虎石墓

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河北郡にあるお寺の墓石。ここに曾祖父の妹が嫁いでいる。

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曾祖父・松谷円辰

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ダルマ和上の異名があったという曾祖父・松谷円辰。

『とも同行の真宗文化』(p24~25)に、次のように書いた。

 

[出典]「座談会 芸能の風土・芸能民の歴史」『月刊百科』一一 一九九〇年 No三三七 平凡社
【解説】対談者・網野善彦(日本中世史 一九二八~二〇〇四)、小沢昭一(俳優 一九二九~二〇一二)、市川捷護(日本ビクタープロデューサー 一九四一~)※引用部は対談全体の九分の一。同氏には『回想日本の放浪芸』(平凡社新書・二〇〇〇年)がある。
 『妙好人千代尼』(法藏館・二〇一八年)の後書きで、この対談について次のように書いた。
 「座談会 芸能の風土・芸能民の歴史」で、小沢昭一氏が、真宗がみんな壊して文化を「真宗一辺倒にし」たというのは、戦国期に荒れた土壌を、真宗門徒たちが、土徳の地にしていったことを指しています。
 村ごとにお寺や道場があって決まった時間に鐘が鳴り、生業の節目ごとにお参りが行われ、夜は「平(へい)生(ぜい)業成(ごうじよう)」の信心・教義を聴聞し確かめるお座が開かれていた真宗地帯は、時間に正確、勤勉、助け合いといった、日本人の特性を育てたのです。
 混乱していた世の日常生活を集落、家族のきずな、個の信心へと、自然と共にある日常(平生)にしたのが真宗習俗で、そのことを「一辺倒」と言っておられるのでしょう。
 この対談のあと、「音と映像と文字による体系日本歴史と芸能」第五巻「踊る人々ー民衆宗教の展開」に、門前満覚寺の布教大会における広陵兼純師の説教「弥陀の誓願」がビデオになり、私は、平成三年(一九九一)二月三日に平凡社の内山直三さんから原稿依頼があって「節談説教の風土」を書きました。
 その間の二月十三日に、父は、風邪(?)の熱がひかないと、七尾中学校時代の同級生の病院に検査入院しました。六ヶ月ぐらいの入院が必要なのではないかとのことで、十九日、阿弥陀さまの前で来し方を振り返り、高校教員を退職することにしました。
 三月十四日夕方、内山さんから電話が入り、原稿に対するお褒(ほ)めの言葉があって、「ところどころに穴開けて……」のところでは、つい笑ってしまいました、と楽しそうにおっしゃられました。
 「…つい、笑ってしまいました。」
 「有り難うございます……。実は、父が亡くなり、今から通夜ですので、この話は、また後ほど…」、と電話を切ったのですが、内山さんの笑い声から、絶句、お悔やみへと、…その時の声が耳底に残っているような気がします。
  その部分を読み直してみると、
  松(まつ)谷(たに)円辰(えんしん)師の説教があると、御(み)堂(どう)に入りきれず大庭から山門の外まで聴問の人で溢(あふ)れたという。ある時、  師が「石山合戦」を語っていて、「刀の長さ三尺八寸」というべきところを、「幅、三尺八寸」と語ってし  まった。すかさず高座の下から「ダラナ、ほんな幅の広い刀どこにあるイヤ、相手見えんガィ」と声が掛  かったので、「ところどころに穴あけて、(中(ちゆう)啓(けい)をかざし)のぞいては切りー、のぞいては切りー」と演  じたという話が、いかに弁舌が巧みであったかの語り草となっている。
  父・外卿(げきよう)は純農村地帯の七尾市江曽・妙楽寺の三男で旧姓・松谷といい、大谷大学国史の学生だった昭和十六年、二十一歳で西勝寺に養子として入寺しました。ここに登場する松谷円辰は私の曾祖父なのです。この年、父は住職五十年を迎えんとする七十歳でした。その通夜直前に、伝説の人だった「松谷円辰」が話題になるとは…。

 

 

円辰には妹が2人(すい、よそ)居て、上の妹(すい)が嫁いだのが、上記墓のあるお寺。

その妹(よそ)は金丸に嫁ぎ、静雄・朝野・きよ野の3人の子を産み育てた。朝野が西勝寺に嫁いため、私は祖母ではないが、かといって他人でもない微妙な感じで「オバアチャン」と呼んで育った。11歳の時に母を亡くした父は、叔母を「おかあさん」と呼んでいたのだった。

そのあたりのことが、つい最近になって分かってきた。

 

父にとっては叔母だったのである。は円辰の孫。曾祖父の兄妹が義母であり私にとっての祖母だったことになる。もう50回忌を向かえる。