鳥越城散策ー5月19日(木)

 

10時半からの用事まで、若干の時間があったので、緑さわやかな鳥越城を訪ねたくなり、久しぶりに行ってきた。

登口

本丸まで750メートル

鶴来方面?ー私は珠洲の内浦沿いの町・飯田に住んでいるため、物心ついたころから、海のかなたの立山、ぐるりとつながっているらしい白山方向が「北」なのだと思い込んでいた。
雪を冠っている立山と北国=雪がストレートに結びつき能登は南、越中・加賀は北、と地図上とは反対方向感覚が身に染みついてしまっているのである。
家に帰ってから、写真・地図を何度も見直し・照らし合わせ、どうも写真の方向が鶴来・金沢方向らしい…とまでたどり着いたのだが、それでも???なので、キャプションを「鶴来方面?」にしておいた。

駐車場から

駐車場から

駐車場

一揆敗れて山河ありー碑

家に帰り、写真を取り込みながら、一向一揆史に、5月19日と関わる出来事がないか、お三方(笠原、井上、北西)の一向一揆の研究を繙いてみようか、別に論文を書くわけでもないのだからそうまでしなくてもいいか…。

講義などの導入に利用しているノートから、5月19日に還帰なさった方はいないか?を見たが空欄。祥月5月に限らず19日御命日のかたは?とみると(敬称略)、覚如上人・金光寿郎(1月)、安田理深・植木徹誠(2月)、中村久子(3月)、川合隼雄(7月)、笠原一男(8月)、正岡子規・高梨一美(9月)、小林一茶(11月)と錚々たる方々の名があった。

一応頭において、碑の向かって左横の「讃」を撮ってきたので見てみると、何と「平成二年」「一向一揆五百年記念」「題字 笠原一男」とあるではないか。

お三方で最初に『一向一揆の研究』を著された、19日が御命日の笠原一男先生がこの碑にかかわっておいでたのである。

題字とあるから台石の3分の2ほどにある「一揆敗れて山河あり」が氏の字なのだろうか。この年は、75歳のはずだ。

参考までにお三方の『一向一揆の研究』、ちなみに、笠原本・昭和37年6月30日刊、井上本・昭和43年3月30日刊、北西本・昭和56年2月28日刊である。同じタイトルの本が3冊もあることは、一揆500年ごろ話題になったものだったが、私が面識のあるのは北西先生だけである。あとお二方は研究会で話を聞くということもなかったと思う。

後二の丸

第三の丸

後二の丸

本丸を望む

手取川対岸の棚田が綺麗

枡形門

枡形門

本丸門ー迂回用階段

本丸跡

本丸門

本丸側から

本丸説明

棚列

井戸跡

清掃なさっていた関係者

この時10時ごろ。こういう方の淡々とした手入れがあって綺麗なのだなぁと思いながら

鳥越城跡を後にし、白山市の目的地に向かった。

緑の香り、鳥の声

 

今日・20日北國新聞朝刊。

こういうことだ。それにしても、「碑」といい、鳥越中の生徒たちが草刈りを通して郷土の文化に触れあう記念すべき日に、同じ場所を散策していたとは…。

 

昨日、挨拶を交わした上の写真の方とかと思ったが、お会いした方は長靴を履いておられたので、記事写真の人とは違う方である。