3『妙好人一茶』―『父の終焉日記』「父 みとりの記」

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痩蛙まけるな一茶是に有 七番日記。写真コカコーラ―自動販売機。子ガエルの行列?2012年7月15日正院・川尻境4差路で。

父の終焉日記
心・身の身との別れを、熟語では
示寂、西帰、還浄
還帰〘名〙 (「げん」は「還」の呉音) もとの所にかえること。特に、仏の世界にもどること。
遷化 逝去などといいます。 
親様=仏様の元へ還る。いずれも~へがあり、お迎え、来迎世界があり、平生業成、臨終往生なども聞いています。
 根拠は弥陀の本願往相・還相(二十二願)にあり、悲の器も悲心の器であって、悲心の容器・身体との別れが、強いて言えば「終焉」でしょうか。
 別な見方をすれば、往生安楽国も浄土で仏になるのも入り込む隙の無い言葉が、「終わり」に強調の助字がついた「終焉」でしょう。
 もしはないでしょうが、一茶がいれば、いかにも学者ぶったいやな言葉は使うなと怒るに違いない、と思うほどのこの『父の終焉日記』は、違和感を持つタイトルなのです。
 愛別離苦の場に多く出会い、一茶から学ぶことも多いのに、「父の終焉」は一茶世界からほど遠く、「終焉」は、とも同行としての一茶のむしろ対極にある語ぐらいに感じていました。
 妙好人一茶には、「父、みとりの記」あたりが許容範囲かな…とも思っています。

 難しそうで格好いい表題とはならぬこのタイトルを、一茶の妙好人とまでいわなくても門徒らしさを見てこられた篤信の研究者に、

「終焉日記」がどう映っているのかを見ていきます。
 ※終焉 《漢文の助字》句末に置いて語調を整え、また、断定の意を表す語。


『念仏一茶』チッタ叢書  早島鏡正 四季社 一九九五年(平成七)十一月一日
 わたくしは一茶が浄土真宗本願寺派門徒の家に生まれ、次第に念仏の風土の中で育てられていき、自然法爾の自他一如の境地に至った過程を、かれの詠んだ二万余の句、また『父の終焉日記』『おらが春』句文集などによって、辿ることができた。(はじめに)

(一茶が)還暦を迎えた元日の句です。
  春立つや愚の上に又愚にかへる
 今日はこの境地に至るまでの、一茶の精神生活についてお話をして頂きます。前半は、一茶が父親の看病を日記形式で綴った『父の終焉日記』を基に、それから後半は、二歳で長女さとを亡くしたことも含めて書かれました『おらが春』を基に、一茶の精神生活についてのお話をして頂きます。
 その前にもう一度、『父の終焉日記』を書くまでに至った家族構成とか、家庭生活ということを、みなさんに確認しておいて頂きましょう。
一茶は小さい時に(三歳)お母さんが亡くなって、それから八歳の時に継母のさつが来ます。十歳の時には異母弟になります仙六さんが生まれます。一茶は十五歳の時に江戸に奉公という形で出されます。江戸在住時代三十五年間のうち何回か故郷に戻りますが、三十九才の時に、柏原に戻って約一ヵ月間、お父さんの看病をします。その時のことを書いたものが『父の終焉日記』です。<四〇頁>

俳諧寺一茶の仏教観』早島鏡正 『近世の精神生活』続群書類従完成会 平成八年(一九九六)三月二八日
 ⑤二六庵襲名と父の死、寛政十一年(一七九九〈三十七歳〉)―享和二年(一八〇二〈四十歳〉)
 寛政十一年に二六庵を継いで一派宗匠となる。享和元年三月、柏原に帰り、四月から五月にかけて父弥五兵衛の病床に付き切りで看病する。病床の父は財産分割を弟専六に指示。これにより、継母や専六との反目が激しさを加える。翌月五月二十一日、父死亡。一茶の看病記『父の終焉日記』は有名。
 寝すがたの縄追ふもけふがかぎり哉

 

『江戸 真宗門徒の生と死』大桑斉 方丈堂出版 二〇一九年一二月二〇日
 一茶の真宗は、熱心な念仏者だった父親の弥五兵衛から受け継いだと考えられます。妙好人ともいうべき篤信者の父に育てられ、真宗がいつしか身に染みついていました。一茶三十九歳の享和元年四月、病気の父の看病に故郷に帰ります。そのときの日々の有様を、『父の終焉日記』(岩波文庫)として残しました。

 廿八日(父の発病六日目)晴祖師の忌日なりとて、朝とく嗽(くちすす)ぎなどし給うに、熱のさはりにもやならんと止むれども一向にとゞまり給はず。御仏にむかい、常のごとく看経なし給うに、御声低う聞ゆる、いかうおとろえ給う後姿、心細うおぼゆ。

 二十八日は親鸞聖人の御命日です。その日に御勤めをする門徒の姿があります。病を押して御勤めをすること常の如しでした。

 (五月)三日(発病十日目)晴……今迄神仏ともたのみし医師に、かく見はさるるゝ上は、秘法仏力を借り、諸天応護のあわれみを乞んと思えども、宗法なりとてゆるさず。只手を空うして、最後を待つより外はなかりけり。 <一一九~一二〇頁>

 

 

 

 既成事実として、『父の終焉日記』という書物があることになっています。『江戸 真宗門徒の生と死』の方は、「日々の有り様を、『父の終焉日記』岩波文庫)として残した」のでは無く、「日々の有り様を書いた記録・メモを、後に誰かが『父の終焉日記』としてまとめ、それが伝わっています。」です。

『父の終焉日記』解題

 両碩学はタイトルを問題にしておられない事が分かったので、一茶研究史に戻ってタイトルのついたいきさつを調べようかと思っていたとき、体系史料集で『父の終焉日記』か、これに近いものが収められていたことを思い出しました。
 藤秀璻師の『新撰妙好人伝』俳諧寺一茶」がを取り上げておられるので、当然、「妙好人伝」に載っていると思ったのですが、見えず、続いての巻「真宗門徒伝」を(念のためぐらいの気持ちで)開いたところ、そこに『父の終焉日記』があるではありませんか…。しかも史料集なので「解題」付き。
 ちょっとワクワクしばがら「解題」を読んで…びっくり…。
 この担当者は、本を読んでいない?

 史料集解題には次のようにあります。

「そもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。」「本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。」と書いていますが、

 1『妙好人 一茶』に
「わたしが引用した一茶は、『おらが春』『文政句帖』からですが、一茶には『父の終焉日記』と呼ばれている一茶の信心がうかがえる優れた日記文学あるいは日記風談義本があり、真宗史家は主としてその著から一茶の信心を見ています。」と書いたように、
 この書は「日記文学あるいは日記風談義本」でして、「私的な日記」(個人筆の私的以外の日記はないのでは…)、まして「日記史料」などではありません。

 

 史料集解題者が、「『父の終焉日記』についての解題はこの(一九九二年)岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。」と下駄を預けられた岩波文庫本の解題(矢羽勝幸氏)を読むと、「日記的体裁をとるが私小説な構成・内容をもち、創作意識が顕著である。」とあります。
 同じ矢羽勝幸氏は「単なる日記ではなく、私小説な構成、内容を持っている。」(『詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人一茶』NHKカルチャーラジオ 矢羽勝幸 二〇一三年)、

 「日本の私小説のルーツと言われる。」(ウィキペディア)など、いずれも文芸作品、真宗的に言えば談義本と見ています。その作品に「日記のようであり、日記史料の代表」と「解題」をつけたなら、タイトルの難解さもあって、優れた妙好人・とも同行の記録である『父の終焉日記』の入り口がふさがれてしまします(すーっと入っていけないぐらいの意味)。
 『父の終焉日記』を知る上で、もうひとつ欠くことのできない「解題」(『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五三年)があります。
 そこには「日記体をとるが、緊密な構成をもち、内容もかなり整備されている点から、父の没後相当の時日を経て(大場俊助氏は文化六年頃と推定)執筆されたものと見てよい。」とあります。

 

ここで問題にしている史料集解題の文をあげます。

   父の終焉日記  小林一茶/享和元(一八〇一)年/写本/個人蔵

  近世を代表する俳譜師である小林一茶は、真宗の信仰のあった人物としても知られている。この『父  の終焉日記』はそもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。
 
 この日記の活字化の推移を簡単にまとめると、まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。この復刻版は二〇〇四年に一穂社から出版されている。
 そして一九九二年に岩波文庫『一茶 父の終焉日記・おらが春』として、矢羽勝幸氏の詳細な校注がつけられ出版された。現在、原本は個人蔵で閲覧することはできなかったので、本巻では後者の岩波文庫版を参照し所収した。なるべく原史料のままの掲載を目指したため校注は付けなかった。
 『父の終焉日記』についての解題はこの岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。

 本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。

 

 (以下、同類の門徒日記史料に「心ニ掟置く言葉」(原稲城)、『見聞予覚集』に山下安兵衛往生の様  子が記されている、と載る)

 引用の二段目ですが、

 この日記は大正十一年に岩波書店から、荻原井泉水校閲、束松露香校訂『一茶遺稿 父の終焉日記』として出版されています。
 解題者の「まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。」とある文庫本は、荻原井泉水校訂『父の終焉日記』で、井泉水の校訂は素晴らしいものですが、肝心な校訂者の名も挙げず、復刻がどうなされようと解題とは何の関係もありません。それより、わずか七文字の「荻原井泉水校訂」がどうして解題に書いていないのか、存じ上げない研究者さんですけど、会ってお聞きしたいものです。

 

 というのも、一茶のこの著が、どういう事情で誰の所にあり、書籍にしたいといっていたいきさつから書籍になった経緯、、大正十一年に校訂者として登場する束松露香の役割、二冊目には荻原井泉水一人になった事情など、
 すべて、昭和五年十二月に荻原井泉水が著した「一茶自筆稿本解題」(十一稿本分所収)の「○父の終焉日記」に載っており、昭和十一年に「新潮文庫」の一冊として刊行もされているのです。
 この著が世に顕れるのに決定的な役割を担った著名な俳人・研究者が解題から抜け落ちている…

 

 なんだか、「解題」分析疲れ…。
 
荻原井泉水の○『父の終焉日記』解題、
○『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五十三年(一九七八)の解題
○『一茶 父の終焉日記・おらが春他一編』矢羽勝幸校注 岩波文庫 一九九二年の解説
 の重要解題は、次回に『妙好人一茶』―『父の終焉日記』関係主要三解題、と題して続けます。

 なんだか節談説教「長太ムジナ」の、続きはまたあしたーー
になってきた。