加賀国主・富樫政親が拠った高尾城―一向一揆530年―

昨年加賀の一向一揆530年だった。

特に何の行事もなく530年は過ぎたが、

石川県埋蔵文化財センターが公益財団になってから、昨年が20周年だったことがしばしば評議員会の話題に上るので、その先の埋蔵文化財時代から背負い気になる「高尾城」に対する埋文としての統一見解のようなものがあるのかないのかを、

昨日開かれた評議員会の折、訪ねた。

県内には金沢城始め、利家が最初に拠った七尾城址一向一揆最後の砦となった鳥越城址など重要な城跡が各地にあるが、一向一揆との争いで敗北し、以降「門徒の持ちたるような国」を一世紀近く現出することになった戦国国主富樫正親、彼が最後に拠った「高尾城」は、極めて需要な城であるのに、ほとんど話題になることも無かったような気がする。

その理由は、高尾城址にかつての県教育センター(現石川県教員総合研修センター)があることによる。

 

教育委員会と深く繋がっている埋文と、保護されて残っていなければならない城跡に、委員会関係の建物があり、短絡的に考えれば、教育センターを建てるために重要な城跡を破壊したー

ブラックユー―モアにもならない現実があるのである。

 

私はかつて『おもしろ金沢学』(北國新聞社刊)に「心の中にあった城下の境界」を書いたことがあり、境界に富樫政親終焉地伝承がかなりあることに触れたが、

「高尾城」は書くことが出来なかった。

それは、教育委員会の建物の為に遺跡が破壊されたのであったらどう県民に説明がつくのか、黙っていよう・・・といった感覚だったのである。

ところが、今年1月25日に大著『一向一揆の研究』を著しなさった3人(笠原一男氏・昭和37年6月30日、山川出版社刊、井上鋭夫氏・昭和43年3月30日吉川弘文館刊、北西弘氏・昭和56年2月28日春秋社刊)の、最後の方・北西弘先生が還帰なされた。

それを機に、気になっていた高尾城のことを、いろんな文献で見ていくと、

 高尾城の保存問題
「一四八八年、一向一揆に攻め滅ぼされた富樫政親が最後に拠った高尾城は金沢市高尾町、旧鶴来道に面する通称城山に位置した。一九七〇年から翌年にかけて北陸自動車道建設のための土取り場にされ全く発掘調査もされないまま大部分破壊された。土取りに反対の声が少数ながら出されたが、道路公団・行政側に押しきられてしまい、文化財保護行政に大きな禍根をのこした。現在、県教育センター。」

「今から十五年前(昭和48年)、高尾城が北陸自動車道土砂取りで崩される時に、北國新聞社に電話しまして、「何とかならないのか」と電話機にしがみついて訴えた」

「井上鋭夫 一九三二年 加賀市生、一九七四年没。新潟大学教授などを経て、晩年は金沢大学法文学部教授。今日の一向一揆研究の基礎をつくった権威者の一人であり、高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名。」

(以上『加賀一向一揆500年 市民シンポジウム・私にとって一向一揆とは』平成元年6月30日能登印刷・出版部刊)

「十分な調査がなされないまま昭和45年土砂採取によってジョウヤマ部分が破戒されたことは非常に残念である。」(『石川県中世城館調査報告書Ⅰ(加賀Ⅰ・能登Ⅱ)』平成14年3月31日・石川県教育委員会)   

などの文献記事に出会った。

 

北陸道という道路工事があって、高尾山から土砂が運ばれ、井上鋭夫氏の阻止運動があったが、間に合わず、その跡地に教育センタ―(現・石川県教員総合研修センター)が建ったということらしい。

そういう認識があったので、敢えて埋文の関係者がどのように認識しておられるかを訪ねたのである。

 

その場で、評議員の佐々木達夫氏(金沢大学名誉教授・考古学)、平口哲夫氏(金沢医科大学名誉教授・考古学)から、当時の県考古学研究会の動き、そのことに触れた会報を教えていただき、前述「高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名」の図式にまとめられても、ご本人が困る事情があったことにも気づかせていただいた。

 

今、高尾城を調べるというより、過去にいろんなことがあったにしろ、ともあれ重要な遺跡であるから、現状はどうなのか、会議の後、見に行ってきた。

 

高尾城跡には、何も(案内板など)なかった。

見晴台に行く標識も地元の公民館が整備したものらしい。

一向一揆を巡っての論議が沸騰してから30年。

客観的に整備・紹介される時期に来ていると思う。

 

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一向一揆研究。高尾城問題の先に井上氏の本が刊行されていた。笠原本昭和37年6月30日、井上本昭和43年月30日刊、北西本昭和56年2月28日刊行。

 

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高尾城址見晴台への道、案内標識。桜が綺麗らしい


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高尾城址より日本海


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国道から見た高尾山


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北西先生の御自坊26日朝

 

 

高尾城を訪ねる前に、シンポを始めその後もズーッと真宗史の中心を担っておられる大桑斉先生のお寺におじゃまし、翌26日、帰り道の途中に北西先生の御自坊へもお寄りした。

 

 

 

参考

以下加賀一向一揆500年 市民シンポジウム・私にとって一向一揆とは』平成元年、6月30日発行 能登印刷・出版部より
「今から一五年前にお亡くなりになった金沢大学の井上鋭夫先生(※1)が、一九六八年(昭和四三)まで新潟大学にお勤めで、『一向一揆の研究』という大著を出されました。私はその井上先生の若かりし日の学生でした。新潟県から始まって、北陸各県を、夏休みになると、七月半ばに山の中に入って、山からおりてくると九月になっているというような、かなりハードな調査を、毎年のように私は先生にお伴して歩いていました。(P25)」

「一九六八年(昭和四三)、ちょうど二〇年前に井上先生(※)が、いわば北陸の百姓の持ちたる国の本拠地金沢・尾山御坊にある金沢大学に赴任されて間もないころ、ちょうど加賀一向一揆の勝利の記念碑とも言うべき、高尾城の保存問題(※)、破壊の問題に直面されたようでした。ここに書いてあるようなことを、放送で話されたか、書かれたかして、大変地元で強い反発を受けた。そういう話を井上先生から、うかがったことがあるんです。」(藤木久志・基調講演、P29)
※高尾城の保存問題
一四八八年、一向一揆に攻め滅ぼされた富樫政親が最後に拠った高尾城は金沢市高尾町、旧鶴来道に面する通称城山に位置した。一九七〇年から翌年にかけて北陸自動車道建設のための土取り場にされ全く発掘調査もされないまま大部分破壊された。土取りに反対の声が少数ながら出されたが、道路公団・行政側に押しきられてしまい、文化財保護行政に大きな禍根をのこした。現在、県教育センター。(P29)
○三十七歳 自分が今から十五年前、高尾城が北陸自動車道土砂取りで崩される時に、北國新聞社に電話しまして、「何とかならないのか」と電話機にしがみついて訴えたことを思いだしていました。まだ学生でした。(高田実・問題提起)P81 
※シンポは1988年15年前は1973年昭和48年
○昭和五十二年、いつの間にかあの山が、赤土の山に変わってしまった。(荒木孝三)P180
※1井上鋭夫
一九三二年 加賀市生、一九七四年没。新潟大学教授などを経て、晩年は金沢大学法文学部教授。今日の一向一揆研究の基礎をつくった権威者の一人であり、高尾城跡破壊問題では行政側の無策を厳しく批判したことでも著名。

○井上鋭夫『一向一揆の研究』 はしがき 2頁 昭和四十二年十月八日発行より
「思えば初和二十二年、「近世社会生成の一過程―加賀一向一揆の政治形態とその農村との関係―」という題名で、私が卒業論文にとりくんだのは、生家が吉崎に近く、数百年の本願寺門徒として「蓮如さま」に親しんだということのほかに、当時、社会経済史学と無縁の姿勢をとりつづけている仏教史学にあきたらなかったところもあったのかも知れない。」

[ウィキペディア・参照]井上 鋭夫(いのうえ としお、1923年2月18日~1974年1月25日は、日本の歴史学者。文学博士。「一向一揆」研究の権威。
石川県生まれ(※)。1942年9月、第四高等学校卒業。1948年東京大学文学部国史学科卒。跡見学園を経て、1951年新潟大学人文学部助手となり後に同学部助教授、教授を歴任。1968年に金沢大学法文学部教授。1971年に「中世末期における一向一揆の研究」で東京大学から文学博士の学位を授与される。
中世・近世の生活、宗教、合戦、日本海文化の総合的研究をすすめながら史料の編纂につとめ、多数の著書がある。研究誌及び一般誌への寄稿も多い。
著書
本願寺』至文堂、1962年(講談社学術文庫、2008年)
一向一揆の研究』吉川弘文館、1968年
蓮如 一向一揆(日本思想大系17)』(笠原一男共著)岩波書店、1972年
『山の民・川の民―日本中世の生活と信仰』平凡社、1981年など

 

『石川県中世城館調査報告書Ⅰ(加賀Ⅰ・能登Ⅱ)』石川県教育委員会平成一四年三月三一日発行より
高尾城跡(多胡城、富樫城)
標高一九〇m、比高一四〇mの山城。金沢御堂と手取谷を繋ぐ街道沿いに位置する交通の要衝でもある。高尾集落の背後に位置し、同集落を見下すことができる。
 長享二年(一四八八)加賀守護富樫民終焉の城郭として、また、一向一揆支配出発の地としてよく知られるところである。しかし十分な調査がなされないまま、昭和四五年土砂採取によってジョウヤマ部分が破壊されたことは非常に残念である。
 かつてはこのジョウヤマが富樫政親の居城とされており、コジョウの存在はほとんど知られていなかった。現在コジョウと呼ばれている場所には、切岸・竪堀・畝堀・堀切・虎口が完全な形で現存しているが、ジョウヤマと呼ばれている場所は、大部分が破壊され、郭の一部が残存しているにすぎない。
 コジョウは基本的には単郭で、郭はあまリ削平されておらず、ほとんど自然地形である。東側と南側は堀切e1・e2・e3で遮断されているのに、ジョウヤマとの間には強固な遮断線は設けておらず、さらにジョウヤマの方向に虎口を開いている。ジョウヤマとコジョウは、強い結び付きを持っていたことを物語っている。特に注目したいのは、ほぼ全周を巡る角度の鋭い高切岸と、腰郭の直下に設けられた凹凸に加工された遺構である。凹凸に加工したのは腰郭を横移動する敵兵の動きを阻止するためで、性格は畝堀と同じである。横移動を阻止された敵兵は、さらに高切岸によって行く手も阻まれたわけで、高切岸と凹凸遺構がセットで構築されたことを物語っている。
 コジョウの遺構は、大規模な堀切・竪堀と単純な構造ながらも虎口が残っており、明らかに一六世紀末の遺構である。コジョウの郭の削平はあまりなされておらず、ほとんど自然地形のままで、居住性はほとんど窺えない。軍事的緊張が極度に高まった結果急速築城され、軍事的緊張が解消された結果廃城になったと考えられる。
 ジョウヤマに高尾城があったのか、別の地点にあったのか、いずれにしろ、現存しているコジョウと富樫政親の高尾城とは別々の城郭である。
 コジョウに残る高切岸と、凹凸遺構は日谷城(加賀市)や黒谷城(山中町)にも見られ、両城とも一向一揆の城郭である。ということは、天正八年(一五八○)柴田勝家軍来攻に備えて、一揆軍が金沢御堂の出城として急速築城したという仮説も成り立つであろう。(佐伯哲也)
参考文献 宮本哲郎「金沢市高尾城跡」『石川考占』第230号一九九五

『おもしろ金沢学』より北國新聞社、2003年8月25日発行)
心の中にあった城下の境界(西山執筆)

城下町金沢は、尾山御坊の寺内(じない)町から始まり、幾多の変遷を経て、寛文六年(一六六六)に城下町造りが完成した。区画された町とは別に、人々は、どのあたりまでを城下と意識していたのであろうか?
心の中の金沢を訪ねる。

天神と地蔵

加賀藩主前田家は、三代利常の頃から、天神・菅原道真の子孫であることを正式に名乗った。今、天神は学問の神さまである。だが、藩主前田家と、それを取り巻く家臣団にとっては、天神はいくさ神であり、敵を打ち破る猛々(たけだけ)しい神だった。それを証明するように、金沢に伝わっている初期の天神画像は、「怒り天神」系のものが多い。
元和元年(一六一五)から整えられていった寺町、小立野、卯辰の寺院群は、軍事的防御ラインであると共に、仏神の力によって精神的な恐れ(魔)をも防ぐ場所でもあった。むしろその方の期待が大きかったかも知れない。そのため、そこには、藩主以下を守ってきた天神も祀(まつ)られ、より強力な結界が張り巡らされていく。
天神の縁日は二十五日で、金沢には、それにちなんだ二十五天神巡礼札所がある。第一番が野町玉泉寺で、寺町、野町、片町、中央通り、三社町、長田、中橋町、広岡町、本町、此花町、瓢箪町、浅野本町、山の上町、東山、卯辰町、橋場町、桜町を巡って第二十五番天神町椿原天満宮にいたるもので、城から三㌔㍍未満の円周内に整えられた。
この巡礼札所は全国的に見ても、最も早い時期に成立したもので、宝暦二年(一七五二)には、俳人仲間によって金沢二十五天神巡りが行われている。この範囲が城下の内、と意識されていたのであろう。
この二十五天神を結ぶラインは、藩主の信仰と関わる金沢独特の境界であるが、この世とあの世の境が意識される墓地に、六地蔵が祀られているように、境界に安置されたのは地蔵が多い。もともと塞(さえ)の神・道祖神(どうそじん)などと呼ばれた結界石を、地蔵が肩代わりするケースが多く、金沢には、地蔵の縁日、二十四日に由来する二十四巡礼札所と、その倍の四十八巡礼札所が成立した。先に出来た二十四巡礼札所は寺町から犀川を越えた片町までの範囲に集中している。犀川は、本来、塞(さい)川であった可能性が強い。

倉ヶ岳・高尾・黒壁

金沢と野々市境にある倉ヶ岳(五六五㍍)は、加賀国領主の居城・高尾城の背後にあって、山頂付近に倉ヶ岳城址、大池、小池がある。近くの倉ヶ岳集落には、一〇本もの杣(そま)道が通じているといい、天文一五年(一五四六)に現在の金沢城の地に尾山御坊が築かれるまで、麓の野々市・金沢一帯からは霊山と仰がれていた。倉ヶ岳には、霊山伝説とでもいうべき特有の伝承が伝わっている。
一四八八年(長享二年)、一向一揆との闘いに敗れた加賀国領主・富樫政親(まさちか)は、居城の高尾城から倉ヶ岳に落ち延びたものの、追跡してきた一揆方の水巻新介と一騎打ちの末、馬もろとも大池に墜ち、戦死したという。政親の亡くなった旧暦六月九日には、池に朱塗りの鞍が浮かび、人びとは決して池に足を入れてはならない、とされていた。
鞍は神の象徴で、鞍が出現するのは神の示現を意味する。大池は雨乞いなどと関わる聖なる池であって、神に祀りあげられた政親の話が加わることにより、具体的な、忘れてはならない聖地として、語り継がれてきたのである 
この倉ヶ岳の艮(うしとら)・鬼門(きもん)にあたるのが伏見川の上流、三小牛町にある黒壁である。鬼門は、古代中国で生まれた概念で、冬になると北方から侵入してくる異民族に対する恐れが元になっている。
中国の都市造りを真似(まね)た日本でも、艮の方角に強力な仏神を安置した。例えば、平安京では、鞍馬山が艮に当たり、そこには毘沙門(びしゃもん)天を祀っている(訂正・比叡山)。畿内からは、越(こし)の国が艮にあたり、艮の延長線上に、白山、気多(けた)、須須(すず)神社の強力ないくさ神を配置した。
黒壁には、そのような地が持つ様々な要素が凝縮されている。『三州奇談』や『亀の尾の記』は、黒壁は魔魅(まみ)の住む所であり、山に慣れたキコリたちでさえ、日暮れともなると近寄らず、また異人に逢って命を失う者が多かった、と記す。また、利家が金沢城に入城した際、一向一揆の拠点・尾山御坊のあった本丸が魔所だとして、黒壁へ移し込めたとの伝承もある。境界は、修験者の格好の修行場でもあった。京都の鞍馬山と同じように、黒壁にも山伏が出入りした。現在、ここには、観音の化身とされ、天狗を祀る九万坊大権現・天台宗薬王寺があり、商売繁盛の信仰を集めている。
また、高尾では、時々、隠火(人魂)がさまよう様子が見られたといい、それは、政親の亡霊とも、前田に滅ぼされた一向一揆指導者の「坊主火」であるともいわれていた。

山人と里人のふれあい、椀(わん)貸し伝説

山と里の接点を語る伝説の代表に「椀貸し伝説」がある。里人が儀礼に必要なお椀を、境界(穴が多い)で頼んでおくと、それが用意される。ところが、約束の日にお椀を返さなかったり、数が減っていたりしたことから、椀貸しは途絶えてしまう、という話で、山人と里人の物々交換の様子を伝える話とされている。金沢近辺で「椀貸し伝説」があるのは、医王山の大池、竹又の椀貸し田、犀川上流東布瀬の椀貸し淵、梅田の膳貸し穴、脇原・北方の間の天狗カべ、才田山の御亭(おちん)山、御経塚(おきょうづか)などで、これだけ多くの「椀貸し伝説」がまとまってある所は珍しい。里人にお椀を貸しに来た使いが、才田・御経塚では狐だと伝え、才田には蓮如上人のお手植松・盤持(ばんも)ち石も伝承されている。
蓮如上人が境界に登場するあたりは、いかにも一揆国らしいが、ここに記したような、城下以前の歴史を語る話が、さりげなく顔を見せているのが金沢である。こうしてみると、加賀藩三〇〇年の歴史も、長い金沢の歴史の通過点でしかなさそうだ。金沢は奥深い。