蓮如上人と山中温泉 9月30日(木)

菅谷徳性寺浄土真宗本願寺派

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向かって右から「慧燈大師椿清水御舊跡」、椿清水、お腰掛石、八房の梅、「蓮如上人御舊跡」。

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椿の清水と八つ房の梅「江沼郡山中町菅谷町]
山中へ向かい大内村を立った蓮如さんは、もっとも難所の深い谷底道を岩に足をすべらせ、木の根にすがり、どうにか菅谷村にたどりついた。
疲れをいやすため、とある家の前で休んでいると、その家の主人理助は蓮如さんの姿を見て凡人ではないと察し、家に招じ入れた。そして「わたしのようなものでも極楽浄土へ往生できるのなら、形見を見せていただきたい」と願い出た。すぐに蓮如さんは庭へ下り、年来愛用の椿の杖を大地に突き立て「お前が念仏門に入り、信心すれば極楽往生は疑いない。今、この杖の下より清水が湧き出て、どんな長雨やかんばつになっても増減することもなく、涸れることもない」と言うと、不思議にも杖の下より清水が渾々と湧き出た。感動した理助はすぐに蓮如さんの弟子となり、教願坊の法名をいただいた。徳性寺の開祖である。
蓮如さんは、山中に入湯中、しばしば、理助宅へ教化に訪れたが、ある日、庭に梅の実をまいて、こんな和歌を詠んだ。
 まきをきし一粒たねに八つ房の みのらば弥陀の誓いとそ知れ
歌の通り、梅は毎年寺の庭に真っ赤に咲き、ひとつの花より八つの実を結ぶので、八つ房の梅と呼んでいる。
【解説】
椿清水と八つ房の梅は、山中町菅谷町の幽谷山徳性寺の境内にある。住職は椿清水の由縁により春木氏を称している。徳性寺には「椿の御杖」のほか、山中出立の際、自ら筆をとった自画像「名残りの御影」、「三方正面阿弥陀如来」、「六字の名号」、「水晶の念珠」などが形見の品として残されている。なお、椿清水は戦前には菅谷と下谷の両地内の道端にもあったが道路拡幅工事で廃跡となった。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

ご住職の春木(=椿)さんは、私の初任・羽咋工業での先輩国語教師だった。その時、国語科には日野、春木、吉本さん(畑中さんも?)がいたはずだ。春木さんとは一年のおつきあいだったような気がする。それからもう49年経つ。


下谷蓮如堂・虎斑の名号
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虎斑の名号[江沼郡山中町下谷]
むかし、蓮如さんが竹田の峠(現大内峠)を越えて下谷に立ち寄った時、蓮如さんの疲れた様子を見た村人が、自然薯をすってさしあげた。おかげで元気のもどった蓮如さんは、お礼としてござの上に紙を開いて六字の名号を書き、村人に与えた。
この名号は、筆跡にござの縞模様が写って、虎の縞のように見えるので「虎斑の名号」と呼ばれている。(大蔵延平談)
【解説】
名号は、下谷村の道場、蓮如堂に保管されていたが、寛政と天保年間に盗難にあっている。しかし、その特徴から福井の本覚寺にもどり、同寺から下谷に返ってきた。山中町下谷町では、毎年蓮如忌にあわせ虎斑の名号を蓮如堂で開帳している。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

句碑の句は「落葉積む堂に虎斑の御名号 柏翠」とあり、平成十年十月建立。柏翠は虚子の弟子の伊藤柏翠(東京 明治44年・1911~平成11年・1999)。

 

書いたこのブログを読み直していて、『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』に載る小さな「虎斑の名号」とは別に、大きな写真でこの道場の名号を扱った記憶があったので、モアモアした記憶を回転させていたら、『蓮如上人と伝承』(おやまブックレット1、1998・平成10年金沢別院刊、絶版)に載せていたことに気づいた。これがその名号である。

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蓮如上人と伝承』おやまブックレット1、より。

 

おそらく「せり清水」

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せり清水 [江沼郡山中町下谷]
菅谷の隣村下谷には「蓮如上人せり清水」と名付けられた清水がある。
この清水は「仏水」とも呼ばれており、蓮如さんが山中湯治中に掘らせたものだともいわれている。
【解説】
このせり清水のことは、『笈憩紀聞』(享保年間)や『加賀江沼志稿』(天保年間)に見えている。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』)

下谷蓮如堂から渓谷に沿って、菅谷に向かう途中、碑を見つけた。説明板もなく風化していて読めなかったが、『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』に紹介されている「せり清水」の碑に違いない。

 

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黒谷山燈明寺・真宗大谷派

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山中入湯のお文 [江沼郡山中町]
蓮如さんが、大内峠の険路に苦労して、山中へついたのは文明五年二四七三)九月末のこと。山中では、黒谷城主富樫政昭の庵にとどまり、山中の湯につかって、しばらく心身を休めた。この山中で書いたお文は「山中入湯のお文」と呼ばれている。
【解説】、
蓮如上人が滞在した場所は、今の山中町栄町、黒谷山燈明寺と伝えられている。このお文の末には「文明第五九月下旬第二日至子巳刻加州山中湯治之内書集之詑」とあり、日付けだけでなく、お文を書いた時間までしるしてあり、几帳面さが窺える。(『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』より)

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燈明寺。住職さんの姓が富樫である。

高浜虚子・伊藤柏翠

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生涯に10万句以上作った虚子が、自ら最も好きな句と言った、「遠山に日の当たりたる枯野哉」直筆。(「芭蕉の館」にて)

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『虚子一日一句』(星野立子編・朝日文庫)に、下谷蓮如堂の句碑の作者・伊藤柏翠と虚子の交流を語る句・文があった。立子の句も芭蕉の館の一室に飾られている。暁烏非無は暁烏敏。翌年示寂。虚子・敏は深い交流があった。

 

山中温泉一・二

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芭蕉の館」前。芭蕉と別れる曾良

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長谷部銭紋。


 山中入湯の御文     一帖第十五通目
問うていわく、「当流を、みな、世間に流布して、一向宗となづけ候うは、いかようなる子細にて候うやらん。不審におぼえ候う。」
答えていわく、「あながちに、わが流を一向宗となのることは、別して祖師もさだめられず。おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人のもうしなすゆえなり。しかりといえども、経文に「一向専念無量寿仏」(大経)とときたまうゆえに、一向に無量寿仏を念ぜよといえるこころなるときは、一向宗ともうしたるも子細なし。さりながら開山は、この宗をば浄土真宗とこそさだめたまえり。されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなりとしるべし。されば、自余の浄土宗は、もろもろの雑行をゆるす。わが聖人は雑行をえらびたまう。このゆえに真実報土の往生をとぐるなり。このいわれあるがゆえに、別して真の字をいれたまうなり。」
またのたまわく、「当宗をすでに浄土真宗となづけられ候うことは、分明にきこえぬ。しかるにこの宗体にて、在家のつみふかき悪逆の機なりというとも、弥陀の願力にすがりて、たやすく極楽に往生すべきよう、くわしくうけたまわりはんべらんとおもうなり。」
答えていわく、「当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心というはいかようなることそといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたこころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号信心歓喜」ととけり。「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。これを『経』に「信心歓喜」ととかれたり。
これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞと、こころうべきなり。かようにここうえてのちは、行住座臥に口にとなうる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を、報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもって、信心決定して極楽に往生する、他力の念仏の行者とはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明第五、九月下旬第二日至干巳剋 加州山中湯治之内書集之詑

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