「とも同行」に促され書いた『妙好人千代尼』。少し研究書に近づけるとすれば…。

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27日午前9時。

 

妙好人千代尼』(2018年1月20日 法藏館)の補足・注釈。

蜻蛉釣り今日はどこまで行ったやら
伝千代尼作の著名な句である。2019年1月刊行の『妙好人千代尼』(法藏館出版刊)には、最初にこの句に触れた箇所(5頁4行目)では
 たとえば、小林一茶(1763~1827)がわが子に先だたれた時、千代女が子の弥市に先だたれたときに詠んだと伝わる
 蜻蛉釣り…
と表現した。

  その後もこの句は7カ所で用いたが(句索引を作っておいてよかった)、索引では、あえて伝千代尼句を設け、そこでこの句を引くことが出来るようにしておいた。
  研究書だったら、どの本のどこに、千代尼の句とは認められないと書いてあるとかを、ああでもないこうでも無いと引用ししつつ分析にすることになっただろう。

 そうすれば、
 この千代尼句として受け止め、生かしてたり励みにしてきた、
一茶、新渡戸稲造フローレンツ鈴木大拙徳富蘇峰(同書5~7頁)たちの受け止めを切り捨てなければならなくなる。

 「とも同行」に語る時は、サラーっと「詠んだと伝わる」程度がいいのだろう。

○千代尼が、これまで妙好人、あるいはとも同行として取り上げられなかった理由。
 著名な千代女・千代尼がせいぜい「熱心な真宗信者でした」程度にしか紹介されてこなかった。私はいろんな場-法話や研修会法話の主人公としてーで、導入などに千代尼名を用いてきたので、まとめなければと思い、また書くことができた。
 なぜ、これまで書かれなかったか…。
 その理由を3つ挙げた。

 千代尼を妙好人として見ていくには、
1、彼女の拠った俳諧
2、生きた時代の背景と風土
3、真宗の教えとの出会い
などの観点からとらえなければならず、それぞれがかなり面倒なのです。

 

 

なぜ面倒かは、3の真宗との関係は、用語の問題、教えなどがあり、言うまでも無いので理由は書かなかった。それをクリアしても、千代尼の時代に寺檀制=家の確立という、いわば「とも同行」が実態を持ち始め、民衆に宗教が広がり始める元禄頃をしっかり見据えなければならない。その上で、比較的多く取り上げた一茶の時代が円熟期にあたる化政期であることとの違いを絶えず考慮しなければならないということである。真宗史にしっかりとたたなければならない。
 いろんな方から感想をいただいたが、真宗地帯の人では、九十近い女性が一晩で読んだとおっしゃられ、静岡の俳人は、前半はサーと読み進めたが、真宗用語が出てくるあたりから全然進まなくなったとおっしゃっていた。
 この3真宗の関わりで、2の例として、
 

著名な歌人が千代尼の本願寺詣では、収骨のために……と、

近現代に生きた千代尼像にしたり、

 とぼかしたのは、言うまでも無く、親鸞聖人五百回忌に参詣して句を詠んだので、端書きもそのことが記されている。

 今でこそ本山は収骨であるが、元禄期という時代にそんなことがあるわけは無く、書いた人だけで無く、この記事を載せた雑誌の見識を問われても何なので、実際は売れっ子俳人なのだが、歌人ということにしておいた。

 

1は、柳田国男の文からの引用を例に挙げた。

 柳田国男が、『生活の俳諧』で、芭蕉の「風吹ぬ秋の日瓶に酒無き日」(『冬の日』)を「私などは「風吹かぬ」と解し、先生(幸田露伴)は「風吹きぬ」だと見て居られた」と指摘している程度の「面倒」さが、同時代の千代尼句にもあるからです。(228頁 あとがき)

 書いたのはこれだけだが、私は高校で古典を教えていたので、当時の送り仮名の面倒さを知っており、うーん面倒だと思って書いたのであるが、

  どうして、そうなるのか、本来ならそこから書かなくてはならないのかも知れない。
 「吹く」は、吹か(ず、ば)、吹き(ぬ、たり)、吹く。吹く(時)、吹け(ば)、吹け、と変化する。
 柳田は、「吹かぬ」の「ぬ」は、打ち消し・吹かないの意の「ず」と解釈し、「ず」の変化「ず(未然)、ず(連用)、ず(終止)、ぬ(連体)、ね(已然)」の連体形「ぬ」であって、「吹かぬ(吹かない)秋の日」と名詞につながる用法とした。
 一方、先生・露伴は、「吹き」に完了の「ぬ」がついているとした。「ぬ」の変化は、な(未然)、に(連用)、ぬ(終止)、ぬる(連体)、ぬれ(已然)、ね(命令)だから、この場合の「ぬ」は終止形で、「風吹きぬ(風が吹いた)。秋の日瓶に酒無き日」ととらえた。

 「強い風が吹いた。秋の日の、瓶に酒の無い日に」ぐらいになるだろう。
 要するに、漱石露伴という巨匠の見解が分かれるくらい、当時の一句を詠むことは面倒なのである。
 では、どう取らえればいいか?

 柳田も書いていないことを掘り下げるが、「吹かぬ」だと、「吹く予想」があっての「吹かぬ」になるから、どこか近現代の気象庁のような存在があるように見える。野分(台風)が吹いた。酒を買いに行くことが出来なかった。あるいは酒も無く侘しい日に風まで吹いた。より秋をしみじみ感じることになった、と先に生きた人・露伴のとらえ方が良さそうな気はするが、

 もちろん、兩巨匠のとらえ方に口を挟めるはずもない。

 ともあれ、相当骨の折れる段取りを踏まないと『妙好人千代尼』を知りにくく、誰も書かなかった理由があったのだ。

 

 抜き刷りなどをお送りすると、いつも厳しいご意見を下さった故大桑斉さん(先生)が、この本に対しては、

 驚きでした。ニュー西山と言うべきか。民俗学者とばかり思っていましたが、本体は文学者だったのだ。そういえば専攻は国文学だったのでは。
 それならこの著書に込められた薀蓄が分かろうというもの。
 私も千代尼が気になりながら、とうとう手を出さずに来ました。それは千代の句に仏語や安心用語がみあたらなかったことによっていますが、それを見事にクリアーして、妙好人かどうかは別にして、篤信の真宗者千代を描き出しました。
 これは国文学の素養なしにはできないことと、改めて感心した次第。
 千代の句を少々読んだのですが、「百生や蔓一すじの心より」に「三界唯一心」の端書がある所までは読んでいませんでした。
 それも端書がなければ、「弥陀をたのむ一心を表しており」p153とは読めないでしょう。このように端書などがなければ、とても信心の句とは読めない。

 端書などない句にも信心を読み込んだことが第一の成果でしょう。(以下は疑問点の指摘)

 

 

朝顔に つるべ取られて もらい水
 朝顔や つるべ取られて もたい水

「に」を「や」に変えたのは、千代尼35歳頃。親鸞聖人は35歳越後御流罪蓮如上人同年北陸への旅。釈迦同年12月8日菩提樹の下で悟りを開きブッダに、と。
 そこから、この句の仏教的展開(深みと広がり)を見た。

 それはそれでいいし、その見解に変わりはない。

 さらに35歳は、子があれば、その子が「立志」(成人)を迎える年ごろにあたり、35歳はより広い区切りの重要な年だと認識している。

 その後、「朝顔に」の句が、晩年にも書かれていた直筆があったとの報道があった。
 考えすぎかも知れないが、当時かなり「に」から「や」への移行が話題になっていたこともあり、中には完全に「に」の句が消え「や」ばかりになったと受け止めた人もあったかも知れないが、それはそうではない。

 「に」で作った頃の思いに還り、そのように書くことは当然ある。
 35歳のころ、一文字ではあるが、生きているもの同志の巡り逢いに感動する句境の大きな深みに出逢ったのが「朝顔や」だったととらえればいい。

 その後は幅の広い日々の中で、時には「朝顔に」とうなづくこともあったということである。

 

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今朝の百日紅。例年なら、お盆過ぎにも咲いている、さすが百日紅だ、と眺めてきた花が、この頃花が咲き、これからも花開こうと蕾が膨らんでいる。確かに季節が分からない年だ。