ふじはし地蔵 七尾二十四地蔵第十一番(順路では第十七番)

f:id:umiyamabusi:20200926095227j:plain

元ふじはし地蔵 現在地 穴水町東中谷

f:id:umiyamabusi:20200926095404j:plain

七尾岩屋清水と接する地に能登教務所が建った。そこに「ふじはし地蔵」と呼ばれる地蔵さんがあり、粗末に出来ないからと法岡敬雄師(著書『よろこびに生きる』法藏館昭和57年刊がある)自坊近くにお移しなされた。ご住職が還帰なされたと聞いたので、もう訪ねることもないと思っていたお寺前で手を合わせてきた。その出来事が45年前だと、この日偶然なお会いした敬雄師のお孫さん、現住職さんから聞いた。

f:id:umiyamabusi:20200926102554j:plain

能州七尾 地蔵菩薩霊場御詠歌集  昭和40年第3版昭和29年初版。巡拝コースと札所番号がこの頃にはばらばらになっている。ふじはし地蔵は第十一番。巡拝からは17番目である。

f:id:umiyamabusi:20200926103038j:plain

山田清宅内ヤシキ内板碑カの書き込みがある。「ふじはし地蔵」がどの地蔵さんなのか、講中復活の頃はもう分からなかったのだろう。24地蔵については明治6年に寄進されたものがあるというから、藩政期気多本地として社内にあったものなどが神仏判然令によって姿を現し、曹洞宗系の人々によって巡拝まで行われるようになった(再興かも知れない)のであろう。

 

木滑-仏御前 五逆(平家物語ー祇王・祇女)

f:id:umiyamabusi:20200926093533j:plain

仏御前伝承地 木滑神社。八幡、少彦名天神系の神社。白山縁日の18日が祭礼日だったようだ。

f:id:umiyamabusi:20200926093842j:plain

秋深し仏御前のお産石。お産石はすぐ右手のほこら内にある。戸が開いており赤飯が備えられていた。何度か寄っているが初めて見ることが出来た。

f:id:umiyamabusi:20200926094210j:plain

凜々しい獅子。仏御前は白山(本地十一面観音菩薩)の縁日に世を去ったことになっている。白山比咩の化身、白山信仰を広めた白比丘尼の象徴として「仏御前」があったようだ。仏には観音の慈悲と関わる様々な伝説がある。安産石はその最たるもの。

 

元白山・加賀一の宮駅、瀬戸、歌占の滝ー20日(日)

f:id:umiyamabusi:20200926082645j:plain

手取川 道の駅方面からの「元白山」

f:id:umiyamabusi:20200926084811j:plain

元白山を背後に建つ北陸鉄道旧「加賀一宮駅」。

f:id:umiyamabusi:20200926085101j:plain

白山比咩神社側。すっかり観光地の一拠点になっている。

f:id:umiyamabusi:20200926085248j:plain

駅舎内。金沢「野町」から17駅目が「加賀一の宮駅」だった。野町から終点のここまでは、高校一年生の時、サークルの大会が「白山青年の家」で開かれた際に乗った。

f:id:umiyamabusi:20200926090356j:plain

謡曲「歌占の滝」舞台。この日はすごい数の観光客が動いていて、すぐ側の157号は車列が途切れることがほとんど無かった。けれど、ここに「歌占の滝」があることを知る人は全くおらず、ビュンビュン車・バイク・自転車が過ぎていく。

f:id:umiyamabusi:20200926092605j:plain

鳥越仏師ガ野の旅館が,個人客を泊めてくれた頃、調査の折に何度か「ふらり」と泊まりに行った。懐かしくてというか、近くの道の駅は車を止めることが出来ないほど混雑していたので、付近の景観を訪ねて宿に向かった。仏師ガ野橋から手取川上流。

 

おっとこれは…『とも同行の真宗文化』

f:id:umiyamabusi:20200926082438j:plain

(株)きくざわ書店

 

f:id:umiyamabusi:20200920062100j:plain

北陸中日新聞朝刊

『とも同行の真宗文化』は『蓮如真宗行事』以後の一応のまとめ・総括なので、来年からは賀状交換を辞めると言ってきた先輩その他、同たぐいの人に来年からだよね、としぶとく送った。

そろそろよしも含め、「さよならの総括」終了。

 

こんな言葉に続いて「さよならの総括」のメロディーが流れてくるのは、

フェイスブックのプロフィール写真を、二十歳の信州美ヶ原一人旅写真に変えたせいかもしれない。

 

だったら、あまりにも単純すぎる…気がする

 

f:id:umiyamabusi:20200920064929j:plain

 

f:id:umiyamabusi:20200928061608j:plain

あれ!今週も…!

 

17、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑱―豊四郎順拝81~85 文化五年-1808  江州

81 八幡御坊

 

f:id:umiyamabusi:20200919180015j:plain

江州蒲生郡八幡

御坊[角印]

文化五年

辰八月十四日 役者[角印]

 

 

82 八幡御坊

f:id:umiyamabusi:20200919185358j:plain

文化五季辰八月十四日

役者(印)

東泰院殿

宣如上人御開基

近江国蒲生郡八幡

御坊 蓮照寺

 

 

83 愛知川寶満寺

f:id:umiyamabusi:20200919191109j:plain

江州愛知川

祖師聖人御旧跡

別山寶満寺[角印]

宝物略之

役者(印)

文化五辰年八月十五日

84 中川原 西音寺

f:id:umiyamabusi:20200919191931j:plain

江州犬上郡中川原 

祖師聖人御腰懸石

 西音寺

 辰八月十六日 役者(印)

85 四十九院唯念寺

f:id:umiyamabusi:20200919192850j:plain

江州兜率山四十九院

 唯念寺

當院開基行基菩薩天平年中祈

建之古霊場    浄之地也

實如上人御時永正年中御真字 

教如上人御滞留之遺跡也 

文化五戊辰八月十六日當番恵林寺

 

満月物語―輪島ロータリ卓話ー9月15日(火)

f:id:umiyamabusi:20200917191623j:plain

嶽薬師 高洲山 高清寺

f:id:umiyamabusi:20200917191802j:plain

高清寺芭蕉句碑 名月や麓の霧や田のしめり

f:id:umiyamabusi:20200917191923j:plain

どう猛な猿鬼を退治することが出来ないどころか犠牲が出て苦しみながらこの海岸を歩いていた副将神杉比咩に、波が退治する方法を歌となって教えた稲舟歌波の浜と歌波地蔵

f:id:umiyamabusi:20200917192925j:plain

白(八百)比丘尼

f:id:umiyamabusi:20200917193023j:plain

八百年の間17歳ほどのままだったという白比丘尼。手には椿を持ち春になると椿を咲かせて歩いたという。

 

f:id:umiyamabusi:20200917201008j:plain

はだかにて生まれてきたに何不足 一茶 臥龍山専徳寺。HPを調べるとこの句が法語としていろんなお寺のブログに載っている。このお寺さんも何かを見て書かれたのだろうが、『一茶発句全索引』を見てもこの句はない。一茶とあってもどの句集にあるのか出典をあげているものもないので、この標語句は一茶伝説の句と言うべきなのだろう。

f:id:umiyamabusi:20200917204451j:plain

黒島芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」。芭蕉百回忌天明3年(1783)。名願寺真宗大谷派境内

f:id:umiyamabusi:20200917204748j:plain

句碑先の海

 

志賀・富来散策~13日(日)+12日七尾北湾

f:id:umiyamabusi:20200914165145j:plain

不動明王板碑・カーンマーン

f:id:umiyamabusi:20200914165322j:plain

板碑・五輪・宝篋印塔・地蔵―富来町史には紹介されていない。

f:id:umiyamabusi:20200914165513j:plain

『とも同行の真宗文化』171頁~178頁に書いた「御崇敬(ごっそきょう)」に、夜明けまで御示談を聞きながら御参りしたお寺。昭和58年11月のことだった。その後1度ぐらいは訪ねたかも知れないが記憶が無く、37年ぶりに訪ねた。春日灯籠に見事な龍を掘った灯籠があった。

f:id:umiyamabusi:20200914175300j:plain

12日(土)七尾北湾 立山連邦が見えた。

f:id:umiyamabusi:20200914175527j:plain

13日(日)志賀町安部屋の海岸

 

一茶―享和元年手記(日記)(いわゆる『父の終焉日記』)について

一茶については、まずこの時期、「涼しやな弥陀成仏の此の方は」、と言う句がありますね。と語り出すことが出来る。

妙好人としての一茶を知るには、「おらが春」(文政二年・一八一九、一茶五十七歳)といわゆる『父の終焉日記』(享和元年一八〇一、三九歳)に拠るのがいい。

千代尼と違い、一茶を真宗信徒・門徒としてとらえた宗門関係の研究者はおいでになり、この二作品から引用なさっているものの、作品そのものを丁寧に分析した方はおいでにないようなので、とも同行・妙好人一茶の視点からまとめておかなければ、とかねてから思っていた。先に出版した『妙好人千代尼』は、元々、千代尼と一茶を取り上げ『千代尼と一茶の真宗』あたりのタイトルも考えながら作業を進めていたので、一茶に関するデーターは十分すぎるくらいにある。

 

 ここから書かないと分からないのだが、著名な「おらが春」も、タイトルは後世の人が、本文のはじめにの方にある「目出度さもちう位也おらが春」の句から付けたものである。

 まして下書きというか、おそらくより壮大な句文仏教説話・談義本を作品として完成させる意図があって、三十九歳の時に書き留めたいわゆる『父の終焉日記』は、定着した名称ではない。

 

それはそれとして、作品から一茶の信心を見るためには、どの刊本を底本にするべきか?。前に調べたところでは、少なくとも二種類の刊本がある。
そのことを念頭に、まず、今、手に入る岩波文庫版『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一編』を見た。

文庫本ならスキャナー用に新しく買ってもいいかぐらいの気持ちで、書き込みを入れていった。解説を見ると、少なくとも二種類あることも、どこが校訂者の書き入れで、どこまでが原典なのかがはっきりしない。

f:id:umiyamabusi:20200906091227j:plain

岩波文庫平成4年1922刊。凡例に「小見出しを付し」とある。小見出しはどれかわかりにくいが、次の例ではっきりする。小見出し付きの刊本は3種類ある。たとえば5月12日「毒をすすめるものたちすすめる者たち」「厭はしき一家の者」「ままならぬ世」、14日「酒毒のむくみ」(2本)「無理いふ病の咎」、15日「むくみと痰」「蟷螂の斧」「灯影仄かに称名の声」、5月1日「過去敵」(2本)「田植時」など。一番新しいこの書の校訂者が最初の見出し。2本とあるのはこの校訂者が参考にした本。最後の柔らかいのは「みとり日記」。「過去敵」のような不思議な見出しを引用しておきながら、「ままならぬ世」は「毒をすすめる者たち」である。草稿が後世の研究者によってあたかも一茶がこのような見出しを書いていたかのように(この本しか手に入らない)思われるのは、いかにも悲しい。リアリズム讃嘆か何か知らないが、「灯影仄かに称名の声」(みとり日記)が「むくみと痰」だぞ!

手に入らない小見出し付き本

f:id:umiyamabusi:20200906093827j:plain

昭和37年版角川文庫。校訂者は底本『一茶全集』第五巻『父の終焉日記』担当。底本と文庫本の違いについては解説で説明しておいでる。校訂者の考えでつけた見出しはゴシックになってる。それで、その前の「日記本文」も校訂者が付けたことがわかった。ゴシックにしなくても[ ]にするとか一茶ではないのだから、それぐらいは岩波もすべきだったろう。

f:id:umiyamabusi:20200906094509j:plain

大正10年(1921)刊「みとり日記」。この書には校訂者勝井普風氏の見出しがz全日に亘ってついている。昭和37年角川版、入手可能な現岩波文庫本には写真で分かるように24日の小見出しはない。理由があるとすれば、これも解説に書いておかなければならない。24日は「薬をすゝむ」である。

底本版

f:id:umiyamabusi:20200906095124j:plain

昭和9年1934版岩波文庫『一茶遺稿 父の終焉日記』。これがータイトルも小見出しもないーが底本に最も近い形である。この本及び束松露呈氏の関わった大正11年本は、現行本の参考文献にさえ載っていない。

さーて解説

f:id:umiyamabusi:20200906100147j:plain

岩波文庫『一茶 父の終焉日記 おらが春 他一編』解説



解説にある「父終焉の記」「みとり日記」は誰の校訂本なのか?

束松露香とはどういう人なのか?

それが一般化されるほどの根拠はどこにあるのか?

などを解説しないと、初七日までの話が記されている草稿をどうして、「終焉」と言えるのかが分からない。

ひとつ重要なことに触れておく。

解説では「今日では大正11年に束松露香の校訂によって刊行・命名された」とある。

どう見ても束松露香氏が刊行したとしか読めないが、束松氏は大正7年に亡くなっておいでる。

亡くなって4年後に「刊行・命名され」るわけがなく、誰かが刊行・命名したのである。

 この解説に添ってその人物名を書かないで進めるが、その人は大正6年に長野で束松氏に会い、出版に尽力してほしいと、いわば遺言のような形で原稿を託された。

 それが岩波書店から「一茶遺稿 父の終焉日記」として刊行されたのが大正11年1月5日のことだった。

 刊行者は、この草稿を誰よりも調べ、タイトルに「父の終焉日記」とこだわっておられた束松氏の願いを生かすべく、『父の終焉日記』名にした、と解説に書いておられる。

 その方は自著の刊本では、「看病手記」としておられる。

 このようないきさつは、現行本の解説には載っていない。

ちなみに、「従来」の「父終焉の記」は明治41年刊刊俳諧寺可秋編『一茶一代全集』、

「みとり日記」は大正10年勝井普風編 近藤書店発行である。

 

 今までのタイトルの中では、もっともこの件に力を注いできた方の「看病手記」、あるいは若さ体力があるものが老いた人を(親子はおいておいて)看取る程度に考えて「みとり日記」がふさわしいと思うが、とりあえず「享和元年手記(日記)」とこの書を表現しながら、考えてみる。

底本

とも同行と共に一茶に出会おうというのだから、手に入れやすい文庫本を底本にしようと思ったが、指摘したような問題がある。

 ところでこの平成4年刊文庫本のあと、2012年(平成24)にも刊本が出ているのである。

 校訂者は、本文も他の解説も読んだとは思えないとらえ方をしているので、書名等は伏すが…あるにはある、

 読んでいないんじゃないか、とまで書かざるを得ないのは次の書き込みの通りだからである。

f:id:umiyamabusi:20200906132652j:plain

校正者の意図によって書き込まれた「見出し」が、角川版ではゴシックで表記してあるため、本文では無いことが見てわかる。岩波版ではどうなのかなと思いつつも、勝手に作りあげた見出しが、下の方にあって遠慮がちではあった。

 この本では上に移っていて、完全にタイトルになっている。しかも、注が無いので「ありの実」などは何のことか誰も(当地の人を除いて)わからないだろう。

さらに原典と離れた作品になっている。

f:id:umiyamabusi:20200906133505j:plain

使いようが無いことが分かった時点で、メモを書き込んだ。この書物は立派で、出来るなら底本にしたかった。編集者さんたちが心血注いで作り上げた本の感触が伝わってくるような書物なのだ。合掌しながら開き、さあーやるぞ、気合いが入る書物と言ってもよい。

 それが、無残な中身。

現在手に入る二冊の本の校注者・担当者は幸いお元気のようだ。

いつかお話を窺いたい…とも同行は思うが半島先端からは無理か。

素敵な本も使えないとなったら、底本はおのずから『一茶全集第五巻』となる。

 疲れた。まぁー、よくいうガス抜きだ。

 さあーて、やさしい一茶を訪ねるぞ。

 

八朔 ーほのぼのカレンダー(法藏館)、『とも同行の真宗文化』、谷内正遠ふるさと版画展

f:id:umiyamabusi:20200901200023j:plain

ほのぼのカレンダー-9月(法藏館刊)谷内正遠絵。場所は書いていないが、昭和39年9月21日全線開通し、平成17年3月31日に廃止された能登線藤波~波並間の光景である。。

f:id:umiyamabusi:20200901203354j:plain

能登線日和 湯浅啓写真集』能登印刷出版部 2005年(平成17年)4月1日発行。

廃止された翌日の刊行本だ。私は宇出津高校へ毎朝6時過ぎの列車で通った。妻はそれよりかなり早く起きて弁当作り。飯田高校時代は生徒が通学した。30キロ離れた鵜川から通った生徒たちもいた。この光景はその途中…。

中の写真は、一枚一枚が次々と語りかけてきて切なくて見ることが出来ない。

f:id:umiyamabusi:20200901204609j:plain

同じ場所の朝焼け。『湯浅啓写真集 能登線憧憬』亀鳴屋制作 2008年10月14日発行。湯浅さんはどうしているだろう…。

 

ほのぼのカレンダーを発行なさっている法藏館からメール配信版「法藏館書店ニュース9月号」が届いた。

なにげなく読み眺めていくと、恒例のベスト10コーナー(8月期)

f:id:umiyamabusi:20200901210347j:plain

法藏館書店ニュース9月号、16ページ。売行ベスト10(8月期)

なんと10位に『とも同行の真宗文化』が載っているではないか!!

本が重いのと、つても無く、知り合いの能登の本屋さんと小松の本屋さんにかろうじて置いてもらったが、私の車移動範囲が精一杯。タイトルからし法藏館さんにもと、お願いしたら快く置いて下さった。

 それで、この本に関しては満足しきっていたのが、このような形で目にするとは…申し訳ないことです。

 

次に谷内正遠さん。ご本人とは面識はないが、父君の誠之師は私の二度目の教区会議員時の議長さんで、可愛がっていただいた。

その御尊父が正順師で郷土の偉人調査の記事(北國新聞2006年・平成18年8月8日)に次のように書いている。

谷内正順は一八八六(明治十九)年四月に羽咋郡河合谷村(現津幡町上河合)の慶専寺で生まれた。九歳の時に眼病にかかり左目を失明したが、県立第三中学校(現七尾高)、旧制一高を経て進学した東京帝大を首席で卒業、明治天皇から「恩賜の銀時計」を、本山から「宗門の名誉」として銀の鎖も受けている。
一高同期の文豪谷崎潤一郎も「大変な聖人」と認めた谷内は、東京帝大助手、石川師範教諭、高岡高商(現富山大)教授、真宗大谷派教学研究所長、同中央修練道場長などを歴任し、一九六八(昭和四十三)年に八十二歳で亡くなった。

 

 

 

付け加えれば祖師650回忌前年の明治43年んは句仏上人の一ヶ月余に及ぶ北海道樺太御巡化に同行しており、若き時から教化の中心を担ってこられた。

著書に『光雲無碍』(昭和37年11月1日文永堂刊)がある。

 

懐かしの能登線沿線は、そのお孫さんの絵であり、今月の展覧会案内。

f:id:umiyamabusi:20200901221749j:plain

学びの人が育った地での、美術鑑賞ー胸躍る秋の始まりー八朔である。

 

 

 

名畑崇先生ご逝去

石橋義秀さんのFBを開いたら、名畑崇さん(先生)ご逝去なさったことが載っていた。8月27日、87歳。

研究室は国史・日本仏教史同室で、私が在籍した時は名畑さんは30代。仏教史の非常勤講師か講師職だったようで、お話ししたことはなかった(と思う)。

 名畑さんはおそらく私のことを知らないままだったと思うが、いくつかの接点・想い出がある。

f:id:umiyamabusi:20200829184402j:plain

前列右から二人目が名畑さん。その左横が藤島達郎先生。前列左の白いセーター姿が私。その右後ろ・後列二人目が大桑斉さん(先生)。あとは省略。仏教史の集まりだが、私とその横のたばこの煙を吹かせているのと二人は、もぐりだ。後輩たちがネクタイをしているので、社会人になってから(年号が書いてない)。

 

f:id:umiyamabusi:20200829185541j:plain

1989年・平成元年 12月16日土

 日本宗教民俗学会。

名畑氏は2列目、右から3人目。

私は前列左2人目。先輩の大學関係者に限り名を記す(敬称略)。

 私の右横、豊島修、日野西眞定。後列左から4人目山田知子。

 

長光山 養泉寺 (御住職:名畑崇師)

f:id:umiyamabusi:20200829193743j:plain

2013年(平成2年)5月8日(水)撮影。郡上市明宝大谷

 

2014年5月8、9日、講師をしている能登教区11組~14組坊守会の研修旅行引率で 高山・古川へ行くことにしていた。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

そのころボランティアガイドきらり珠洲の代表や県民講座の史跡探索などもやっており、旅行引率を楽しんでいた。5月にしたのは、庄川桜の満開期に合わせて研修しようと思ったためで、そのちょうど一年前に最終コース決め、確認のため高山・奥飛騨を巡った。

ここは予定コースではなかったが、学生時代、高山、郡上八幡、益田に親しい先輩や同級生がいたので、彼らがどういう雰囲気の所に育ったのかを見たくて、郡上八幡まで足を伸ばした。

寺院名簿を持っての旅で、由緒寺や目につくお寺に寄りながら旅をした。

このお寺が、名畑崇さんが住職をしておいでるお寺である。

すぐ近くに道の駅・明宝(磨墨の里公園)があって、いい景観の中の綺麗なお寺だった。

先生がおいでれば名乗るか何かしようと思ったのだが、誰もおいでにならなかった。

f:id:umiyamabusi:20200829201346j:plain

お寺背後。昔、先生がまだ小さい頃、このあたりでも遊んだのだろうな、などと想像しながら歩いた。

「せせらぎ街道」も間もなく終点の郡上八幡に近い。

f:id:umiyamabusi:20200829201432j:plain

法語

散るさくら 残るさくらも 散るさくら …

 先生の字なのかも知れない

 

著書

f:id:umiyamabusi:20200829204453j:plain

f:id:umiyamabusi:20200829204523j:plain

f:id:umiyamabusi:20200829204545j:plain

f:id:umiyamabusi:20200829204610j:plain