志賀・富来散策~13日(日)+12日七尾北湾
『とも同行の真宗文化』171頁~178頁に書いた「御崇敬(ごっそきょう)」に、夜明けまで御示談を聞きながら御参りしたお寺。昭和58年11月のことだった。その後1度ぐらいは訪ねたかも知れないが記憶が無く、37年ぶりに訪ねた。春日灯籠に見事な龍を掘った灯籠があった。
一茶―享和元年手記(日記)(いわゆる『父の終焉日記』)について
一茶については、まずこの時期、「涼しやな弥陀成仏の此の方は」、と言う句がありますね。と語り出すことが出来る。
妙好人としての一茶を知るには、「おらが春」(文政二年・一八一九、一茶五十七歳)といわゆる『父の終焉日記』(享和元年一八〇一、三九歳)に拠るのがいい。
千代尼と違い、一茶を真宗信徒・門徒としてとらえた宗門関係の研究者はおいでになり、この二作品から引用なさっているものの、作品そのものを丁寧に分析した方はおいでにないようなので、とも同行・妙好人一茶の視点からまとめておかなければ、とかねてから思っていた。先に出版した『妙好人千代尼』は、元々、千代尼と一茶を取り上げ『千代尼と一茶の真宗』あたりのタイトルも考えながら作業を進めていたので、一茶に関するデーターは十分すぎるくらいにある。
ここから書かないと分からないのだが、著名な「おらが春」も、タイトルは後世の人が、本文のはじめにの方にある「目出度さもちう位也おらが春」の句から付けたものである。
まして下書きというか、おそらくより壮大な句文仏教説話・談義本を作品として完成させる意図があって、三十九歳の時に書き留めたいわゆる『父の終焉日記』は、定着した名称ではない。
それはそれとして、作品から一茶の信心を見るためには、どの刊本を底本にするべきか?。前に調べたところでは、少なくとも二種類の刊本がある。
そのことを念頭に、まず、今、手に入る岩波文庫版『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一編』を見た。
文庫本ならスキャナー用に新しく買ってもいいかぐらいの気持ちで、書き込みを入れていった。解説を見ると、少なくとも二種類あることも、どこが校訂者の書き入れで、どこまでが原典なのかがはっきりしない。
手に入らない小見出し付き本
底本版
さーて解説
解説にある「父終焉の記」「みとり日記」は誰の校訂本なのか?
束松露香とはどういう人なのか?
それが一般化されるほどの根拠はどこにあるのか?
などを解説しないと、初七日までの話が記されている草稿をどうして、「終焉」と言えるのかが分からない。
ひとつ重要なことに触れておく。
解説では「今日では大正11年に束松露香の校訂によって刊行・命名された」とある。
どう見ても束松露香氏が刊行したとしか読めないが、束松氏は大正7年に亡くなっておいでる。
亡くなって4年後に「刊行・命名され」るわけがなく、誰かが刊行・命名したのである。
この解説に添ってその人物名を書かないで進めるが、その人は大正6年に長野で束松氏に会い、出版に尽力してほしいと、いわば遺言のような形で原稿を託された。
それが岩波書店から「一茶遺稿 父の終焉日記」として刊行されたのが大正11年1月5日のことだった。
刊行者は、この草稿を誰よりも調べ、タイトルに「父の終焉日記」とこだわっておられた束松氏の願いを生かすべく、『父の終焉日記』名にした、と解説に書いておられる。
その方は自著の刊本では、「看病手記」としておられる。
このようないきさつは、現行本の解説には載っていない。
ちなみに、「従来」の「父終焉の記」は明治41年刊刊俳諧寺可秋編『一茶一代全集』、
「みとり日記」は大正10年勝井普風編 近藤書店発行である。
今までのタイトルの中では、もっともこの件に力を注いできた方の「看病手記」、あるいは若さ体力があるものが老いた人を(親子はおいておいて)看取る程度に考えて「みとり日記」がふさわしいと思うが、とりあえず「享和元年手記(日記)」とこの書を表現しながら、考えてみる。
底本
とも同行と共に一茶に出会おうというのだから、手に入れやすい文庫本を底本にしようと思ったが、指摘したような問題がある。
ところでこの平成4年刊文庫本のあと、2012年(平成24)にも刊本が出ているのである。
校訂者は、本文も他の解説も読んだとは思えないとらえ方をしているので、書名等は伏すが…あるにはある、
読んでいないんじゃないか、とまで書かざるを得ないのは次の書き込みの通りだからである。
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素敵な本も使えないとなったら、底本はおのずから『一茶全集第五巻』となる。
疲れた。まぁー、よくいうガス抜きだ。
さあーて、やさしい一茶を訪ねるぞ。
八朔 ーほのぼのカレンダー(法藏館)、『とも同行の真宗文化』、谷内正遠ふるさと版画展
『能登線日和 湯浅啓写真集』能登印刷出版部 2005年(平成17年)4月1日発行。
廃止された翌日の刊行本だ。私は宇出津高校へ毎朝6時過ぎの列車で通った。妻はそれよりかなり早く起きて弁当作り。飯田高校時代は生徒が通学した。30キロ離れた鵜川から通った生徒たちもいた。この光景はその途中…。
中の写真は、一枚一枚が次々と語りかけてきて切なくて見ることが出来ない。
ほのぼのカレンダーを発行なさっている法藏館からメール配信版「法藏館書店ニュース9月号」が届いた。
なにげなく読み眺めていくと、恒例のベスト10コーナー(8月期)
なんと10位に『とも同行の真宗文化』が載っているではないか!!
本が重いのと、つても無く、知り合いの能登の本屋さんと小松の本屋さんにかろうじて置いてもらったが、私の車移動範囲が精一杯。タイトルからして法藏館さんにもと、お願いしたら快く置いて下さった。
それで、この本に関しては満足しきっていたのが、このような形で目にするとは…申し訳ないことです。
次に谷内正遠さん。ご本人とは面識はないが、父君の誠之師は私の二度目の教区会議員時の議長さんで、可愛がっていただいた。
その御尊父が正順師で郷土の偉人調査の記事(北國新聞2006年・平成18年8月8日)に次のように書いている。
谷内正順は一八八六(明治十九)年四月に羽咋郡河合谷村(現津幡町上河合)の慶専寺で生まれた。九歳の時に眼病にかかり左目を失明したが、県立第三中学校(現七尾高)、旧制一高を経て進学した東京帝大を首席で卒業、明治天皇から「恩賜の銀時計」を、本山から「宗門の名誉」として銀の鎖も受けている。
一高同期の文豪谷崎潤一郎も「大変な聖人」と認めた谷内は、東京帝大助手、石川師範教諭、高岡高商(現富山大)教授、真宗大谷派教学研究所長、同中央修練道場長などを歴任し、一九六八(昭和四十三)年に八十二歳で亡くなった。
付け加えれば祖師650回忌前年の明治43年んは句仏上人の一ヶ月余に及ぶ北海道樺太御巡化に同行しており、若き時から教化の中心を担ってこられた。
著書に『光雲無碍』(昭和37年11月1日文永堂刊)がある。
懐かしの能登線沿線は、そのお孫さんの絵であり、今月の展覧会案内。
学びの人が育った地での、美術鑑賞ー胸躍る秋の始まりー八朔である。
名畑崇先生ご逝去
石橋義秀さんのFBを開いたら、名畑崇さん(先生)ご逝去なさったことが載っていた。8月27日、87歳。
研究室は国史・日本仏教史同室で、私が在籍した時は名畑さんは30代。仏教史の非常勤講師か講師職だったようで、お話ししたことはなかった(と思う)。
名畑さんはおそらく私のことを知らないままだったと思うが、いくつかの接点・想い出がある。
前列右から二人目が名畑さん。その左横が藤島達郎先生。前列左の白いセーター姿が私。その右後ろ・後列二人目が大桑斉さん(先生)。あとは省略。仏教史の集まりだが、私とその横のたばこの煙を吹かせているのと二人は、もぐりだ。後輩たちがネクタイをしているので、社会人になってから(年号が書いてない)。
1989年・平成元年 12月16日土
日本宗教民俗学会。
名畑氏は2列目、右から3人目。
私は前列左2人目。先輩の大學関係者に限り名を記す(敬称略)。
私の右横、豊島修、日野西眞定。後列左から4人目山田知子。
長光山 養泉寺 (御住職:名畑崇師)
2013年(平成2年)5月8日(水)撮影。郡上市明宝大谷
2014年5月8、9日、講師をしている能登教区11組~14組坊守会の研修旅行引率で 高山・古川へ行くことにしていた。
そのころボランティアガイドきらり珠洲の代表や県民講座の史跡探索などもやっており、旅行引率を楽しんでいた。5月にしたのは、庄川桜の満開期に合わせて研修しようと思ったためで、そのちょうど一年前に最終コース決め、確認のため高山・奥飛騨を巡った。
ここは予定コースではなかったが、学生時代、高山、郡上八幡、益田に親しい先輩や同級生がいたので、彼らがどういう雰囲気の所に育ったのかを見たくて、郡上八幡まで足を伸ばした。
寺院名簿を持っての旅で、由緒寺や目につくお寺に寄りながら旅をした。
このお寺が、名畑崇さんが住職をしておいでるお寺である。
すぐ近くに道の駅・明宝(磨墨の里公園)があって、いい景観の中の綺麗なお寺だった。
先生がおいでれば名乗るか何かしようと思ったのだが、誰もおいでにならなかった。
お寺背後。昔、先生がまだ小さい頃、このあたりでも遊んだのだろうな、などと想像しながら歩いた。
「せせらぎ街道」も間もなく終点の郡上八幡に近い。
法語
散るさくら 残るさくらも 散るさくら …
先生の字なのかも知れない
著書