瞽女さん

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瞽女さんについては、『能都町史』口頭伝承で、民謡を扱ったあたりからかなり関心を持った。町史執筆は昭和54年ごろなので、40年以上の関心事となる。

伝播の問題は難しいということを五来先生から直接窺ったことがあり、なんとはなしの関心事にとどまっていたが、次の文をはじめ、「瞽女さん」については書いたこともあるのである。 

 

能登のくに

第一号 平成二一(二〇〇九)年四月七日「能登を知る会」発行
能登を知る=
能登びとと風呂
 二月の新聞に、東京のお風呂屋さん(富来(とぎ)町出身)のペンキ画に、珠洲の見附島、富来の機具岩(はたごいわ)が画かれている旨の記事が載った。
 能登出身のお風呂屋さんがどうして多いのか、その謎解きから始まる空想小説の傑作『平家伝説』(半村良)があるなど、能登とお風呂屋さんの結びつきは深い。ともあれ、能登出身のお風呂屋さんの総墓があるお寺へ、調査にうかがったことがある。そのお寺は、東京小石川・東大植物園のすぐ近く、「極落水」で知られる礫川(こいしかわ)山(さん)新福寺という真宗寺院で、そこに、近藤勇夏目漱石が下宿していたことがある。
 そのお寺を尋ねることになったのは、『能都町史』専門委員だったことが関係している。委員になったのは、宇出津(うしつ)高校に勤めていた昭和五三年(一九七八)のことで、町史では真宗以外の寺院誌、口頭伝承を担当した。真宗以外とはいえ、真宗担当の篠原映之氏と共に真宗寺院の聞き取りもおこなった。その縁からだと思うのだが、あるお寺の門徒さん宅の仏像の傷みがひどくなり、修理に出そうとしたところ、胎内に墨書あるのが見つかったので調べて欲しい、と頼まれたのである。
 仏像をお持ちの能登町姫・中谷家(仲屋)へ出向き、仏像の胎内をのぞくと、確かに、延宝九年(一六八一)の年号と鎌倉仏師名などが記されている。
 仏像の他にも、寛文一〇年(一六七〇)九月小物成書上(かきあげ)の草稿や、翌年のイルカ五〇本を抵当として真脇組頭以下に六〇貫目を貸した文書など、四〇数点の古文書、ほかに真宗関係の縁起・写しなどがあった。
 幕末頃、この仲屋から小石川新福寺へ入寺し、住職になった人物がいたのである。詳しく調べるために、一九八四年(昭和五九年)八月六日に新福寺を訪ねた。暑い日だった。
 その時、新福寺住職が語った話では、近藤勇が下宿していた頃の住職は体が弱く、勇と親しかったのはその先代・祐照のはずだというのだ。その祐照が仲屋から入った人だった。
 祐照師は、文久二年(一八六二)になくなっているが、江戸にいた近藤勇が京に向かったのはその翌年のことで、勇と交流があったことは充分考えられる。
 仏像銘のこと、仲屋文書の分析、勇が東本願寺と掛け合って、住職一代限りの咒字(しゅじ)袈裟着用許可を授かったエピソードなどは、「江戸小石川から来た仏像」と題して「加能民俗」一〇-六・一二八号(一九九〇年)に書いた。
 その調査の折に、新福寺に能登風呂屋さんの総墓があることを知ったのである。その後、「江戸の道、順拝の道」(『能登のくにー半島の風土と歴史ー』二〇〇三年刊)を書くにあたって、写真が必要となり、再び同寺へ出向いた。その時、総墓といっても、数軒分のお墓だということをあらためて知った。
 数軒分とはいえ、総墓は総墓。ギッシリお墓が詰まっている墓地の中央に、デーンとお風呂屋さんの総墓があった。

 

七つ七尾の天神さん
 正月に飾る「天神さん」は、能登の場合、「天神画像」が多い。ところが、七尾には大きな「天神座像」を飾る家がある。それに金沢の「天神堂」を加えれば、天神三文化圏が浮かび上がるかも知れない、と思って調べているうちに、数え歌の中に「七つ七尾の天神さん」があることを知った。しかも、相当広い範囲で歌われていたらしい。
 文化庁の緊急調査報告書である、『石川県の民謡』『福井県の民謡』などを調べていて気づいたもので、福井県大野市の「すっとこのさっさ」、福井市内、白山麓尾口村尾添(おぞう)の「くどき節」、金沢市金石(かないわ)の「米上げ歌」などに謡われていた。
 「七尾市史」を盛り上げようと、当時の北國新聞支局長といろんな話をした。その時期の二〇〇二年(平成一四)五月二四日の北國新聞に、「七つ七尾の天神さんー数え歌福井まで浸透」の見出しで、この話が大きく載った。
 全国的には、「七つ」は「成田の不動さん」が多い。北陸に限って「七尾の天神さん」があるのだろう、と思っていた。
 新聞に載ると、貴重な情報が寄せられることがある。いわば、学会で発表して、他地域の例を知るのと同じようなことがおこる。
 「七尾の天神さん」の歌詞を通して、能登発文化の一端を紹介する目的の記事だったことはいうまでもないが、さらなる広がりになるかも知れない、という期待もわずかにあった。ところが、予想もしない情報がもたらされた。
 記事を見た人から、式亭三馬の『浮世床(柳髪新話浮世床)』(二編巻之下)に同じ歌詞が載っている、と支局に連絡が入ったのである。
 江戸でも「七尾の天神さん」が歌われ、戯作文学に取り上げられていたとは…。
 全国の民謡集を調べれば、分布、すなわち人の交流が見えてくるかも知れない、想像はしてみたが、調べることも発表する機会もなく、今日になった。せめて『浮世床』だけでも紹介したい。そこには、次のように載っている。
 たこ「瞽女(ごぜ)のうたふ真面目(しんめんもく)はこれでございだ教(おしへ)てやらうがいくらよこす」
 ちゃぼ「さもしいことをいふぜマア一(ひと)くさり聴(きい)てからの直打(ねう)ちさ」
 竹「きかねへ内は相場(さうば)がしれねへナ」
○「千畑(ちはた)エ引荒物町(あらものまち)のウ染屋(そめや)の娘(むウすめ)。姉(あね)と妹(いもと)をならべて見イたら、姉はしかない蕣(あさがほ)のウ花(はな)。妹(いもと)今(いま)咲(さ)く白菊(しらぎく)のウ花(はな)。姉(あね)にや少(すこ)しも望(のぞみ)はなアいが。妹(いもと)ほしさに御(ご)立願(りょがん)掛(かけ)て。
 一(いち)に岩船(いはふね)お地蔵(ぢぞう)さアまよ。二(に)には新潟(にがた)の白山(はくさん)さアまよ。 三(さん)に讃岐(さぬき)の金毘羅(こんぴら)さアまよ。 四(し)には信濃(しなの)の善光寺(ぜんこじ)さアまよ。 五(ご)には呉天(ごてん)の若宮(わかみや)さアまよ。 六(ろく)に六角(ろっかく)の観音(くわんのん)さアまよ。
 七(なな)ツ七尾(ななお)の天神(てんじん)さアまよ。
 八(やつ)ツ八幡(やはた)の八幡(はちまん)さアまよ。九(く)には熊野(くまの)の権現(ごんげん)さアまよ。 十(とお)で所(ところ)の色神(いろがみ)さアまよ。
 掛(かけ)た御(ご)立願(りよがん)かなはぬけエれば。前(まへ)の小川(をがは)へ身(み)を投(なげ)捨(すウて)て。三十(さんじゅ)三(さん)尋(ひろ)の大蛇(だいじゃ)となアりて。水(みづ)を流(なが)してくるり〳〵と巻(まア)きやアれやんれエ。
 「実(ほんと)か爺(ぢい)さん。とぼけた婆(ばあ)さん小(こ)桶(をけ)で茶(ちゃ)ア呑(の)め姑(しうと)が我(がア)を折る たこ「ト跡(あと)で囃(はや)すのさ」(岩波書店刊本を引用)。
 『珠洲市史』編纂室長だった間谷(けんたに)庄太郎さん(珠洲市上戸町)は、瞽女(ごぜ)さんを「ゴジョさん」と呼んでいたといい。ゴジョさんが来たと聞くと、瞽女宿(近くの旧家名をあげられたかも知れない)に、「葛の葉」などを聞きに行くのが楽しみだった、と話された。
 最後まで長生きされた長岡瞽女小林ハルさんも、二〇〇五年(平成一七年)四月二五日に満一〇五歳で世を去られた。
 瞽女さんが能登の先までやってきて多くの歌を伝え、江戸では、能登の地名を織り込んだ数え歌を広めた。当地のチョンガリの歌詞に影響を与えたことも充分考えられる。
 厳しい瞽女さんの日々・修行・旅の様子を知れば知るほど頭を下げるしかないものの、遠いロマンを、思わずにはおれない。
  〈以下、略〉

 

 

瞽女さん関係購入書物

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瞽女=盲目の旅芸人』斎藤真一 日本放送出版協会 昭和47年(1972)

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『わたしは瞽女 杉本キクエ口伝』大山真人 音楽の友社 昭和52年(1977)

 

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『ある瞽女宿の没落』大山真人 音楽の友社 昭和56年(1981)

 

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『越後瞽女ものがたり 盲目旅芸人の実像』鈴木昭英 磐田書院 2009年(平成21)

鈴木さんは山岳宗教研究の泰斗。瞽女研究では『瞽女 信仰と芸能』(高志書院 1996年がある)

 

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瞽女の記憶』宮成照子編 桂書房 1998年

 

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瞽女 小林ハル 103歳の記録』瞽女文化を顕彰する会 新潟日報事業社 2003(平成15)年