経沢信弘氏の著書 

桂書房から『大門素麺』を発刊された


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万葉料理研究で著名な割烹まる十店主経沢信弘氏が、今度桂書房から『大門素麺』を発刊された。僭越ながら序文「大門素麺と砺波」を書かせていただいた。1冊1000円に税である。
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塚本昌紀氏 
当社(一般社団法人地域・観光マネジメント)は、地域のみなさまと協力して地域資源を活かした着地型観光商品の造成と観光誘客事業を行っております。事業を通じて地域の賑わいの創出や経済効果をもたらし、地域が持続して発展していける仕組みづくりや事業をさせていただければという思いから、活動しております。   代表理事 塚本 昌紀

<名称>
一般社団法人 地域・観光マネジメント

設立:平成27年11月 代表理事:塚本 昌紀  従業員:13名(非常勤職員含む)2019年4月現在

【富山オフィス(本社)】
〒930-0023 富山県富山市北新町2丁目2番7今井ビル6B
TEL:076-471-6103  FAX:076-471-6104

【福井オフィス】
〒919-0131福井県南条郡南越前町今庄75-39-2今庄タクシー2階 (JR今庄駅前)
TEL:0778-45-1710  FAX:0778-45-1755

 
加藤享子さん


他にも、わたしにとっては幻の方である久保尚文さんや

立山博物館の加藤さんも参加なさる予定だったという。

 

 

松扉哲雄師『自知叢書』シリーズ


昨日(17日・月)、教務所で「自知苑叢書」の出版元はどこかと訪ねられた。

 

「自知苑叢書」は父の大学時代の先輩である松扉哲雄さんが、自坊明円寺から出しておられた本のシリーズである。

数年前、わたしは現御住職と相談して、松扉さんの御著書で、県立図書館にないものを図書館におさめさせていただいた。

いい書物は、皆の目に止まることができるようにしておきたい・・・ささやかな願いを行動した。

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如来にあう』
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『回向の御名』
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如来の願船』
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『遇光のよろこび』
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『道俗の帰外』
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『和讃に聞く(三)』
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『和讃に聞く(二)』
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『和讃に聞く(一)』
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『自身に遭う』
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『人間成就 巻頭言(一)』
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『虚仮不実の身』
以上11冊松扉哲雄氏(以下氏略)著
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『人間成就』松扉哲雄、亀井鑛著