「とも同行」に促され書いた『妙好人千代尼』。少し研究書に近づけるとすれば…。
『妙好人千代尼』(2018年1月20日 法藏館)の補足・注釈。
○ 蜻蛉釣り今日はどこまで行ったやら
伝千代尼作の著名な句である。2019年1月刊行の『妙好人千代尼』(法藏館出版刊)には、最初にこの句に触れた箇所(5頁4行目)では
たとえば、小林一茶(1763~1827)がわが子に先だたれた時、千代女が子の弥市に先だたれたときに詠んだと伝わる
蜻蛉釣り…
と表現した。
その後もこの句は7カ所で用いたが(句索引を作っておいてよかった)、索引では、あえて伝千代尼句を設け、そこでこの句を引くことが出来るようにしておいた。
研究書だったら、どの本のどこに、千代尼の句とは認められないと書いてあるとかを、ああでもないこうでも無いと引用ししつつ分析にすることになっただろう。
そうすれば、
この千代尼句として受け止め、生かしてたり励みにしてきた、
一茶、新渡戸稲造、フローレンツ、鈴木大拙、徳富蘇峰(同書5~7頁)たちの受け止めを切り捨てなければならなくなる。
「とも同行」に語る時は、サラーっと「詠んだと伝わる」程度がいいのだろう。
○千代尼が、これまで妙好人、あるいはとも同行として取り上げられなかった理由。
著名な千代女・千代尼がせいぜい「熱心な真宗信者でした」程度にしか紹介されてこなかった。私はいろんな場-法話や研修会法話の主人公としてーで、導入などに千代尼名を用いてきたので、まとめなければと思い、また書くことができた。
なぜ、これまで書かれなかったか…。
その理由を3つ挙げた。
千代尼を妙好人として見ていくには、
1、彼女の拠った俳諧、
2、生きた時代の背景と風土
3、真宗の教えとの出会い
などの観点からとらえなければならず、それぞれがかなり面倒なのです。
なぜ面倒かは、3の真宗との関係は、用語の問題、教えなどがあり、言うまでも無いので理由は書かなかった。それをクリアしても、千代尼の時代に寺檀制=家の確立という、いわば「とも同行」が実態を持ち始め、民衆に宗教が広がり始める元禄頃をしっかり見据えなければならない。その上で、比較的多く取り上げた一茶の時代が円熟期にあたる化政期であることとの違いを絶えず考慮しなければならないということである。真宗史にしっかりとたたなければならない。
いろんな方から感想をいただいたが、真宗地帯の人では、九十近い女性が一晩で読んだとおっしゃられ、静岡の俳人は、前半はサーと読み進めたが、真宗用語が出てくるあたりから全然進まなくなったとおっしゃっていた。
この3真宗の関わりで、2の例として、
近現代に生きた千代尼像にしたり、
とぼかしたのは、言うまでも無く、親鸞聖人五百回忌に参詣して句を詠んだので、端書きもそのことが記されている。
今でこそ本山は収骨であるが、元禄期という時代にそんなことがあるわけは無く、書いた人だけで無く、この記事を載せた雑誌の見識を問われても何なので、実際は売れっ子俳人なのだが、歌人ということにしておいた。
1は、柳田国男の文からの引用を例に挙げた。
柳田国男が、『生活の俳諧』で、芭蕉の「風吹ぬ秋の日瓶に酒無き日」(『冬の日』)を「私などは「風吹かぬ」と解し、先生(幸田露伴)は「風吹きぬ」だと見て居られた」と指摘している程度の「面倒」さが、同時代の千代尼句にもあるからです。(228頁 あとがき)
書いたのはこれだけだが、私は高校で古典を教えていたので、当時の送り仮名の面倒さを知っており、うーん面倒だと思って書いたのであるが、
どうして、そうなるのか、本来ならそこから書かなくてはならないのかも知れない。
「吹く」は、吹か(ず、ば)、吹き(ぬ、たり)、吹く。吹く(時)、吹け(ば)、吹け、と変化する。
柳田は、「吹かぬ」の「ぬ」は、打ち消し・吹かないの意の「ず」と解釈し、「ず」の変化「ず(未然)、ず(連用)、ず(終止)、ぬ(連体)、ね(已然)」の連体形「ぬ」であって、「吹かぬ(吹かない)秋の日」と名詞につながる用法とした。
一方、先生・露伴は、「吹き」に完了の「ぬ」がついているとした。「ぬ」の変化は、な(未然)、に(連用)、ぬ(終止)、ぬる(連体)、ぬれ(已然)、ね(命令)だから、この場合の「ぬ」は終止形で、「風吹きぬ(風が吹いた)。秋の日瓶に酒無き日」ととらえた。
「強い風が吹いた。秋の日の、瓶に酒の無い日に」ぐらいになるだろう。
要するに、漱石、露伴という巨匠の見解が分かれるくらい、当時の一句を詠むことは面倒なのである。
では、どう取らえればいいか?
柳田も書いていないことを掘り下げるが、「吹かぬ」だと、「吹く予想」があっての「吹かぬ」になるから、どこか近現代の気象庁のような存在があるように見える。野分(台風)が吹いた。酒を買いに行くことが出来なかった。あるいは酒も無く侘しい日に風まで吹いた。より秋をしみじみ感じることになった、と先に生きた人・露伴のとらえ方が良さそうな気はするが、
もちろん、兩巨匠のとらえ方に口を挟めるはずもない。
ともあれ、相当骨の折れる段取りを踏まないと『妙好人千代尼』を知りにくく、誰も書かなかった理由があったのだ。
抜き刷りなどをお送りすると、いつも厳しいご意見を下さった故大桑斉さん(先生)が、この本に対しては、
驚きでした。ニュー西山と言うべきか。民俗学者とばかり思っていましたが、本体は文学者だったのだ。そういえば専攻は国文学だったのでは。
それならこの著書に込められた薀蓄が分かろうというもの。
私も千代尼が気になりながら、とうとう手を出さずに来ました。それは千代の句に仏語や安心用語がみあたらなかったことによっていますが、それを見事にクリアーして、妙好人かどうかは別にして、篤信の真宗者千代を描き出しました。
これは国文学の素養なしにはできないことと、改めて感心した次第。
千代の句を少々読んだのですが、「百生や蔓一すじの心より」に「三界唯一心」の端書がある所までは読んでいませんでした。
それも端書がなければ、「弥陀をたのむ一心を表しており」p153とは読めないでしょう。このように端書などがなければ、とても信心の句とは読めない。端書などない句にも信心を読み込んだことが第一の成果でしょう。(以下は疑問点の指摘)
○朝顔に つるべ取られて もらい水
朝顔や つるべ取られて もたい水
「に」を「や」に変えたのは、千代尼35歳頃。親鸞聖人は35歳越後御流罪。蓮如上人同年北陸への旅。釈迦同年12月8日菩提樹の下で悟りを開きブッダに、と。
そこから、この句の仏教的展開(深みと広がり)を見た。
それはそれでいいし、その見解に変わりはない。
さらに35歳は、子があれば、その子が「立志」(成人)を迎える年ごろにあたり、35歳はより広い区切りの重要な年だと認識している。
その後、「朝顔に」の句が、晩年にも書かれていた直筆があったとの報道があった。
考えすぎかも知れないが、当時かなり「に」から「や」への移行が話題になっていたこともあり、中には完全に「に」の句が消え「や」ばかりになったと受け止めた人もあったかも知れないが、それはそうではない。
「に」で作った頃の思いに還り、そのように書くことは当然ある。
35歳のころ、一文字ではあるが、生きているもの同志の巡り逢いに感動する句境の大きな深みに出逢ったのが「朝顔や」だったととらえればいい。
その後は幅の広い日々の中で、時には「朝顔に」とうなづくこともあったということである。
法語12ヶ月、眞宗句を詠んだ俳人、『無憂華』(同朋会推進員研修 令和2年度第二回 8月20日)
お盆過ぎの20日は涼しくなっているだろう、なごりゼミの鳴き声を聞きながら「蟪蛄春秋を知らず」とか「涼しやな弥陀成仏の此の方は(一茶)」「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀(高浜虚子)」等を取り上げながら、コロナに気を配りながら、いく夏を惜しみつつ、勉強しようと思っていたら、なんと…
20日は今年最高の暑さになるという予報。
前に氷り柱を買ってきて本堂入り口に置いたこともあったが、今は売っていないのだという。
せめて冷茶を多く用意して、何度も飲んでもらうしかない…。
何せ1時半から3時半、この暑さじゃ数名お出でになるかどうか(実際は20数名の参加)、
それでも、話は少し面白いというか、作業を入れて暑くてもすごせるものにしようと、急遽、法語カレンダープラス先に書いた一茶、虚子、彼らと深い関係のある井泉水、法語の作者写真、俳人写真を次の通り準備した。
中程は、父のみとり、看病、終焉日記と呼ばれるもので、現在手に入るのは⑨平成4年刊の岩波文庫本、⑩平成24年版しかない。いろいろ見ていくと⑨そのものが原典と違うもので、⑩は⑨をそのまま写したと解説に書きながら違う刊本にしてしまっている。しかも、活字になった初めは⑤の昭和9年本と書いているが、それまでに明治41年から4本の活字本があり、そもそもタイトルのない下書きでの同系統の書は、大きく4行までと5行目以下とに分かれるのである。
今は誰もが⑨を見て『父の終焉日記』と思うだろうが、この書物の解説はおろか、参考文献にすら⑥以前を取り上げていない。この草稿本は、一茶と眞宗を知る重要な内容本(底本はおそらくA)なので、どういったものなのか、はっきりさせておかなければならないだろう。ただ、今手に入れて読もうと思えば読めるもう一冊の⑩は、あまりにひどい解説なので書名などは書かないでいるのだが、どうしたものだろう……。これは後ほどじっくりと、ということにして…
次の頁の写真は法語関係者7名を月順に挙げた。あとの2人は俳人。
ダルマさんみたいな最後の人が清沢満之?と声があがったが、かほどに聞いている話から来るイメージと、実物は違う。
そろそろ始まる頃に、今一度書棚を見ていくと信国淳選集があって数葉の写真もあった。付け加えるのは間に合わないので。口頭で語る。イメージは左2人目の安田理深師、近くの人では最近金沢で逝かれた○○さんに似ているといったら、高校の同級生だったとおっしゃる女性がおいでた。暑さをものともせぬ、同級生ーそれぞれの日々…。
家にいて明け方熱中症になって何日か入院なさった方が、症状と水分補給をする気にならなかったその夜の様子を語られ、聴聞の方々はあらためて身近に起こるのだということに感じ入っておられた。
このよく知られたこの短歌は、九条武子さん著『無憂華』に載っていることが分かった。どこかでこのタイトルを見た記憶があったので本箱を探すと『無憂華』が見つかった。その本に載っていると書いてある参考文献には『無憂華』に「うどんげ」とふりがなが振ってある。見つかった本の本文にもふりがなが振ってあって、「むゆうげ」とある。よく見ると「むゆうげ」だ。本が無かったら「うどんげ(優曇華)」で話を進めるところだった。見つけたのが11時頃で、急遽その歌が載っているエッセーと『無憂華』が分かるように本の表紙なども付けた一枚を用意した。
右から読むがかねぇ?
ウン右?(私は左利きなので、右左がとっさに判断できないことが多い)
九條武子著がなかったら、「華憂無」だと思ったかもしれない。「華、憂い無し」これも悪くない…などと、今、書いていてどんどん妄想世界に入っていく。
法語が載る「幼児のこゝろ」本文も、しみじみとしたいい話だ。
かつてどこかで読んだ九条武子から「麗人」という言葉が生まれた、も面白いけど、原典を知ってこそ、そこに用いられている歌が精彩を放つことを、改めて知った。
フェイスシールドは暑かったけど、いい時をいただいた夏の終わり頃…。
蟪蛄(蝉)は、暑さ負けしてほとんど鳴いていないようだった。
この頃の通夜説教の場
先月と昨日、金沢の違う葬儀屋さんで通夜説教をさせていただいた。
いずれも新聞に載ると多くの人が集まるので、身内だけでの葬儀の場。
今時はコロナの感染防止のため、今までならセレモニー会館が用意していた「正信偈」(声明本)を配らない。
家から称名本を持ってこないと一緒におつとめが出来ないのだが、いわゆる三密対策は想像つくものの、声明本を配らないことまでは考えが及ばず私の声ばかりの静けさ。
昨日は能登の身内のお年寄りが何人かおいでになったので、それでも背後から時折お勤めが聞こえてはいたが…。
先月の時は、仏教との出会いが今までほとんど無い人や・孫・ひ孫が多く、また他宗の身内人が混在なさっていたので、法話では焼香の意味、仕方などからお話しした。距離を空け、飛び飛びの座席、対面であっても十分な距離があり、その点は申し分ないのだが、声明本を見ないためか、はじめから照明を絞った薄暗がりで、マスク目だけだと子供なのか大人なのかさえ見分けられず、話に対しての表情を窺うどころか、しばらくすると、白いマスクがあちこちでボアーっと浮かんでいる光景になっていった。
いつもなら、知った人でうなずいてくれる人を見つけ語りかけるのだが、そういう、いわば、表情を通して対話しすることが全くない中で、ただでさえ愛別離苦ただなかで、今あるすべてをかけての法話。それだけで疲れ切るのに、さらに独り言に近いお話をしなければならない現場が、作今の状況なのだ。
その金沢で、今度はどちらかというとお年寄りが多い場が生じた。こちらが表情を見て取れないのと同じく、それ以上に「話し手」の語りが理解しにくい状況がある。
マスク越しに話すと、耳が遠くて聞き取りにくいのに輪をかけることになるし、歯切れの悪い話がますますモゴモゴになるし、たとえ最高の状態であっても、仏教語そのものが聞き慣れていないと耳に入ってこない。
極端に言えば、後ろを向いて話しているようなものだ。
そこで、昨晩(夕)は、顔全体を見せてお話しすることにした。
まずマスク姿で一族の方々と向き合いー距離は4メートルははなれていて充分ー
Face Shieldを付けて、マスクを取り、マイクを使ってお話しした。
どうだった、と聞いて素直に答えていただけるような間柄の人もいなかったが、あるかないかの目で、全く表情が作れない目だけで話すよりは、思い切ってFace Shieldデビューしてよかったと思っている。担当や司会などの若い方々数名は、やや驚かれた様子だった。
それとは、関係なしに、葬儀当日司会をなさる方に、
若いときから、毎晩のように法話を聞くことができるなんて、尊い時をいただいておられるのですねェー、このような環境から、後生、篤信の真宗門徒さんと語り継がれる方が育つんですよ…と語りかけた。
これはお通夜のあと、ホテルで静かに通夜を場を振り返り(改悔批判)―何人もの世話をなさった方々を思い浮かべている時、たどり着いた実感である。
司会などは出来ないけれど、常説教場のない今日、
法話を聞こうにも、なかなかその場を見つけることが出来ず、小さな法話の場こそ必要なこの時期、あるいはこれからを考えていたとき、本当に恵まれた場においでになることを、(司会などは出来ないけれど)つい羨ましさを包みこんで、話しかけたのでした。
お葬儀を終えての帰り道―能登の道には車・バイクがあふれていた。
この奥に大都会があるのではないかと思わせるくらい
登りも下りも、ずーっと車列が続いていた。
10日ほど旅先にいたような気分。
このブログには、寺役に関することは書けないし、書かないことにしていたのだが、
コロナ禍寺役という非日常状況なので、したためた。
10日朝
新聞のお悔やみ欄に載っていた。
お二人とも葬儀翌日に通夜葬儀とも終了とあって、それとなしに身内で葬儀を執り行いましたと紹介された。
昨日金沢は34.5度だったそうだ。
口鼻はマスク、ご家族、係と接しているため、途中から目の周りだけ日焼けしていくのがわかるくらいだったが、今朝は目の周りが火照ってあつい。
これはこれで、珍しい経験。
襦袢・白衣・簡衣、マスクに34.5度。
一気に真夏の時を過ごした。
3『妙好人一茶』―『父の終焉日記』「父 みとりの記」
父の終焉日記
心・身の身との別れを、熟語では
示寂、西帰、還浄
還帰〘名〙 (「げん」は「還」の呉音) もとの所にかえること。特に、仏の世界にもどること。
遷化 逝去などといいます。
親様=仏様の元へ還る。いずれも~へがあり、お迎え、来迎世界があり、平生業成、臨終往生なども聞いています。
根拠は弥陀の本願往相・還相(二十二願)にあり、悲の器も悲心の器であって、悲心の容器・身体との別れが、強いて言えば「終焉」でしょうか。
別な見方をすれば、往生安楽国も浄土で仏になるのも入り込む隙の無い言葉が、「終わり」に強調の助字がついた「終焉」でしょう。
もしはないでしょうが、一茶がいれば、いかにも学者ぶったいやな言葉は使うなと怒るに違いない、と思うほどのこの『父の終焉日記』は、違和感を持つタイトルなのです。
愛別離苦の場に多く出会い、一茶から学ぶことも多いのに、「父の終焉」は一茶世界からほど遠く、「終焉」は、とも同行としての一茶のむしろ対極にある語ぐらいに感じていました。
妙好人一茶には、「父、みとりの記」あたりが許容範囲かな…とも思っています。
難しそうで格好いい表題とはならぬこのタイトルを、一茶の妙好人とまでいわなくても門徒らしさを見てこられた篤信の研究者に、
「終焉日記」がどう映っているのかを見ていきます。
※終焉 《漢文の助字》句末に置いて語調を整え、また、断定の意を表す語。
○『念仏一茶』チッタ叢書 早島鏡正 四季社 一九九五年(平成七)十一月一日
わたくしは一茶が浄土真宗本願寺派の門徒の家に生まれ、次第に念仏の風土の中で育てられていき、自然法爾の自他一如の境地に至った過程を、かれの詠んだ二万余の句、また『父の終焉日記』や『おらが春』の句文集などによって、辿ることができた。(はじめに)
(一茶が)還暦を迎えた元日の句です。
春立つや愚の上に又愚にかへる
今日はこの境地に至るまでの、一茶の精神生活についてお話をして頂きます。前半は、一茶が父親の看病を日記形式で綴った『父の終焉日記』を基に、それから後半は、二歳で長女さとを亡くしたことも含めて書かれました『おらが春』を基に、一茶の精神生活についてのお話をして頂きます。
その前にもう一度、『父の終焉日記』を書くまでに至った家族構成とか、家庭生活ということを、みなさんに確認しておいて頂きましょう。
一茶は小さい時に(三歳)お母さんが亡くなって、それから八歳の時に継母のさつが来ます。十歳の時には異母弟になります仙六さんが生まれます。一茶は十五歳の時に江戸に奉公という形で出されます。江戸在住時代三十五年間のうち何回か故郷に戻りますが、三十九才の時に、柏原に戻って約一ヵ月間、お父さんの看病をします。その時のことを書いたものが『父の終焉日記』です。<四〇頁>
○『俳諧寺一茶の仏教観』早島鏡正 『近世の精神生活』続群書類従完成会 平成八年(一九九六)三月二八日
⑤二六庵襲名と父の死、寛政十一年(一七九九〈三十七歳〉)―享和二年(一八〇二〈四十歳〉)
寛政十一年に二六庵を継いで一派宗匠となる。享和元年三月、柏原に帰り、四月から五月にかけて父弥五兵衛の病床に付き切りで看病する。病床の父は財産分割を弟専六に指示。これにより、継母や専六との反目が激しさを加える。翌月五月二十一日、父死亡。一茶の看病記『父の終焉日記』は有名。
寝すがたの縄追ふもけふがかぎり哉
○『江戸 真宗門徒の生と死』大桑斉 方丈堂出版 二〇一九年一二月二〇日
一茶の真宗は、熱心な念仏者だった父親の弥五兵衛から受け継いだと考えられます。妙好人ともいうべき篤信者の父に育てられ、真宗がいつしか身に染みついていました。一茶三十九歳の享和元年四月、病気の父の看病に故郷に帰ります。そのときの日々の有様を、『父の終焉日記』(岩波文庫)として残しました。
廿八日(父の発病六日目)晴祖師の忌日なりとて、朝とく嗽(くちすす)ぎなどし給うに、熱のさはりにもやならんと止むれども一向にとゞまり給はず。御仏にむかい、常のごとく看経なし給うに、御声低う聞ゆる、いかうおとろえ給う後姿、心細うおぼゆ。
二十八日は親鸞聖人の御命日です。その日に御勤めをする門徒の姿があります。病を押して御勤めをすること常の如しでした。
(五月)三日(発病十日目)晴……今迄神仏ともたのみし医師に、かく見はさるるゝ上は、秘法仏力を借り、諸天応護のあわれみを乞んと思えども、宗法なりとてゆるさず。只手を空うして、最後を待つより外はなかりけり。 <一一九~一二〇頁>
既成事実として、『父の終焉日記』という書物があることになっています。『江戸 真宗門徒の生と死』の方は、「日々の有り様を、『父の終焉日記』(岩波文庫)として残した」のでは無く、「日々の有り様を書いた記録・メモを、後に誰かが『父の終焉日記』としてまとめ、それが伝わっています。」です。
『父の終焉日記』解題
両碩学はタイトルを問題にしておられない事が分かったので、一茶研究史に戻ってタイトルのついたいきさつを調べようかと思っていたとき、体系史料集で『父の終焉日記』か、これに近いものが収められていたことを思い出しました。
藤秀璻師の『新撰妙好人伝』に「俳諧寺一茶」がを取り上げておられるので、当然、「妙好人伝」に載っていると思ったのですが、見えず、続いての巻「真宗門徒伝」を(念のためぐらいの気持ちで)開いたところ、そこに『父の終焉日記』があるではありませんか…。しかも史料集なので「解題」付き。
ちょっとワクワクしばがら「解題」を読んで…びっくり…。
この担当者は、本を読んでいない?
史料集解題には次のようにあります。
「そもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。」「本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。」と書いていますが、
1『妙好人 一茶』に
「わたしが引用した一茶は、『おらが春』と『文政句帖』からですが、一茶には『父の終焉日記』と呼ばれている一茶の信心がうかがえる優れた日記文学あるいは日記風談義本があり、真宗史家は主としてその著から一茶の信心を見ています。」と書いたように、
この書は「日記文学あるいは日記風談義本」でして、「私的な日記」(個人筆の私的以外の日記はないのでは…)、まして「日記史料」などではありません。
史料集解題者が、「『父の終焉日記』についての解題はこの(一九九二年)岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。」と下駄を預けられた岩波文庫本の解題(矢羽勝幸氏)を読むと、「日記的体裁をとるが私小説的な構成・内容をもち、創作意識が顕著である。」とあります。
同じ矢羽勝幸氏は「単なる日記ではなく、私小説的な構成、内容を持っている。」(『詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人一茶』NHKカルチャーラジオ 矢羽勝幸 二〇一三年)、
「日本の私小説のルーツと言われる。」(ウィキペディア)など、いずれも文芸作品、真宗的に言えば談義本と見ています。その作品に「日記のようであり、日記史料の代表」と「解題」をつけたなら、タイトルの難解さもあって、優れた妙好人・とも同行の記録である『父の終焉日記』の入り口がふさがれてしまします(すーっと入っていけないぐらいの意味)。
『父の終焉日記』を知る上で、もうひとつ欠くことのできない「解題」(『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五三年)があります。
そこには「日記体をとるが、緊密な構成をもち、内容もかなり整備されている点から、父の没後相当の時日を経て(大場俊助氏は文化六年頃と推定)執筆されたものと見てよい。」とあります。
ここで問題にしている史料集解題の文をあげます。
父の終焉日記 小林一茶/享和元(一八〇一)年/写本/個人蔵
近世を代表する俳譜師である小林一茶は、真宗の信仰のあった人物としても知られている。この『父 の終焉日記』はそもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。
この日記の活字化の推移を簡単にまとめると、まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。この復刻版は二〇〇四年に一穂社から出版されている。
そして一九九二年に岩波文庫『一茶 父の終焉日記・おらが春』として、矢羽勝幸氏の詳細な校注がつけられ出版された。現在、原本は個人蔵で閲覧することはできなかったので、本巻では後者の岩波文庫版を参照し所収した。なるべく原史料のままの掲載を目指したため校注は付けなかった。
『父の終焉日記』についての解題はこの岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。
本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。
(以下、同類の門徒日記史料に「心ニ掟置く言葉」(原稲城)、『見聞予覚集』に山下安兵衛往生の様 子が記されている、と載る)
引用の二段目ですが、
この日記は大正十一年に岩波書店から、荻原井泉水校閲、束松露香校訂『一茶遺稿 父の終焉日記』として出版されています。
解題者の「まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。」とある文庫本は、荻原井泉水校訂『父の終焉日記』で、井泉水の校訂は素晴らしいものですが、肝心な校訂者の名も挙げず、復刻がどうなされようと解題とは何の関係もありません。それより、わずか七文字の「荻原井泉水校訂」がどうして解題に書いていないのか、存じ上げない研究者さんですけど、会ってお聞きしたいものです。
というのも、一茶のこの著が、どういう事情で誰の所にあり、書籍にしたいといっていたいきさつから書籍になった経緯、、大正十一年に校訂者として登場する束松露香の役割、二冊目には荻原井泉水一人になった事情など、
すべて、昭和五年十二月に荻原井泉水が著した「一茶自筆稿本解題」(十一稿本分所収)の「○父の終焉日記」に載っており、昭和十一年に「新潮文庫」の一冊として刊行もされているのです。
この著が世に顕れるのに決定的な役割を担った著名な俳人・研究者が解題から抜け落ちている…
なんだか、「解題」分析疲れ…。
○荻原井泉水の○『父の終焉日記』解題、
○『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五十三年(一九七八)の解題
○『一茶 父の終焉日記・おらが春他一編』矢羽勝幸校注 岩波文庫 一九九二年の解説
の重要解題は、次回に『妙好人一茶』―『父の終焉日記』関係主要三解題、と題して続けます。
なんだか節談説教「長太ムジナ」の、続きはまたあしたーー
になってきた。
2『妙好人 一茶』 ―『おらが春』、いわゆる『父の終焉日記』について
前回
『妙好人千代尼』に書いた一茶を妙好人として見ていくことについて、1『妙好人千代尼』に書いた次の文を載せました。
○現今、俳句の愛好家は多く、講座や行事の場など、どこへ行っても、かならずといっていいほど俳句を楽しんでいる方々に出会います。
俳人の集まりなどで話す機会があれば、千代尼の法名は素園で、親鸞聖人五百回御遠忌の時の句がありますとか、
小林一茶『おらが春』の最後に載る
ともかくも あなた(=阿弥陀さま)まかせの年の暮れ
の前文は、本願寺八世蓮如(一五一五~九九)作の「御文」と同じ体裁で書かれており、「あなかしこ、あなかしこ」とまとめられています。このことからも分かるように『おらが春』は信心の書です、などと紹介すると、参加者は一様に驚かれ、多くの方が、よりその世界を知ろうとなさいます。しかし、紹介できる手ごろな書籍がなく、千代尼や一茶が真宗の篤信者である「妙好人」であることさえ知られていないことに、物足りない思いを抱き続けてきました。<8~9頁>
○昭和二十一年(一九四六)には、藤秀璻が『新撰妙好人列伝』をまとめました。そこには五十三人の妙好人が紹介されています。
大和清九郎、三河お園、石見善太郎、讃岐庄松、石州才市などの著名な妙好人のほか、親鸞以前の西行、笠置寺(真言宗、京都府相楽郡)の解脱、蓮如の弟子である赤尾の道宗、さらに越後の良寛や、教学の第一人者である香樹院徳龍、一蓮院秀存、それに加賀(白山市松任)の千代尼、俳諧寺一茶(小林一茶)、そのころよく知られていた貝原益軒、太田垣蓮月、伊藤左千夫などを取り上げています。
この秀璻の『新撰妙好人伝』は、戦後まもなく、人心が荒廃している世情にあって、人々が指針とすべき像を妙好人に見ています。そのため、多くの妙好人が紹介され、そこには、著名な俳人である千代尼と一茶も取り上げられたのでした。
ところで、一茶の妙好人らしさが最もよくうかがえる彼の文に、『おらが春』と『父の終焉日記』があります。
『おらが春』は、「めでたさも中ぐらいなりおらが春」からとった題名なので、いい題だと思いますが、この句の前に、「ことしの春もあなた任せになんむかへける。」とあるのが大切です。
「あなた」は阿弥陀さま。「任せ」は御文にもよく出てくるように「南無」の意ですから、この前書きは「ことしの春も、南無阿弥陀仏となん、迎えたのだなー」との述懐となります。
この句のあとに、
雀の子そこのけ〳〵お馬が通る
名月を取てくれろとなく子哉
露の世は露の世ながらさりながら
子をうしなひて 蜻蛉釣りけふはどこ迄行た事か かゞ 千代
ともかくもあなた任せのとしの暮れ
五十七歳 一茶
文政二年十二月廿九日 ※一八一九年
○一茶自筆稿本解題 荻原井泉水著『一茶研究』昭和十三六月廿五日 新潮文庫
○おらが春(部分)
『おらが春』一篇は、その内容に於てのみならず、著書としても、彼の作中にあつて唯一のまとまつたものである。
といふのは、他の著作は彼自身で上梓する程に整理しないのを、後人が編輯したものであるけれども、此『おらが春』はすぐにも出版出來るやうに彼が清記し、自分で挿繪までかいておいたものだからである。
但し、生前には出版されず、没後二十六年を経て嘉永五年に至つて、彼の原稿其ままをすきうつしにしたものが版行された。其後は其のスリ紙を版下として、ほぼ元の体裁に複刻されたものもあり、活字本としては俳書堂版のもの、其他数種類も近來公にされてゐるが、活字本の多くは此篇中の或一節を削除又は欠字せしめてあるのが常である。それは風俗上の顧慮からさうした事であらうけれども、一茶の心持は因果応報といふ事を書いたのであつて、卑猥な氣持ではない。
こういう生き方をした一茶が、「父の終焉」という言葉を用いるはずがないどころか、「終焉」は、とも同行の対極にある語ぐらいに感じていました。
『妙好人 一茶』には、「父、みとりの記」あたりが許容範囲かな…とも思っています。
ところで、この書を真宗史料集に含んだ書籍、解題があります。
次回は、そのあたりも問題にして、(いわゆる)「父の終焉日記」を考えます。
小坊主や袂の中の蝉の声―一茶 「七番日記」文化12年6月
※写真は2011年8月9日撮影・欅(庫裏後ろ)