令和元年「蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上」(太田浩史師)5月3日(金)の記事より

 

 

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1986年(昭和61年)5月5日。この日は朝4時50分お宿浄念寺さんで晨朝勤行。間もなく出発。今庄大門・朝6時28分の様子。この子たちももう40歳くらいになっているのだ。
 

 

私が蓮如上人御影道中にまじって5月3日から5日にかけてお共したのは、1986年(昭和61年)のことだった。

飯田高校に勤めていたころのことで、思い切ってその年の連休について歩いたのだった。

どこで合流したのだったか?

福井別院の印象があるので、思い出せるはずもない33年前をたどろうと、先日・6月20日太田浩史さんからいただいた「蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上」の5月3日を読んだ。

全てが素晴らしい記録であり、歴史・民俗論なのだが、

この日の話は胸を打つ。

引用して、多くの人の目にとまってもらいたい。

蓮如上人御影道中御上洛随行記 巻上

5月3日

○福井別院
私の住む越中西部から江戸時代にたくさんの真宗門徒が相馬地方、今の福島県浜通りに移民した。
二〇一一年三月、東目本大震災と原発事故に苦しむ人々の支援に、私たちの南砺市は九名の救援隊を派遣することにした。
それは同地の真宗移民が南砺市一円から最も多く出ているからだった。
三月二十四日、支援物資を積んだ救援隊の車三台はおそるおそる無人となった飯舘村を突っ切って南相馬市に入った。
屋内避難指示が出ているので街に住民の姿はなく、見かけるのは自衛隊、消防、警察の関係者のみであった。
さっそく私は市役所の職員に遺体安置所となった体育館に案内された。私は福島に行く前から、こういう時一番役に立つものは何かを考えていた。
思い悩んだ末持っていったのは蓮如上人真筆の六字名号だった。
体育館で若い自衛隊員にそれを掲げてもらい、正信偈をあげた。すると何十人もの自衛隊員と消防隊員が整列して合掌した。
彼らがみんな自分の珠数をもっていたのが印象的だった。
放射性物質の危険を犯して毎日冷たい海岸から遺体を引き上げては運んでいたのは、二十代の若者たちである。
珠数を持った時だけ涙をながし、またまなじりを決して海岸にもどっていった。

※~※は西山追記

※あの地震の時、私は親戚の葬儀で鹿西町金丸というところにいた。夜は七尾でホテルをとった。そこで始めてテレビに映る津波の様子を見た。信じられなかった。その晩長野でも大きな地震があり、ホテルが揺れた。

親鸞聖人聖人750回御遠忌は、追悼法要に変更となり、何人ものキャンセルが出る中、それを埋めるべく急遽私も団体の一員として本山に向かった。

草津インターで待ち合わせのため、バスが入った時、多くの若い自衛隊を乗せた車両や警察車両が任務交替のため、インターを出入りしていた。

それを見た瞬間、どこかで信じたくなかったことが現実となり、あまりにも若い人々が災害の前線で働いている姿を見て、涙があふれて止まらなくなった。

太田氏の現実とは、隔たりが大きいものの、2011年3月22日の記憶がバーッと蘇った。※


私以外にもう一人遺体安置所に僧侶がいた。
地元の曹洞宗の住職で、避難勧告に従わず毎日やってきて読経するのだという。
曹洞宗の寺院数は一万五千、東北は特に多い。
西本願寺派は二万、合計すると日本の仏教寺院の半数をしめる。曹洞宗本願寺ともに教団のルーツは越前にある。


道元蓮如がこの地で教線を飛躍させた。
考えてみれば越前という土地は宗教的にものすごい力をもっている。仏法者には教学者型と教育者型があると思うが、道元蓮如に見るように越前には教育者型が多い。

 

江戸時代には福井の城下から香月院深励が出た。
学識抜群で千三百人の門弟を誇った深励は一見教学者型に見えるが、実はやさしい表現の法話で庶民教化にいそしんだ教育者型の側面が強かった。

 

現代では松原祐善師がその典型。
昔私の寺のすぐ近所に結核の療養所があって、そこに一時祐善師が療養しておられたので、私の父が近所の僧侶を語らって見舞いかたがた教えを聞きに行った。
すると祐善師が語ったのは昭和二十三年六月二十八日の福井地震の話だった。
祐善師は福井の友人の家にいて建物の下敷きになった。
午後四時過ぎの発災なのですぐ夜になった。
真暗闇の中で身動きできない恐怖。
ところが近くで同じように下敷きになっていた友人が、自分のことを指し置いて「松原がんばれ、松原がんばれ、松原がんばれ」と朝まで連呼し続けたのだという。
祐善師にとってきわめて重要な宗教体験だった。
私が大谷大学に入った時の学長が松原祐善師だった。
背広姿で長靴をはき、風呂敷包みを抱えた祐善師が校内を歩いていると、学生が「おはようございます」と挨拶する。
祐善師は立ち止まり、姿勢を正してから丁寧に頭を下げ、「おはよう」と言つてから頭を上げると、相手の学生は遠くに行ってしまっている、そんな教育者型の仏法者だった。

 

ある年の学園祭の時である。弓道部員だった私は、弓道場を利用して親鸞聖人の原始教団の時代の念仏道場を再現しようと思い立った。
聖人の役は松原学長をおいて考えられない。
そこで私は学長室に頼みに行った。
あっさり断られるかと心配したが、祐善氏は目を輝かせて、「その役、ぜひこの松原にやらせていただきたい」と、向こうの方から歎願された。
当日、祐善師は黒衣・墨袈裟・安城型念珠、つまり安城の御影の姿で道場に現れた。
そして板の間に座る学生に向かって、「何でもこの松原に尋ねなさい」と言われた。
すると一人の学生が、
「私には悩みがあるんです。口には言えないけれど、とても大きな悩みなんです。いても立ってもいられず、ほんとうにどうかなってしまいそうです。どうしたらいいんでしょう」と泣きそうに言った。
すると祐善師、念珠をつかんだ手を学生の方にかざし、「その悩みは」と厳かに口を開いた。
「もっと大きな悩みによって消える」。

※私が大学受験した年は、後で団塊世代と呼ばれるくらい急に増えた受験生に対処すべく、受験界も混乱しきってた。難しいといわれていた特別奨学金貸与も試験に受かっても進むコースによって貸与されなかったり、受験日が間に合わなくて、後になった試験日で○×式問題で答えさせた大学もあったのである。

そんな中、私は大谷大の二次試験を受けた。かなり面接重視のだった印象がある。その時の面接官が、私の履歴を見て、突然、君は西山君の息子か彼とは同級生なのだ。西山君は本当によく出来た。試験はどうだった―○○ぐらいのできです。じゃあ、君はここへ来たまえ・・・のような話で面接を終えたのである。

 面接の途中から、優秀な西山君は父が養子に入るきっかけとなった、大学を終えてまもなく伝染病でなくなった四教という人の話だと気づき、優秀な人だったらしいことは義理の祖母から聞いたことはあったが限られた面接時間中に、違うのですともいい出せずに終わった。

 それから3年後。私は大谷へ行き、太田氏が書いている面接官だった松原先生を見た。真宗学を学びたいとの思いはあったが、面接の時、

ここへ来たまえ。

はい受かったら大谷でお世話になりたいと思います。と、結果的にウソを言ったことがバレるのをおそれて、先生の姿を見かけると出会わないように隠れた。その時点で、真宗学は遠いままに終わった。

それから、何年かして私が飯田高校で教務主任をしているころ、京都の大谷高校から石川県立高校の教員となった松原という先生が、飯田高校に赴任してきた。

 

その方が松原家の跡継ぎだったのである。

 あまりに劇的な流れで、思いだすと疲れる。ただ、松原学を学ぶのはこれから、ということだけははっきりしている。※

 

 

 

 

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