茗荷が赤い実を付けた

当寺報恩講が滞りなく終った。終ったは一応で、まだまだしなくてはならないことも多いが、まず仏旗片付け。

仏旗を立てた所へ行く途中、茗荷がなるエリアにまだ赤い茗荷の実が残っていた。

茗荷の実

f:id:umiyamabusi:20211109062212j:plain

何日か前に、連れ合いが、茗荷の赤い花が咲いている珍しいんだって、といっていたのを聞き流していたのだが、書棚に同名のタイトル本を見つけ、

さらにまだ残っている実を見つけたので、写真に撮った。

 

親鸞紀行ー茗荷が赤い実をつけたー』円山義一著

f:id:umiyamabusi:20211109062302j:plain

円山さんは、お医者さんで「能登文化財」保護連絡協議会会長を長く続けておられ、私が珠洲市文化財専門委員だったころ、七尾での会議、その他でもいろいろとお世話になった。

著者紹介(平成16年・2004・9月4日 『親鸞紀行』発行時、による)

円山義一 えんやまぎいち

大正11年4月30日生まれ 能登文化財保護連絡協議会顧問 医療法人社団生生会会長 元、金沢大学医学部助教授(解剖学) 医学博士

父の故郷の隣・千野のかたで、妙好人であられる。

 

民謡・田植歌などに

〽茗荷めでた~い、蕗繁盛~

がある。

茗荷は冥加、蕗は富貴を意図している。

瞽女さん

f:id:umiyamabusi:20211103041048j:plain

瞽女さんについては、『能都町史』口頭伝承で、民謡を扱ったあたりからかなり関心を持った。町史執筆は昭和54年ごろなので、40年以上の関心事となる。

伝播の問題は難しいということを五来先生から直接窺ったことがあり、なんとはなしの関心事にとどまっていたが、次の文をはじめ、「瞽女さん」については書いたこともあるのである。 

 

能登のくに

第一号 平成二一(二〇〇九)年四月七日「能登を知る会」発行
能登を知る=
能登びとと風呂
 二月の新聞に、東京のお風呂屋さん(富来(とぎ)町出身)のペンキ画に、珠洲の見附島、富来の機具岩(はたごいわ)が画かれている旨の記事が載った。
 能登出身のお風呂屋さんがどうして多いのか、その謎解きから始まる空想小説の傑作『平家伝説』(半村良)があるなど、能登とお風呂屋さんの結びつきは深い。ともあれ、能登出身のお風呂屋さんの総墓があるお寺へ、調査にうかがったことがある。そのお寺は、東京小石川・東大植物園のすぐ近く、「極落水」で知られる礫川(こいしかわ)山(さん)新福寺という真宗寺院で、そこに、近藤勇夏目漱石が下宿していたことがある。
 そのお寺を尋ねることになったのは、『能都町史』専門委員だったことが関係している。委員になったのは、宇出津(うしつ)高校に勤めていた昭和五三年(一九七八)のことで、町史では真宗以外の寺院誌、口頭伝承を担当した。真宗以外とはいえ、真宗担当の篠原映之氏と共に真宗寺院の聞き取りもおこなった。その縁からだと思うのだが、あるお寺の門徒さん宅の仏像の傷みがひどくなり、修理に出そうとしたところ、胎内に墨書あるのが見つかったので調べて欲しい、と頼まれたのである。
 仏像をお持ちの能登町姫・中谷家(仲屋)へ出向き、仏像の胎内をのぞくと、確かに、延宝九年(一六八一)の年号と鎌倉仏師名などが記されている。
 仏像の他にも、寛文一〇年(一六七〇)九月小物成書上(かきあげ)の草稿や、翌年のイルカ五〇本を抵当として真脇組頭以下に六〇貫目を貸した文書など、四〇数点の古文書、ほかに真宗関係の縁起・写しなどがあった。
 幕末頃、この仲屋から小石川新福寺へ入寺し、住職になった人物がいたのである。詳しく調べるために、一九八四年(昭和五九年)八月六日に新福寺を訪ねた。暑い日だった。
 その時、新福寺住職が語った話では、近藤勇が下宿していた頃の住職は体が弱く、勇と親しかったのはその先代・祐照のはずだというのだ。その祐照が仲屋から入った人だった。
 祐照師は、文久二年(一八六二)になくなっているが、江戸にいた近藤勇が京に向かったのはその翌年のことで、勇と交流があったことは充分考えられる。
 仏像銘のこと、仲屋文書の分析、勇が東本願寺と掛け合って、住職一代限りの咒字(しゅじ)袈裟着用許可を授かったエピソードなどは、「江戸小石川から来た仏像」と題して「加能民俗」一〇-六・一二八号(一九九〇年)に書いた。
 その調査の折に、新福寺に能登風呂屋さんの総墓があることを知ったのである。その後、「江戸の道、順拝の道」(『能登のくにー半島の風土と歴史ー』二〇〇三年刊)を書くにあたって、写真が必要となり、再び同寺へ出向いた。その時、総墓といっても、数軒分のお墓だということをあらためて知った。
 数軒分とはいえ、総墓は総墓。ギッシリお墓が詰まっている墓地の中央に、デーンとお風呂屋さんの総墓があった。

 

七つ七尾の天神さん
 正月に飾る「天神さん」は、能登の場合、「天神画像」が多い。ところが、七尾には大きな「天神座像」を飾る家がある。それに金沢の「天神堂」を加えれば、天神三文化圏が浮かび上がるかも知れない、と思って調べているうちに、数え歌の中に「七つ七尾の天神さん」があることを知った。しかも、相当広い範囲で歌われていたらしい。
 文化庁の緊急調査報告書である、『石川県の民謡』『福井県の民謡』などを調べていて気づいたもので、福井県大野市の「すっとこのさっさ」、福井市内、白山麓尾口村尾添(おぞう)の「くどき節」、金沢市金石(かないわ)の「米上げ歌」などに謡われていた。
 「七尾市史」を盛り上げようと、当時の北國新聞支局長といろんな話をした。その時期の二〇〇二年(平成一四)五月二四日の北國新聞に、「七つ七尾の天神さんー数え歌福井まで浸透」の見出しで、この話が大きく載った。
 全国的には、「七つ」は「成田の不動さん」が多い。北陸に限って「七尾の天神さん」があるのだろう、と思っていた。
 新聞に載ると、貴重な情報が寄せられることがある。いわば、学会で発表して、他地域の例を知るのと同じようなことがおこる。
 「七尾の天神さん」の歌詞を通して、能登発文化の一端を紹介する目的の記事だったことはいうまでもないが、さらなる広がりになるかも知れない、という期待もわずかにあった。ところが、予想もしない情報がもたらされた。
 記事を見た人から、式亭三馬の『浮世床(柳髪新話浮世床)』(二編巻之下)に同じ歌詞が載っている、と支局に連絡が入ったのである。
 江戸でも「七尾の天神さん」が歌われ、戯作文学に取り上げられていたとは…。
 全国の民謡集を調べれば、分布、すなわち人の交流が見えてくるかも知れない、想像はしてみたが、調べることも発表する機会もなく、今日になった。せめて『浮世床』だけでも紹介したい。そこには、次のように載っている。
 たこ「瞽女(ごぜ)のうたふ真面目(しんめんもく)はこれでございだ教(おしへ)てやらうがいくらよこす」
 ちゃぼ「さもしいことをいふぜマア一(ひと)くさり聴(きい)てからの直打(ねう)ちさ」
 竹「きかねへ内は相場(さうば)がしれねへナ」
○「千畑(ちはた)エ引荒物町(あらものまち)のウ染屋(そめや)の娘(むウすめ)。姉(あね)と妹(いもと)をならべて見イたら、姉はしかない蕣(あさがほ)のウ花(はな)。妹(いもと)今(いま)咲(さ)く白菊(しらぎく)のウ花(はな)。姉(あね)にや少(すこ)しも望(のぞみ)はなアいが。妹(いもと)ほしさに御(ご)立願(りょがん)掛(かけ)て。
 一(いち)に岩船(いはふね)お地蔵(ぢぞう)さアまよ。二(に)には新潟(にがた)の白山(はくさん)さアまよ。 三(さん)に讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)さアまよ。 四(し)には信濃(しなの)の善光寺(ぜんこじ)さアまよ。 五(ご)には呉天(ごてん)の若宮(わかみや)さアまよ。 六(ろく)に六角(ろっかく)の観音(くわんのん)さアまよ。
 七(なな)ツ七尾(ななお)の天神(てんじん)さアまよ。
 八(やつ)ツ八幡(やはた)の八幡(はちまん)さアまよ。九(く)には熊野(くまの)の権現(ごんげん)さアまよ。 十(とお)で所(ところ)の色神(いろがみ)さアまよ。
 掛(かけ)た御(ご)立願(りよがん)かなはぬけエれば。前(まへ)の小川(をがは)へ身(み)を投(なげ)捨(すウて)て。三十(さんじゅ)三(さん)尋(ひろ)の大蛇(だいじゃ)となアりて。水(みづ)を流(なが)してくるり〳〵と巻(まア)きやアれやんれエ。
 「実(ほんと)か爺(ぢい)さん。とぼけた婆(ばあ)さん小(こ)桶(をけ)で茶(ちゃ)ア呑(の)め姑(しうと)が我(がア)を折る たこ「ト跡(あと)で囃(はや)すのさ」(岩波書店刊本を引用)。
 『珠洲市史』編纂室長だった間谷(けんたに)庄太郎さん(珠洲市上戸町)は、瞽女(ごぜ)さんを「ゴジョさん」と呼んでいたといい。ゴジョさんが来たと聞くと、瞽女宿(近くの旧家名をあげられたかも知れない)に、「葛の葉」などを聞きに行くのが楽しみだった、と話された。
 最後まで長生きされた長岡瞽女小林ハルさんも、二〇〇五年(平成一七年)四月二五日に満一〇五歳で世を去られた。
 瞽女さんが能登の先までやってきて多くの歌を伝え、江戸では、能登の地名を織り込んだ数え歌を広めた。当地のチョンガリの歌詞に影響を与えたことも充分考えられる。
 厳しい瞽女さんの日々・修行・旅の様子を知れば知るほど頭を下げるしかないものの、遠いロマンを、思わずにはおれない。
  〈以下、略〉

 

 

瞽女さん関係購入書物

f:id:umiyamabusi:20211103092425j:plain

瞽女=盲目の旅芸人』斎藤真一 日本放送出版協会 昭和47年(1972)

f:id:umiyamabusi:20211103172116j:plain

『わたしは瞽女 杉本キクエ口伝』大山真人 音楽の友社 昭和52年(1977)

 

f:id:umiyamabusi:20211103092506j:plain

『ある瞽女宿の没落』大山真人 音楽の友社 昭和56年(1981)

 

f:id:umiyamabusi:20211103092859j:plain

『越後瞽女ものがたり 盲目旅芸人の実像』鈴木昭英 磐田書院 2009年(平成21)

鈴木さんは山岳宗教研究の泰斗。瞽女研究では『瞽女 信仰と芸能』(高志書院 1996年がある)

 

f:id:umiyamabusi:20211103092918j:plain

瞽女の記憶』宮成照子編 桂書房 1998年

 

f:id:umiyamabusi:20211103092936j:plain

瞽女 小林ハル 103歳の記録』瞽女文化を顕彰する会 新潟日報事業社 2003(平成15)年





 

『編み継ぐ』御供田あい子詩集 追弔谷内正遠木版画展 瞽女さんー世界の感触を取り戻せ!

『編み継ぐ』御供田あい子詩集

f:id:umiyamabusi:20211103040855j:plain

御供田さんから恵与さる。

御供田さんは昭和13年生まれ。川柳の方で名高い方だったが、この度詩集を編まれた。

人生の深みと、生死を越えた永遠性とでもいおうか…が絡まり合い、えも言えぬ大きな世界に導いてくれる詩編集だと思った。

母君は、当地の妙好人として歩まれた方で、そのお姿が彷彿と思い浮かぶ詩編集でもある。 

ただ念仏。

 

追弔 谷内正遠木版画 於・真宗大谷派金沢東別院

f:id:umiyamabusi:20211103041012j:plain

 2020年石仏カレンダー

f:id:umiyamabusi:20211103094110j:plain

正遠さん奥様より頂く。

 

みんぱく映画会

世界の感触を取り戻せ!

f:id:umiyamabusi:20211103041048j:plain

f:id:umiyamabusi:20211103041112j:plain

斎藤弘美さんから案内が届いた。斎藤さんはいろんなところで、我々世代の期待を担って活躍しておいでる。

瞽女さんについては、あらためて。

虎石墓

f:id:umiyamabusi:20211103081854j:plain

河北郡にあるお寺の墓石。ここに曾祖父の妹が嫁いでいる。

f:id:umiyamabusi:20211103081919j:plain

 

曾祖父・松谷円辰

f:id:umiyamabusi:20211103081934j:plain

ダルマ和上の異名があったという曾祖父・松谷円辰。

『とも同行の真宗文化』(p24~25)に、次のように書いた。

 

[出典]「座談会 芸能の風土・芸能民の歴史」『月刊百科』一一 一九九〇年 No三三七 平凡社
【解説】対談者・網野善彦(日本中世史 一九二八~二〇〇四)、小沢昭一(俳優 一九二九~二〇一二)、市川捷護(日本ビクタープロデューサー 一九四一~)※引用部は対談全体の九分の一。同氏には『回想日本の放浪芸』(平凡社新書・二〇〇〇年)がある。
 『妙好人千代尼』(法藏館・二〇一八年)の後書きで、この対談について次のように書いた。
 「座談会 芸能の風土・芸能民の歴史」で、小沢昭一氏が、真宗がみんな壊して文化を「真宗一辺倒にし」たというのは、戦国期に荒れた土壌を、真宗門徒たちが、土徳の地にしていったことを指しています。
 村ごとにお寺や道場があって決まった時間に鐘が鳴り、生業の節目ごとにお参りが行われ、夜は「平(へい)生(ぜい)業成(ごうじよう)」の信心・教義を聴聞し確かめるお座が開かれていた真宗地帯は、時間に正確、勤勉、助け合いといった、日本人の特性を育てたのです。
 混乱していた世の日常生活を集落、家族のきずな、個の信心へと、自然と共にある日常(平生)にしたのが真宗習俗で、そのことを「一辺倒」と言っておられるのでしょう。
 この対談のあと、「音と映像と文字による体系日本歴史と芸能」第五巻「踊る人々ー民衆宗教の展開」に、門前満覚寺の布教大会における広陵兼純師の説教「弥陀の誓願」がビデオになり、私は、平成三年(一九九一)二月三日に平凡社の内山直三さんから原稿依頼があって「節談説教の風土」を書きました。
 その間の二月十三日に、父は、風邪(?)の熱がひかないと、七尾中学校時代の同級生の病院に検査入院しました。六ヶ月ぐらいの入院が必要なのではないかとのことで、十九日、阿弥陀さまの前で来し方を振り返り、高校教員を退職することにしました。
 三月十四日夕方、内山さんから電話が入り、原稿に対するお褒(ほ)めの言葉があって、「ところどころに穴開けて……」のところでは、つい笑ってしまいました、と楽しそうにおっしゃられました。
 「…つい、笑ってしまいました。」
 「有り難うございます……。実は、父が亡くなり、今から通夜ですので、この話は、また後ほど…」、と電話を切ったのですが、内山さんの笑い声から、絶句、お悔やみへと、…その時の声が耳底に残っているような気がします。
  その部分を読み直してみると、
  松(まつ)谷(たに)円辰(えんしん)師の説教があると、御(み)堂(どう)に入りきれず大庭から山門の外まで聴問の人で溢(あふ)れたという。ある時、  師が「石山合戦」を語っていて、「刀の長さ三尺八寸」というべきところを、「幅、三尺八寸」と語ってし  まった。すかさず高座の下から「ダラナ、ほんな幅の広い刀どこにあるイヤ、相手見えんガィ」と声が掛  かったので、「ところどころに穴あけて、(中(ちゆう)啓(けい)をかざし)のぞいては切りー、のぞいては切りー」と演  じたという話が、いかに弁舌が巧みであったかの語り草となっている。
  父・外卿(げきよう)は純農村地帯の七尾市江曽・妙楽寺の三男で旧姓・松谷といい、大谷大学国史の学生だった昭和十六年、二十一歳で西勝寺に養子として入寺しました。ここに登場する松谷円辰は私の曾祖父なのです。この年、父は住職五十年を迎えんとする七十歳でした。その通夜直前に、伝説の人だった「松谷円辰」が話題になるとは…。

 

 

円辰には妹が2人(すい、よそ)居て、上の妹(すい)が嫁いだのが、上記墓のあるお寺。

その妹(よそ)は金丸に嫁ぎ、静雄・朝野・きよ野の3人の子を産み育てた。朝野が西勝寺に嫁いため、私は祖母ではないが、かといって他人でもない微妙な感じで「オバアチャン」と呼んで育った。11歳の時に母を亡くした父は、叔母を「おかあさん」と呼んでいたのだった。

そのあたりのことが、つい最近になって分かってきた。

 

父にとっては叔母だったのである。は円辰の孫。曾祖父の兄妹が義母であり私にとっての祖母だったことになる。もう50回忌を向かえる。

10月7日(木)の記事。40年前の文化祭ー地震の記録ー

遅ればせながら-。

このところ頻繁に地震がある。

教員時代、郷土史同好会生徒と飯高文化祭で郷土と関係ある地震記録を一教室使って展示発表したことがある。

昭和57年(1982)のことで、2月7日の能登沖地震が起こる11年前、阪神淡路大震災の13年前の話で、私が記憶する体感地震は、の新潟地震ぐらいのものだった。

地震が起こるなどとは想像のしようもない頃に、学校祭で中世の城(黒峰城など)の模型展示、珠洲狛犬などを展開する中で、ことしはこれにしようとやってみた企画だった。

それ以上の思いはなかったのだが、その頃、珠洲では原発問題が起こっており、それに対する警告と受け取った人もあったようだった。

ともあれ、発表だけで流してしまうには勿体なかったので、それを原稿にした。

たぶん、そのことが伝わっていたのだろう、北国の支局長さんがお越しになって雑談のように交わした話が、先日(10月7日)の記事になった。

それこそ「遅ればせながらー」である。

 

f:id:umiyamabusi:20211008100953j:plain

北國新聞10月8日(木)

 

f:id:umiyamabusi:20211008101042j:plain

「奥能登地震」p66~p74。昭和59年(1984)11月刊

f:id:umiyamabusi:20211008101110j:plain

「奥能登地震」が載った『すずろ物語』49号

 

『続古地震』1992年 東京大学出版会

f:id:umiyamabusi:20211008101147j:plain

『続古地震』目次。

東日本大震災後に問題になった貞観地震は、「見直される内陸地震」に含まれていた。

f:id:umiyamabusi:20211008101210j:plain

輪島に大きな被害をもたらした天保4年の津波の因が、庄内沖地震だったことをあらためて知った。

『古地震』『続古地震』この書の為に当地へおいでになり、一緒に現地を巡ったメンバーのひとり、大長昭雄さんから頂いた。

 

備えあれば憂い無し。

でも、本は山積み…。

 

「釈迦涅槃図八相成道図」、平松令三氏

頻繁に地震が起こるので、本箱をある程度ーふすまや障子につかえて、いつまでもガタガタ音が鳴らない程度にー固定作業を続けている。

その過程で、アルバムの中に「八相成道絵図(千光寺蔵) 平松令三氏調査」とある一冊があることに気づいた。

平松令三氏?

氏は、蓮如上人500回御遠忌に向けての調査で、当寺の蓮如上人鏡の御影(御寿像)を調べに来られたことがある。

その時、あたかも目の前の上人にお会いしたかのように感激の念仏を称えておいでた師の姿があった。

氏との間で何通かの手紙・葉書のやりとりが残っているが、その時の印象以外は、記憶にとどまらずに通り過ぎていたのである。

千光寺さんで、絵を見たことも覚えているが、「氏調査」とは?

写真の中に、当時の千光寺住職は写っているものの平松先生らしき人、北國新聞記者さんの姿もない。

アルバムの最後に新聞記事が貼ってあった。

平成9年(1997年)12月22日号である。

○平松令三先生が調査しておいでる。

○藤本佐助という絵師は高田派の親鸞聖人御絵伝の絵師、総持寺の出仕絵師と推定されること。

○涅槃図と八相図が共に一幅に描かれているのは珍しい。

○一代限りの絵師だと思われていた佐助が世襲の名だった可能性が出てきたこと。

など、極めて重要な図であることが書かれている。

 

千光寺住職はこの時から2代目で、曹洞宗の方脈を継ぐ方が順に入っておられ、この絵の意味を知っておられるかどうか分からない。

私も、珠洲焼資料館を退職する時、文化財保護審議委員も同時に辞め、その後、珠洲市郷土史研究会会員も辞している。

それらを続けて居ればこの絵を見直し、少なくとも市指定に持っていたと思う。

 

地震と閉じこもり状態があって、思いがけない再発見があった。

 

ブログ以前(~2005年・平成17年)には、このように記録として整理されていないものが、多くありそうだ。

 

f:id:umiyamabusi:20211011065546j:plain

涅槃図の回りに八相成道図が描かれている。

観経曼荼羅のように六道が描かれているとばかり思っていた。

どこにも地獄らしい絵がないので変だなと思い、よくよく見ると「八相成道図」だそうで、見たことも気づいたこともなかった(この時、見ているので見たこともなかったはことばのあや)。

f:id:umiyamabusi:20211011065454j:plain

八相成道図

最後の場面が浄土(極楽)なので、はじめは地獄だろうと写真を見ると違っている。そこで八相図だということに気づいた。

八相図とは、釈尊生涯における重要な出来事ー下天托胎、誕生、修学、出家、苦行、降魔成道初転法輪、涅槃ー八場面を描いたもので、佐助の描いた場面・場面の分析などはこれからのこととなる。

 

f:id:umiyamabusi:20211011065617j:plain

平成9年1997年12月22日(月)  北國新聞

 珠洲市正院町小路、曹洞宗千光寺が所蔵する藤本佐助作の釈迦涅槃図が、佐助の作品の中では最古のものであることが二十一日までの専門家の調査で明らかになった。涅槃図を収納する木箱に、正徳元(一七一一)年に同寺が図を購入したことが記されていた。
 絵師である佐助は十八世紀末から多くの作品を残したとされており、関係者は十八世紀初めの作品とみられるこの涅槃図は、佐助が世襲制だったことも推測できる貴重な資料としている。
 藤本佐助は、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて浄土真宗高田派の絵所で親鸞聖人絵伝などの作品を残した絵師。
 大本山総持寺の出仕絵師と推定されており、作品は三重県内の高田派寺院に現存している。
 ただ、これまで佐助作の涅槃図が見つかっていなかったことから、真宗絵画史の権威である元龍谷大文学部教授の平松令三氏(七八)=津市在住=が、宗教民俗学に詳しい珠洲市珠洲焼資料館の西山郷史館長(五〇)を通じて千光寺の釈迦涅槃図の調査に乗り出していた。
 千光寺の涅槃図は縦三・六㍍、横二.七㍍で左下の部分に「藤本佐助筆」と書かれている。涅槃図を収納する木箱には、正徳元年に同寺第三世住職の慈秀性善師が図を購入したことが記されており、佐助のほかの作品と年代が異なることから、平松氏は「藤本佐助は一代と考えられていたが、襲名の可能性が大きい」としている。

[(小見出し八相成道図も確認]
 同時に涅槃図の周りに釈迦の生涯を記した八相成道図が描かれていることも確認された。平松氏によると涅槃図は単独で描かれることが一般的で、同氏は「今後、調査を進める上で興味深い」と話している。

 

蓮如上人と山中温泉 9月30日(木)

菅谷徳性寺浄土真宗本願寺派

f:id:umiyamabusi:20211003152243j:plain

 

f:id:umiyamabusi:20211003152359j:plain

向かって右から「慧燈大師椿清水御舊跡」、椿清水、お腰掛石、八房の梅、「蓮如上人御舊跡」。

f:id:umiyamabusi:20211003152417j:plain

椿の清水と八つ房の梅「江沼郡山中町菅谷町]
山中へ向かい大内村を立った蓮如さんは、もっとも難所の深い谷底道を岩に足をすべらせ、木の根にすがり、どうにか菅谷村にたどりついた。
疲れをいやすため、とある家の前で休んでいると、その家の主人理助は蓮如さんの姿を見て凡人ではないと察し、家に招じ入れた。そして「わたしのようなものでも極楽浄土へ往生できるのなら、形見を見せていただきたい」と願い出た。すぐに蓮如さんは庭へ下り、年来愛用の椿の杖を大地に突き立て「お前が念仏門に入り、信心すれば極楽往生は疑いない。今、この杖の下より清水が湧き出て、どんな長雨やかんばつになっても増減することもなく、涸れることもない」と言うと、不思議にも杖の下より清水が渾々と湧き出た。感動した理助はすぐに蓮如さんの弟子となり、教願坊の法名をいただいた。徳性寺の開祖である。
蓮如さんは、山中に入湯中、しばしば、理助宅へ教化に訪れたが、ある日、庭に梅の実をまいて、こんな和歌を詠んだ。
 まきをきし一粒たねに八つ房の みのらば弥陀の誓いとそ知れ
歌の通り、梅は毎年寺の庭に真っ赤に咲き、ひとつの花より八つの実を結ぶので、八つ房の梅と呼んでいる。
【解説】
椿清水と八つ房の梅は、山中町菅谷町の幽谷山徳性寺の境内にある。住職は椿清水の由縁により春木氏を称している。徳性寺には「椿の御杖」のほか、山中出立の際、自ら筆をとった自画像「名残りの御影」、「三方正面阿弥陀如来」、「六字の名号」、「水晶の念珠」などが形見の品として残されている。なお、椿清水は戦前には菅谷と下谷の両地内の道端にもあったが道路拡幅工事で廃跡となった。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

ご住職の春木(=椿)さんは、私の初任・羽咋工業での先輩国語教師だった。その時、国語科には日野、春木、吉本さん(畑中さんも?)がいたはずだ。春木さんとは一年のおつきあいだったような気がする。それからもう49年経つ。


下谷蓮如堂・虎斑の名号
f:id:umiyamabusi:20211003151357j:plain

f:id:umiyamabusi:20211003151604j:plain

f:id:umiyamabusi:20211003151815j:plain

虎斑の名号[江沼郡山中町下谷]
むかし、蓮如さんが竹田の峠(現大内峠)を越えて下谷に立ち寄った時、蓮如さんの疲れた様子を見た村人が、自然薯をすってさしあげた。おかげで元気のもどった蓮如さんは、お礼としてござの上に紙を開いて六字の名号を書き、村人に与えた。
この名号は、筆跡にござの縞模様が写って、虎の縞のように見えるので「虎斑の名号」と呼ばれている。(大蔵延平談)
【解説】
名号は、下谷村の道場、蓮如堂に保管されていたが、寛政と天保年間に盗難にあっている。しかし、その特徴から福井の本覚寺にもどり、同寺から下谷に返ってきた。山中町下谷町では、毎年蓮如忌にあわせ虎斑の名号を蓮如堂で開帳している。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

句碑の句は「落葉積む堂に虎斑の御名号 柏翠」とあり、平成十年十月建立。柏翠は虚子の弟子の伊藤柏翠(東京 明治44年・1911~平成11年・1999)。

 

書いたこのブログを読み直していて、『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』に載る小さな「虎斑の名号」とは別に、大きな写真でこの道場の名号を扱った記憶があったので、モアモアした記憶を回転させていたら、『蓮如上人と伝承』(おやまブックレット1、1998・平成10年金沢別院刊、絶版)に載せていたことに気づいた。これがその名号である。

f:id:umiyamabusi:20211004065728j:plain

蓮如上人と伝承』おやまブックレット1、より。

 

おそらく「せり清水」

f:id:umiyamabusi:20211003152016j:plain

せり清水 [江沼郡山中町下谷]
菅谷の隣村下谷には「蓮如上人せり清水」と名付けられた清水がある。
この清水は「仏水」とも呼ばれており、蓮如さんが山中湯治中に掘らせたものだともいわれている。
【解説】
このせり清水のことは、『笈憩紀聞』(享保年間)や『加賀江沼志稿』(天保年間)に見えている。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』)

下谷蓮如堂から渓谷に沿って、菅谷に向かう途中、碑を見つけた。説明板もなく風化していて読めなかったが、『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』に紹介されている「せり清水」の碑に違いない。

 

f:id:umiyamabusi:20211003152108j:plain

 

黒谷山燈明寺・真宗大谷派

f:id:umiyamabusi:20211003152529j:plain

山中入湯のお文 [江沼郡山中町]
蓮如さんが、大内峠の険路に苦労して、山中へついたのは文明五年二四七三)九月末のこと。山中では、黒谷城主富樫政昭の庵にとどまり、山中の湯につかって、しばらく心身を休めた。この山中で書いたお文は「山中入湯のお文」と呼ばれている。
【解説】、
蓮如上人が滞在した場所は、今の山中町栄町、黒谷山燈明寺と伝えられている。このお文の末には「文明第五九月下旬第二日至子巳刻加州山中湯治之内書集之詑」とあり、日付けだけでなく、お文を書いた時間までしるしてあり、几帳面さが窺える。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

f:id:umiyamabusi:20211004052753j:plain

燈明寺。住職さんの姓が富樫である。

高浜虚子・伊藤柏翠

f:id:umiyamabusi:20211003152627j:plain

生涯に10万句以上作った虚子が、自ら最も好きな句と言った、「遠山に日の当たりたる枯野哉」直筆。(「芭蕉の館」にて)

f:id:umiyamabusi:20211003153024j:plain

『虚子一日一句』(星野立子編・朝日文庫)に、下谷蓮如堂の句碑の作者・伊藤柏翠と虚子の交流を語る句・文があった。立子の句も芭蕉の館の一室に飾られている。暁烏非無は暁烏敏。翌年示寂。虚子・敏は深い交流があった。

 

山中温泉一・二

f:id:umiyamabusi:20211003152649j:plain

芭蕉の館」前。芭蕉と別れる曾良

f:id:umiyamabusi:20211003152709j:plain

長谷部銭紋。


 山中入湯の御文     一帖第十五通目
問うていわく、「当流を、みな、世間に流布して、一向宗となづけ候うは、いかようなる子細にて候うやらん。不審におぼえ候う。」
答えていわく、「あながちに、わが流を一向宗となのることは、別して祖師もさだめられず。おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人のもうしなすゆえなり。しかりといえども、経文に「一向専念無量寿仏」(大経)とときたまうゆえに、一向に無量寿仏を念ぜよといえるこころなるときは、一向宗ともうしたるも子細なし。さりながら開山は、この宗をば浄土真宗とこそさだめたまえり。されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなりとしるべし。されば、自余の浄土宗は、もろもろの雑行をゆるす。わが聖人は雑行をえらびたまう。このゆえに真実報土の往生をとぐるなり。このいわれあるがゆえに、別して真の字をいれたまうなり。」
またのたまわく、「当宗をすでに浄土真宗となづけられ候うことは、分明にきこえぬ。しかるにこの宗体にて、在家のつみふかき悪逆の機なりというとも、弥陀の願力にすがりて、たやすく極楽に往生すべきよう、くわしくうけたまわりはんべらんとおもうなり。」
答えていわく、「当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心というはいかようなることそといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたこころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。
これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞと、こころうべきなり。かようにここうえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を、報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明第五、九月下旬第二日至干巳剋 加州山中湯治之内書集之詑

umiyamabusi.hatenadiary.com

 




金沢~能登外浦海岸~珠洲ー25日(土)

f:id:umiyamabusi:20210928184923j:plain

海を眺めながら、昼弁当を食べようと金石・大野を通り、大野弁吉からくり記念館駐車場へ入ろうと思ったのだが見つからないまま通り過ぎてしまった。金沢港に海上保安庁の船が止まっていた。飯田高校郷土史同好会のメンバーで保安庁職員になっている卒業生がいる。彼を偲びながらここでも車を止めるところがなく、大きな駐車場で車を眺めながらの食事となった。

f:id:umiyamabusi:20210928185002j:plain

久しぶりの高爪山。見よい山で、341㍍。

f:id:umiyamabusi:20210928185056j:plain

いろんなところが整備されていた。最たる所がこの繩又の白(八百)比丘尼像前。前はここを気にするドライバーはほとんどいなかったが目にとまるようになっていた。

f:id:umiyamabusi:20210928185122j:plain

白米千枚田

f:id:umiyamabusi:20210928185150j:plain

17時50分、この混みよう

f:id:umiyamabusi:20210928185223j:plain

真浦集落

f:id:umiyamabusi:20210928185250j:plain

真浦の奇岩

f:id:umiyamabusi:20210928185349j:plain

ふりむけば夕景 18時5分