抜き刷り整理

ようやく「抜き刷り」の執筆者ごとに整理できそうなところに近づいてきて、

執筆者氏名に従い、行ごとに積んでいった。

次に県外、県内ごとに分けたところで、気分転換に一旦雑誌・文庫・新書分類へ。

 

話は変わり、5月26日、27日に蕗畑の蕗を刈っていただいた。

春先に蕗畑のツルを徹底的に抜いていたので、蕗を刈った後の蔓がなくなり、代わりにその場所に茗荷が成りだした。

次の写真は蕗畑ではないのだが、茗荷に赤い花が!

と一瞬思ったので撮った。

 

すぐこのあたりに茱萸の木があることに気づき目線を送ると実が成っている。

茱萸が茗荷の上に落ちたのだ。

それにしても季節の移ろいのはやいこと。

茱萸(グミ)

抜き刷り

調査をしだしたころは、抜き刷りを貰ったり渡したりする人とはどんな人なのだろうと思っていたものだった。

父の机に「宮本正尊」氏の抜き刷りがあるのを見たのが最初だった、と思う。

どうして?どんな人?と聞いたのだが、答えは得られなかったままだ。

多分、父親は、「(いつものようにサトシは)どこかへもっていって無くしてしまう」と思っていたのだろう。

 

それにしても、ずいぶん頂いたものだ。

 

ところで、一方私の方はというと、

珠洲市史に関わったおかげで、書いた部分の別刷りを何冊かいただいた。

昭和53年3月刊とあるから、私が31歳、宇出津高校で3年生を担任していたころだ。

そのときは、へー!こういうのがもらえるのだと思った程度だったの記憶なのだが、どうすればいいかわからず、大谷大学国史学会があったおり、五来先生と佐々木孝正さんに、こんなの書いた…とお渡しした(ような気がする)。

その時、横に父の学生時代助手だった関係で最初に大谷関係で挨拶した藤島先生がおいでたのに、余分がなくて差し上げられず、気まずい思いをズーーと引きずった。

市史では個別寺院史の一部も書いたのだが、これはゴーストライター(?)扱いで名が乗らず、従って抜き刷りはない。

その後、抜き刷りをいただくと、お返しを続けていたが、

私自身が研究職ではないのに…の思いが抜けず、在野の民俗仲間が徐々に去っていく頃、私も抜き刷りを作ることを辞めた。

抜き刷りを作らなかった「論」の最初が2003年『宗教民俗研究第13号』に書いた「天神として祀られた藩主ー加賀・能登越中天神信仰ー」である。

これは、私としてはまあまあ書けた内容だったので、惜しい気もしたが、徐々に、静かにこうような世界から退いていったはずだった。のに、それから、数えで20年経った。

こちらは、この4月にいただいた松崎憲三さんの「長野県下の祇園祭りー津島神社系を中心にー」(「信濃」第74巻第3号)。

 

ある程度の整理が終わる日がくれば、次に進めるだろう。