29日(日)西勝寺同朋婦人会研修旅行をおこなう。
その案を作ってから、下見に出かけたのが9日(月)で、「内浦海岸散策-比那〜宇出津」と題して、このブログに乗せた。この時、久しぶりに宇出津天呑の宮跡の巨石を見たこともあって、3月16日の河原恵里香さんのFBで知った富来笹波高瀬宮の巨石を見ようと思い続けていたのを、翌日・10日に実行した。
最初の予定では、9日に笹波まで行くはずだったのだが、長いこと運転していなかったために疲れたので、運転慣れもしなければと考え翌日にしたのだ。
『中部地方の石の民俗』昭和61年2月5日 明玄書房刊
石にはちょっとしたこだわりがある。というのも、38年前に『中部地方の石の民俗』で「石川県の石の民俗」を書いたことがあり、その後の市町村史でも、伝説を書く折には「石」に触れてきたこともあったので、県内の著名な石はほとんど知っていると思い込んでいたのに、「高瀬宮と石」については河原さんのFBに出会うまで全く知らなかったのである。
その時の写真を見る限り、かなりの山中にあるのだろうと思った。河原さんに連れて行ってもらうのが最良なのだろうが、天呑の宮石の記憶がはっきりしている間に比較してみようとの思いも捨てがたく、向かったのだった。
各地の石神を拝した経験から、山奥にあるのだろうと笹波奥地をめぐり、集落に近づいたところで鳥居に出会った。
富来町史によれば祭神は大已貴命なので、地震石のある羽咋市寺家の大穴持像石神社と同様の役割を担っていた石神だったのだろう。
その他の由緒「石」
『中部地方の石の民俗』には6葉の写真を使った。原稿手書きの頃である。写真も貴重で、一か所に一枚しか撮らなかった。
いつか当時の写真も整理し分類できればいいと思いつつ、
パソコンに取り込んでいる「石」の写真を一部紹介する。
弁慶谷から移してきた「弁慶石」(能登町北河内)。碑文・府玻美智子氏
穴水町鹿島 弁慶雨乞い石
同上。北國新聞(2004年8月27日)に載せた写真。私が手を伸ばして石の大きさを示している。当時は身長が169センチ。
江曽練が谷内の弁慶石
七尾市史に少しかかわった時に見たと記憶するのだが…。キャプションに浄養寺・巨石とある。?
弁慶手の跡石とあるが、これも?
撮影した2014年7月29日は加賀石立などへ出向いている。
ついでに。
義経が矢で岩を射抜いたとの伝説や、岩倉比古神が寄った岩とも伝わる曽々木窓岩。
麒山麟麟和尚像。
いつからこの像が安置されているのだろう。
狭石滝津神社
天呑宮跡から始まった石巡り…。
資料ができた。