かたつぶり どこでしんでも 我家かな

6日(土)、当寺の祠堂経お参りの後、大坊へ出向き正福寺さんで、金沢大谷婦人会の方々に真宗初期の法宝物の解説をさせていただいた。

珠洲市文化財に載る「蓮如上人草案御文」の説明文は、真宗史研究者として業績を残された正福寺前住職・篠原映之氏がお書きになったものだが、説明するにあたって草案御文が4個所に広がっているとの記載があり、草案御文が載っている『能登教区教化センター落慶記念 能登真宗展』(昭和54年能登大谷学場刊)の解説を読み、その他の法宝物(全75点)を見ていたら、面白い句があった。

 それで、かたつむりどこで死んでも家の中、いいなぁ―と大きな声で働いている場へ一人言をいいに行き、

もどって確かめ直すと、「―我家かな」だった。

鮎は瀬にすむ 小鳥は森に わたしゃ六字(南無阿弥陀仏)の うちにすむ(長門のお軽)を思っての、いいなぁ!「我家」である。

「家」には「法喜充満」。

どちらがいいかな?

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かたつぶり どこで死んでも わが家かな

鳳渺は開神院了栄。その遺墨。

開神院は、第24代講師。著書に「観経玄義分内申録」三巻、「観経序文義癸巳記」三巻など多数。

文政二年(1819)羽咋郡大笹願行寺芳岡了法の第五子として生まれ、弘化元年(1844)門前町広岡満覚寺了長の嗣子となる。安政五年(1858)同寺住職となった。明治8年近江愛知川宝満寺に移住した。(『能登教区教化センター落慶記念 能登真宗展』より)。

子の開導院了賢も講師。

大笹願行寺姓は芳野である。間違いだと思うが、近くの覚龍寺住職姓が芳岡で、昭和44年に還帰された良音師は、四高・京都帝大を出られ、第六高等学校教授、バンドン工業大学教授、湊川女子短大教授などを歴任。「釈尊無量寿経親鸞聖人とを貫くもの―無量寿経の成立史的研究」で宗祖700回御遠忌記念論文募集で本山賞授与。七尾大谷学場長、嗣講の学階を贈られているというから混乱があるのかも知れない。

節談説教の大家・広陵顕純師の御自坊が満覚寺で、私は相当前からあんなに多くのお話しを覚え語ることができるのは、講師家の流れを汲んでいる方だからだと思っていた。

「学」の話になると極めて謙虚なお方で、話題がそちらへ行ったことが無い。

 

一方の栗山・芳岡氏からは2013年遍照岳を訪れた際にお寄りし『土田の歴史』(芳岡良音著)を戴いた関係でもあり、

お聞きすればすぐ分かることなので、体の空く11日過ぎに、能登の先学の地を訪ねようかと、書きながら思っている。

 

真宗人名辞典』(法藏館刊)には、「出自―能登願行寺芳野良法の5男、母は村松氏」と載る。

一件落着だが、母・村松氏は標左右衛門家?と新たな疑問。

そこまで知ってどうなる?だね。

 

句を挙げて、

「かたつぶり」は最近出会わないなぁ・・・の二行でおわるはずだったのに。